【資材部編】人皆是我師也その2
平成21年8月8日


既述した通り、数限りなく多くの先輩から教えを受けましたが、もう一人の方の思い出を書きます。

◆A さんの事
彼はまだ現役ばりばりで活躍中でありますので、氏名や社名、場所等具体的なものは全て略号で表現しますので、読みにくい点はご容赦下さい。
彼のオヤジさん(明治36年生)が昭和32年に合成樹脂販売の会社を設立された、このオヤジさんは平成11年に96歳でお亡くなりになられたが、昭和57年に息子さんに社長職を譲られるまで、背筋のピンと張った尊敬すべきオヤジさんであった。平均的に個人会社の人事は創立者からその息子に受け継がれるもので、その息子がバカでも最初から部長だの専務だのと肩書きをつけられて、取り巻き連中から「よいしょ」され、どうにもならないグータラ息子が多いのだが、このAさんは全く違っていた、そりゃ当然でしょう、あの立派なオヤジさんの背中を見て育ったんだから! 彼は卒業後会社で営業マンとして多くの取引先を飛び回り着々とその実績を上げて来られた。

◆偶然の接点
昭和40年の某月某日 ある取引先に輸出製品の発注をして、その試作品検討会で、試作品の発色が相手側の色見本と微妙に相違していたことが発覚した。輸出船積までの期間が迫っており、、色彩感覚の相違と主張しても通る位の差異であったが、この時に取引先社長のNさんが「やり直しましょう」と決断してくれて、その席に同席していたAさんに、材料カラーリングやり直しの指示をされた。Aさんは即座に了解しました、今から大阪に走りますとすぐ手配された。その時にこんな無理な事をすぐ処置してくれる素晴らしい決断をする方だ。だれだろうと教えてもらうとお名前はAさんとのこと。それが彼との接点の始まりだった。

◆コーヒーとお握り
当時は大阪に行くのに四日市、亀山経由で鈴鹿峠を越えてゆく「1号線」が唯一のルートで現在の1号線とは全く道路事情が異なっていた。兎に角普通では行くだけで一日、先方で仕事して翌日早朝に出てもその日の午後やっと帰る事が出来るという今では想像出来ないほど道路事情が悪かった。
そんな中大阪のメーカーと打ち合わせして、その材料を送ってもらっていては間に合わないから取りに行きますといって取引先社長や我々の見守る中をトラックを自分ひとりで運転して出発、その時突然物陰から魅力的な若い女性が車に走りより何かを彼に渡して消え去った。 へえ〜〜!ありゃ誰だい? 聞いたら新婚早々の奥さんだった。そして差し入れ品は「コーヒーとお握り」と聞いて魂消たねえ。 新妻らしい差し入れ品だと評判になり後日多いに彼をからかったものだった。

◆大阪二往復
そんな強行軍で彼は大阪に出発、相手メーカーの作ってくれた試作材料のまだ湯気の立っている材料を積んでトンボ帰りして、待ち受ける取引先に搬入、取引先では深夜になっても社長以下現場担当者も私も帰らずにすぐ試作開始、すぐ検討会を行い、問題点を相手先に連絡して再試作材料製作を依頼した。その間勿論Aさんも同席して事の経緯を詳細に理解されて夜中又トラックで大阪に突っ走ってくれた。 彼が走っている間に大阪の工場では試作材料を作ってくれて、着いたらすぐ積み込みして彼は休む間もなく走り続けて、待ちわびていた取引先に納品、すぐ試作開始・・結果今度は問題なく合格、すぐその結果を相手先に連絡して量産開始を依頼し、その後はすべて順調に事が推移して事無きを得た。 損得計算したら取引先も24時間体制、大阪のメーカーも少量の試作材料を作るのに時間外で作ってくれた。
誰がどうみてもこんな損な仕事が出来るわけがないのだが、それを可能にしたのが、Aさんだった。新婚早々の彼が、材料は私が取りに走りますから間に合わしてくださいと言って行動した情熱が皆なを動かした事になった。今思い出しても彼に弁当代もガソリン代も払った覚えはないし、新婚早々の奥様に恨まれたかなあ?奥様 すんません、ご勘弁を。今更、遅きに失したか・・・。 

◆不思議な御縁
その時にこのAさんは素晴らしい行動的な方と印象ずけられたが、その後方々の取引先でそれとなくAさんの評価を聞いてみると誰一人悪口言う方おらず、殆どの方が「誠心誠意の方」と評価していた。 後日談だが彼はその仕事ぶりと人格から当社の取引先連合会の会長職に選出されて 長い間その重責を努められました。そんなこんなで今迄間接的な取引であったのを、直接取引先に御願いしたら、全く期待通りで、価格高騰の時も原材料不足の時もどの位Aさんに助けられたか枚挙に暇なしでした。昭和57年に新本社建設してAさんが社長就任され、その後時代の変化にあわせて海外支店も構築、取り扱い品目も樹脂だけでなく関連機器の専門店として現在も着々と発展中である。私が退職してから現在まで一貫して損得抜きでお付き合い頂いている数少ない尊敬できる先輩の一人です。振り返ってみますと私一人では到底出来なかった、失敗していた事を何とか切り抜けて今日まで来れたのは、こういった多くの方々のご指導と御協力があったればこそで、本当に恵まれていたと不思議な御縁に感謝すると同時に自分自身の運の良さにも感謝感謝です。 

これで資材部関係は一応のキリとして、次回から「出戻り営業部の巻」で原稿送る予定ですがほとんどの関係者がピンピンで生きていますので(笑)業務よりも海外出張の画像を中心にして思い出話を送る予定です。
home