[482] あたしがいたりいなくなったり 2003年06月10日 (火)

ブックパーク【歌葉】から、叢書の17冊目として、
増田静さんの第一歌集『ぴりんぱらん』がリリースされた。
第一回歌葉新人賞受賞作を中心にまとめられたものだが、
受賞作以外の以下のような作品にも強く惹かれるものがあった。

 削除したメールが流れつくという銀河があって輝いている/増田静
 電球はついたりきえたり風にゆれあたしがいたりいなくなったり
 土星の輪が何であるかを言うような松橋くんのたとえ話を
 缶けりの缶もどらない日溜まりで犬が犬をまっとうして、冬
 太陽の死角をとってあたしたち裸足でぬるい牛乳をのむ
 ひかりしか見えない 別れを言うときも世界一だと指さす先も

日常会話のような、なんでもないようなことばなのだが、
読むと、起爆用のピンがするっと抜かれてしまったように、
世界が爆発寸前のような不安定さをにわかに帯びはじめる。
演劇などの脚本/台本を書いているということだが、
おそらくそうした散文系の仕事のエッセンスが、
増田さんの場合、短歌のフォルムによって、
うまく切り出されてゆくのだろう。
劇団の仲間である田原雅之さんのレイアウトが、
舞台や照明のように歌を活かしているのもご覧いただきたい。
著者自身によるPRサイトも始動しはじめている。



某大学のオープンカレッジで、秋から、
俳句の講座を担当してほしいという話があり、
きょう、講義の概要をまとめて担当者に渡した。
ニュートラルな位置から講義をしてほしいという話。
そういうことなら、と思ってひきうけたのだった。


[481] 縦組み/横組み 2003年06月09日 (月)

急いで進めなければならないことだらけなのに、
からだもあたまもすっきりしない一日。
夜、家人とスポーツジムに行って、
温水プールをのんびりと歩いてみた。
なんとなく軽く泳いでみたら、
からだがまるで泳ぎを忘れている。
意識しないと水中で息を吐けない。
すぐにからだが重くなったので、
ジャグジーに入り、サウナに入る。



「短歌ヴァーサス」の創刊号には、
第一回歌葉新人賞の受賞作・候補作を掲載している。
一昨日の授賞式のコメントで少し話したことだが、
どう考えても横組みが向いている作品も含めて、
すべて強引に縦組みのレイアウトをとっている。
もともとネット上の企画だったために、
すべてが強引に横組みにされていたものだ。
むろんそのまま横組みを選択する方法もあったが、
レイアウトに対しての意識を呼び起こしたい、
あらかじめネットで読んだ人たちに対しても、
もう一度読むことの意味を付与したい、
というようなことをあれこれ考えながら、
編集サイドが判断して良いかどうか、
ぎりぎりのラインでの選択をしてみた。


[480] 燠火を抱えながら 2003年06月08日 (日)

東京泊。昨日のイベントの燠火を抱えながら、
同じホテルに泊まった人たちを中心に朝昼兼食。
釧路の村上きわみさん、大分のひぐらしひなつさん、
こういう人たちに直に会えるのもイベントの効用か。
午後、遠来者の搭乗時間にあわせて解散する。
その後、倉富洋子さんなかはられいこさんたちと、
12月上旬に予定しているイベント会場の下見。
その場で大枠を最終決定して予約を済ませる。
名古屋に戻ってみると午後8時に近かった。
帰宅する前に家人の家族たちと食事をする。
点心のおいしい店で義姉にごちそうしてもらう。
帰宅してみると、予想通り電子メールは洪水状態。
すでにイベントの感想を書いてくれているものから、
至急の用件まで、読むだけでも1時間以上かかった。



昨日のイベントについての追記。
歌壇関係者たちにきちんとPRできなかったなかで、
シンポジウム150名、授賞式80名、と盛況だったのは、
うれしかった。むろんこの点での反省も多く残った。
ただ、授賞式でコメントをお願いした
藤原龍一郎さんが言ってくださったように、
短歌の世界の歴史的な転換点になるかも知れない、
そのような一日だったのではないかと感じてはいる。
奥村晃作さん水原紫苑さんといった顔ぶれと並んで、
佐藤真由美さん加藤千恵さんたちがいた「場」の意味は、
いつかはっきりとしたかたちになるだろうと思う。
マスメディアや出版関係の人たちが来てくださったなかで、
先日、穂村弘さんの小特集を少女マンガ誌上に組んだ
小学館「Betsucomi」関係の人たちと話しながら、
短歌の現在が生んでいる不思議な風景を再認識した。


[479] 「ニューウェーブ短歌コミュニケーション2003」 2003年06月07日 (土)

深夜、お茶の水のホテルの一室にいる。
忘れないうちにいくつかメモをしておく。

午前、上京。東京駅の構内を歩きはじめたら、
中央線が人身事故で止まっている、というアナウンス。
迂回路がわからない友人たちを別の友人たちにひきあわせ、
そこから一人でタクシーに乗って会場へ向かう。
準備段階では神経をとがらせていた加藤治郎が、
かなりおだやかな感じになっている。
ゲストでいるところしか見たことのない穂村弘の
主催者らしい昂揚の表情をはじめて見る。
スタッフ間の打ちあわせがのどかに進む。
出演者、参加者が集まりはじめると
そこからはもうすべてが非日常の空間だった。
予定していたことを順次かたちにし、
予定していなかったことを即時判断する。
授賞式の進行をお願いした佐藤りえさんはじめ、
スタッフの人たち、出演者、参加者のみなさんに
強く支えられていたイベントだった。感謝。



枡野浩一と穂村弘の対談について。
事前には一切のだんどりを決めないままだった。
すべて当日の空気のなかで決めるというのがだんどり。
そうは言っても二人に話してほしいことがあったので、
司会としてこころに決めていたことがあったのだが、
そのほとんどを二人が自然なかたちで話してくれた。
司会はこれまでに数えきれないほど体験しているが、
ここまで希望の方向に進んだことははじめてだ。
二人にこころのなかを読まれているような不思議なきもち。
この半年くらい、二人とそれぞれに意見交換したことに、
ぼく自身の考えが影響をうけていたのだろうし、
二人にもこちらの考えが伝わっていたのだと思う。
記録は「短歌ヴァーサス」の第3号に掲載予定。
プロデュースその他の「場」の視点からの動きと
文体その他の短歌の歴史からの動きの対立構造は、
たとえば枡野−穂村といった対比を一つの軸として、
この先もしばらく現代短歌の焦点になるだろう。


[478] 標的となるかもしれぬ 2003年06月06日 (金)

午前、東桜歌会の結果をまとめて会員にメール。
あわせて次回の案内も会員にメールしておく。
午後、風媒社に電話。「短歌ヴァーサス」の件で。
第2号の執筆依頼者たちの返信の様子などを確認。
どうやらほぼ承諾の返信をもらえたらしい。
歴史のないメディアの、支援者たちに感謝。
某社から取材依頼があった旨、報告しておく。
Iさんから届いている歌集原稿を読みあげる。
Sさんから届いている歌集原稿を読み進める。
急ぎのメール、急ぎでないメール、何通か書く。
さる人の誕生日だったことに気づき、歌集をひらく。

雨に傘ひらく何かの標的となるかもしれぬことも知らずに/正岡豊



結社誌「短歌」6月号が届いている。
彦坂美喜子さんの連載「現代短歌はどこで成立するか」は、
37回目、ひきつづき歌集『あるまじろん』の分析・批評。
作者(=荻原)の意識が、どこか物語化されている感じで、
その点ではちょっと気になるところもあったのだが、
これまで誰もふれることがなかった領域へと、
作者の意識をたどろうとしているところは、
自身が作者であることを離れても、
興味深く読めるものになっていると思った。
俳句誌「ににん」を田中庸介さんに送ってもらう。
田中さんの「山を遊ぶ、詩を遊ぶ」という文章は、
正津勉の俳句作品を契機に、定型詩と自由詩の、
作家の意識の差異を再認識させてくれるものだった。
この人の純然たる現代短歌論も読んでみたいと思った。


[477] 夏至が近づいている 2003年06月05日 (木)

昨深夜から午前中にかけて、
東桜歌会の詠草がばらばらと届く。
今月の題は「螢」。もうそんな季節か。
あまりにもありふれた題のせいか、
苦心のあとが見られる作品が多い。
かわりに自由詠はのびのびしている。
シャッフルしてプリントを作成する。
夕刻、会場に向かう。外が明るい。
夏至が近づいているのがよくわかる。
いつものように雑談、それから歌会。
二次会のメンバーもあいかわらず元気だ。
歌会がはじまってまもなく八年になるが、
最近、発足直後の会のように元気がある。



明後日、東京・日本出版クラブ会館で開催される
「ニューウェーブ短歌コミュニケーション2003」は、
エスツー・プロジェクトが中心になっての企画だが、
三人がほんとの中心になって動かすのは、
イベントとしては実は今回がはじめてなのだった。
イベントで三人が顔を揃えることはよくあるので、
あまりはっきり認識しないままに進めていたが……。


[476] 閉じるな/開きすぎるな 2003年06月04日 (水)

この日記に書きそこねていたが、
「短歌四季」6月号に12首が掲載されている。
「ゆふやけを脱ぐ」。題詠マラソンを契機に、
たちあがったイメージを自由に列ねたもので、
以前ここにも書いた「再掲載」をみずから実践した。
ちなみに、この他に雑誌に掲載される新作短歌は、
「短歌」7月号に10首(入稿済)、
「文藝春秋」8月号に8首(執筆中)がある。
そう言えば、岩波書店「図書」の執筆原稿、
掲載月がうしろにスライドされる旨、連絡があった。
ストック原稿を抱える大手版元ならではの事情らしい。
せっかくしあげたのに、というきもちもあったが、
編集担当者があまりにも誠実で正直な人だったので、
クレームを出すのももうしわけない気がして承諾。



「短歌ヴァーサス」の創刊号について、
残っていたPRなどの手配を完了する。
書店配本が一部遅くなっているのか、
店頭で探してもわからないという声。
取次より向こうの情報がうまく掴めない。
第2号の原稿執筆依頼については、
すでに風媒社に発送手配を依頼した。
返信も届きはじめているという。
第3号の企画について、折を見ては
メモを書き出しているところ。
閉じるな、だが、開きすぎるな、
というのが現在のスタンスである。


[475] 逃げ場がなくて美しかった 2003年06月03日 (火)

午前、青柳守音さんと、
岩下静香さんの第一歌集批評会の打ちあわせ。
会場となるロイヤルパークイン名古屋で。
15日(日)の開催まですでに二週間をきった。
参加者の総数は40名を少し超えそうだ。
帰宅後、気分が昂揚したところで、
『ナチュラルボイス』(ながらみ書房)を再読。
レジュメを作成するための準備を進めてゆく。



ブックパーク【歌葉】から、叢書の16冊目として、
妹尾咲子さんの歌集『アポヤンド』がリリースされた。
この作者は、たぶんこれから、様式と自己をむすぶ道筋を
あれこれ考えてゆくことになるのだろうと思うが、
そうした安定的な、短歌的思考に入ってしまう直前の、
焦げるような匂いをはなつことばたちが収録されている。

 奥さんの話をしてる横顔は逃げ場がなくて美しかった/妹尾咲子
 生きてるかも知れない死んでるかもしれない誰か私を揺さぶってみて
 遺書に書こう 見つけたら分けて鉢にして例えば蘭の花でも咲かせて
 誰と付き合ってたころのカードだろパスワードがなかなか合わなくて


[474] どこまでも青が 2003年06月01日 (日)

六月。どこまでも青がひろがっている。
ひとつ難航している原稿があって、
その後の予定までつかえてしまっている。
資料も読み終え、メモもあれこれ作成し、
草稿もあらかたまとまっているのに、
どうも全体を束ねるための何かが
うまくたちあがって来ないのだった。
などとぼやいてる余裕はないのだが……。



5月30日、5回目の結婚記念日だったのだが、
仕事にふりまわされていて祝いはできなかった。
前日、家人の誕生日のプレゼントを買う折に、
記念日の贈り物だけはあわせて買ったのだった。
数日旅行に出ようかと計画していたものの、
どうにもスケジュールが確保できずに延期。
この種の延期はもう何回目だろうか、と
家人とふたりで苦笑してしまった。

5月31日、川柳みどり会から刊行された
渡辺和尾さんの第七句集『回帰』の出版記念会。
渡辺さんをはじめ、川柳みどり会の人たちと
かれこれ五年ぶりくらいに顔をあわせた。
簡単にスピーチをさせてもらった。
記念会にどうかなあとは思いながらも、
川柳の世界はもっと外にひらかれるべきだ、
という話もついついしてしまった……。


[473] なけなしの青 2003年05月29日 (木)

午前、コンテンツワークスから、
増田静さんの第一歌集『ぴりんぱらん』と
ひぐらしひなつさんの第一歌集『きりんのうた。』、
それぞれの刷り見本が届けられたので最終確認。
延々とチェック作業に没頭していた。
午後、風媒社のために諸々のリストを作成。
創刊号の寄贈先の補填とか第2号の依頼先の示唆とか。
作業が一段落着いたところへ父母が来訪。
家人の誕生日なので顔を出してくれたのだった。
夕刻、家人にプレゼントを買うため、二人で外出。
その足で、ちょっと気張った食事をしにゆく。
帰宅後、ひたすら原稿に没頭する。
めまぐるしい日々が続いていて、
自身の状況を俯瞰する余裕がない。



邑書林から刊行されたばかりの
『セレクション俳人6・櫂未知子集』を
机上に置き、しばしばひらいては楽しんでいる。
櫂さんの俳句をまとめて読んだことがなかったので、
ようやくその作品世界の片鱗にふれることができた。
じっくり読みこんでから分析してみたいが、
櫂さんの句は、どこかしら、俳句であるための、
俳人に重宝される定番ツールが欠けているみたいで、
各句が俳句になろうとその都度奮闘している気がする。
ぼくにはそれがとても面白く新鮮に思われた。

なけなしの青を削つてゆく燕/櫂未知子


[472] 共通の場所/空間 2003年05月28日 (水)

夜になって、ogihara.comが、
とうとう100,000アクセスに到達した。
このところなかなか更新できなかったのに、
毎日見に来てくれていた人が大勢いた。
ありがたいことである。感謝。



昨深夜から歌集の校正作業。1冊分を終え、
朝になってから仮眠のような睡眠をとって、
午前中に風呂に入ってむりやり眼を覚ます。
午後、某社で「短歌ヴァーサス」の取材。
短歌誌の諸状況を語りはじめたら長くなった。
夕刻から風媒社で「短歌ヴァーサス」の打ちあわせ。
第2号の企画の細かいところを順にまとめてゆく。
打ちあわせを終えるとすでに深夜になっていた。
帰宅して遅れている原稿に手をつけはじめる。

川口晴美さんの詩集『lives』(ふらんす堂)と
太田美和さんの歌集『飛ぶ練習』(北冬舎)。
コラボレーションというわけではないのだが、
相互に指定した共通の場所/空間をめぐって、
月単位で一年間つくりつづけた作品群を
それぞれが自著としてまとめている。
ああ、こういうこと、してみたい。


[471] 備忘録として 2003年05月27日 (火)

午前、遅れていたMLの管理作業など進める。
たまっていた電子メールの返信もいくつか。
午後、岩波書店「図書」の校正ゲラに朱入れ。
ネットと短歌をめぐっての文章。400字9.5枚。
7月号(7月1日発行)に掲載の予定で進んでいる。
メディアとしての制約もあり、若干難航した。
夕刻、花森こまさんに以前から頼まれていた
個人誌「逸」誌上句会の選と選評のしあげに入る。
こちらは400字で約5枚。加えて、自選作品15首。
夜になって脱稿。少し手直ししてからメールで入稿。
まもなくカウンタが10万アクセスに到達する気配。



朝日新聞読書欄の400字書評で扱った本の一覧。
5月分までの原稿を整理したので、備忘録として。
『タンノイのエジンバラ』(長嶋有、文芸春秋社)
『五月の寺山修司』(シュミット村木眞寿美、河出書房新社)
『ただ時の過ぎゆかぬように』(阿久悠、岩波書店)
『ハゴロモ』(よしもとばなな、新潮社)
『絶望から出発しよう』(宮台真司、ウェイツ)
『住宅顕信全俳句集全実像』(池畑秀一監修、小学館)
『鉄腕アトムは電気羊の夢を見るか』(布施英利、晶文社)
次回の対象についてはいまのところ決まっていない。

友人たちとの読書会の対象本。これも備忘録として。
3月『動物化するポストモダン』(東浩紀、講談社現代新書)
5月『絶望から出発しよう』(宮台真司、ウェイツ)
7月『日本近代文学の起源』(柄谷行人)←もちろん非新刊


[470] 「批評会という快楽」 2003年05月26日 (月)

午前、脱稿した東海の文芸をふたたび推敲、
時間切れになる前にきりをつけてメールで入稿。
今回は、渡辺和尾第七句集『回帰』(川柳みどり会)、
小塩卓哉第二歌集『樹皮』(本阿弥書店)等を扱う。
トピックとして「現代詩手帖」5月号の特集にもふれた。
東海の文芸では、対象から逸れるのでふれなかったが、
同誌特集「『読者』いま詩はどこに届くか」の
田中庸介さんの文章「批評会という快楽」は、
短歌における批評会のレポートを綴りながら、
現代詩における同種の批評会の必要性を説いた文章で、
ぜひとも実践してほしいなと強く感じたのだった。
ちなみに、前回の同コラムを日記でふれそこねたが、
結社誌「未来」における加藤治郎特集、
広坂早苗第一歌集『夏暁』(砂子屋書房)、
宋敏鎬第三詩集『パントマイムの虎』(青土社)、
等にふれた。いわゆるイラク戦争の影響で、
掲載日がうしろにずれて、4月上旬掲載となった。
午後、歌葉叢書の製作作業、校正とかだんどりとか。
今週の半ばあたりでのフィニッシュが重なってしまい、
どうにも身動きがとれなくなりそうな気配がある。
夕刻、半ば徹夜だったので仮眠をとろうと思ったら、
校正ゲラがファックスであがって来て寝そびれた。



昨日の批評会の感想で書きもらしていたが、
「表現史上の進化を単純にめざしているように見えない」
そうした歌集の例として、黒瀬珂瀾さんの他に、
島田幸典さんの『no news』もそうだ、ということを
ディスカッションの最中に気づいたので指摘してみた。
加藤治郎さんがディスカッション後半のコメントで、
二歌集ともよく似たサンプリング的な傾向がある、
というようなことを語っていた。なるほど。


[469] 閉じられた言説 2003年05月25日 (日)

午前、朝日新聞・東海の文芸の原稿、
大筋のところをしあげてどたばたと外出。
名古屋・栄で開催された
黒瀬珂瀾さんの第一歌集『黒耀宮』批評会、
ならびに出版記念パーティに出席する。
会の直前に、風媒社の編集者と打ちあわせ、
創刊号の展開および第二号の内容について。
批評会後、パーティ、二次会と出席して、
帰宅してみると深夜になっていた。
東海の文芸にふたたび着手。脱稿。



黒瀬珂瀾さんの歌集『黒耀宮』の批評会は、
パネラーが小池昌代さん勝野かおりさん正岡豊さん、
そして荻原裕幸。司会が彦坂美喜子さんだった。
批評会を通してぼくの伝えたかった主なことは、
当日のレジュメに提示したように、以下の通り。

○表現史上の進化を単純にめざしているように見えない
○現実に親和した位置から仮想する非現実の世界
○作品背景に結ぶ「実感」を現実のレベルに設定してない
○複数の文脈を任意に作品背景に呼びこんでいる
 →万人の共感よりも特定少数の共感として
○一九六〇年代以降現在にいたる主な方法の展開にほぼ均質な関心度
 →アンチテーゼを抱えない
○歌い起こすモチーフ以上に歌い起こす位置が問題になっている
 →どのような「私」かではなく、「私」がどこにいるのか
○作品の背景が唯一無二の現実に収斂せずに任意の広がりを見せている
○ことばの感触に非実感的な異物感→レトリック

ことば数を縮めたためにわかりにくいフレーズが多いが、
発言時に補足的に話を進めたので、ここには記さない。
会の途中、ものすごく気にかかっていたのは、
パネラーで詩人の小池昌代さんが話していることを
ぼくはかなりはっきりと理解できていたのに、
あちらにはこちらの意見が伝わっていないようだったこと。
説明の巧拙の問題ならまだましなのだが、
そのつもりはまったくないにもかかわらず、
短歌的な「場」の閉じられた言説で話していたのかも知れない。
あとで反芻して考えてみたのだが、自覚はできなかった。


[468] 書店をまわる 2003年05月24日 (土)

総合誌「短歌ヴァーサス」について、
風媒社のウェブでの購入システム
どうもうまく機能していなかったらしい。
現在は正常に機能しているので、
利用していただけるとありがたい。
風媒社から連絡を受けている
事務系の事情を記しておくと、
執筆者、刊行前の購読申込者には発送済、
書店配本は5月最終週の半ばあたりとのこと。
きょう、紹介(と言うか、営業かな)のため、
風媒社のエディターとともに、
渋谷と新宿の大きな書店をまわってみると、
かなりまとまった部数を平積みで販売する、
という約束をしてくれたところが5店舗あった。
ありがたい話である。感謝。



木曜日、終日、原稿ならびに歌葉叢書の製作作業。
金曜日、午前、原稿ならびに歌葉叢書の製作作業。
午後から上京、製作の細かな調整作業のため、
コンテンツワークスで打ちあわせをする。
夕刻、打ちあわせを終えた足で、
砂子屋書房の二賞授賞式の会場へ。
受賞者たちの良い表情を見ることができた。
二次会は時間的余裕がなかったので遠慮し、
友人たちとすこし喫茶店で話をして宿に戻る。
きょうは、前述のように書店をまわり、
まわり終えたところで名古屋に戻る。
いくつかのウェブで、「短歌ヴァーサス」の反響、
好意的なものが多く、深く深く感謝している。


[467] あをの範囲 2003年05月21日 (水)

すでに4月から公開募集をはじめているが、
ブックパーク【歌葉】では、昨年にひきつづき、
第2回歌葉新人賞への応募を広く求めている。
昨年同様に参加・支援が得られればありがたい。
歌葉叢書も盛田志保子さんで15冊目となったが、
ひきつづき、妹尾咲子さん、ひぐらしひなつさん、
そして、昨年の受賞者である増田静さんの歌集を
三冊ともに5月末頃の刊行予定で準備している。
6月7日に東京・日本出版クラブ会館で開催する
ニューウェーブ短歌コミュニケーション2003
に向けて、さらに忙しい日々がつづきそうだ。



4月5日(一月半前だ……)、東京・中野サンプラザで、
紺野万里さんの歌集『過飽和・あを』批評会があった。
パネラーは、秋山律子さん今井恵子さん藤原龍一郎さん、
そして荻原裕幸。司会は飯沼鮎子さん佐伯裕子さん。
歌集全体を大きく緩やかな連作として構成した一冊で、
それがこの歌集のすべてであると言ってもいい。
ただ、連作ないし構成を重視した歌集というものは、
ともすれば、論理的思考の過剰な優先とも見え、
一首で読むときの作品の弱さを露呈しやすい。
紺野さんにもその傾向がはっきり見えるが、
補ってなおあまりある構成力は魅力的だ。
ディスカッションはどちらかと言えば、
一首の弱さを批判する方向に傾いて、
作者にはかなり苦しい展開となったが、むろん、
次のステップのための良質なディスカッション、
の範疇からは踏み出さずに進んでいったと思う。
ちなみにこの夜、新宿二丁目という場所に行く。
クロノスというバーで、石井辰彦さんたちと飲む。
なぜか、出世したらハリーウインストンのN.Y.の本店で、
ダイヤモンドを買って石井さんにプレゼントする、
というような約束をしていた。なぜだったのだろう?

青梅雨のあをの範囲に護られて闇までしばし体ゆるめむ/紺野万里


[466] 星と星とは 2003年05月20日 (火)

総合誌「短歌ヴァーサス」創刊号ができあがった。
予定をほぼ1か月遅れてしまったことになる。
待たせてしまった人たちに深くお詫びしたい。
そして、力をいただいた人たちに感謝したい。
不備も不満要素もたくさんあるに違いないが、
もはやあともどりのできないところにきた。
購読者たちへの発送がおそらく数日中に、
書店への配本がおそらく来週になるだろう。
反省点をあれこれ山のように抱えながらも、
すでに第二号に向けて動きはじめている。



岡井隆さんが歌集『E/T』のあとがきに書いている
「いつか歌集も、横書きのうつくしいのが、
 若い人たちの手で作られることだらう。」
というのは、たぶん、横書きならではの、
改行表記などを含んだ、うつくしい歌集が、
というほどの意味なのではないだろうか。
たとえば原田禹雄さんは、ずっと横書きで、
むかしのものは初版の実物を見ていないのだが、
第二歌集の『錐体外路』(1960年)は、
筑摩書房『現代短歌全集・第十四巻』にも、
横書き横組みを活かしたままで収録されている。
愛読している歌人の日記を読んで思い出したので、
ひさしぶりに『錐体外路』をひらいて拾い読みした。

星と星とは輝きによりて異れり暁を手術後のわが寝台車ゆく/原田禹雄


[465] ロングインタビュー 2003年05月19日 (月)

ひさしぶりに自宅を二日空けてしまったため、
洪水のような電子メールがいっぺんに落ちてきた。
にわかに対応できるような量ではなかったので、
仕事の合間にのんびりと目を通していたら、
急ぎのものが次から次へとあらわれて慌てる。



書きっぱなしできちんとPRをしていなかったが、
4月から【歌葉】サイトのコラムを担当している。
今月の歌では、天野慶さん盛田志保子さんを
現代短歌の世界では、特に作品はとりあげず、
「カラオケ的なカタルシスを超えて」
「ネットはメディアで(も)ある」
と題して時評的な文章をまとめている。
6月の原稿もそろそろまとめなければ。

「早稲田短歌」第34号が届いている。
「荻原裕幸ロングインタビュー2002」と題されて、
昨年7月の早稲田大学でのインタビューが掲載された。
手元に残っている原稿のデータでざっと計算してみると、
400字詰で90枚から100枚ほどの分量であった。
文体の変遷について、「全歌集」をまとめた意味など、
ぼくのこれまでの仕事の輪郭がはっきり見えると思う。
演出してくれた早稲田短歌会のメンバーに感謝したい。


[464] 大阪な二日 2003年05月18日 (日)

あれもこれも書いておかなくちゃ、
と思っているばかりでまた1か月が過ぎている。
日記が更新されないと心配してくれる人がいて、
それはそれでとてもうれしく励みになるのだが、
仕事で待たせている人がたくさんいるため、
おのずとそちらにシフトした日々となっている。



土曜日、大阪で川柳の座談会。司会をする。
4月6日にも東京で同じ系列の座談会の司会をした。
遠からず文字としてまとめられることになっているが、
具体的な作品ではなく場についての議論だったせいか、
どこかしら空気を掴んだような感触が残っている。
翌日の予定もあったため、そのまま大阪泊。
きょうは多田零さんの歌集『茉莉花のために』批評会。
パネラーは大辻隆弘さん小林久美子さん吉川宏志さん
吉岡生夫さん、そして川本浩美さんが司会。
文体の分析においてきわめてすぐれた会で、
その点たいへん参考になったのだが、
作家としてのモチベーションの部分、
つまり、なぜこうした歌を書いているのか、
といった話題がもう少し出てもいいかなと感じていた。
世界が見えなくなればなるほど、
歌人たちは世界に向かおうとしている。
多田さんの文体は、その動きに逆らっている。
文体そのもののよしあしを問うのは難しいが、
動きに逆らう理由はさまざまに問えるはずだし、
そこにはこの30年ほどの短歌史の問題が、
凝縮されているのではないかと感じられるのだった。


[463] 空を起こさぬように 2003年04月24日 (木)

ブックパーク【歌葉】から、叢書の15冊目として、
盛田志保子さんの歌集『木曜日』がリリースされた。
きらきらとした才質は、2000年、短歌研究社の
うたう作品賞受賞の「風の庭」ですでにあきらかだったが、
第一歌集がまとまって、それが明確なかたちになったと思う。

 何層も重ねて巻いた包帯のなかからひかりの声がするんだ/盛田志保子
 きみの樹の上で寝ている紺碧の空を起こさぬようにうたおう
 すべり台のすべるほうから駆け上るだん、だん、という音だけ 春夜
 リモコンを瞳に向けて撃つときの痛みのような二月の部分
 日本が心からはみ出していく見たこともない折鶴を折る



三十一文字ではすべてを書ききれないから、
歌人は、短歌を短歌の「外」につなぎとめようとする。
共有している文化のなかに。表現史の流れのなかに。
けれど、現在、文化や表現史といったものが
短歌の「母体」として安定的に機能するだろうか。
ニューウエーブ以後の短歌が、
おのずと着地点に選んでいるのは、
外/母体とのつながりを過度なまでに強調する歌か、
素手のままでじかに世界を掴んでしまおうとする歌か、
大きく言えば二つの流れに分かれていよう。
盛田さんは後者の流れに属する人だ。
属する、と言うか、後者の流れの
中心にいる一人だと言えるかも知れない。


[462] しっかりする自分 2003年04月22日 (火)

早朝、「題詠マラソン2003」の11、12首目。
題は「イオン」「突破」、#5329、#5330となる。
推敲が済んだのになぜか寝かせたままにしてあった二首。
長丁場とは言っても、のんびりしているとあとがきつそう。
ペースを少しあげないといけないが、まだ動けそうにない。



先月14日、馬場あき子さんの新作能「額田王」を観た。
於四日市市文化会館。山田公子さんが誘ってくれた。
能については基礎の基礎の知識くらいしかなくて、
楽しむどころか、理解するのがやっとだった。
歴史的背景を知っているからわかった程度だ。
馬場さんも来場していて、演目関連の公演があった。
帰りがけに少し馬場さんと話をしたのだが、
舞台や古典の勉強もしなさいと勧められた。
勧められたと言うよりも説教に近い感じだったかな。
あなたたちがしっかりしないと困るとも言われた。
しっかりする自分というものを考えながら、
ぼんやりと帰りの電車に揺られていた。

来嶋靖生さんの『短歌の技法 韻律・リズム』、
飯塚書店が刊行する一連のテーマ別の作例辞典に、
ぼくの短歌が数首引用され、コメントされていた。
いずれも特殊な例として引かれたもののようだが、
韻律やリズムという視点からはほとんど無視される
歌集『あるまじろん』からの引用だったのが興味深かった。


[461] 終り/はじまり 2003年04月21日 (月)

一か月分のメモを順次アップしようと思いながら、
ふくれあがってしまって整理がなかなかできない。
しかも新しい情報が次々に飛びこんで来る。
しばらくはノートの整理のような日記になりそうだ。



総合誌「短歌朝日」5・6月号が届いている。
休刊(不定期刊化と言うべきか)に入るため、
大々的な作品特集が組まれている。
一見すると総花的だが、この雑誌らしい、
きわめてくせのある作家選択も見える。
ぼくも7首を出した。「首都に降る雪」。
これからは、特集を主とした
別冊ないし増刊のスタイルで刊行されるそうだ。
定期刊行の枷が外された状況は、
編集サイドにとってはむしろ望ましいかも知れない。
歌人である石井辰彦さんも継続して編集部にいるという。
これからが本当のはじまりなのだと思うことにしよう。

同人誌「レ・パピエ・シアン」第52号が届いている。
特集は「ポスト・ニューウェーヴ」、ではあるが、
掲載されているのは、大辻隆弘さんと小林久美子さんが、
主にニューウェーブについて述べた文章のみである。
双方とも視点のしっかりした良い文章だと思うし、
もちろん自分たちへの批判も分析もありがたいのだが、
テーマから本来たちあがるべきものを考えると、
いささか消化不良的なきもちにもなったのだった。


[460] メディア性/機動性 2003年04月20日 (日)

昨日からの疲れが残っているのか、
朝から机に向かっても仕事にならない。
昼、義母と義姉と家人と四人で食事に出る。
家人たちはそのまま歌舞伎を観るために移動。
一人で帰宅して仕事の続きにとりかかる。



もう十日ばかり前になるだろうか、
インターネットに「発表」した短歌作品を
印刷メディアに掲載/再掲載することについて、
題詠マラソンBBSに私見を書いたところ、
神崎ハルミさんと五十嵐きよみさんが、
それぞれのウェブ日記で意見を出してくれた。
「メディア」としてのインターネットを
どのように考えてゆくべきなのか、
二人の真摯な意見を納得して読んだが、
ぼくの意見ももう少し補足しておきたい。

インターネットには、記録するメディアとしての機能と
記録にこだわらないコミュニティとしての機能がある。
ぼくの活動はどちらかと言えば前者重視の活動だが、
後者の抱える機動性にも捨てがたい魅力を感じている。
インターネット全体を厳密に「メディア」だと考えてしまうと、
掲載にも(引用にも)過度に慎重になることを強いられてしまい、
機動性が減じることが予測されるので、
発表/未発表(また、引用/無断転載)の判断について、
かなり曖昧な要素を残したままで対処している。
ただし、対処の個人的なガイドラインとして、
編集過程を経たか経ないかを一つの基準にしている。
つまり、メールマガジンやウェブマガジン、加えて個人のウェブ、
こうした場所への発表は「決定稿」だと考えるようにしている。
逆に、メーリングリスト、BBSへの発表は「未定稿」だと考えている。
後者を印刷メディア(「商業」誌であるかどうかは関係ない)や
種々のネットメディアに「再掲載」してゆくという方法をとることは、
過渡期的な方法であるかも知れないが、
いまのところ自他において肯定的に考えている。


[459] 宮島歌会 2003年04月19日 (土)

日記に「間」ができてしまった。
まだしばらくは執筆が間断的になると思うが、
書いておくべきこともいくつかあるので再開したい。



NHK・BS2「列島縦断短歌スペシャル」に出演。
昨秋にひきつづき、中継歌会の「主宰」役として。
出演は、加藤治郎さん、小林久美子さん、江戸雪さん、
飯田有子さん、千葉聡さん、そして荻原裕幸の6人。
会場は宮島。厳島神社・千畳閣からの生中継だった。
前回の蒲郡歌会とコンセプトはまったく同じで、
作品を読むことにシフトした歌会である。
蒲郡歌会のビデオを何回もチェックし直して、
気になっていたところをスタッフと調整した。
なかで、いちばん困ったのは、
ぼく自身がテレビ慣れしていないため
場がかたくなっていたところだったのだが、
今回はなぜか企画段階でそれはないと感じていたので、
むしろ前回以上に進行の大半をこちらにあずけてもらった。
放送後、帰宅して、今回のビデオを見てみた。
ほとんどイメージ通りだったのでほっとした。
出演者の抱えている現代短歌のエッセンスを、
すこしは視聴者に伝えることができただろうか。


[458] 月のひかりは 2003年03月13日 (木)

加藤治郎さんが第五歌集を出すという。
先週末の「鳴尾日記」で明らかにされていた。
今週は拾遺作品「Juno」がアップされている。
拾遺が「Juno」なら本体は「Jupiter」なのかな?
しかし、拾遺のはずなのに、このパワーはどうだ。
などと、加藤さんの口調で言ってみる。

月のひかりはかすかにみどり帯びて差すあなたをうしろ向きにさせたら/加藤治郎



東桜歌会の月例歌会の日である。
いつもどおりの手順でプリントを準備をし、
途中に書評のゲラが届き、校正を挟んで、
どたばたとあわてて家を駆けだしてゆき、
歌会の会場に向かう。出席者は13名だった。
題は「兎」。これはかなり難題だったらしい。
現実の兎とイメージの兎とが苦戦を強いられ、
修飾句の兎と連語のなかの兎が善戦していた。
来月はすこし簡単にしようと話していたのに、
気づいたらなぜか「雀」が題になっていた。
これって、ほんとに簡単なのだろうか?


[457] 相対と絶対 2003年03月12日 (水)

小高賢さん『転形期と批評・現代短歌の挑戦』、
柊書房から刊行されている。第二評論集。
巻頭の書き下ろし評論から読みはじめた。
小高さんの現状の分析はとてもわかりやすい。
わかりやすい、と言うか、的確なのだと思う。
ただ、現状からの出口の方向をめぐって、
「あれか、これか」を重視するのが、
ぼくにはどうもよくわからなかった。
「あれか、これか」という地点に立てば、
他者が見えて来るのではないかという。
この方法は、歴史をたてるには有効で、
たとえば、川柳の場でならば、
ぼくもおなじことを言っている。
けれど、歴史にがんじがらめにされた
短歌の場で、有効に機能するのだろうか。
それに、小高さんは、この「他者」を
相対的な関係として語っているようだが、
他者というのは、もっと絶対的に、
相対的な関係が断ち切られたところに、
はじめてあらわれるのではないだろうか。
全体の読後に、あらためて考えてみたい。



朝日新聞読書欄の書評原稿を脱稿した。
関連づけて考えていた文献を再読しながら、
メモをとってあったものを400字に整形する。
対象は阿久悠さん『ただ時の過ぎゆかぬように』。
深夜、編集者宛に電子メールで入稿した。


[456] 短歌とは短歌である 2003年03月11日 (火)

総合誌「短歌ヴァーサス」の創刊準備が、
予定日の4月20日に向けて進められている。
下旬になればきちんと案内が出せるだろう。
気のはやりから問題も生じているようで、
きょうも、釦のかけちがいがひとつ。
一からやりなおしかなと思ったところ、
幸いなことに進行を優先してもらえた。
友情に感謝しながら前に進むことにした。



短歌とは何か、という問いに対して、
短歌とは短歌である、と答えてみる。
内容のまったくない答ではあるが、
このトートロジーがもっている
ゆるぎのない肯定性だけが、
現在を活性化できるんじゃないか。
短歌とは何々である、という答、
意味をそこにはりつけたり、
根拠をあたえたりしてみても、
短歌は他の短歌との関係の上に、
相対的にしか成り立たないだろう。
そうした関係性によって成り立つ
短歌全体の根拠は見えなくなるのだ。
短歌とは短歌である、と言ってみる。
この十数年の自分と短歌とのかかわりは、
このトートロジーの内にあるのだと思う。


[455] 耳が追いかける 2003年03月10日 (月)

頼んでおいた『住宅顕信全俳句集全実像』(小学館)が届く。
池畑秀一さんの監修。全句集と評伝がセットになった一冊。
ブームだというのがどうもひっかかっていたのだが、
ブームでもなんでもおもしろいものはおもしろい、
と考えることにした。実際におもしろいのだから。

りんどう咲きほこるでもなく咲いている窓/住宅顕信



松井茂さんから送ってもらった
朗読会「方法詩とその周辺」のビデオ、
先日、観たとき、と言うか、聴いたとき、
さかいれいしうさんの「日本空爆 1991」に、
どこか不思議な印象をもっていたのだが、
その理由がやっとわかりかけてきた。
▼の羅列の歌に調子をあわせるためか、
全体的に「正調」で朗読しているらしい。
石井辰彦さんのことばを借りると、
「伝統的なリズムをきざむ基本的な声部」
をベースにして朗読されているようだった。
意味にひきずられて音声化すると
隠れてしまう伝統的なリズムを耳が追いかけ、
さかいさんのように正調的に音声化すると
逆に、おのずと耳が意味を追いかけはじめる。
どこかに破調を含んでいる文体で、
読んだことのないテキストだったら、
短歌の朗読において意味をとりやすいのは、
ある条件下では、後者かも知れないと思った。


[454] ここからみたかばん 2003年03月09日 (日)

同人誌「かばん」3月号が届いている。
飯田有子&入谷いずみ編集体制の最終号。
あぶらがのってきた、という感じになって交替、
というのはとても残念なきもちになるのだが、
ひきずらないのがこの雑誌らしいところか。
あらためて「快い不安感」が生じるのだろう。
次号からの中沢直人&鈴木有機体制が楽しみだ。

結社誌「短歌」3月号が届いている。
彦坂美喜子さん「現代短歌はどこで成立するか」、
連載はこれで34回目となる。荻原裕幸論の続き。
1991年のニューウェーブ議論をめぐっての検証。
このところ短歌ではあまり聞かなくなっている
主体をめぐる認識なども再検証されていた。



昨日から家人が出かけている。
家にこもって一人で仕事を続けていると、
生活にかかわる時間感覚が一気に崩壊する。
食事をすることをほんとに忘れてしまうし
睡眠もなかば忘れかけているのに気づく。
お腹が空いたり眠くなったりするのを
無意識のうちに何かが抑えてしまうらしい。
帰宅した家人の顔を見ると、
にわかにお腹が空いて眠くもなる。
なんだかどこかおかしな反応だなあ……。


[453] 加藤治郎と/の時代 2003年03月08日 (土)

結社誌「未来」3月号が届いた。
特集「徹底検証! 加藤治郎と口語の時代」、
田中槐さんの企画。すぐれた論考が多かった。
結社外からの寄稿は藤原龍一郎さん一人だけだが、
総合誌の特集に遜色がないレベルを実現している。
貴重な資料でもあり、楽しい読み物でもあった。
藤原龍一郎さん「野心とイノセント」は、
加藤治郎と俵万智の間に差異線をほどこす。
並列に論じると無理が生じる差異があるという。
史的認識にぼくはすこし違う意見をもっているが、
藤原さんのこの分析は明晰でかつ有効だと思われた。
中沢直人さん「フラグメント化する時代への挑戦」は、
エスツー・プロジェクトという視点からの分析。
三人それぞれの位置づけなどもされていて、
個人的にとても興味深く読ませてもらった。
ときどき、個人的な場所で、冗談半分本気半分に、
オンライン短歌が「覇権」をとるのは無理だから、
「天下三分の計」がいいのでは、と口にしている。
中沢さんにはそんな感覚が伝わっているのかも。
4月号でもひきつづき加藤治郎特集があるらしい。



いくつかの原稿の粗いメモをまとめはじめる。
パラレルに進むのは、焦りが入っているか、
調子がとても良いとき。前者だろうなあ。
深夜、「題詠マラソン2003」の10首目、
題は「浮く」、#4403となった。


[452] ひしめきてしかもしづけき 2003年03月07日 (金)

日々の覚え書きをすると眼がまわりそうだが、
今週は毎日、何人かの原稿と格闘している。
他人の作品・文章について語るのは楽しい。
他人の原稿について語るのはとても苦しい。
相手に自分より才能がある場合はなおさらだ。
苦しいが、とりつかれるように読んでいる。

ひしめきてしかもしづけき百千(ひやくせん)のわが見し枝を誰にし告げむ/岡井隆



Sさんからもらった企画の提案について、
あまり良い返事が書けなかったところ、
Sさんからさらに情熱的な提案をもらう。
読んでいてこちらが元気になるような情熱。
短歌の原稿を書くための時間がとれなくて、
まずは無作為にメモをまとめている。
思いがけないフレーズが生じたりする。
深夜、「題詠マラソン2003」の9首目、
題は「休み」、#4359となった。
仲間たちのことばを聞くうちに、
少年期と現在とが強くつながる。


[451] 外来的な要因 2003年03月06日 (木) 啓蟄

きのう「外来的な要因」と書いた。
何かを掴めていたような気がしたのだが、
考えているうちによくわからなくなった。
推敲に結論を出しているのは、自分だ。
だけど、推敲に方法意識を貫いたり、
あるいは、推敲を感覚に任せたりするのは、
書かれたあとになればそう見えてしまう
歌人の「内的な必然性」などではなく、
ここで言う「自分」よりも上位にある
何か外来的なものが要因に思えたのだった。
たとえば、題詠の題を一首に組みこむこと。
あるいは、発表をするのが総合誌だとか、
結社の選歌欄だとか、インターネットだとか、
それら媒体の性質をどこかで意識すること。
こうした従来の文芸観の「外」にある要因が
文体に与える影響というのは小さくない。
一昨日に書いた、場、鑑賞、信頼関係と
まったくの等価だとは言わないまでも、
よく似た機能をもっているのではないか。



深夜、「題詠マラソン2003」の8首目、
題は「足りる」、#4308となった。
変則的なかかりかたではあるけど、
枕詞をつかったのはひさしぶりかも。


[450] 観察と連作的な統覚 2003年03月05日 (水)

短歌一首が「断片」だとしたら、
組みあわされた連作や歌集はどう考えるべきか。
個々の断片における「私」というものは、
世界の観察をきわめればきわめるほど、
別々の感触をもった「私」としてたちあがる。
この観察のきわまり具合を活かそうとすれば、
連作的な統覚がそこねられることになるし、
逆に連作的な統覚をあまり重んじてしまうと、
一首における観察のちからは低下するだろう。
従来から言われている一首と連作の問題だ。
連作あるいは歌集をまとめる作者たちは、
当然この問題にどこかで折りあいをつけている。
その契機は「方法意識」と呼ばれたり、
あるいは「感覚」と呼ばれたりもして、
歌人の自意識/無意識だと考えられているが、
どうもそれはあやしい、という気がする。
もっと外来的な要因があるのではないか。



中学時代の同級生の誕生日だったので、
メッセージのメールを書いた。
ずっと落ちついて話をしたことがないので、
どんなことばをつらねていいのか迷った。
書くことを仕事にしているわりには、
メッセージを書く能力が貧困だなと思う。
それにしても、あの頃のみんなが40歳か、
と、あらためて感慨に耽ってしまった。
本日の計測、体重60.0kg、体脂肪率18.0%。


[449] 観察と俯瞰 2003年03月04日 (火)

散文的な情報の伝達という点で、
短歌一首は「断片」でしかないと思う。
この断片における「私」には、
世界を観察するちからはあっても、
世界を俯瞰するちからが備わっていない。
「私」に世界を俯瞰するちからを与えるには、
観察と俯瞰が等価に機能するようなシステムが
一首の「外」で成立していなければならない。
このシステムが「場」であり「鑑賞」であり、
作者と読者の「信頼関係」と呼ばれるものだ。
こうした、場、鑑賞、信頼関係が、
短歌の周囲に、空気のように、
自然にひろがっていた時代もあったろう。
ただ、現代がそのような時代だとは考えにくい。
むしろ、システムの再考が、
現在の短歌の必須の要件ともなっている。
歴史を見なければはじまらないが、
歴史を遡行するだけでは解決しないだろう。



頼んでおいた本が届く。
阿久悠『ただ時の過ぎゆかぬように』(岩波書店)、
よしもとばなな『ハゴロモ』(新潮社)。
前者のモチーフの「ニュース詩」というのは、
湾岸戦争時のいくつかの現代詩の論争を
記憶からやわらかくたちあげてくれる。
あれこれ考えてみる良いきっかけになりそう。


[448] むかし四人姉妹の 2003年03月03日 (月)

桃の節句。
うちに姉も妹もいなかったせいか、
桃の節句というのはとても遠い存在で、
どこかにあこがれのようなものがある。
むかし四人姉妹のともだちの家に行ったのが
ちょうどこのシーズンだったので、
若草物語か細雪かといった空気が流れていて、
なにやらとてもまぶしかったのをおぼえている。



入交佐妃さんから写真のパネルが届く。
作品集『ヘヴンリー・ブルー』のうちの一点。
どこに飾らせてもらうおうか考えながら眺めていて、
すでに懐かしいきもちになっていることに驚く。
そんなわけがあるはずはないのに、
すでに十年以上むかしのような。
ずっとむかしからの記憶のどこかに、
あとから入りこんでしまっているのか。

コンテンポラリーアートの
アーティスト(と言うか、元アーティスト)の
大野左紀子さんから、ウェブを開設したと
案内のメールが届いたので、のぞいてみた。
世界がうらがえるような新鮮なことばがある。


[447] 日曜が日曜として 2003年03月02日 (日)

日曜が日曜として機能しない生活は
どうもよくないなと思うのだが、機能しない。
そのくせ月曜は月曜として機能するのだ。
困ったことのような、楽しいことのような……。



臥すまでにならざる病(やまひ)飼ひならしふたりの夏へ朝顔を播く/雨宮雅子
からっぽになりはつる身の昼の影家内にひきてゆらゆらとゆく/玉井清弘
受取人不在の付票つけられて返されてくるわたくしの思慕/久々湊盈子
とりとめなき履歴の中にかの山の隆起のごとき濃きみどりあり/来嶋靖生
父母(ちちはは)は梅を見ておりわれひとり梅のむこうの空を見ている/沖ななも

読売新聞「うたの表情」に引用した作品の一覧。
歌集を再読し、好きな歌を選んでいたのだが、
並べてみて、くせのない文体が多いのに気づく。
鑑賞を付す作品の選に決まってあらわれるのは、
その時期の自分の「推敲上のこだわり」である。
たぶんいまこういうところにこだわっているのだろう。
天野慶さんや島田幸典さんの歌集を読んでいて、
文体の匂いや表情を気にするのもそのあらわれか。
「題詠マラソン2003」にもいくらか反映されているか。


[446] 光の加減で 2003年03月01日 (土)

昨日、家人の髪をカラーリングする。茶色。
どこかしらムラがあるようにも見えるが、
光の加減で違う色に見える染毛剤らしい。
世界情勢みたいだな、などと思いながら、
角度をかえて眺める。そういうものなのか。
深夜、「題詠マラソン2003」の7首目、
題は「ふと」、#4088となった。
「題詠マラソン2003」をめぐって、
日記(の文体)でコメントするのは、
どうもかたくるしくなりそうなので、
掲示板にときどき書くことにした。



リアルタイムに反応できなかったこと。
加藤治郎さん「鳴尾日記」2月20日付、
歌集のプロデュースについての見解がある。
現実的な内容についてはもちろん同意見だし、
作者側にもなにがしかの納得はあると思う。
ただ、それはそれとして、問題の本質は、
一件一件のプロデュースを超えた地点で、
何を考えているのか、かも知れない。
これは、場と方法という視点から、
いずれ、加藤さん穂村弘さんとともに、
何か検証を試みてゆく必要があるのだろう。
鈴木竹志さん「竹の子日記」2月21日付、
結社誌「塔」2月号の座談会をめぐって、
ニューウェーブについての見解がある。
文中にある「表現活動総体」という視点、
仮にそれが批判につながるのだとしても、
ぼく自身が望んでいる視点でもあり、
とてもありがたいことに思われた。


[445] 先廻りして黄昏ている 2003年02月28日 (金)

5年経った、と、それを思いながら、
どうにも身動きできずにいる。



島田幸典さんの第一歌集『no news』(砂子屋書房)、
批評会に参加しそびれてしまったのですこしメモを。
島田さんの技法は、かなりたしかな安定性をもっていて、
文語になれた人には快く読み進められる質のものだし、
ぼくも、とても快く楽しく読ませてもらった。
ただ、それは短歌としての一つの価値ではあるものの、
「朝焼けの雲ひとむらを保存して市電の窓に紅梅は過ぐ」
などという傾向の文体における匂いや表情のなさは、
昨日も書いた「文体の無香性」につながっていて、
どこかしらひっかかるところはあるのだ。
しかも一冊の歌集を通しての徹底ぶりは、
方法として意図的に用いているように見える。

 なに喰わぬ顔して猫が戻りくる角度できみのメール届きつ/島田幸典
 さんしゅゆの光に空の統制がそこだけ崩れいる角の家
 先廻りして黄昏ているような小春日の No news is good news!(いや、なんでもないさ)

正調の定型・韻律から生じる「美質」を重んじるなら、
これら破調的歪みに魅力が生じる作品などは書かないだろう。
しかも歌集のタイトルにかかわりのある作品が破調なのだ。
あえて破調の作品をタイトルにかかわらせておいて、
文体が表情をうしなうほどの正調へと向かってゆく。
それが方法意識によるものだと知らせるためか。
口語/散文系の文体への反撥的な「選択」なのか。
ニヒリズムの陥穽へのぎりぎりの位置かも知れない。


[444] バイアスとなめらかさ 2003年02月27日 (木)

夕刻、朝日新聞の書評のゲラが出る。校正。
書評執筆のサイクルが早くなりそうな気配がある。
深夜、「題詠マラソン2003」の6首目、
題は「脱ぐ」、#3988となった。
26時を過ぎた頃、sweetswan.comが落ちて、
しばらく回復しないので、状況を調べたところ、
どうもプロバイダからの連絡漏れだったようで、
数時間のメンテナンスが入っていたらしい。
早朝になってからやっと回復したのだった。
不便の生じたユーザ各位にお詫びしたい。



先日、短歌の文体の無香性ということを書いた。
この無香性の可否についてはしばらくおくとして、
天野慶さんの文体に、そうした感じがたちあがるのは、
主に、日常語を、散文的ななめらかさでつかうケース、
「恋人になるより散歩の友がいいペーパーカップのコーヒーを手に」
などであり、たぶん、短歌のフォルムからうけるバイアスが、
極端に稀薄になっているからではないかと思う。
天野さんがそうなのかどうかはわからないが、
はじめから口語の文体で短歌を書いている場合、
この現象が生じやすいという面があるかも知れない。
もっとも、これは、口語の文体だけの話ではない。
文語をつかっているときにも生じる現象である。
文語は、それ自体バイアスだとも考えられているが、
つかいなれてしまえば日常語のなめらかさでもつかえる。
文語の文体にも無香性を感じるものはある。
これはまた明日にでもメモすることにしよう。


[443] インスタレーション 2003年02月26日 (水)

読売新聞「うたの表情」最終回の掲載日。
最後は沖ななもさんの一首を鑑賞してみた。
歌集『衣裳哲学』のなかの好きな歌である。
朝日新聞読書欄の書評原稿の参考のため、
ひさしぶりに、寺山はつ『母の螢』、
九條今日子『不思議な国のムッシュウ』を再読。
家族としてのこの二人のドキュメントでさえ
微妙な食い違いが生じているのだから、
寺山修司自身による「記憶の修正」も
なるほどモチーフになるわけだよな、
と、あらためて納得していたのだった。
夕刻、某誌から企画の打診がある。
企画サイドのリサーチがきちんとしていて、
有意義なものになりそう。承諾のメール。
夜、書評のメモを400字に削ってメールで入稿。
対象はシュミット村木眞寿美さん『五月の寺山修司』。



昨日書いた「インスタレーション」ということ。
もちろんこれは比喩として語っているのだが、
歌集づくりはすべてインスタレーションである、
と言ってしまうこともできるのかも知れない。
ただ、一首という単位での文体の評価を
はるかに超えた地点にせりだすような、
一冊の本の機能への方法としてのこだわりは、
遡っても前衛短歌のあたりまでかと思う。
岡井隆『人生の視える場所』(1982年)は、
枡野浩一さん加藤千恵さん天野慶さんのように
視覚系の方法意識とは違うが、あきらかに、
一首の文体を超えた地点で「本」が意識されていようか。
江田浩司『新しい天使(アンゲルス・ノーヴス)』(北冬舎)、
藤原龍一郎『東京式』(北冬舎)、
石井辰彦『海の空虚』(不識書院)なども、
それぞれに方法はまったく異なるとしても、
インスタレーション的に読まれてもいいのではないか。


[442] 洗練と無香性 2003年02月25日 (火)

天野慶さんの『短歌のキブン』(ディスカヴァー)を読む。
どこにも「歌集」と書かれていないのが印象的だった。
天野さんの共著の『テノヒラタンカ』(太田出版)は、
コラボレーションをつきつめていった本だった。
こちらは、インスタレーションといった感じである。
枡野浩一さん加藤千恵さんの歌集づくりともつながっている。

 眠ったら死んでしまうよ東京は見えない雪の降る街だから/天野慶
 いつか飼う海月のために水槽を洗う陽射しの揺れる土曜日
 夕方は夕方用の地図がありキヨスクなどで売っております
 地図上の深海8000メートルとおなじ青さで書かれた手紙

とてもいいなと思った作品を引用してみた。
天野さんの歌は、これからもどんどん洗練されていって、
さらにおもしろい世界を見せてくれる気がするが、
一点だけ、どうもひっかかっているのは、
歌人でも作家でもない、無記名でライターが書くような、
その人が書いたという匂いのまったくしない文体があること。
たとえば、俵万智さん枡野浩一さんが、
ポピュラリティにどれだけ深くもぐっていっても、
その人の匂いを文体にしっかり残している。
天野さんがもっているこの無香性は、
あるいは新しさや個性なのかも知れないが、
ぼくにはすこし気にかかるものとして存在している。



午前、Fさんから電話があった。
6月の歌集批評会の予定を知らせてもらう。
ここしばらく気になる歌集がたくさん出ていて、
読んでいても語りあう場になかなか行けない。
予定をあわせてもらえたのでとてもありがたい。
未明近く、「題詠マラソン2003」の5首目、
題は「音」、#3910となった。


[441] アンソロジー 2003年02月24日 (月)

昨夜、「題詠マラソン・リンク集」を設置した。
自作を掲載したり、他人の作品を鑑賞したり、
あるいは題詠マラソンを語りあったり、
参加者がそれぞれ展開するサイトのURLを
登録してもらい、一覧するためのものである。
参加者を中心とした交流がさらに深まればうれしい。
午後、読売新聞「うたの表情」最終回のゲラ。校正。
担当者のKさんの感想にうまく誘導してもらって、
計5回、歌集の再読も含め、楽しむことができた。
深夜、「題詠マラソン2003」の4首目、
題は「木曜」、#3823となった。



『現代の短歌・100人の名歌集』(三省堂)が届く。
篠弘さんの編による現代短歌のアンソロジー。
ぼくの作品も収録されるというので、
楽しみに待っていた一冊だった。
窪田空穂にはじまり、梅内美華子まで、
戦後に歌集を刊行している歌人から100人。
合計で3600首が収録されているという。
ちなみに、収録されたぼくの作品は、
『青年霊歌』『世紀末くん!』から計27首。
編者の評価により個々の掲載数が異なる点と
特定の歌集に照準をしぼって編んだ点で、
同種の他のアンソロジーと差別化している。
他にも篠さんらしい特色として、解説の文中に、
同時代の歌人の評価がかなり豊富に引用されていた。
出典までは明示されていないが、良い参考になる。


[440] うす暗がりをひとりじめする 2003年02月23日 (日)

夕刻、買い物に出ていた家人から電話。
義母、義姉たちと食事をすることになって、
ひさしぶりにウォーキングもかねて外に出る。
このところ家にこもりがちになっているので、
外の空気を吸ったらかなり気分がよくなった。
本日の計測、体重60.0kg、体脂肪率18.0%。



沖ななもさんの『衣裳哲学』(1982年)を再読。
この第一歌集を女歌の流れで読んでいた理由が、
今はもう見えなくなっていることに気づいた。

 空壜をかたっぱしから積みあげるおとこをみている口紅(べに)ひきながら/沖ななも

たとえばこの巻頭の一首は、
イロニーを含む女性優位の構図、
性差の表現としてしばしば引用されたが、
いったん歌集の文脈のなかに戻して読んでみると、
イロニーとはどこか感触が違うようなのだ。
角度をかえた視野で素朴に世界を驚いている感じ。
以下のような作品からもこれがうかがえる気がした。

 階段を下から支える空間のうす暗がりをひとりじめする/沖ななも
 この椅子をわたしが立つとそのあとへゆっくり空がかぶさってくる
 トラックに鉄材積みあげるおとこの腋の下から見えかくれする富士
 一瞬われにかえる−−−−−−−−物置にスパナかくされてある


[439] 俳句のオリジナリティ 2003年02月22日 (土)

読んだり書いたりの繰り返しのうちに、
気づいたら一日が暮れているのだった。
焦るな焦るなと自分に言いきかせてみる。
深夜、「題詠マラソン2003」の3首目、
題は「さよなら」、#3706となった。



総合誌「俳句研究」2002年11月号で、
櫂未知子さんが、類句問題をめぐって、
オリジナリティについての考察を書いた。
2002年10月17・26・29・30日付で、
この日記でもコメントさせてもらった。
以後に読んだ何人かの俳人たちの意見は、
「俳句研究」批判等の場外論を別にすれば、
作家的姿勢において櫂さんに同調するものと
俳句のオリジナリティの主張を諫めるものと
大きく二つにわかれているようだった。
櫂さんのとりあげた事例にかぎって言えば、
後者の意見が出てくるのは不思議だったが、
類句も模倣もとりたててとがめない姿勢が、
結果として俳句を豊かにするという発想か。
オリジナリティをきわめようとするあまり、
本質的なことが見落とされがちになる、
というのは留意すべき点なのだけれど、
この種の発想と櫂さんの今回の主張とは、
はたして両立しないことなのだろうか。
俳句の世界の場の文脈がうまく見えない。


[438] 自己意識と他者 2003年02月21日 (金)

午後、編集者のMさんから電話がある。
頼まれていた原稿の締切が繰り上がった。
総合誌「短歌研究」3月号が届いている。
島内景二さん『楽しみながら学ぶ作歌文法』の、
寄稿した2000字の書評が掲載されている。
入稿後に編集部からリクエストがあって
いささか補完した原稿なので気になっていたが、
補完の痕跡はどうにか消えてくれたらしい。
義姉から心理クイズのメールが届いて、
四字熟語を二つあげて下さい、というので、
波瀾万丈、天真爛漫、と回答したら……。
読売新聞「うたの表情」第5回を脱稿。600字。
来週水曜日で最終回となる。メールで入稿した。



結社誌「塔」2月号の座談会「つながりと信頼」
なるほどそういう意見もあるのか、と思って読む。
この座談会とニューウェーブ的な意識との間に、
もし何かへだたりや齟齬があるのだとしたら、
読者を想定する意識の軸の違いかな、と思った。
たとえばぼくの、書く意識、を支えているのは、
吉川宏志さんが言っているような意味での
読者に対しての信頼関係だと思われるし、
それは、つきつめて言ってしまえば、
わかってもらえるはずだ、という
作家の側の自己意識なのだと思う。
実際、信頼関係のある読者の生の声を
何らかの方法で確かめながら書くことも多い。
たとえ▼の雨を降らせていても同じなのだ。
この点にはまったく異論が生じなかった。
ただ、仮にいくらそう言ってみたところで、
現実の読者=他者は、自己意識の「外」にいる。
できるかぎり客観的になって自己言及しておけば、
ニューウェーブは「自己意識と他者」の産物であり、
特定少数読者と不特定多数読者という対立構造とも
長期安定読者と短期完全燃焼読者という対立構造とも
いささかちがう場に展開している、と考えている。
文体およびメディアや「場」に対する意識も含めて、
吉川さんの言う信頼関係をどう活かすべきかという
自己意識の成立過程の再考、と言えるかも知れない。
遡れば、岡井隆さんの「場について」につながるし、
永田和宏さんの「普遍性という病」にもつながっている。
機会があれば、ぜひそのあたりにも踏みこんでほしい。


[437] 知識と良識 2003年02月20日 (木)

きのう、ここに書きそこねていたが、
読売新聞「うたの表情」の掲載日だった。
第4回。来嶋靖生さんの作品を鑑賞した。
通読はしていないが、歌集『峠』の一首。
以前から何か書きたいと思っていた歌だ。
午後、企画が1件、正式に進行しはじめる。
何人かの歌人の略歴をまとめながら、
ニューウェーブ以降の世代と言っても、
さして年齢に差がないのだと再認識する。
「題詠マラソン2003」の2首目を書きこむ。
題「輪」、コメントナンバーは、3558。
風媒社と電話でもろもろの打ちあわせ。
夜、歌稿と資料を交互に読み進めてゆく。



Klez等の名称で呼ばれる一部のワームは、
ワーム自身が、感染したパソコン上から
ランダムにメールアドレスを探し出して、
そのアドレスを「差出人」に設定して、
大量に自身のコピーを送信してしまう。
つまり「差出人」が感染者である確率は、
この場合、きわめて低いことになるのだ。
これは、メールサーバの管理レベルでは、
とっくに常識的知識となっているはずだが、
被害者でもあり得る「差出人」に対して、
警告を自動送信する無責任な管理者がいる。
最悪のケースでは、ワームを感知すると、
感染者をさらに増やす可能性があるのに、
そのままメールを「差出人」に自動返送する。
どう考えても、良識が感じられないのだが、
あるいは何か深い理由でもあるのだろうか?


[436] 外発的なモチーフ 2003年02月19日 (水)

午後、某社のKさんに電話取材をうける。
総合誌のことなど、雑談風にあれこれと。
風媒社の編集者と電話で打ちあわせをする。
まだ見えて来ないことがいくつかある。
松井茂さんから、1月19日に開催された
朗読会「方法詩とその周辺」のビデオが届く。
すこし観て、あとは後日ゆっくり観ることに。
さかいれいしうさんの朗読/パフォーマンスは、
たしかにみんなが書いたレポートそのもの。
Kさんから音楽教室の新聞を送ってもらう。
紙面で毎月作品を紹介してもらうことになった。
ハンドメイドの新聞で、あたたかい感じがした。
夜、入浴中、お腹が空いたなあと思っていたら、
かるいめまいを起こした。ん〜、空腹が原因?
本日の計測、体重59.6kg、体脂肪率19.5%。



深夜、「題詠マラソン2003」の1首目を書きこむ。
題「月」、コメントナンバーはすでに、3488だ。
作品のトーンも決まり、やっとスタートがきれた。
題詠を継続的に書きはじめてから8年が経っている。
はじめは「職人」みたいで嫌な感触をもったが、
このごろはあきらかに意識がかわっていて、
題という外発的なモチーフが、実は、
内発的=作家的必然に見えるモチーフと
質的にかわらないことをたしかめる場であると、
題詠についてそんな風にも考えているのだった。
理屈はともあれ、徐々に作品を進めてゆこう。


[435] 結社誌と情熱 2003年02月18日 (火)

歌誌「黒豹」第44号が届いている。
「吉田漱による『アララギ土屋文明選歌』ノート」
という、さいかち真さんの連載がはじまっていた。
吉田漱さんが土屋文明選歌欄から抄出した作品、
ならびに、土屋文明の「編集所便」の書写、
そこに、さいかちさんが註記を加えている。
こういう資料づくりの楽しみは理解できるし、
その貴重さについても理解はできるのだが、
それにしてもものすごい情熱だなあと思う。
誌面を提供する「黒豹」も、さいかちさんも。
結社誌のもつ意義をあらためて認識させられた。



家人もぼくも二人とも仕事がつまって来た。
この状態に入るとどうも生活の感覚が崩れる。
眠いとかお腹が空いたとかにかかわりなく、
さだめた時間だけ眠り一定間隔で食事をする。
しばらく機械のような日常がつづくことになる。
歌稿と資料を読み進める間に時間をとって、
すでにかなりスタートが遅れてしまっている
「題詠マラソン2003」の詠草を書きはじめる。
はじめの5題についていくつかメモをとってみる。
「木曜」というのが書きにくいなあと思ったが、
よく考えてみたら自分で出した題だった……。
あす、たぶん1首目くらいは投稿できるだろう。


[434] 100万円 2003年02月17日 (月)

終日、歌稿と資料を交互に読み進めてゆく。
夕刻、急ぎの用件があって家人と外へ出て、
戻ってみると留守電にメッセージがある。
……ですが、相見積をとってみましたら、
他社と100万円ほどちがっていました。
残念ながら今回の仕事は他社に……。
社名にも担当者にも声にも記憶がない。
そんなに差額の出る仕事してるの?
と、家人が笑っていた。してないよ。



謎彦さんのネット短歌時評「ネットの中の蛙」
結社誌「塔」3月号への出稿分が掲載された。
誌面に1か月先んじての更新となるようだ。
1月分から3月分までをあらためて通読する。
同調しきれなかった、と先に書いたように、
個人としての異論はそれなりに生じるのだが、
ネットのメディアとしての特質をまとめ、
コモンセンスの形成にも筆が向かうという
謎彦さんの慎重な筆致には納得している。
情報をいかに常識化=共有化するかは、
ネット短歌時評のはじめの課題であり、
入口が徐々にかたちをなしていると思う。
今後の展開にさらに期待して注目したい。


[433] 夕焼にあゆみ寄る 2003年02月16日 (日)

午後、いくつかの歌稿を熟読してゆく。
一連のパソコンの作業もすこし手をはなれ、
ようやく腰をすえて読めるようになった。
夜、吉浦玲子さんのメルマガ「とんぼ通信」、
第17号が届いたのでさっそく読んでみた。
辺見庸の短歌批判に対するある種のとまどい、
最新のメディア掲載の短歌を通じての所感、
等、いきいきとした同時代感がおもしろい。
とりわけ、辺見庸の発言をめぐる意見は、
とことんつきつめて考えてゆこうとすれば、
本来数十枚単位でなければ書けない内容だ。
これほど重いテーマをとにかく読者に手渡せる、
そこにもメルマガの一つの機能があると思う。



たゞ一歩この夕焼にあゆみ寄る/加藤かけい

夕刻の散歩のひとこまにも見えなくはない。
見えなくはないが、そういう読みはないだろう。
時間とともに滅ぶものの象徴としての「夕焼」か。
ニヒリズムへの傾斜にも見える「あゆみ寄る」は、
もしも「また一歩」であれば甘えた感じになる。
あくまでも「たゞ一歩」なところに句の核があり、
魅力のすべてがそこにあると言ってもいいか。
収録句集『夕焼』は1946年の刊行というが、
引用で読んでいるため、初出がわからない。
時代背景で読解の感触がかわるかも知れない。


[432] 吾妻の一語 2003年02月15日 (土)

埼玉県芸術文化振興財団から、
「恋うたの現在−平成百人一首」が届く。
先月もここですこしふれた話題だが、
彩の国さいたま芸術劇場・情報プラザで、
11日まで開催されていた展覧会の冊子。
現代歌人100人の自選1首と自歌自註、
それに書の写真と略歴が掲載されている。
非売品だが、内容的には一冊の本に等しい。
シュミット村木眞寿美さんの回想録風エッセイ、
『五月の寺山修司』(河出書房新社)が届く。
今年の五月四日で二十周忌になるのだった。
読売新聞の「うたの表情」の校正を完了。
早稲田短歌会のインタビューの校正を完了。
超長文だったためすこし見落としがあった。
編集スタッフにお詫びと訂正のメールを送る。
近々刊行の「早稲田短歌」第34号に掲載される



やってもやっても仕事があがらないのは、
呪いのせいかなあ、と家人が言う。
ぼくの仕事を言っているのかと思ったら、
さにあらず、彼女自身の仕事の話だった。
しかし、呪いってなんなんだよ……。
まるで「パン屋再襲撃」みたいだな。

かゞまりて吾妻の一語菫濃し/加藤かけい


[431] チョコレット 2003年02月14日 (金)

チョコレートとは言わずに、
チョコレットと言ったときに生じる
泡のようにはじけてはずむ感じがいいな。



近所で買ったケーキを提げて、
午後から家人とともに実家に顔をだした。
家に向かう途中でようやく気づいたのだが、
今年、両親の顔をはじめて見るのだった。
隣家の猫が知らぬ間に増えているらしい。
実家の玄関先でみゃあみゃあと七匹ほど。
ほとんど同じ顔の二匹がいる。兄弟かな。
夜まで、食べたり飲んだりしながら談笑。
母が新聞記事をいくつか見せてくれた。
塚本邦雄さんや春日井建さんに関するもの。
栗木京子さんのエッセイもあるらしいが、
それらはまだ整理してないのだという。
母は現代短歌についてまったく知らない。
それでも一度知った歌人の名前を忘れない。
知人が載った記事のようにストックしてある。
帰宅すると読売新聞からゲラのファックス。
早稲田短歌会からはインタビューの最終稿、
これはメールで届いていた。校正をはじめる。


[430] 不思議な音をきゝなさい 2003年02月13日 (木)

睡眠時間帯が朝へとかなりずれこんでいる。
一連のパソコンの作業も影響しているか。
午後から原稿。短歌、散文、こもごもに。
集中度が落ちてきたら書棚から本をとりだす。
しばらくして原稿に戻る。そのくりかえし。
夜になって、「短歌朝日」5・6月号の原稿、
作品7首をしあげる。編集部にメールで入稿。
まとめて作品を書いて、ストックとあわせて、
そこから7首を選ぶ。結果、ストックに偏った。
読売新聞の一首鑑賞「うたの表情」第4回、
600字をしあげる。これもメールで入稿した。
今回、収録歌集をもっていない一首で書いた。
連作の構成に影響をうけない状況での鑑賞が、
どんな風になるものか試してみたかったのだ。
本日の計測、体重59.8kg、体脂肪率19.5%。



塚本邦雄『風神放歌−加藤かけいの宇宙』、
ひさしぶりに手にとってみた。一九七九年刊。
塚本さんの「選」は、いつまでも色褪せない。
加藤かけいには、どこか川柳に通じるような、
社会的現実感がきわめて強い俳句が多いが、
ぼくの好きなのは、以下のような句である。

繭ふつて不思議な音をきゝなさい/加藤かけい


[429] 12日目のランナーたち 2003年02月12日 (水)

読売新聞朝刊「うたの表情」第3回の掲載日、
今回は久々湊盈子さんの一首をとりあげた。
出典は第二歌集『黒鍵』(砂子屋書房)。
午後、朝日新聞の書評のゲラのファックス、
校正とともに読みにくい箇所を噛み砕いた。
対象は長嶋有さん『タンノイのエジンバラ』。
夕刻、Eさんと電話。歌集のことなど話す。
夜、梨の実歌会の選歌をしてメールで送信。
未対応メールの数が徐々に減りつつあるが、
焼け石に水的な進行状態のような気がする。



「題詠マラソン2003」が盛んに進行している。
1日からのスタートなので、まだわずか12日目、
すでに完走者が続々と出はじめている。凄いな。
ぼくはまだスタートもきれないままでいる……。
多くの参加者が自分の作品をウェブにまとめたり、
あるいは感想をまとめたりしているようで楽しい。
どんな作品が残されてゆくのかにも期待するが、
何よりも参加者たちの、もしくは周辺の人たちの、
モチベーションの高まりが、見ていて楽しいのだ。
高ければ良いというわけではないが、少なくとも、
モチベーションの低い「場」で良い歌は出にくい。
このレベルでのオンラインの短歌の「焦点」が、
あといくつかパラレルに存在するようになれば、
さらに状況はステップアップすることになろう。


[428] 呼びよせないことば 2003年02月11日 (祝) 建国記念の日

昨日の午後から胃がむかむかしていて、
これは本格的に休むしかないかなあと思い、
むしろ積極的に気力を手ばなしかけていたのだが、
肩と背中が異常なほどこっているのに気づいて、
家人秘蔵の中山式快癒器を使ってみたところ、
あっと言う間にこりも胃もすっきりしたのだった。
パソコンの作業時間が過剰になったのが原因か。
しかもどうやらまだ休む時期ではないらしい。
もたついていたメール環境の整備を完了した。
午前から午後、遅れた仕事に手をつけはじめる。
夕刻、小雨のなかを一人でウォーキングに出る。
のちに義母と義姉と家人と四人でコメダ珈琲店へ。
夜、短歌のメモをいくつかかたちにしてゆく。
日記のアップを忘れたままになっていたので、
書いてあったメモを読みなおしてアップする。



ミニコミ誌「エセチカ」第3号に、
田中庸介さんが「イガイガ」という詩を書いている。
田中さんはいつも意味をとりやすいことばで詩を書くが、
なぜか(現代)詩論のコンテクストが呼びよせられて、
ぼくはときどきその「重さ」にとまどうのだった。
それがこの「イガイガ」ではすぅっと解消されて、
ことばが都市生活の水面にゆったりと浮いている。
全力で、浮いている、と見せているのかも知れない。
たとえば全体をつらぬく地下鉄の記述のかげには、
あきらかにあの1995年の事件が見え隠れする。
けれどことばは決して水面下にはのびてゆかず、
あくまでも水面にゆったりと浮いているのだった。
呼びよせないことばはどんどん加速してゆくが、
加速のうちに、呼びよせないことを意識させる。
抒情がどんなかたちで詩論がどんなかたちだったかが、
まるで一つの「思い出」のようにそこにたちあがる。


[427] 厭きはしないか冷蔵庫/わたし 2003年02月10日 (月)

昨夜、ラエティティア歌会の詠草を提出する。
午前から午後、400字の書評原稿をしあげる。
400字というのは、きっちり書いたつもりでも、
あそこがたりないとかここがむだだなあとか、
気になることが次から次へと生じるもので、
夕刻まであれこれさわってやっと脱稿した。
編集者にメールで入稿。朝日新聞の読書欄用。
読売新聞「うたの表情」のゲラが届く。校正。



結社誌「未来」2月号が届いている。
大辻隆弘さんの時評「松村発言を否定する」、
総合誌「短歌」12月号の例の文章をめぐって、
松村正直さんの「認識の浅さ」を否定している。
ニューウェーブを擁護しているわけではないが、
大辻さんがそこに何を見だしそこから何を得たか、
ひとつの自負として語られていて興味深かった。
久野はすみさんの未来賞受賞第一作「カステラ」、
自由奔放な感覚と定型の着こなしの巧さとが、
きもちのいいバランスをもって混在する20首。
私的空間の枠組みのなかに堕ちない強さもある。

いくつもの冷えた卵を抱いていて厭きはしないか冷蔵庫/わたし /久野はすみ
おしまいに片方ずつの靴下が残り途方にくれる夕暮れ


[426] 誰かが読んでいる 2003年02月09日 (日)

昨日、ここのアクセス数が80000を超えた。
70000アクセスから数えると45日ほどである。
1日あたり平均のアクセスは220弱という感じ。
読んでもらっているユーザに深く感謝したい。
たぶん気になって細かく調べてしまいそうなので、
アクセス経路の解析はここでは機能させていない。
どこの誰かはわからないが、誰かが読んでいる、と、
そんな風に考えて、継続のためのちからとしている。



昨日、実は、母親の誕生日だったのだが、
あちらもこちらもそちらも忙しい人ばかりで、
ちっとも都合があわない状態になっているため、
週末あたりに実家に顔を出す約束をしている。

睡眠している間もずっとパソコンを稼動させて、
メールデータのコンバートをさせているのだが、
50時間というのはさっぱり消化されない……。
やむをえないので、きょうは手書きで仕事をし、
家人のiMACにソフトをインストールする作業をし、
その間、マシンにずぅーーっと作業をさせていた。
まだまだ完了しないのだが、どうにか目処がつく。


[425] 案件がぐるぐる渦を巻いている 2003年02月08日 (土)

午後からFさんのオフィスで打ちあわせ。
デザイン関連の話をどこまでもひらすらに。
純粋なクライアントのいないデザイン議論は、
レベルがあがるもののきりがないと気づく。
数時間でぐったりするほど消耗した感じだ。
その後、風媒社のオフィスで打ちあわせ。
総合誌「短歌ヴァーサス」のことやその他。
打ちあわせのはしごはさらに消耗を加速する。
決めるべきことがいつまでもなくならない。
頭のなかで案件がぐるぐる渦を巻いている。



結社誌「短歌」2月号が届いている。
彦坂美喜子さん「現代短歌はどこで成立するか」、
連載33回目。前回に続き、歌集『甘藍派宣言』を
現代思想にかかわる意識から読み解いてくれている。
著者だってこんなに滑らかな自解はできないだろう。
次はそろそろ歌集『あるまじろん』に突入するのかな。

総合誌「短歌WAVE」の第3号が届いている。
興味を惹かれる記事はいくつもあったのだが、
なかでも、とりわけ、さいかち真さんの評論と
真野少さんならびに池田はるみさんの書評欄とで、
早坂類さん入交佐妃さんの『ヘヴンリー・ブルー』が、
あれこれとたくさん語られていたのがうれしかった。


[424] スタートダッシュで出遅れる 2003年02月07日 (金)

午前から午後にかけてサーバの最終チェック。
どうやら大きな問題は生じていないようなので、
昨夜からずっと考えていた掲示板の対応に着手。
デジタル・ビスケットの掲示板で試したあとで、
すごい勢いで稼働中の「題詠マラソン2003」を
別のサーバを経由して利用するようにきりかえた。
これでパラレルワールドの問題は生じないだろう。
五十嵐きよみさんに事情の報告のメールを書く。
夕刻から読売新聞「うたの表情」第3回のしあげ。
夜になって脱稿。600字。編集者にメールで入稿。

きのうからメーラーを新しいものにきりかえている。
前のメーラーから必要なデータをコンバートするのに、
どうやら50時間ほどかかりそうなので閉口している。
時間の経過したデータの大半を割愛してもその時間。
はじめはパソコンの処理能力の問題かとも思ったが、
そうでもないらしい。メールの量が多すぎるのだった。
データの快適な保管方法も考える必要がありそうだ。



そう言えば、「題詠マラソン2003」のスタートを
まだきっていないのだった。う〜ん。来週かなあ。
依頼のあった別作品を書く予定も入れているので、
ともかくそちらをしあげてからの参加になりそう。
すでにゴールしてしまった人もいるというのに……。


[423] ヌーアゴニアの眺め 2003年02月06日 (木)

午後から打ちあわせ。名古屋駅まで出かける。
セントラルタワーズの15階で待ちあわせをした。
窓からは名古屋の街の大半が見わたせてしまう。
考えてみれば狭い街なんだな、とつくづく感じる。
東京から二人、広島から一人。ラウンジで話す。
テレビ関連の企画。はじめての打ちあわせだが、
大筋がとんとんと決まってきもちがよかった。
詳細が決まり次第、こちらでも告知するつもり。
帰りにぼんやりして家人に頼まれた用件を忘れる。
帰宅後、ウォーキングもかねてもう一度外へ出る。
寒かったので歩く距離がずいぶん長く感じられたが、
街の眺めを思い出して、そうでもないか、と思う。



きのうから机に向かっている時間の大半を
サーバの仕様のチェックの時間にあてている。
掲示板でいささか不具合があったというので、
あれこれ調べてみたところ、ネットワーク上に、
システム変更前のデータが残像のように残って、
ある種のパラレルワールドが生じているようで、
どうもそれが事態をややこしく見せているらしい。
サーバ自体の問題ではないために手の出しようがない。
やがて時間とともに残像は消えて解決されるのだが、
めまぐるしく動く掲示板は待っていてはくれないし、
時間を待たずに方法を考えてみる必要がありそうだ。
今週はどうやらこの問題の解決に終始しそうな気配。


[422] 具体的に文字として 2003年02月05日 (水)

正午、sweetswan.comのシステムが変更になる。
予測していたように、昨夜からのコメントが消える。
変更後のサーバの仕様の確認をしているだけで数時間。
その後、掲示板を巡回して、動作確認などをしながら、
消えてしまったコメントを復元する作業にかかる。
変更にともなう予測外の問題がいくつかあるようだが、
全貌がはっきり掴めない。確認に数日はかかるだろう。
掲示板の書きこみはさしあたり順調に進んでいるようだ。
夕刻から打ちあわせの予定だったが、先方から電話、
インフルエンザにかかったという。キャンセルとなる。
お子さんからもらってしまったらしい。Rさんお大事に。
打ちあわせついでに行くつもりだった買い物に出かける。
ファックスのカートリッジとパソコンのLANに使うハブ。
家人用に購入した新しいiMACをオンラインにつなげる。
その後、深夜までサーバの稼動状況のチェックを続ける。
頭のなかの細胞か部品かをとりかえたような感覚になる。



掲載紙は未確認だが、読売新聞の「うたの表情」、
きょうの朝刊の歌壇俳壇欄に第2回が掲載される予定。
今回の対象は、玉井清弘さん第五歌集『六白』の一首。
何度か読んでいる作品でも、鑑賞文をまとめるうちに、
それまで考えていなかった角度からも何かが見えてくる。
やはり具体的に文字として意見をまとめることが大切か。


[421] オフ、のような一日 2003年02月04日 (火) 立春

きょうはオフと決めていたのだけれど、
結局、気づいたら歌稿を読みはじめていた。
以前から読む約束していたIさんの歌集原稿。
作品にチェックをしながら順にメモをとる。
のんびり楽しみながら読むつもりだったのに、
いつの間にやら編集者の感覚になっていた。
Kさんが加藤治郎さんの日経の連載コラムを
まとめて送ってくれた。ありがたいことだ。
読み逃したという話が聞こえていったのか。
第1回から順にじっくり読ませてもらった。
夕刻からsweetswan.comのメンテナンス。
一時的にパソコンから解放されるので、
ひさしぶりに家人と出かけることにした。
食事をして、お茶を飲んで、映画を観た。
S・スピルバーグの「マイノリティ・リポート」。
妙になじみのある展開だなあと思っていたら、
クレジットにP・K・ディックの名前が出た。
ディックの短篇が話のベースらしい。なるほど。
劇場を出たあとで、「あれ、かわいかったよね」
と、ひとりごとのように言うと、「スパイダー」
と、家人がすかさず見透かしたように言った。
夫婦だからか特殊な能力なのかは知らないが、
どうして「あれ」でわかるのかが不思議だ。



sweetswan.comのメンテナンスは無事完了。
ただ、明日の正午にシステムが変更になるので、
その先が無事にのりこえられるかどうかが問題。
今夜の書きこみはたぶん明日正午に消えてしまう。
予告はしておいたのだが、いくつか書きこみがある。
盛況な掲示板というのはそういうものなのだろう。
後の復元のためにコメントの記録をとる作業をする。


[420] 磯野家の暦 2003年02月03日 (月) 節分

きのう、テレビで「サザエさん」を見たら、
お約束どおりに、節分の豆まきのネタだった。
ぼくはいつからか豆まきをしていないけど、
磯野さんの家では何十年も毎年まいていて、
いつまでたっても小学校を卒業しない
カツオくんやワカメちゃんが笑っている。
時間がきちんと時間どおりに過ぎていれば、
二人ともそろそろ還暦じゃないのかな。
長谷川町子さんが亡くなっても、
キャラクターがずっと生きてるって、
考えてみたらすごいことかも。
予告までは見ていなかったけど、
来週は当然、バレンタインデーか。



午後、難航していた原稿の調整を完了。
あるいは一から書きなおすのが楽だったか。
夕刻、外出。日常的な用件をあれこれ済ませ、
帰宅したところで電池が切れた感じになる。
何をしようとしてもあたまがうまく動かない。
夜になってからいくらか元に戻りはじめたが、
明日はたぶん休みをとることになりそう……。

深夜、加藤治郎さんの「鳴尾日記」を読むと、
前川佐美雄賞についていろいろ書かれていた。
ながらみ書房のサイトをひらいてみると、
こちらでもすでに概要が発表されている。
何が飛び出すのか、楽しみな話である。


[419] ZZZZZZ…… 2003年02月02日 (日)

連日の睡眠不足がここにきて急に出たのか、
眠くてしかたない。仮眠をとってごまかす。
一日ゆっくり休みたいのだが、水曜日に、
sweetswan.comのメンテナンスがあって、
そのための設定変更やバックアップや
メンテナンス以後の対応を考えると、
準備しておくことがいろいろあり、
他の仕事をしながらそちらも進める
といったどたばた状態が続いているため、
ほとんど身動きがとれなくなっている……。



月刊短歌通信「ちゃばしら」2月号が配信されている。
サイズは86KB。あいかわらず凄いボリュームだ。
作品以外の散文だけを読んでいても、
編集人でもある井口一夫さん吉田佳代さんの
エッセイ風な短歌論が一方の柱となって、
五十嵐きよみさん神崎ハルミさんの
インターネットをめぐるメディア論が
もう一方の柱となるといった具合に、
過剰かつ均衡のとれた構成になっている。
後者の二論に対して、たぶん、ぼくは、
何か言及すべきなのだと思われるが、
いまのところ意見がうまくまとまらない。
すこしだけ時間をもらうことにしたい。
ただ、一点だけ。ぼくの活動について、
「誰も書かないなら、いずれ私が書く」
という五十嵐さんのことばには素直に感動した。
そういうことばに真摯にこたえるためにも、
誰にもいつまでも決して「捕捉」されないよう、
つねに新しい地平をめざしてゆきたいものである。


[418] 手紙、電話、テレビ 2003年02月01日 (土)

20代のときから世話になっていた美容師さんが、
体調が悪いからとしばらく仕事を休んでいた。
きょう、その美容師さんから封書で手紙が届く。
何の知らせなのかどきどきしながら読んでみると、
この春に出産の予定があり、休職するのだという。
実は悪い病気なんじゃないかと心配していたので、
一気にちからがぬけてしまった。元気でご出産を。

夜、田中槐さんから電話がかかってきた。
石井辰彦さんと松井茂さんが一緒にいるという。
築地での「朗読千夜一夜」の打ちあげ中のようだ。
石井さんからぼくにメッセージがあるというのだが、
その石井さんは電話に出ても日本語を話さない……。
いささかお酒を召した田中さん松井さんの話によれば、
先日の「三蔵2」の感想をめぐってのリクエストらしい。
30日付「世渡りジョーズ日記」の補足ということかな。
オペラも勉強して読まないといけないみたいだなあ。
ともあれ、いつかはリクエストにこたえてみたい。



深夜、スペースシャトル・コロンビアの事故が、
ニュースで報じられていた。しばらくテレビを見る。
大気圏再突入時、高度63kmあたりでの事故だという。
目撃者の撮影ビデオやNASAの記者会見が流れるうちに、
乗組員7人、絶望、が、死亡を確認、にかわっていった。
ニュースを見ていたら、眼がさえて、眠れなくなった。


[417] 162人のランナーたち 2003年01月31日 (金)

「題詠マラソン2003」エントリー最終日。
午後から夕方にかけてのかけこみ参加もあり、
夜9時の締切の時点で、参加者162人となる。
深夜0時をすぎていきなり書きこみがはじまる。
11月末日迄、これから10か月という長丁場だ。
3日で1首という計算。のんびりと走ろうかな。

夜、読売新聞のコラムの第2回の原稿を書きあげ、
編集者宛にメールで入稿した。600字の一首鑑賞。
深夜、組みゲラのファックスが届いた。早いなあ。
別件で、書きあげた原稿の調整が難航している。
あとから手を加えるのは、なかなかむずかしい。



結社誌「塔」1月号が届いている。
送付用の封筒がかわっているのに気づいた。
いつからかわっていたのかな。クレジットに、
「歌うたのしさ 読むよろこび」と惹句がある。
「読むよろこび」がいかにも「塔」らしい感じ。
河野裕子さんのインタビューが掲載されている。
生な感じでまとめられていておもしろかった。
小林信也さんの短歌時評「チャレンジする姿勢」、
いつまでもかわらず挑む姿勢は大切だと思うが、
新人という季節をすぎてしまった歌人にとっては、
コンクール=選考委員に作品を問う機会よりも、
非歌人を含めた広い読者に作品を問う機会こそ、
ほんとに求められるべきものではないだろうか。
謎彦さんのネット時評「インターネットの中の蛙」、
横書きで組まれた異色のレイアウトに目をひかれた。
短歌のネット時評は、あるいは結社誌初だったか。
意見には同調しきれなかった。視点は秀でている。
現在は謎彦さんの個人サイトに転載されている。
「塔」のサイトに掲載すればおもしろそうなのに。
それにしても、なぜ他ジャンル時評は終了したのか。
どう考えても視野が狭くなるような気がするなあ。


[416] 麦茶、眼薬、木曜、森 2003年01月30日 (木)

きょうは東桜歌会の例会。雪があがってよかった。
昨夜からメールとファックスで詠草が届きはじめる。
今月の題は、干支にちなんで「未」か「羊」である。
そうかそう言えばまだ一月だったのか、という気分と、
ああもう二月になるのか、という気分がこもごもに。
会に向かう途中、地下鉄の乗り換え駅のホームで、
大学時代の後輩にばったりと出会った。
懐かしい。ゆっくり話をしたかったな……。
急いでいて名刺を渡しそびれてしまった。
彼の名刺だけはなんとかもらうことができた。
不動産関連の仕事らしい。管理職の肩書きがある。
例会の参加者は14人。例によってばたばたと進行。
票の多少がはっきりと割れた。進行がむずかしい。
最近なんとなく詠草に「若い」感じが強くなった。
平均年齢をカウントしてみようかな、と思って、
会の途中にメモをとりはじめたのだが、ふと、
大顰蹙を買いそうな気がしたのでやめた。
二次会は4人。寒さが笑いでけしとんだ。



昨深夜0時をすぎて日付がかわったところで、
「題詠マラソン2003」の題が発表されはじめる。
ぼくの出題は「麦茶」「眼薬」「木曜」「森」。
文字の詠みこみが必須なので、簡単な単語で、
かつ派生的な利用がむずかしそうなものにした。
書けるかなあと心配になる難題も出はじめている。


[415] 地図の鉄道網のはつなつ 2003年01月29日 (水)

午後、半年ぶりにTさん夫妻と会う。
喫茶店で、談笑しながら近況を聞いた。
彼等が会社をおこしてすでに数年になる。
きついことだってあるだろうと思うのだが、
話に不況ということばが出ないので驚く。
その後、依頼する仕事の打ちあわせ、
時間にゆとりはあるが、内容が煩雑で、
結果的にぎりぎりになりそうな気配がある。
夕刻からはFさんのオフィスで打ちあわせ。
Fさんとは10年ほど前に仕事で組んだが、
実際に顔をあわせるのははじめてだった。
編集者が間にいたために電話もしたことがない。
純粋な初対面よりもかえって緊張を感じた。
こちらの仕事は、すでに時間がない上に、
内容はかなりややこしいものなので、
あきらかに苦戦が予想されるのだった。
デザイナーたちとこんなに一度に会うのは、
会社にいたとき以来かな。何年ぶりだろう。
夜、雪がちらつきはじめる。積もるのかな。



仕事の関連で日本地図をひらいていたら、
ついつい仕事以外のエリアに目が行って、
ああこのあたり一回も行ったことがないなあ、
とか、気になりはじめてしばらく眺めていた。
北海道の東側、青森・秋田・岩手、鳥取・島根、
九州のほとんど、それから沖縄に行ってない。
今年、どこか一つくらいは行けるといいな。

若者連れて芭蕉さまよふ北国の地図の鉄道網のはつなつ/塚本邦雄


[414] 過剰な綺麗 2003年01月28日 (火)

午後、読売新聞のコラムのゲラ。校正。
明日の朝刊の歌壇俳壇欄に掲載される予定。
紙面では、歌集という観点からは書かないので、
作品の出典が明記されないことになったが、
第1回の一首鑑賞の対象にした作品の出典は、
雨宮雅子さんの第八歌集『昼顔の譜』(柊書房)。
雨宮さんのきらきらした文体は、影を帯びると、
ことばの光度がさらにあがるような気がした。
朝日新聞「東海の文芸」のゲラ。校正。
明日の東海版夕刊の文化面に掲載される予定。
スペースの都合で細かくは書けなかったが、
休刊する「短歌朝日」についてすこしふれた。
島内景二さんの『楽しみながら学ぶ作歌文法』、
書評を脱稿。400字×5枚。「短歌研究」次号用。
さらっと読んだだけでおいたままになっていた
長嶋有さんの『タンノイのエジンバラ』、
あらためて読みはじめる。何か書いてみたい。
深夜、ファックスを新しいものにきりかえる。
本日の計測、体重59.2kg、体脂肪率17.5%。



先日から玉井清弘さんの歌集を読んでいる。
とりわけ何回もひらいているのは、
第四歌集『清漣』(1998年、砂子屋書房)と
第五歌集『六白』(2001年、ながらみ書房)。
玉井さんの歌は、ずっと、綺麗すぎるかなあ、
と感じて、どう受けとめていいか迷っていたが、
「綺麗」ではなく「すぎる」に注目すべきか。
稚拙ではだめだが、過剰な綺麗、は何かを生む。
すべての歌に、1970年代の何かが流れている、
と読めてしまうのは、ぼくの先入観によるものか。

曼珠沙華くずれとけたる野のほとりつめたき秋の水奔りゆく/玉井清弘


[413] 発表形態としてのウェブ 2003年01月27日 (月)

眠っていたら電話が鳴った。
出てみると編集者のKさん、
Kさん早起きなんだなあとか思って、
ふと時計に目をやるともう10時過ぎだった。
思いきり予定を寝すごしてしまっていた。
未明まで起きていたのがたたったか……。
某誌の作品依頼にメールで承諾の連絡をする。
きょうは別誌からも作品依頼が届いていた。
書きかけの朝日新聞「東海の文芸」の続き。
春日井建さんの歌集『井泉』(砂子屋書房)、
加藤栄子さんの詩集『林檎の期限』(詩学社)、
その他にもトピックスと俳句論をとりあげる。
400字で5枚半。今回から枠が200字ふえた。
読売新聞の歌壇俳壇のコラムを修整、再送。
むりやりに書きたいことをつめこんだので、
煩雑になっていたのをシンプルに整理した。
その他、仕事のメールを書きまくって、
どたばたしているうちに深夜になっていた。



その後どうなったのかなあと思って、
ひさしぶりに「批評空間」のサイトを見た。
時評とアーカイブがそのまま読める状態だ。
技術的にむずかしいことではないのだが、
継続的に掲載してあるのはありがたい。
半永久的に、というのは無理だとしても、
平均の掲載時間がもうすこしのびないことには、
ウェブは「発表形態」として認識されにくい。
ウェブの消失は、絶版と違って何も残らないのだ。
保存専用のサーバか、あるいは個別のCDか、
何か考えなければならない時期かも知れない。


[412] 報告とお詫び 2003年01月26日 (日)

きょうも午前から午後にかけて数時間、
sweetswan.comのアクセスが重くなる。
連日のことでどんよりとした気分になる。
障害が回避されたと判断できたところで、
管理系掲示板に報告とお詫びを書きこむ。
はっきりしたところはわからないのだが、
例の世界規模のインターネット障害が遠因か。
自前のサーバでないために事情が読めないし、
かと言って自前のサーバを維持していては、
時間をすべてそれにつぎこむことになる……。
ユーザの反応が柔軟なのが救いである。深謝。



総合誌「歌壇」2月号に掲載されている
第14回歌壇賞の予選通過者の名前を見ていて、
半数以上を知っていることに気づき、驚いた。
知っているかどうかは個人的問題とも言えるし、
良いとか悪いとかそういう話ではないのだが、
何かが臨界点を超えてしまっていると感じた。

吉浦玲子さんのメルマガ「とんぼ通信」第16号、
散文にいささか「私記」めいた感触が強かった。
自分に言い聞かせているような印象があった。
それはそれであじわいのあるものなのだが、
エッセイを列記する構成をとるのならば、
短歌時評ないし歌集評を組みこんだ方が、
メディアをうまく機能させられると思った。


[411] 夢の内側 2003年01月25日 (土)

昨夜、枡野浩一さんのウェブの
フロントページが消えているのを聞いて、
個人用につかっていたURLのメモ
すこしコメントを書きこんでアップした。
つながらないのはほんとに困るよなあ、
などと思っていたら、午後3時前あたりから、
こんどはsweetswan.comが異常に重くなる。
プロバイダの発表によると、原因は、
「上位回線の障害」ということだった。
つながることはつながるのだが異常に重い。
ユーザからのメールがいくつも流れてくる。
つながらないのはほんとに困るよなあ……。
深夜になってどうにか復旧したらしい。
データの消失がないかどうか巡回する。
大丈夫だとわかったらどっと疲れが出た。



きょうで【歌葉】が二周年を迎えた。
それにあわせて原稿を書いた、という、
加藤治郎さんの日本経済新聞のコラムを読む。
7面に掲載されている「プロムナード」。
タイトルは「歌葉という夢」とある。
2000年の初夏から2001年1月までの
加藤さんの、あの熱い感じがよみがえる。
夢みたいな話だなあと思っているうちに、
気づいたら、加藤さんの夢の内側にいた。
何かが実現するか否かは、物理的条件以上に、
意志の強さの問題だ、と教えられた半年だった。


[410] 絶対的な作為性 2003年01月24日 (金)

季刊川柳誌「バックストローク」創刊号が届く。
雑誌のカテゴリーとしては結社誌と言うべきか。
石部明さんが発行人、畑美樹さんが編集人。
石田柊馬さん樋口由紀子さんも奥付に名がある。
いわゆるブレーンのような存在なのだろう。
渡辺隆夫さんの「隣りはなにをするひとぞ」、
石田柊馬さんの「詩性川柳の実質」がおもしろい。
事前に参加メンバーを聞いて、なんとなくだが、
これといった方向性を出さないのかと思っていたら、
詩性川柳の「詩性」の問いなおし、のようなところに、
意外なほどはっきりと顔を向けていておどろいた。
まず、メンバー間の川柳観がどう噛みあってゆくのか。
そして、川柳の現在に向かって何を提示してゆくのか。
現代川柳を読む楽しみが、確実に一つ増えた。



同人誌「三蔵2」第二号が届く。
石井辰彦さん松井茂さんが短歌の連作を載せている。
石井辰彦さん「(踊る男)と(着飾る女)」、
書かれている内容自体はそれなりに掴めるし、
話法の感触が、踊る男と着飾る女との間で、
巧みにシフトされる展開を楽しんだものの、
読めた、という感覚がたちあがってくれない。
ぼくには、作者の意識がつながっているはずの
作品外部のコンテクストがうまく見えない。
折にふれて再読させてもらうことにする。
松井茂さん「★」、いわゆる「記号短歌」。
漢数字の「一」「二」「三」の三種の文字を
すべて一拍の音符にカウントして組みあわせ、
三十一音×五十首の連作を構成している。
あえて短歌のみを対象範囲とするならば、
加藤治郎や荻原裕幸の一時期の方法を純化した、
と考えておいていいのかも知れない。
ただ、三文字の組みあわせという作業的書法は、
加藤や荻原の文体がまだどこかに残していた
精神のかたちの描写であるという感触を払拭して、
書法の絶対的な作為性を顕在化させたと言えようか。


[409] 短歌総合誌の休刊 2003年01月23日 (木)

読売新聞の歌壇俳壇欄に短期連載するエッセイ、
第1回分を脱稿。メールで入稿した。600字弱。
掲載は1月29日から。毎週水曜掲載で計5回。
連載の総タイトルは「うたの表情」とした。
一首鑑賞というごく普通のスタイルをとる。
できるだけ多くの歌集を再読することで、
鑑賞対象の一首を楽しみながら探したい。
総合誌「短歌研究」2月号が届いている。
特集「文語体に口語を入れるとき」、
体験談的な短いエッセイを寄稿した。
総合誌「短歌朝日」が、5・6月号で、
休刊になることが決まったという書面。
とりわけ、先に誌面を刷新してからは、
期待が膨らんでいたのに、残念に思う。
しかし、短歌総合誌の休刊というのは、
いったいいつ以来のことだろうか?
もしや「日本短歌」あたりまで遡るのか。



二十一世紀の短歌は、場の問題からはじまるだろう。
と、あるエッセイに宣言するように記したとき、
すでにいくつもの「場」が動きはじめていたが、
それらもあるいは予兆だったのかと思うほど、
次々に「場」の大きな動きや揺らぎがある。
これから、短歌はどこへ行くのだろう?
と言うか、短歌はどこまで行けるのだろう?

虹が出てしばらくするとトラックが来てそれからはすべてが葡萄/荻原裕幸


[408] 透明性を帯びない音声化 2003年01月22日 (水)

昨深夜、「題詠マラソン2003」の参加者が、
ついに100人を突破して、さらに増えている。
参加締切は1月31日(金)午後9時。あと9日。
最終的に何人になるのか。楽しみなことだ。
日曜日の午後、うらわ美術館で開催された
朗読会「方法詩とその周辺」において、
連作「日本空爆 1991」をテキストにした
さかいれいしうさんのパフォーマンスのこと、
ウェブと電子メールでいろいろ伝えてもらう。
通常の朗読では完全な透明性を帯びてしまう
テキストが音声化される過程というものが、
その骨格をあらわにしていたようだ。
さかいさんが自身の掲示板に書きこんでいた
「れいしうは今から練習にナベもって出かけます!」
という一行を読んで、興奮してしまった。
最適のパフォーマーを得たのだと思う。



なんの菅野さんが、18日付のウェブ日記
どこかしら批判めいた、と言ったらいいのか、
微妙で婉曲なメッセージを書いているので、
総合誌「歌壇」2月号の五十嵐きよみさんの文章、
「インターネット歌会の現在」を再読してみた。
今後の歌会の展開にいろいろ躍起になっている、
ということはひしひしと感じられたのだが、
批判対象になるようなことは見えてこなかった。
なんのさんがいちばん言いたかったのは、
みんなが向上心のかたまりというわけじゃないし、
向上心と教育とを中心にした世界観だけでは
語りきれない大切なものがいくらでもある、
特にインターネットには、ということかなあ。
それを誰も否定してはいないと思うのだが……。


[407] 不安げな二つの人格 2003年01月21日 (火)

午前、シンプルな原稿を1件、ファックスで入稿して、
午後からの読書会にあわてて飛びだすことになった。
テキストは復本一郎『俳句と川柳』(講談社現代新書)。
何回か読んだテキストなので、簡潔にレポートする。
歴史記述などの啓蒙的な部分には共鳴できるのだが、
現在の俳句と川柳に対する認識がかなり偏っていて、
説得力を大きく欠いているというのが共通の感想。
ぼくの考えでは、大きく言って二点問題がある。
一つは、生きた文芸ジャンルについて考えてゆくには、
現在を起点に、遡って歴史を考える必要があるのに、
歴史をはじめに語り、そこから現在を規定したこと。
もちろん時間の順序で言えば歴史が先にあるのだが、
歴史が現在における認識だという観点が稀薄だと思う。
もう一つは、「切れ」の構造を説明するにあたり、
俳句の外部の論理の文脈に一切つなげていないこと。
俳句と川柳とを包括的に考えようとするならば、
二ジャンルよりも大きな視点が必要になるだろう。
詩歌の修辞論としての視点が導入されなければ、
俳句の本質が「切れ」であるのだとしても、
俳人以外に説明されたことにはならないと思う。



早坂類&入交佐妃『ヘヴンリー・ブルー』再読。
コラボレーションについてすこし考えていた。
コラボレーションの相手は「他者」なのだろうか。
むろん自己ではない他人であることにはちがいない。
が、相互理解を経て共同作業に入ってしまうとすれば、
あなたとわたしとは鏡に映ったようにそっくりになる。
極端に言えば、そこには人格が一つしかなくなる。
コラボレーションが発光しはじめるのは、
共有したか否か確信を得られないままに、
二つの人格が、ぎりぎりの譲歩を見せた地点で、
不安げにとなりあわせとなるときなのかも知れない。
二人の作家は、姉妹みたいに親しい印象があるが、
作品同士はつねにはじめて出会ったときの表情だ。


[406] 雀雀雀雀雀雀雀雀…… 2003年01月20日 (月)

ベランダの雀の数が8羽ほどになったようだ。
1羽ごとの区別がつかず、正確に数えられないが、
餌をやりにベランダに出ると、眼前の電線に、
きちんと隊列を組んで待っているのがかわいい。
冬だから餌を、というつもりもあったのだが……。
暖かくなったら終了するつもりなのだが……。



書評用の資料をメモをとりながら読み続ける。
コラム用の資料をメモをとりながら読みおわる。
明日の読書会のテキストを再読しおわる。
読むものばかりであたまがいたくなる。
どうしても見つからない書類があって、
部屋中をひっくりかえしているうちに、
なにがなんだかわからない状態になる。
夕刻から風媒社で打ちあわせをする。
「短歌ヴァーサス」創刊号の事務系のまとめ、
さらに、第2号の企画についてあれこれと。
オフィスを出たらすでに深夜に近かった。
インターネットに関連する企画が、
このところいくつも動きはじめている。
深夜、未完の企画のアイデアを書きだす。
周囲の仲間たちの様子を見ていると、
昨年までの動きとはすこし感触が違い、
オンラインをメディアとして捉える、
そんな傾向が強まりつつあるようだ。
実に頼もしい感触をうけている。


[405] 文体の透明性 2003年01月19日 (日)

まるで精神が精神に語りかけているように、
風景や感情がリアルに伝わってゆく/くる。
短歌を読みなれたり書きなれたりしたある時期、
文体のこういった「透明性」を感じることがある。
けれどこの透明性は、作者と読者が特殊な「場」で、
伝達のための障壁のない「場」で対峙したとき、
特殊なできごととして生じているのだと思う。
書く人がこの透明性を活用しない手はない、が、
書く人がこの透明性を指標にするのは危険だ。
演技のすごく巧い俳優、歌のすごく巧い歌手は、
観客にとめどなく涙を流させることがあると同時に、
別の観客をどこまでも醒めさせてしまうこともある。
短歌にもそうした現象はおのずと存在しているだろう。



あれやこれやとメールを書いたり、
資料を読んだりしているうちに一日がすぎる。
タイムスケジュールを何度組みなおしても、
一日でできることはたかが知れているなあ。
睡眠時間を削ると裏目に出ることも多いので、
そこそこは眠ってあくせく作業するしかない。
北溟社「短歌WAVE」の「短歌☆プラネット」、
第3号用の選と選評を編集部にメールする。
刊行が遅れている様子でのんびりしていたら、
ぎりぎりになってしまったのだった……。
今回もいくつかの楽しい作品に出会えた。


[404] ヘヴンリー・ブルー展 2003年01月18日 (土)

早坂類&入交佐妃によるコラボレーション作品集、
『ヘヴンリー・ブルー』の展覧会が開催される。
作品集のオリジナルプリントが展示される他、
会場番をする著者たちにも会えるのだという。
2月6日から11日まで、6日間の日程となっている。
午前11時から午後7時半(最終日は午後5時まで)。
会場はGallery Kowa(同潤会青山アパート5-104)。
このところ連日、イベントの告知を書いているが、
いずれも東京/周辺。引越したくなるなあ……。



午後から風媒社のオフィスで打ちあわせ。
総合誌「短歌ヴァーサス」創刊号の構想が固まる。
ようやく本格的に動きはじめることになった。
オフィシャルに発表できるのは来月あたりか。
夜、きょうが土曜日だったことを思い出して、
販売店で日本経済新聞の夕刊を買い求める。
加藤治郎さんが連載をはじめたと聞いたまま、
読み逃していて、すでに第三回となっていた。
コラム「プロムナード」、表題は「青春五十年」。
俵万智さんとの交流や自身との比較を話題の軸に、
1980年代の短歌活動をふりかえっている。
「全国の書店への流通が期待できない
 歌集専門出版社から本を出して、
 ポップになろうなんて愚かだった。」
というフレーズがやけに胸にしみわたった。
あのときそれは「愚か」ではなかったはずだ。
それを「愚か」と言うことが可能になるほど、
短歌をめぐる地磁気のようなものが変化した、
というのがこの15年だったのだと思う。
変化の要因でありその中心にいた一人が、
加藤治郎なのだというのは言うまでもない。


[403] 音としての記号短歌 2003年01月17日 (金)

ひさしぶりにあたたかな気候の一日だった。
阪神大震災から8年というニュースとともに、
東海大地震を危惧するニュースが流れた。
近年やけにリアルな警戒感がただよう。
寒さに負けて、このところ怠けていたが、
午後、家人とウォーキングに出かける。
途中、パソコンショップに寄って、
LANの組みかえ用のツールを物色した。
近々マシンとOSとファイルの大掃除をする。
それがうまくかたづいたらDSLに移行予定。



松井茂さんたちが企画している朗読会、
「方法詩とその周辺」の第3日が、
うらわ美術館・視聴覚室において、
19日(日)午後2時からおこなわれる。
参加無料、当日先着順で、定員は50名。
オファーがあって作者としても驚いたのだが、
テキストの一つに「日本空爆 1991」がある。
「▼」がずらずらとならぶあのテキストが、
そのときに「朗読」されるのだという。
足をはこべそうにないのがとても残念だ。
いったいあれがどんな風に「音化」されるのかな。


[402] 給水所のオープン 2003年01月16日 (木)

彩の国さいたま芸術劇場・情報プラザで、
展示会「恋うたの現在−平成百人一首」が、
1月11日から2月11日まで開催されている。
財団法人埼玉県芸術文化振興財団の主催で、
現代歌人100人が、色紙等を出品している。
実はぼくも出品させてもらっているのだが、
筆が苦手なのでペンで書いた邪道の色紙……。
都合で展示会には行けない可能性が高そう。
100人の書の写真と自歌自註とを収めた
オリジナルの冊子をつくるらしいので、
そちらを見るのを楽しみにしている。



「題詠マラソン2003」の参加者が75名を超えた。
きょうから「題詠マラソンBBS」もオープンさせ、
100題の決定という大仕事が残っているものの、
本番のスタートの準備は順調に整いつつある。
真夜中に2件、あたまのいたくなる話を聞く。
事態がのみこめずにしばらく考えこんでしまう。
ともだちにはちからを貸したいと思っていても、
役に立てることって意外なほどすくないな……。
本日の計測、体重60.8kg、体脂肪率18.0%。


[401] 赤紙がきたのかなんという薔薇 2003年01月15日 (水)

煙草を喫うので、朝も昼も夜もずっと、
換気用に仕事部屋の窓を開けている。
そのおかげで寒くてしかたがない。
きょうは冷えこんでいるのでなおさら。
キーを打つゆびもかたくなっている。
寒いね、みんなですき焼きでもしよう、
というメールをともだちに流すと、
鍋奉行めいたメールがもどってきた。
しらたきとおにくをちかづけちゃだめとか。
しめはおもちかうどんかでもめてみたいとか。
読んでいたら不思議にあたたかくなってきて、
なかなかはかどらない仕事が進みはじめた。



岡田幸生さんの「なんという薔薇日記」が、
今月いっぱいで閉じられることになるらしい。
すでに年末にやめるようなことを匂わせていて、
そうは言っても継続されるかもと期待していたが、
「赤紙がきたのかと思った掲示板」
を読んだ範囲ではほんとに終了する気配だ。
残念。ただ、きっと、岡田さんの文章には、
どこかでまた別のかたちで出会えるだろう。
一昨年の4月20日付で書いてもらった
歌集『永遠青天症』の鑑賞文については、
今後もウェブで大事に保存するつもりでいる。


[400] 内部に外部にやがて暗部に 2003年01月14日 (火)

朝、マンションのお向かいさんが引越をしていた。
特に親しいわけではないのだが、ちょっと淋しい。
賃貸は、やはりそれなりにいれかわりがあって、
おなじマンションに四年半も住むともう古株らしい。
午後からRさんHさんたちのオフィスで打ちあわせ。
コンセプトの確認、調整、文字数の計算、その他。
ほんとにかたちになるのかが不安だった時期を超え、
企画に手ざわりが生じると、別の不安がやって来る。
ものを手にとる日まではたぶんそんなものなんだろう。
帰りがけに家人と待ちあわせ、食事と買い物をすませる。
夜、打ちあわせ内容の整理をして未確定事項をまとめる。
原稿のための資料を読む。数人のウェブ日記などを読む。



川野里子さんの第三歌集『太陽の壺』(砂子屋書房)を読む。
川野里子だし第三歌集だし歌数が400首を超えているというし、
読んだらきっと圧倒されるだろうな、という予想をした。
予想とはどこか反して、すっきりとした印象があった。
加えて、いささか文体が不安定だという印象もあった。
何がそうした印象につながるのだろうと再読三読してみると、
副詞句、オノマトペ、リフレインの多用といったパターンが、
構成の要所要所に見られる。どうやらそれが要因らしい。
第二歌集『青鯨の日』はどうだったかと思い、再読。
たしかに第二歌集にも傾向はすでに見えているものの、
『太陽の壺』ほどにはきわだってこないのだった。
母などをあつかう主題系の構成のかげにかくれがちな、
この文体の微妙な変容が注目点なのではないかと思った。
端的に言って、「失敗」もすくなからず見うけられたが、
以下のような、試行が結実を見せた作品は魅力的だ。

ざらざらとざらざらと雨は降りてをりからだの内部に外部にやがて暗部に/川野里子
子は育ち子はこの家をはみだすか夜ごとみしりと寝返る音す
神保町に霙降りをり神保町の虚言しつとり濡れて降り積む
わらしべ長者の藁のいつぽん秋葉原のホームに落ちゐてきらんと光る
ありがたうありがたうありがたう水銀粒ほど母縮みゆく


[399] Nをさす方 2003年01月13日 (祝) 成人の日

午後、義母と義姉夫婦と家人とともに、
春日井市まで猫の法事にでかける。
法事とは言っても、納骨堂に行って、
遺影に挨拶をしてくるということなので、
とりわけこれといった決まりはない。
納骨堂のなかにずらずらっと並んでいる
他家のペットの遺影を眺めたりもしていた。
行き帰り、晴着姿のグループを何組か見る。
成人式なのだろう。みんなが笑っている。
いま成人式をむかえる人たち、ということは、
ぼくが二十歳のときに生まれた人たちなのか。
複雑な心境、というか、なんというか……。



このところ、ニュース系のテレビ番組を見ると、
大なり小なり何らかの北朝鮮特集を組むのがめだつ。
あきらかに北朝鮮ブームだと言ってもいいだろう。
どこの番組だったか、北朝鮮の百科事典を入手して、
その内容を紹介していたのがとても興味深かった。
ただ、日本人の激怒か嘲笑をさそうだけの特集もあり、
本質からやや逸れた「北朝鮮弄り」がひろがっている。
どうして報道はすぐに過剰になってしまうのかな。

磁石の針Nをさす方うすやみに雪ふりつむとまどろみてをり/春日井建


[398] 良質な違和感 2003年01月12日 (日)

きょうはすこしのんびりしようかなと思いながら、
いくつかの企画の準備をしていたら日が暮れて、
さらには夜が更けていったのだった……。



黒瀬珂瀾さんの第一歌集『黒耀宮』(ながらみ書房)を読む。
何か「異物」を、短歌というフィルタを通して手にしたときの
落ちつかなさでもあり新鮮さでもあるような違和感の質が、
井辻朱美さんの歌集『地球追放』を読んだときの感触に似ている。
黒瀬さんが短歌にもちこんだ異物の正体がはっきりするのは、
たぶんまだこれからかなり先のことになるのだろうけど、
さしあたりは、幻視や貴種流離といったことばでも語れる
以下のような作品に、特徴を見ることができるかも知れない。

 The world is mine とひくく呟けばはるけき空は迫りぬ吾に/黒瀬珂瀾
 手に負へぬ獣が腕に住むことを出口はるかな地下街に思(も)ふ
 違ふ世にあらば覇王となるはずの彼と僕とが観覧車にゐる
 君がゐる精神世界には雪が降りつつ僕にやさしい五月

幻視や貴種流離、日常のことばで言ってしまえば「妄想」だが、
その妄想のたちあがり具合に「現実への憎しみ」の感触がないのだ。
ここはたぶん評価の分岐点になるんじゃないかと思うけれど、
憎しみの感触からたちあがってゆく妄想の類というのは、
ぼくの考えでは、現実逃避のバリエーションであって、
その人がもつ現実の困難を都合よく解消する一方法でしかない。
その点、黒瀬さんの妄想は、素直な「こころの鏡」という気がする。
感情移入をはたらかせやすくて、こころの飛距離がのびるのだ。
審美(耽美と書くと誤解を招きそうなので審美)的な趣味に
深入りしすぎている作品には小首をやや傾げたところもあるが、
以下のような短歌史的技巧を駆使した作品も豊富にあり、
しっかり楽しめる一冊にしあがっていると思われた。

 海岸線を女体と思ふ一瞬を地図に見て旅組みてゆくかな/黒瀬珂瀾
 いづれ病む精神を抱き歩みたり雨後に裂けたる無花果の下
 儚(はかな)しといふはけなげに囁くといふことである 君に降る雪


[397] イラストによる短歌鑑賞 2003年01月11日 (土)

文芸誌「教育文芸みえ」20周年記念の文芸懇話会へ。
ひさしぶりに近鉄に乗って、三重まで足をはこんだ。
遠く山脈が背景となる車窓の風景を小一時間楽しむ。
津新町駅前の会場に行くと玄関が閉じられていた。
不思議に思って、玄関横の小さな入口から入ると、
玄関ホール自体が結婚式用の教会になっていて、
ちょうど式の真っ最中だった……。びっくり。
スタッフの人たちと談話しながら昼食をとって、
午後からが文芸懇話会の本番。出席者60名ほど。
清水良典さんとともに、講演と掲載作品批評をする。
例の「純文章」をめぐる清水さんの話がおもしろかった。
ぼくは、予定していた1995年以降の短歌シーンについて。
懇話会ののちの懇親会では、大辻隆弘さんをはじめ、
地元の歌人や詩人たちとゆっくり話をすることができた。
思いがけないほどの熱気にふれられた。楽しい会だった。



穂村弘+井筒啓之『ブルー シンジケート』(沖積舎)を読む。
読む、と言うか、見る、と言うべきか。二人の歌画集である。
何度も読んだ穂村弘の作品が、別の表情を見せていた。
これもコラボレーションには違いないわけだが、
井筒啓之がイラストで展開する穂村弘作品の鑑賞集、
と表現するのがより正確なのではないか、と思った。
井筒さんはほんとに丁寧に作品を読んでいるし読めている。
これからのコラボレーションの水準に影響を与えるだろう。


[396] いつから「現在」なのか 2003年01月10日 (金)

ベランダにくる雀たちが5羽にふえている。
慣れたせいなのか、警戒心もうすれたらしい。
ときに室内に向かって何かを求めるように囀る。
餌を出すのは朝だけなのだが、昼と夕刻にも囀る。
読売新聞の歌壇俳壇欄にコラムの執筆を依頼された。
短期連載で、今月の29日から、毎週水曜日、全5回。
作品鑑賞のコラムなので、楽しみながら書けそうだ。



あす、三重の文芸誌から依頼された講演をするので、
終日、とっておいたメモをシンプルな原稿にする。
定番的に「短歌の現在」について話す予定だが、
そもそも「現在」とはいつからとするかを考える。
1995年以降、という括りが成り立つのかどうか。
そこで括るとしたら、その前の括りはどうなるか。
あれこれ考えながら、1972年以前、1995年以前、
そして1995年以降という構図を描きだしてみる。
いずれ文章にもまとめてみようと考えている構図。
軽井沢あさま山荘事件とか地下鉄サリン事件とか、
社会的事件をメルクマールにすることは可能だろうか。
ものさしの一致/統一が求められた時代、
ものさしが多様化して崩れ個人に向かう時代、
ものさしの一致を問わないままに連携する時代、
という感じで括ることができそうな気がするが……。


[395] もし100人が、 2003年01月09日 (木)

枡野浩一さんの『日本ゴロン』を読んでいて、
あらためて次のような一節に目をとめる。
『ますの。』とか『君のニャは、』といった
タイトル系/固有名詞系の修飾句読点の話。

 世紀末のムード漂う「。」は
 そろそろもう古くなってきて、
 これからは二十一世紀の予感を感じさせる
 「、」の時代じゃないか。


これが書かれたのは1999年の秋なので、
さていまはどうなのかと考えてみたのだが、
古びるかも知れないと思っていた「。」が、
「、」の存在によって「正攻法」に見えるため、
この事態はちょっと複雑化したようにも思われた。
今後さらに第三の記号が流行するとおもしろそう。
「☆」とか「/」とか「・」とか「( )」とか。



夕刻、編集者のOさんに電話を入れる。
ちょっとしたオファーがあってのやりとり。
楽しそうな話なので、ともだちに相談して、
とりあえず構想だけ大きくふくらませてみる。
かたちになるとうれしいけど。どうなるかな。
夜、「題詠マラソン2003」の参加者56名に。
もし100人が、完走したら、10000首だよなあ、
などと妄想をめぐらせる日がつづいている。
参加締切は1月31日(金)。あと22日。


[394] 現代不惑考 2003年01月08日 (水)

きょう、8日付の朝日新聞の朝刊の
コラム記事「おとな新世紀2・現代不惑考」に、
記号短歌と呼ばれた作品1首とコメントが載る。
インタビュー系の記事は誤解を招く可能性大で、
どこか落ちつかない気分になるものなのだが、
淡々とした記事の文体にちょっとほっとした。
午後、Iさんから企画についてのメールがある。
正月をまたいで話を進めていたものだが、
かたちになりそうな気配が濃厚になる。
オンラインでの新しい展開が期待できそう。
編集者のMさんから企画の資料がとどく。
昨年のうちに郵便で投函したらしいのだが、
年賀状がすべてに優先してしまうのかな……。
ともあれ、新しい仕事の資料に目を通すと、
知らない世界がひろがっていてどきどきした。



短歌誌「合歓」第22号を読む。
久々湊盈子さんの発行している「合歓」は、
年二回刊で、結社誌のフォルムによる個人誌、
という呼び方をしてみたくなる誌面構成である。
メンバーの作品・評論・鑑賞・エッセイの他に、
吉野裕之さんの評論とか
雨宮雅子さんのインタビューとか
水原紫苑さん大辻隆弘さんの招待作品とか
長澤奏子さんの俳句鑑賞のコラムなどがあって、
かなり自在な誌面づくりを展開しているのが楽しい。
A5サイズで56ページの冊子。頒価は500円。
あきらかに「読んでもらうための価格設定」だ。
自己主張と読者への配慮のバランスがうつくしい。

まっすぐにもの言うゆえに疎まれて陽に透けながら紅蜀葵咲く/久々湊盈子
ほんの数歩あるいただけで実在が薄らいでゆく僕は気がする/大辻隆弘


[393] 年末年始の刊行 2003年01月07日 (火)

午前、家人と日常的な所用で外出。外で昼食。
午後からRさんHさんたちのオフィスで打ちあわせ。
昨年から動きはじめていた雑誌創刊の企画である。
昨秋に創刊する予定が、不測の事態だらけで遅れた。
遠からず予告みたいなものを出せるかと思っている。
何時間も続けてしゃべりまくって、声がかすれた。
帰宅時、義母と義姉と家人と四人でお茶を飲む。
夜、打ちあわせで決まった大枠を整理してみる。
漏れがないかどうか。これでいいのかどうか。
まだまだ細かいつめが山ほど残っているな。
深夜、「題詠マラソン2003」の参加者が46名に。
人数、どこまでのびてゆくのか、楽しみである。



年末年始、第一歌集がいろいろ届いている。
いずれここでもコメントしようと思っているが、
いずれと言っていると流れてしまいそうなので、
おもしろいな何か書いてみたいなと思った歌集の
タイトルを先にあげておこう。とりあえず三冊。
コメントは折を見て書くことにする。順不同。

○黒瀬珂瀾歌集『黒耀宮』(ながらみ書房)
○広坂早苗歌集『夏暁』(砂子屋書房)
○錦見映理子歌集『ガーデニア・ガーデン』(本阿弥書店)

そう言えば、年末年始の刊行というのは、
これまであまり多くなかったような気がする。
これは何か発想の大きな転換があるのだろうか。


[392] 新しい風物詩 2003年01月06日 (月)

午前、休みが明けたんだなあ、ということを
テレビを見ながらのんびりと感じていたが、
もっとはっきりそれがわかる事態がやってきた。
午後からウィルス/ワーム関連のメールの嵐となる。
きょうの分だけで50通を超えているのだった。
正月の間、ウィルス/ワームがしずかだったのは、
感染者がパソコンをたちあげてなかったからなのか。
休み明けで急ぎの連絡のメールも多いから、
メーラーを落としておくわけにもいかないし、
作業中に次々とウィルス/ワームが届いて、
その都度なにかしらの手当が必要になる。
年始の新しい風物詩か、とはじめは笑っていたが、
夜にはどうにも笑えない分量になっていたのだった。



あす、こみいった打ちあわせがあるので、
そのために部屋中をひっくりかえしながら、
あれこれと関連資料を読みまくってメモをとる。
と言うか、昨年からひっくりかえったままの資料を
さらにひっくりかえしていたと言うべきか……。
「題詠マラソン2003」の参加表明が続々と。
五十嵐きよみさんとメールであれこれ打ちあわせ。
テンションがあがり気味になるのを抑えて、
さらに新しい企画について考えをめぐらせる。
今年のオンライン企画は、まちがいなく豊富になるし、
うちいくつかはかなり白熱するだろうと予測している。


[391] 大道具係 2003年01月05日 (日)

新年のBBSへの書きこみ用に、と思って、
企画/サポートしている「場」として
自分がかかわっているサイトを整理したら、
かなりの数になっていたので、一覧にして、
それだけで1ページにまとめてみた。
ウェブの「サポート」という立場は、
コーディネーターでもなければ、
プロデューサーでもないし、
コラボレーションの相手とも違う。
アドバイザーというのはときどき正確だが、
実質的には「大道具係」が近いのかも知れない。
ウェブのコンテンツはまだまだスタイルが不安定、
今年もこうしたかたちでの模索をつづける予定である。
というわけで、夜中に、五十嵐きよみさんの企画、
「題詠マラソン2003」のBBSをたちあげた。
これが今年のサポート企画の第一弾となる。



巷の正月休みは大方きょうで終るらしい。
実質的な休みを一日もとらなかったので、
どこかで数日まとめて、というつもりだが、
正月の反動はたいてい一か月ほどつづくので、
早くても二月以降になりそうな気がするな。
気づいたらすでに2004年だったとか、
そういうことがないように祈りたいものだ。


[390] 三日 2003年01月03日 (金)

元日はずいぶんおだやかな気候だったので、
外を歩いていてもきもちよかったのだが、
きのうはウォーキングに出て耳が痛かった。
きょうは雨も降っていたので家に閉じこもる。
あすはさらに冷えこむらしい。困ったな。
正月に便乗して、お酒もすこし飲んでいる。
きちんと毎日歩かないといけないのだが……。
半日休んで半日は仕事という感じの正月。
幸い、6日が仕事はじめという場所が多いので、
その間に進めべきことをすこしは進めておけるか。



大晦日に届いた結社誌「短歌」1月号を読む。
彦坂美喜子さんの連載「現代短歌はどこで成立するか」、
今回で32回目。歌集『甘藍派宣言』(1990年)の時期の、
現代思想と短歌観との確執について分析がなされている。
評価を是としようが非としようがそれは構わないので、
テクストを共有する人の読解をともかく一度読みたかった。
彦坂さんの文章で、それが実現したのがうれしい。
方法論というのは、作者に自覚できないうちが旬で、
次々に変化してゆくことが望ましいのだが、
読者に届いたというだめ押し的な実感がないと、
文体のどこかに「過去」を残したままになりがちだ。
この文章は「過去」を完全に断ち切るきっかけになりそう。


[389] 元旦/元日 2003年01月01日 (祝) 元日

元旦や暗き空より風が吹く/青木月斗

元旦を元日の意味で用いるのは誤り、
元旦は元日の朝の意味である、というのは、
お正月の「蘊蓄披露」の定番になっている。
そう言われてみれば、たしかに「旦」の字は、
水平線にのぼる朝日のようにも見えてくる。
しかし昨今の「誤用」の積み重ねのせいか、
元旦は元日の意味で用いられることもある、
とあっさり記述している歳時記もあるようだ。
しかししかし、青木月斗の句を読む場合、
やはり元旦は厳密に元日の朝でなければ困る。
でないと、元日の天候を描いた句に読めてしまうし、
もしくは、青木月斗の心象風景にも見えてしまう。
心象だとすると、まるでおみくじの託宣みたいだ。
初日の出のうつくしさをめでる人々をよそに、
そのすこし前の暗い空をめでる青木月斗の
かすかな「ずらし」のこころを読みとりたい。



夕刻、家人とウォーキングに出たとき、
昨夜初詣に出かけた寺から鐘の音が聞こえた。
それが、連続で、何度も何度も鳴るのだった。
昨夜ぼくたちが撞いた除夜の鐘とおなじ間隔。
ふだんほとんど鐘の音を聞かないお寺なのだ。
まさかとは思うが、元日の夕刻にも除夜の鐘……。
「人の煩悩って百八あるっていうよね」と家人。
「うん、まさか、これ、除夜の鐘のつづきかな」
「もしかして人の煩悩がふえたからってこと?」
「……」
そんなわけはないだろう、とは思うものの、
たしかに、人の煩悩がふえたには違いないかも。
いつまでも鳴りつづける「除夜の鐘」を聞きながら、
それでもまだ消えそうにない現代人の煩悩について、
ぼんやり考えてみた。なるほど煩悩にみちていそうだな。
ちなみに、元日の名古屋は、雲一つない快晴であった。


[388] ふりかえる/ふりかえらない 2002年12月31日 (火)

「31フォーラム」で募集をした
【オンライン短歌2002年の収穫】、
計18件の回答を得てアンケートを完了した。
昨深夜、シンプルに集計して、データを掲示した。
重複回答がかなりあったので、この結果は、
回答者にとって見慣れた風景かも知れないが、
風景がひとつのかたちになって、はじめて何か、
そこに浮かんでくるものがあると考えたい。
鬼が大爆笑しそうな話だが、2003年12月にも、
できれば同じ企画を開催するつもりでいる。



昨日は仕事部屋の資料整理をひたすら進めたが、
やはり、予想通りに、絶望的な状態が続いている。
大晦日となったので、できるところまでやる、
という感じに落ちついてしまいそうな気配……。
午後、家人とウォーキングに出た時点でほぼ断念。
本日の計測、体重59.8kg、体脂肪率17.0%。

今年の自分の活動をふりかえってみようと思い、
項目の一覧をあれこれとメモに書き出してみた。
読んでみると、半分以上はここに書いたことだし、
現在進行中の企画があまりにもたくさんある。
この際、自身のことは、あえてふりかえらず、
2003年に突入してゆきたい。良いお年を。


[387] 大掃除と功名心 2002年12月29日 (日)

きょうが今年最後の可燃ごみの収集だったので、
昨深夜、仕事部屋のかたづけを大慌てで進め、
出せるだけ出しておこうとがんばったのだが、
とても一晩でかたづくわけがないと判明。
日頃からきちんとしておかないとだめだな。
午後、大掃除(と言うか、大掃除のお手伝い)。
ベランダの窓拭き。洗面所とトイレの掃除。
あす風呂を掃除すれば分担をクリアできる。
家人は順調に大掃除を済ませて買い物に。
正月飾りもすでに昨夜から玄関に出ている。
夜、立体パズルのピースを適当に外したように、
どうにも元に戻らなくなった部屋のなかで、
茫然としながらかたづけを進めるのだった。
山のなかからふいに探していた資料が見つかると、
読み耽ったりするので、絶望的に進みがわるい。



結社誌「短歌人」1月号の藤原龍一郎さんの時評を読む。
「今日は昨日の積み重ね」。杉山隆を一例として、
時代の表面に浮かびにくい良質な仕事の評価が、
短歌の真の歴史の形成にかかわる旨を述べている。
以前からの藤原さんの持論であり、納得できるものの、
それが「先行者の試行も知らぬ功名心」の批判につながると、
ちょっとどこか違和感が生じる気もするのだった。
「竹の子日記」(12月26日付)に
時評の感想を書いた鈴木竹志さんからも、
この批判の部分を強調する意見が出ていたが、
書き手にとっての「モチベーション」というのは、
あらかじめ「質」が問われるべきものなのだろうか。
たとえ現在どれほど良質な短歌観を抱えている場合でも、
実は、モチベーションの強度があとから質を呼びこんだ、
というのが実態のような気がしてならないのだが……。
理解できるのにどこかひっかかってしまう二人の意見だった。


[386] パントマイムの壁 2002年12月28日 (土)

昨夜、製版の仕事を依頼しているYさんと
新春の始動のスケジュールについて相談。
この冬はみんなそこそこ正月休みが長いので、
ぼくのサイドの仕事のしこみには好都合か。
午前、周辺の資料をあれこれ整理しはじめる。
大掃除の一環として自分の部屋のかたづけ。
午後、RさんHさんのオフィスで打ちあわせ。
遅れに遅れた企画がやっとかたちになった。
正月明け早々に動きはじめることになる。
夕刻、帰りがけに遅い昼食をとってから、
義母、義姉、家人と待ちあわせてお茶を飲む。
昨日今日と新たに企画のオファーがあった。
仕事のしこみと企画について考えながら、
周辺の資料の整理をあたふたと進めてゆく。
本日の計測、体重60.4kg、体脂肪率17.0%。



神崎ハルミさんの私家版歌集『観覧車日和』。
私家版独特のピュアな感覚が広がっていて楽しい。
口語的リズムに調子よく流れすぎる作品があって、
その点ちょっと気になったが、全体に佳品が多い。

パントマイムのつくった壁が夕焼けに赤く染まってふたりを映す/神崎ハルミ
綿菓子になんども舌を突き刺した世界が溶ける感触のなか
砂浜をあるくあなたの足跡がわたしの海をまたひとつうむ
どしゃぶりの雨に溶けてもわかるようあなたの声をみずいろにぬる