近づきたいよ,きみの理想に

出先周りでふと時間が空くと,つい携帯電話に手が行ってしまう。
マナーモードにはしてないのだから,メールや電話が入れば呼び出し音がなるはずで,ならない電話は何も語らないのはわかっているのだけれど,それでも画面を見てしまう。

そして待ち受け画像は,きみがえらんだアニメーション。
おれには似合わないと言ってやったら,いたずらっぽい眼をして,おそろいの画面にしたいからって強引にダウンロードして設定した。

今のきみは何も言わない。

きみがおれのことを「あにき」って呼び始めたのはいつからだっただろうか。
一人っ子だから,兄貴にあこがれてたのよね,ってそういってたっけ。
そう呼ばれるのは嫌いじゃなかった。
むしろ,きみに誰よりも近い位置にいるような気がして,こころよいくらいだった。
兄貴らしく振舞ってやることにためらいはなかった。
それをきみがもとめてるなら,そうしてやることが一番いいと思っていた。

それだけ,きみが大切だったんだ。

間違えたのはおれだった。
自分がきみの兄貴じゃないものになりたいと言うことは,たぶんきみに出会ったときから思っていたことだったのに,それに自分で気が付かない振りをして覆い隠そうとしてきた。
だから当然,くったくなくなんでも話して,かわいげに笑うきみを見ているうちに,抑えられなくなってくる。
それでも兄弟ごっこは必要だった。きみといるために。きみの一番近くにいるために。

一方でおれは,兄弟ごっこにかこつけて距離を近くしようとしているのはおれだけじゃないと思い始めていた。
甘えさせるだけ甘えさせてやる,求めるだけやさしくしてやる,そんなおれの兄貴という覆いに隠された本当の感情を,きみも認識しているのだと,そう考え始めていた。

きみはおれのすぐ近くにいつもいる。
そしておれは,兄貴でいるのが,どうしようもつらくなってきた。

あの雨の夜,おれはきみを抱きしめた。
きみは抗いはしなかった。
切ないくらいの想いにせっつかれるように,うつむいたきみの顔を上げさせたとき,ほおを伝う涙を見た。
思わず力の抜けたおれの腕の中から逃れでて,きみは泣きながらこういった。

「こんなのいやだ。あなた,怖いよ」

 

それっきりだった。
日に幾度となくくる意味もないふざけたメールも,気が向いたときにかけてくる電話も,ぱったりと切れた。
あれほど毎日会って話していたのがまるで夢のように思えるほど,きみはおれから離れていった。
電話をしようか,メールを出そうかと考えるたび,きみの言った「怖い」という言葉と,涙を浮かべているくせに怒っているような最後に見せた表情がフラッシュバックしてたまらなくなる。

ああして懐いていたのは,甘えていたのは,あれはいったいなんだったんだ?
夜中の電話にも,意味のないメールにもすべて答えてやっていたおれは,きみにとってなんだったんだ?
おれが夢中できみを大切にしていたのに気づかなかったはずはない。その感情を兄弟ごっこをしているっていう,それだけで納得してたのか?
そして,わずか一回だけ見せたおれの素顔が,そこまで許せないものだったというのか?
いま,おれのいない時間を過ごしていて,きみは,さみしくないのか?
おれは,きみにとってその程度の重みしかなかったのか?

きみに聞きたいことはたくさんある。
今すぐにでもきみに会いたい。会って話がしたい。

今でも衝動的に襲うこの欲求に,おれはぎりぎりのところで耐えている。
このままきみと離れ離れになってしまうのは,今まで二人で過ごしてきた時間を思い返せば信じられないことだと,そう考える一方,すべてがおれの思い込みで,こうして離れていくのがごく自然なんだと自嘲気味に考えることもある。

おれは混乱している。救いようがないくらい,混乱している。

それでもおれは,きみには会わないだろう。心がつぶれるほどきみを求めながら,それでも離れていくきみを追っていくことはできないだろう。

きみがふった役割をおれが演じそこなった今,きみがおれに求めていることがわかってるから。
そして今でもおれはきみが大切で,きみを傷つけたくないから。
だからおれは,ここに立ちすくんだまま,なにもせずにきみの後姿を見送っている。

きみの理想に近づきたくて,ずっとずっと抑えてきた。
だから今も,これからもそうするしかない。

いまのきみの,おれへの理想。
きみの前からの完全なおれの,消滅。

 

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