【資材部編】どしゃぶりから曇りへ

平成21年7月4日


和37年仕事始めの日、当時は新年賀詞交換会に類した行事等は一切無し、
朝8時現場は電源が入ってラインが一斉に稼動開始、他の事務部門も日常業務開始で
正月気分などあっという間に消え失せた。 よその会社に行った同級生から「お前の会社は変わっているなあ、一堂に集まって社長の訓辞とか年頭挨拶は無いのか、俺の会社では 各部門でお神酒頂いて10時には退社だ」と言われて、そんな会社もあるんかねえとこっちが不思議に思った事があった。
さて現場が即稼動となると途端に例の悪夢の「銘板」が 目の前に出てくる。早速朝三好のメーカーに電話すると「
正月休みです」との冷酷な返事、仕事始めの最初から「納期遅延だ ばかもの!」と現場から怒鳴られて散々のスタート。
当時の電話帳は業種別に分類された分厚い電話帳で、「銘板」の欄には多数のそれとおぼしきメーカーの名前があったので、背に腹は替えられない 駄目でもともとと電話しようとしたら先輩から「無駄だから止めておけ」との話、 それでも納期遅延で皆に迷惑かけており毎日二度も三度も現場から「バカモン」と怒鳴られるのは私だから先輩の話を無視して電話して打診してみたら、殆どのメーカーから「お断り」の返事、驚いたのは「今頃何を言うのか」と怒声で拒否してきたメーカーもあって、購買のいろはの「イ」の字もわからぬぼんくらでもこれは何か経緯が隠されているなとぼんやりと気付いたて、先輩の言った「止めとき」の裏の意味が分かってきた。しかし品質:納期のトラブルは一向に改善される兆しはなし。 腹の中では「こんちくしょう」と思っても午前午後と定期的に自分の車で三好まで走って 出来た銘板を現場まで納品、その場で受け入れ検査してもらって、問題点の指摘を受けて三好のメーカーに連絡、そんなドタバタやっているのは私一人で、気付いたら資材部の部屋の中に居るのは私だけだった事がよくあった。
当時原材料、製品、 市販品等すべて分類されて夫々の担当者に割り振られて、担当者が責任を持って業務遂行する事になっており、お互いに業務内容については不干渉が暗黙の了解事項だったので、私がドタバタやっていても、自分で解決せよとの雰囲気だった。異動してから一ヶ月足らずの新米には経験はもとより購買の基礎知識もなく、ましてや人脈なんてものは全くゼロ、よく言われるように「貧すりゃ鈍する」の諺通り毎日毎日走り廻りと通常業務で明け暮れして、この現状について「なぜ」「どうして」の疑問はチラチラ抱いた程度で目先の問題解決で一日終わりの日々。 
 で、結局どうなったんだ?と聞かれそうですが、何がどうしてこうなったか、私にもはっきりとした記憶はありませんが、某日大阪から「銘板」のメーカーが来社されて、「お手伝いいたしましょう」との申し出があった。 すぐ設計者、現場主任と共に現物を前にして検討の結果引き受けてくれる事になった。真っ暗闇の中で将に「天の岩戸」が開いて一条の光がさ〜〜っとさしてきた感じ。 頭はノーテンキでも腰の軽いのが自慢なのですぐ大阪に飛んでそのメーカーの現場を見せてもらった。今迄散々三好の工場に通って生産の現場を見てきたので、工程や製造設備の内容等門前の小僧習わぬ経を読むの例えである程度は理解出来ていたので大阪の工場を見た途端「これはいけるぞ」と腹の中で万歳三唱した。
予想通り納入された製品は最初から100%合格で、納入数量も鰻登りに増加して製造ラインを止め「バカモン」と怒鳴られる回数も激減して、やっと一息つく事が出来た。
後日談だが、この大阪のメーカー登場の裏には、どうも設計者が色々探して応援を依頼したようだった。 当時社外の購入先を決定するのは全て資材部で、設計者が直接探したりしたらそれこそ「越権行為」で、出来る雰囲気ではなかったが、製造ラインは混乱するし新米担当者は、それこそ「役立たず」だし、見るに見かねて裏から助けてくれたらしい。
このドタバタ劇も3−4月位で収束したが、この事から得た教訓は後々どの位役に立ったか。もし全て順調に行っていたら、何の疑問も持たず「日暮れて腹減り」で一日終るか それとも退社後がぜん張り切る「五時から男」になっていただろうと思う。 なんでもそうだが、その時は「こんな馬鹿な!」と無性に腹がたってなんでこんな職場に異動させられたんだと社長を恨んだりもしたが、こんちくしょうめと言いながら、がむしゃらに突き進んだ結果は、上司先輩から散々おこられて頭コブだらけになったけれど、数年後にはそれが素晴らしい教訓として戻ってきてくれてた。ただその時はやたらに「カッカカッカ」で毎日を過ごしていた「青二才」でありました。