【資材部編】野球部長の思い出
平成21年7月12日


野球部のメンバーと(優勝記念の宴)


◆野球部長に突然就任!
 
穂工場には、資材関係だけでなく色々な部門があって、昼休みには現場の人々が通路でキャッチボールを良くしていたものだ。 某月某日、資材部の現場の若い連中数人から、瑞穂地区で軟式野球の公式競技があり我々もそれに参加したい、ついてはこの瑞穂工場の中で野球の好きな連中を集めますから、その野球部長に就任して欲しいとの申し出があった。
高校生の頃信州の田舎で、校庭を素足で走り廻って草野球、いやそれ以下の雑草野球をやった経験はあるが、それ以来野球なんて、もっぱらテレビ放映を見て楽しむだけ。 俺には出来んよと断ったら、大丈夫、名前だけですからとの話で、それこそ「よきに計らえ」で任せたら彼等が走り廻って瑞穂工場内の各部門から野球好きの連中を集めてきて、見事に野球チームを作り上げてしまった。さらに愛知県軟式野球連盟の事務局にも申請して「000瑞穂」と言うチーム名も登録してきてくれた。 外部は彼等が全部お膳立てしてくれたが、社内の方はそれは野球部長の仕事ですと、態よく押し付けられて、労働組合の体育関係に申請に行ったら「Hさん、貴方が瑞穂の野球部長?? ほんとにやるの? 野球の経験は? え 何も無い?そりゃ無理だ」と大笑いされたが、そうなると生来の「へそ曲がり」は「よしやったるぞ、三振でもストラックアウトでもなんでもええ」と引き受けますと威張って宣言してしまった。

◆野球部の練習と試合
勤務時間中の練習は勿論出来るはずが無く、終業後近くの会社の運動場で、残業のない部員が集まっての練習、だから全員が集まる事は滅多になかった。 誰が何処のポジションか打順はどうかは、彼等が自分達で決めて全て自主的に練習、これで文句一つ出なかったんだから、みんな芯から野球好きだったんでしょう。 で、野球部長はなにするんですか?と聞かれるでしょうが、練習の時には都合つく限り顔を出しベンチで見ていてくれる事、他チームとの練習試合(これが殆どが休日に行われていた)には、部長として参加して欲しいと決められていた。 始めは「つまらんなあ^」と見ているだけだったが、生まれつきの「野次馬根性」ですぐ熱くなって、気が付いたら大声で「そこで打て!打て!、 走れ走れ」と自分が選手になった位に騒いで応援していた。
練習試合は大体10時過ぎに始まって昼ごろには終了するのが常だったが、殆どの試合は負けた記憶がある、5試合の内1試合くらいは相手のエラーで勝つ事があったが、滅多に無かった。 それでも誰一人「もう辞めた」って者もいなかったなあ。
肝心なのは勝とうが負けようが済んだら「ご苦労さん会」をやった事、丁度昼になるので近所の居酒屋の二階で十数人集まって今日の試合の講評を部長から御願いしますの一言で「次は勝つぞ!」のひとこと言って後はもう「下手糞、馬鹿阿呆」の言葉が飛び交う宴会?で全員が和気藹々で夕方赤い顔して解散、若いだけに連中の食欲の」旺盛な事と飲める事には心底たまげた、居酒屋の支払いをすると財布が夕風に乗ってヒラヒラと舞い飛ぶ位軽くなったもんです。

◆寄せ書きのバット
そんなこんなで、名前だけの野球部長も皆が盛り上げてくれたお蔭で何とか勤まってきたが昭和50年6月に輸出営業部への異動が決まって、今までの様に試合毎に顔が出せ無くなった事を野球部の皆なに了解を求めたら、全員から記念にと「バット」に寄せ書きをして贈ってくれた、 これは嬉しかったねえ、資材部からの部員はよく知っていても、他の部門からの部員は野球の時だけしか会う機会がなかったが、彼等が「H野球部長、有難う」と送別会の席で言ってくれた時は思わず涙が出てしまった。その記念すべきバットをお目にかけます。


◆遂に優勝!
瑞穂の野球部に直接タッチする機会は減ったが、彼等は「野球部長」の名前は変更せずでそのままにしてくれた。機会がある度に、当時の熱田球場での試合には応援に行ってその後恒例の「反省会」を一席設けて旧交を温めていた。 そのうち、七不思議の一つの様に瑞穂チームがBクラスの試合で勝つ事が多くなり、反省会も次第に益々意気軒昂! ついでに酒量もうなぎのぼりとなったが、昭和54年の秋、熱田l球場で、とうとう瑞穂チームが優勝したのです!
今までは「反省会」だったが今度は堂々の「優勝祝い」だ、H部長、是非来てくれとのお誘いの声に「いかいでか!」と飛び込んで優勝祝いの美酒を散々飲みまくった、その時の貴重な色褪せた写真が記事の最初の写真です。 この時の会場は、従業員が使えるクラブの二階だったが酒、ビールの在庫が無くなる寸前まで、飲みまくったそうで、クラブの裏方さんがヒヤヒヤだったとか、後で聞きました。こっちの財布もヒヤヒヤでしたが、この時ばかりはヒヤヒヤが気持の良いヒヤヒヤでした。

◆優勝の賞状
54年の秋に優勝したんですが何故か優勝の賞状は年を越えた昭和55年の二月に頂いた。通常ならばこの賞状は瑞穂野球部の部屋に飾られるべきの物ですが、部員全員から、これをH野球部長に、お世話になった記念品として贈呈しますとの声で、私が頂く事になった。 勿論これをタダで頂く程野暮天でじゃない、早速「贈呈式」の名前で全員集合の「うたげ」を開いて鯨飲馬食となったのは説明するまでもないでしょう。
この賞状は今でも私の部屋の壁に大事に飾ってありますので、見てください