国際電話の思い出
平成21年5月29日



ダブリン工場には現地作業員指導のためにこちらから優秀な現場作業者が選抜されて 単身赴任して行った。現在と違って情報伝達システムは貧弱そのもので、現地との連絡は国際電話、それも交換台に申し込んで各地の中継基地経由で接続されるので何時繋がるか全く不明。 だから申し込んだら兎に角席から動く事が出来ない、中座する時は必ず行き先と戻る時間を同僚に知らせておかないと折角繋がった時に肝心の申込んだ担当者が居なければ万事休す、また初めから申し込みのやり直しとなる。

ちょっとトイレに行ってくると席をはずすと皮肉な事にそんな時に限り電話繋がったあと知らせが来る! 放出の最中に急ブレーキかけて中止する事が如何に難しいか、経験者はおわかりだろうが、わからん方はこの際是非実験されて体験されたしであります。

おまけに時差があるので、こちらの都合の良いときは相手の国は真夜中とか明け方と 言う事が多くてこの国際電話には本当に往生した。 また回線状態が悪いと、繋がっても「ハローハロー」の繰り返しか「ガ〜ガ〜ピーピー」ばかりで肝心の用件を全然話せずに高い通話料だけ取られたなんて事は枚挙に暇なし。確かに回線状態も悪かったが それ以上に悪かったのは、こちらの「英会話能力の貧弱」だった。 私達の英語教育の中心は読む事 書く事が主体で会話など殆どゼロであったので、相手の見えない電話の英語の聞き取りは至難の業であった。 失敗の経験を重ねる事と心臓が強くなった事で時と共に大分慣れてきたが最初は電話がなり「国際電話」ですと言われると机の下に もぐりこんで逃げたくなったのが当時の本音です。