あなたの風になって
Calm breeze between the two

コウジのアパートの階段を下りて,ワンブロック。
気ぜわしくタバコに火をつけながら携帯電話を取り出す。
もうワンブロック。
呼び出し音を聞く。
そして次のコンビニの前。
彼女の声が耳に届く。
何度繰り返しているのだろうか。コウジの部屋に行くたび,半ば喧嘩別れのような状態で(きっとそう感じているのはマサヤのほうだけなのだろうが)部屋から飛び出し,そしてこのあたりで彼女の声を聞く。

聞かなければ落ち着かない。
頭の芯にともされて,いらいらとくすぶる小さな火が,燃え広がろうとするのを抑えられない。

 

「ええ加減に学校でて来んか」
マサヤはコウジに言った。
そうだな,と口の中でつぶやいてコウジは新しいビールのプルトップをはじく。
伸びすぎた前髪が顔に影を落として表情は見えない。
見えたところでその感情までは読めないことはマサヤは十分わかっている。
「心配かけてるみたいだしな」
コウジは言って軽く笑った。
言われたマサヤの肩が少しゆれる。
もうだいぶになるコウジの落ち込み,その理由をマサヤは知っている。
知っているからこうしてひきこもっているコウジのもとを訪れる。
コウジを案じているのか,自分を案じているのか。

そんなマサヤの行動の裏側を,コウジは,知らない。

「まだ吹っ切れへんのか」
少しマサヤの声が低くなる。それに気づきもしないのか気にしないだけなのか,コウジはまた笑って缶に口をつけた。
「吹っ切れないよ,吹っ切る気もない。おまえの言う意味では,ね」
マサヤの片眉が上がる。
「なんや,じゃ加奈子ちゃんにコクるんか」
少し声が上ずらなかっただろか。おれは,普通の顔をしてコウジと話しているだろうか。
マサヤの不安をよそに,コウジは今度は小さく声を立てて笑った。
「コクるわけないだろ」
「なんでや,加奈子ちゃんのつきおうとるヤツに勝負かけるんちゃうんか」

目の前の,このおれに。

「しないよ,そんなこと」
「ふっきらんゆうたやん」
「ああ・・・」

ため息混じりにうなずくと,コウジはビールの缶をテーブルに置き,ひじをついて手のひらにあごを預けた。
前髪の下からマサヤを見る目は,驚くほど穏やかで,それは申し分なくマサヤをいらだたせる。
「おれはね,加奈子を想ってる。それをごまかすのを,やめた」
マサヤの背中を冷たいものが這い上がった。
これまで何度か認めさせようとしてきたことだった。
ずっと,ただの腐れ縁だとか,幼馴染だとかそればかり繰り返して答えていたのに。
そしてそれがマサヤをいらだたせる反面,安堵させていた言葉だったのに。
「そやったら,そうゆうんやろ,加奈子ちゃんに」
湧き上がる不安を表情に出さないよう押さえつけながらマサヤはそれでもたずねた。
「だから言わないって」
「わかれへん。なんでや」
「彼女には付き合ってる人がいる。そいつを選んだんだよ」
「おまえがはっきりせんかったからやろ」
「違うだろ」

断言してコウジはタバコに手を伸ばした。
「俺はだめなんだよ。いつもあいつを怒らせる。
どんなに想ってても,どうしてもあいつの前では素直になれないし,優しいことも言ってやれない」
「だからそれはおまえが・・・」
「俺はおまえが好きだと言う。今付き合ってる男がいるのも知ってる,だからどっちか選べと言う。彼女は悩むだろう。」
珍しくコウジは口数が多かった。
「悩んだ末に,俺を選んだとして,そして俺と付き合ったとして,俺は今まで彼女と繰り返してきたことを繰り返さないって言う保証がない。
やさしい男を彼女から奪って,そしてまた彼女と喧嘩して彼女を苦しめて・・・。それは,もういやなんだ」
「お前が選ばれんことだってあるやろ」
「あぁ,あるさ。その時はきっと,彼女は俺よりも今付き合っている人のほうが好きだ,ってきちんと俺に伝えるだろう」
いったん言葉を切ってコウジは煙を吹き上げた。そしてマサヤから目をそらしたまま付け足した。

「泣きながら,ね」

それは彼女が自分をどう想っているか,その確信があるから出てくる言葉なのだろう。
マサヤの頭に熱がのぼった。
彼女に自分の気持ちを伝えないまま,彼女を自分が想っていることを自覚したまま,この距離感を保つ気でいるのは,ほかに誰が入ってきたところでどこかでか細くながらも続いている彼と彼女のつながりは切られないに違いない,という確信があるからできることだろう。

つまり,マサヤはこの二人の間に居られないと,そうコウジは言っているのだ。
何も知らないまま。

「彼女が誰が好きでもいい。俺は彼女を想ってる。直接言葉を交わさなくてもかまわない。彼女は,居る。
俺は絶対に彼女を傷つけない。彼女が笑っている,それだけでいい,」
マサヤの表情の変化に少し目を細めながらコウジは言葉を継ぐ。
「そう,吹っ切ったんだよ,おれは」

自分が何を言ったかよく覚えてない。
そんなの思い込みだ,好きなら彼女の一番大事な人になりたい,自分だけの彼女にしたい,そう思うはずだ。告白する勇気がないからそんな思い込みで逃げてるだけなんだ。
そんなことを羅列して,こんなあほともうつきあってられんわ,と捨て台詞をはいてコウジの部屋を後にした。

そして,安堵をもとめて,彼女…加奈子に電話を入れたのである。

 

急な誘いの割りに彼女はあっさりと翌日のデートを承諾した。
半ばやけくそのような勢いでアレだこれだと遊びまわるマサヤの隣で,いつものように楽しげに,屈託なく笑っていた。
彼女の笑顔はいつも明るくて輝くようで,マサヤに不安を忘れさせる。コウジの表情を忘れさせる。
遊びつかれて宵闇の迫りかけた港の公園のベンチに座り,ねだられたソフトクリームを食べながら,マサヤはすっかり上機嫌になっていた。

ふと,加奈子が立ち上がった。
海に張り出す展望台の手すりにもたれて海を眺めている。
ソフトクリームのカラを手近のゴミ箱に放り出し,その隣に行こうとマサヤが歩き出したとき,

ふわり,とやわらかな風が吹いた。

風は彼女の白いワンピースのすそに触れ,それから髪をなでた。
軽く髪を抑えた,彼女がふっと笑ったのが見えた。
マサヤの知っている楽しげな笑顔ではなかった。

しっとりと,やさしい,大切なものを遠くから慈しんでいるような,そんな笑顔だった。

やさしい風は,立ちすくんだマサヤと彼女の間をふわり,と吹き抜けて去っていった。

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