墨俣城(一夜城)
秀吉(藤吉郎)と川並衆が手を握って完成させた即席城
■墨俣城(一夜城)
永禄8年(1564)織田信長は同じ織田氏の居城の犬山城を攻略、秀吉の調略が効を奏し、次いで東濃地方を制圧した。翌々年の永禄9年(1566)信長から命を受けた秀吉は、美濃境の木曾川周辺に勢力を持つ“川並衆”(木曾川の渡しや運搬などを生業とし、力を持つ土豪衆)の頭目の蜂須賀小六や前野将右衛門に墨俣築城の協力を要請する。これを承諾した川並衆は、信長の勢州攻めのためと称してさらに上流の八曽などで材木を切り出し、これを筏に組み木曾川を下った。これを現在の川島町松倉の辺りで、現在の様に流れの定まっていない木曾川、長良川の支流に乗せ墨俣まで運んだという。
激しい美濃勢の抵抗にも逢ったが、良く守り3日の内に砦を築き、信長の入城を果たした。
単純に斎藤氏の不落の拠点、稲葉山城(岐阜城)を攻めるためにこの城(砦)を築く必要があった、と語られるがこのころ東濃三郡、西濃四郡を制圧しており、いくつかの砦を持つ信長は犬山や川島の辺りで木曾川を渡河し、東側、南側から幾らでも美濃を攻める基盤を持っていた。にもかかわらず敢えて稲葉山城の南西に位置する墨俣に砦が必要であったのは、大垣城の氏家卜全、曽根城の稲葉一鉄、北方城の安藤守就らのいわゆる“西美濃三人衆”の存在があったからと言われる。いずれも稲葉山城の西側の要衝を占め互いに婚姻関係を結び、千人以上の兵力を持って稲葉山城の左翼を堅く守っていた。つまり正確にはこの西美濃三人衆と稲葉山城の間を分断、牽制することが稲葉山城を攻めるために必要であったと考えられる。
信長と秀吉の戦国の2大天才のアイデアが墨俣城を生み、あっという間に稲葉山を攻略したイメージがあるが、以外にも地道にコツコツと周りを堅め、力攻めで負けないレベルまで敵を追い詰める必要があったのである。
●開館時間:午前9時〜午後4時30分
●入場料:一般200円、小・中学生100円
●駐車場:なし
●休館日:月曜日(当日が祝日のときは、その翌日)、年末年始(12/29〜1/3)
●電話:0584-62-3322
●要チェック度


●岐阜県安八郡墨俣町大字墨俣字城之越1742-1
●アトラスRD東海版(株式会社アルプス出版社刊)32-G-5
■墨俣城付近の空撮
右(東)の川が長良川、左(西)の川が揖斐川。赤い点の部分が墨俣城、揖斐川の左が大垣市街。
■墨俣城天守から金華山(岐阜城)を望む
手前の川が長良川。中央の尖った山が金華山(稲葉山)。