あくまで,そのときにあったことだけを書こうと思います。
その場にいて,自分がどう感じたかは書かないし…,っていうか,どう感じるべきなのか,いまだによくわかりません。
わからないということは,何も感じる必要がないと思っているか,あるいは,何ひとつ感じてやしないのかも,知れませんが。

その彼は,30代半ばです。
冷静で考えの深い人である,という印象をわたしは持っています。
ひとつの部署を任されているのですが,その部署の運営の仕方や部下の扱いも,わたしの目からは非常によく考えてうまくやっているように見えます。
彼は,大学時代から付き合い始めた人と結婚しました。お互いの仕事の問題があったため,離れ離れの時期が長かったようですが,その分信頼関係も深かったようです。
数年前,ようやく条件が整い,結婚しました。

そして,今年の春,その彼女は病気で他界しました。
奥さんがなくなる前も,なくなったあとも,彼はほとんどいつもと変わらず,落ち着いた笑顔を見せ,着実に仕事をしていました。
もちろん,なくなる寸前は少しでもいっしょの時間がほしいからと仕事を休みがちになってはいました。
わたしは,彼へ回す仕事をすべて凍結しました。
彼に同情してではありません。
何も見せない彼を,見たくなかったからです。

つい先日のことです。
就業時間が終わって,わたし達は一息ついて数人でだべっておりました。
その彼も仲間にいて,みんなと同じように談笑しておりました。
どういう経緯でそういう話になったのかわかりませんが,一人のおじさんが,休みの日に,子守りに忙しい奥さんに言われて化粧品屋に化粧水を買いに行かされた話をはじめました。
もともとそのおじさんは奥さんの尻に引かれている人で,そしてそれをネタにしている人でありましたから,たわいない笑い話で,わたし達はみんなで大笑いしていたのです。

そのとき,わたしはふと,前に立っている彼の手に目が行きました。
目が行ったというよりは,座っているわたしの視線の高さにたまたま彼の手があった,つまり,目に入った,という程度だったのですが。
ぶらりとたれていた彼の左手が,すっ,と動いて,ズボンのポケットにはいったのです。
顔をみると,彼はいつもと変わらず口元にやわらかい笑いを浮かべて,右手に持ったタバコの煙に少し目を細めていました。

これだけの話です。

ただ,わたしは知っています。
彼の左手には,薬指と小指に,マリッジリングがはめてあります。
ひとつは彼のものです。
仕事がら,はずさねばならない機会が多いため,はめている人はあまり多くないのですが,その彼も,先日まではしていなかったものです。

そしてその隣の指にはめられたのは,もういない彼の大事なパートナーだった人の思い出,なのです。

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