11年前のこと(2013年10月10日)

田中 純一

 私は2002年ころからホームページを始めた。もう10年以上が経過する。そこで過去のホームページからのものをそのままコピーして自分を振り返りたいと思う。一度ホームページが壊れ、2002年の428日に再度アップデートしてのでその時のことがまずは

 

  11年前に書いたのこと1 草取りをしよう  イネ科の戦略

今日は4月28日です。昨日長岡で緑の会があり、皇太子様がきたとか。私の家の前の大きな公園も今回の式典で国土交通大臣の表彰を受けました。これからも公園をきれいにして、子どもの元気な遊び声のあふれる地域にしていきたいと考えています。
 さて公園を花と緑にするためにはいくつかの戦略が必要です。そのひとつとして,雑草の中心となるイネ科の仲間の戦略を考えてみたいと思います。
 イネ科の仲間には背の高くなるチカラシバ,ススキ,エノコログサ、メヒシバなどの雑草があります。彼らは多年草で12月ころから地中に根を張り、1月2月にはもう芽を出します。そして春には大きくなります。彼らがはびこると他の背の低い草は負けてでてこれません。ですから大寒のころが一番草をとるチャンスです。しかも霜等で土が割れているので,背の高い草も根を張るチャンスですが、抜くのも楽なのです。
 イネ科の背の高い草をやっつけますとシバやスズメノカタビラなどの背の低いイネ科の植物が出てきます。背の低いイネ科の植物は真冬でも光合成を行い、緑になっています。 
 春になりますと、イネ科以外のハコベ、ヒルガオ、イヌノフグリ,ペンペングサ、クローバー、オオバコなど葉っぱの広い草が生えてきます。そのままにしておくとシバなど低いイネ科の植物が負け、代わりに背の高いイネ科が出てきます。葉の広い草は摘んで食べたり、色水遊びをしたり、花を編んで遊んだりしましょう。そのあとさっと草払い機で低くはらっておけば大丈夫です。
 公園や児童館・児童クラブの庭を除草剤を撒かないで緑あふれるものにしたいですね。

 

   11年前に書いたのこと2 体性感覚のすすめ

 五感が大事というけれど
 子どもの表現遊びや子どもの教育等において,五感を磨くことが大切と言われてきた。子どもの現状を見ているとちょっと眉唾と私は感じていた。というのは五感磨くというのが,下手をすると能力のない指導者の逃げ道になったり、子どもがダメだからというように使われることもあるからである。
 五感というのは視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚である。上手く出来ない子どもに「ほらいつもしっかりあなたは聞いていないでしょ。見ていないでしょ。」ということが指導者から言われることが多いのである。また表現遊ぶやスポーツをしていると五感といわれるものとは別に第6感というようなものも感じていた。こんなとき中村雄一著『臨床の知とは何か」という本に出逢った。
「すなわち,現代の生理学の分類では,人間のすべての感覚は
@特殊感覚(視覚・聴覚・臭覚・味覚・平衡感覚)A体性感覚(触覚・圧覚・冷覚・運動感覚・筋肉感覚)B内臓感覚(臓器感覚・内臓痛覚)という三つに分けられている。そしてこの分類は@脳神経連絡の諸感覚A脊髄連絡の諸感覚B内臓連絡の諸感覚、という基準によっている。この知見からいえることは,昔から<触覚>といわれてきたものは,単に皮膚の接触感覚にとどまらない<体性感覚>に属するものであり、それは同じく体性感覚に属する筋肉感覚や運動感覚と密接に結びついて働くということである。いいかえれば,狭義の触覚も体性感覚ひとつとしてその基礎の上に筋肉感覚や運動感覚と結びついて具体的な触覚として働くのである。そして昔から共通感覚とは別に,よく触覚が五感を統合するといわれてきたが、それは狭い意味での触覚ではなく,触覚に代表される体性感覚のことだったのである。さらに諸感覚が共通感覚によって統合されるとき、実は体性感覚が統合のベースとなっていたのである。」
 長い引用になりました。視覚・聴覚・臭覚・味覚・平衡感覚を統合するベースとして触覚に代表される体性感覚があり、その中身は触覚・圧覚・冷覚・運動感覚・筋肉感覚であるというのである。実際に身体を動かし、感じることが一番ベースになるのである。だとするならば子ども達に充分に伝わらないのは子どもが『よく聞き,見、感じない』からだけではないことになる。伝える側に伝えるための努力と手法が使われていないことも大きな原因となる。
 体性感覚ということを考え、遊びの手法を実際に身体と動かしながら,運動し,筋肉の動きを感じ,痛さを感じて伝えていくとずいぶんやれることが増えてくる。
 五感の考えから体性感覚の考えに大きく飛び出そう。

 

 

   11年前に書いたのこと3 2勝8敗主義

    10割打者
 仕事をする時に完璧主義を目指すタイプといろいろ取り組んで見るタイプがあるようだ。日本の学校社会ではテスト優先主義のようです。テストに上手く書いたほうが点数が良いことから完璧主義が巾を利かせているようである。1勝0敗の10割打者である。学生時代に体育の授業があったが、授業記録を大学ノートに記録し、それを教授に提出した。そこで優・良・可・不可の成績がついた。小学校の教頭をやっている友達がいる。彼は真面目にノートをつけていなかった。私は毎回真面目につけていたので、ノートを貸してあげたら、彼は優で私は良だった。確かにあとおいできれいに書いたほうがよくみれますから。(大学の先生には感謝している。汚い私の字をチェックし、間違い字,嘘字をみんな赤ペンで直してくれた。そして小学校の教員になるにはもう少し字をキレイにとのコメント付きでした。大学の体育の教授なのにね。感謝感謝)
           社会に出れば3割打者が必要
 学生時代が完璧主義1勝0敗主義でも、社会にでればそうではない。1勝0敗より、2勝8敗は2倍の利益を生んでいるし、3割打者になればトップ。4割ということは記録破りになる。ドンドンチャレンジして1勝9敗が2勝8敗になり,3割打者を目指すのが良いと思う。ところが学校が10割を求めたがり、親も子の失敗を恐れる。結果としてひ弱な子が出来たり,ちょっとしたことですぐ挫折してしまう子どもが増加している。遊びの世界も一緒で失敗したくないから遊ばないという子どもも多い。
 児童館・児童クラブは成績をつけなくて良いところである。失敗をどんどん恐れない子どもを作っていかなくては。そのためには職員が常にチャレンジし、失敗し、みんなに謝ることもやっていかなくてはと思う。
            失敗を恐れない
 昨日のことである。2年生の女の子がお菓子のある部屋に一人で入っていた。私は烈火のごとく「また勝手にこんなところに入って。」と怒鳴った。すると同僚に「ちょっとおもらししたから着替えに入れただけなのになに怒っているの。謝りなさい。」と叱られた。私は土下座をして謝った。
 間違い,失敗はよくあること。そのときはしっかり謝りましょう。そういう姿勢を大人も持つのがよいと思います。そうすると子どもも失敗を恐れないでチャレンジするようになります。
 1勝0敗主義、減点主義から2勝0敗主義へと転換を図らなくては。

 

   11年前に書いたのこと4 今日は参議院補欠選挙でした2002年に黒岩宇洋さんが当選し、塚田一郎さんが落選した時のことです。)

全国注目の参議院補欠選挙でした。けれど投票率は低そうです。またマスコミが国民の政治離れといいそうです。いつも同じパターンの言い方にマスコミもその使命を忘れているのではないかと感じるこのごろです。
 私も政治に関心があるほうです。けれど今回の場合どこに投票してよいか分からないという感じです。自民党に投票すれば今までの公共投資の無駄遣いが続きそうだし、野党に投票しても口だけ自民党批判だけのようだし。だから選挙に行きたくても行かない人も増えたのではないかな。
 私自身は6時半まで考えて,免罪符のように、投票を済ませてきました。最後まで誰に投票するか誰に投票したら,日本ためになるかが分からない選挙でした。
 新しい日本のあり方を下から探っていくしかないかななどと思っています。
 朝に書いたのですが、自宅の前の小学校のグランドの半分位の公園が国土交通大臣の表彰を受けました。たしかに張り合いになることです。でも私にとっては子ども達が元気に遊んでくれることのほうが張り合いになります。またこの公園のボランティア活動が上意下達のピラミッド系の組織ではないことが,10年間に渡り,草取り,花植え活動を実施できた来た所以です。30人以上のボランティアが自分達の自由意志で自分の出来ることをやってきました。いちばん害になったのは、みんなを仕切ろうとすることでした。「自治会の支持命令で動こう。」「勝手に公園の草取り・花植えをするな」
「組織をきちんと作れ」などの意見を乗り越えていくことでした。
 政治の世界でも「政治家の私に何をやれというのでなく、あなた達が日本のために何をやりたいのか。それを保証する政治を作りたい。この地域のこの実践、あの地域のあの実践を日本のために広げたい。皆さんも協力して欲しい。」こんなことをいってくれる政治家は落ちるだろうが,将来の日本のためになると思うのですがね。

 

  11年前に書いたのこと5 昆虫達の戦略

  昆虫達の戦略ーー相互援助・相互伝達の世界ーー
 アリやハチというと女王バチや女王アリがいて,上意下達のピラミッド系の組織と思いがちです。私もそう思っていました。NHKの昆虫達の世界という番組をみていたら、そうでないということがわかりました。
 日本ミツバチはスズメバチが来ると、みんなでよってスズメバチを囲み,おしくらまんじゅうをするのだそうです。するとスズメバチの体温があがり、その熱さでスズメバチが死ぬのだそうです。もちろんそのプロセスで何匹かのミツバチは殺されます。けれどスズメバチとの戦いは女王バチの命令ではなく、自主的なものだそうです。女王バチは子どもを生むのが仕事でそうした命令はしていないのだそうです。
 また蜜を見つけるとハチダンスを踊り、みんなに太陽からの方向と距離とを相互伝達しているのだそうです。アリも同じで互いにフェロモンを出して、えさまでの道をつけるということです。昆虫たちの行っているのは命令系統の動きではなく、相互伝達・相互援助・能力に応じた仕事の分担で運営されているようです。
 ハチやアリにできることがなんで高等動物である人間が出来ないかという思いがしました。
 基本的には指示命令ではなく、相互援助・相互伝達・能力による自主的な仕事をやるように活動してみるようにしました。すると今までよりも能率があがるのです。自分の意志と自分の考えで活動し,互いに相互援助・相互伝達でやると、楽しく面白くできるようです。
 公園での草取り活動もそうでしたが、テンプラ会などの行事をやるときも一緒です。30人から50人のボランティアが150人くらいの昼食を用意し、テンプラをあげますが、当日まで打ち合わせはありません。当日もボランティアに「これからテンプラ会を行います。よろしくお願いします。」というだけです。あとはボランティア相互の相互伝達・相互援助でテンプラを揚げる人、机を出す人,配膳する人,おにぎりを作る人とうまく仕事が分担されます。ボランティアが少なければ小学生の高学年の子どもが動きます。ボランティアする人,される人という概念があまりないのです。生成りのボランティアなのです。後片付けは早いこと,早いこと。あっという間に昼食会場は体育館に変身です。昆虫達の戦略は使えますよ。

 

 11年前に書いたのこと6 自由を考える

体性感覚とか相互援助・相互伝達・自主的な活動等といっていると、基本的には自由にさせる考えでしょと思われがちである。しかし私は管理は徹底する考えである。そこには自由に対する考え方の違いがある。

         思う自由は無条件保証
 自由には思う自由と行動の自由があると広辞苑に書いてある。思う自由は無条件で保証されなければいけない。人を殺したいと思おうが、小泉首相反対と思うおうが、中国共産党、朝鮮労働党にシンパシーを持とうが、反対にイヤだと思おうがそれは自由である。もしそういうことが悪いことだというなら,殺人事件を扱う推理小説は禁止されなければいけないし、名探偵コナンは小学生は見てはいけないだけでなく,著作することもいけないだろう。つまり思う自由は自由なのである。
 子どもが悪いことをすると「何を考えているのこの子は」などと叱る人がいるが思うのは自由なのだから、思うことは批判しないほうがよいと私は考える。
      行動の自由
 思う自由とは反対に行動の自由はコントロールすることでもあるといわれる。高速道路には人は歩いていない。車が逆走してくることはないというコントロールがあるから、100キロメートルのスピードを出すことが可能である。
 子どもの遊び場である児童館においても、同様である。むやみに物を投げる人がいない。ナイフを突然振り回す人はいない。遊戯室で硬いサッカーボールを思い切ってキックする人はいないという基本的なことが守られないければならない。ボランティアが安心して活動できるためにも、みんな1年300円の保険料を期限までに納入するというコントロールがあって実現できるのである。
       みんなのためのコントロールが民主主義
 みんなの自由を拡大するために上手くコントロール、管理するのが民主主義。特定のひとが儲かったり、特定のひとが他の人を支配するために統御・管理するのが専制政治ではなかろうかと考える。管理すること統御することと自由は対立概念ではないのである。
 義務教育における出席停止処分も同じことで、授業を妨害したり、他人を傷つける人に対し、出席停止処分は学校教育法を改正するまでもなく当然のことと私は考える。授業妨害・暴力を振るわれる子どもの自由が損なわれることが一番問題なのである。暴力を振るう子ども・授業妨害をする子どもの教育を受ける自由は別の次元の問題としてとらえなくてはならないのである。
 今日の選挙は野党候補の開票率1%で早々の当選確実とのことであった。きちんとしてコントロールも自由の拡大であることを考えて今後もやりたいと思う。
         自由と義務
 自由と対意概念のように義務があり、「充分に義務を果たせない人には自由が制限される」といったような言い方も問題である。自由と義務は無関係の概念である。義務というのは人としてやってはいけないこと、やらなければならないことと広辞苑ーー広辞苑が正しいわけではないがーーが記載されている。つまり金銭的に責任がとれようがとられまいが人としてやらなければならないことはしてはいけないし、人としてやらなくてはいけないことはやらなくてはならない。そこを飛ばして大人とか子どもとかで区別するのはフェアーでないように思う。
 先生でも大人でも間違いをする。義務を果たさないこともある。間違ったと思ったら相手が子どもでも素直に謝ろう。この間、自然科学館へ行ったときのことである。行くときと帰るときの人数が違って一人増えていた。バスの中で人数を数えるのを省略したから、途中紛れ込んだ子どもを数え忘れたのだ。遊戯室の点呼のあと、かってに入った子どもも少し悪い。しかしこどもってそんなものだから、もう一回バスの中で数を数える義務をはたさなかった私の責任である。子どもに聞いたら、最初からこの子いたよとのこと。ミスはあるものです。子ども,同僚,ボランティアも含め,相互援助でやりたいものです。そういえば小学生は数えたのに同行した中学生を忘れてきたときもありました。

 

11年前に書いたのこと6  0勝3敗でしたー山菜採りー

連休で天気もよく、父親クラブの会長を含め3人で山菜採りに行きました。今年の雪は少なく、いつも雪で塞がれている道には雪はありません。かわりに崖崩れで通行禁止になっていました。4月なら確実に毎年採れるところはほうけていました。会長と一緒に尾根ーーおねーーまで攻めたのですが、まったく採れませんでした。下に降りてきて,違うところに車を走らせましたが、途中で他の車が引き返してきて、交通止めとのこと、清水さえ汲めませんでした。
 最初の車をとめたところにもう一人を乗せに戻ったのですが、どこかにいっていて、違う場所に移動もできません。完全に0勝3敗で、何も採れませんでした。
 でも3回いろいろ攻めてみたので、今年のように小雪の時はどのようにしたら良いかということが分かりました。3敗には3敗の意味があります。久々の3敗で、勉強になりました。最近は平均2勝1敗だったのにね。
 何で失敗を恐れるかと考えてみました。自分が残念とかいうことより、他の人の評価を恐れるからではないでしょうか。他人の評価を恐れないようにする。また子どもの活動を安易に評価しないことが大事だと思います。上手いは上手いなりに天狗にならないように,下手は下手でもやる気がなくならないように声かけをする必要性を感じます。
 児童館・児童クラブは評価をしなくてもよい施設ですから,失敗を失敗ではなく成功の素になるように声かけを考えています。
 チラシの折り紙は失敗しても失敗しても大丈夫です。最後にボールを作って遊べば成功の素になります。費用のかかる折り紙を使わないでチラシを使って豊かな遊びをしましょう。山菜採りも採ることだけが目標ではなく,良い空気を吸いに行けたと思えば、成功になります。−−でも悔しいね。−−

 

11年前に書いたのこと7 自由についてPART

自由についてーー自由とは選択肢が多くあることーー
 自由には思う自由と行動の自由があります。思う自由は無条件で保証され、行動の自由は統御ーー管理ーーコントロールによって拡大します。
 行動の自由をよく考えてみますと、自由とは選択肢の多いことともいえます。休日になり、山遊び・川遊び・春スキー・ビデオ鑑賞・読書・サッカー・野球・テレビゲーム・友達と旅行などと選択肢がたくさんあるほど自由度が増すといえます。しかし友達がいなく、家にひきこもって、テレビゲームをすることしか楽しみがないとすればその人は不自由です。
 遊びの中でも一緒です。複数の友達とサッカーや野球やドッジボールができる。2〜3人でオセロやバックギャモンやオニムができる。一人で恋占いのトランプで遊べる。絵を書ける。縄跳び,一輪車ができる。大人数でダンスができるというように、遊びの選択肢が多いほど子どもの自由度も増します。
 「自分の好きなようにさせてくれ,自由にさせてくれ。」という子どもがいます。それはあたかも個性の尊重で正しいことかのように。しかし行動の自由が統御により拡大し、選択肢を多くすることであるなら、選択肢を狭くし、いわんや他人の行動を制限するような自分勝手な行動は自由ではなくたんなる「わがまま」であり、他人の選択肢を制限するという意味で反自由であると思います。
  やってよいこと悪いこと 言って良いこと悪いこと やってよい場所悪い場所の徹底
 子どもの遊びの選択肢を拡大するために『やって良いこと悪いこと』をハッキリさせています。足でのキック、物を投げる、他人を傷つける行為はやって悪いことなのです。
 『言ってよいこと悪いこと』人格を傷つけるような言動は許せません。
 『やってよい場所悪い場所』同じ行為行動でもやってよいところと悪いところがあります。お風呂で裸になっても道で裸になることはできません。
 三つの基本的な管理コントロールがあって、子どもの遊びの選択肢が拡大し、子どもの自由が拡大するのではと考えています。
 最初から遊びが豊富な子どもは今の社会では少ないようです。自己中心でテレビゲームがないと遊べない子どももいます。マンガしか好きでない子どももいます。児童館・児童クラブ等子どもの遊び場では、テレビゲームでもマンガでもパソコンでもクレヨンしんちゃんでも動員できるものは動員して子どもをひきつけ、そのあとに遊びの選択肢を増やすように心がけたいと考えています。保育園・幼稚園年長時代から小学校3年生までは、ズバリ群れ遊びを好む時代ですから,この時期を逃すのは残念です。このことについては,次回書きたいと思います。
  

  11年前に書いたのこと8 群れ遊びを好む時代ーー年中児から小学校3年生

    一日30分の群れ遊びを
  一日30分群れて遊ぶのが猿や人間などの類人猿の仲間には必要である。との言葉は全国児童館連合会の勝俣さんの研修会での話の中でのひとつである。猿の子や人間の子どもはそうしないとストレスがたまるというのである。

 子どもの姿を素直に見ていると見えてくるものがある。0歳から2歳くらいまでは母親への依存であると同時に母親と自分を一体としているような時期である。2歳後半から4歳くらいまでは自立が始まり,反抗期にもなる。同時に行動が羊のように大人や友達と同じようにする時期である。保育士等は羊飼いの牧童と犬の役割をしていれば、この時期の子どもは同じように行動してくれる。扱いやすい。保育園の年中から年長もしくは小学校1年生位まで鬼ごっこをするとみんな同じ方向に走り、時に鬼を追い抜いて走る子どもがいる。行動に羊のような特徴を持っている。
 保育園の年長児から小学校3年生くらいまでは猿や犬のように群れて遊ぶことを好む。鬼ごっこをしていて、鬼を追い抜いて走ることはないが、みんなが鬼ごっこをしていれば、その遊びに仲間に入れてもらいたいと本能的に思う時期である。小学校4年生位からはバスケット・野球・卓球・ピアノ・バドミントンと遊びが自分の好きな方向に向いていく時期であり、職員の働きかけがあっても同じ遊びをすることはあまり好まない。
 保育園年中児から小学校3年生までの群れて遊びたいというニーズを上手く利用して、仲間遊びの輪を広げることが大切だと思う。
 この時期に一人遊びが好きな子どももいるが、時にみんなと遊びたいというニーズが強すぎて、一人遊びに逃避していることもあることを忘れてはいけないと思う。

 

 11年前に書いたこと9 名前のいらない遊びを増やそう

保育園年中児から始まって、小学校3年生くらいまでの群れ遊びを好む時代にはそれなりの手法が必要と思われる。大人と違い遊びを通して仲間作りをするというわけではなく、とにかくみんなと群れて遊びたい時期なのである。ですから大人や高校生・中学生のように自己紹介ゲームは必要ない。むしろ名前を名乗りあうことが遊びの弊害になってしまっていることもある。
 この時期には、名前を呼び合わなくても良い遊びを増やすことが必要と考える。
 何でもバスケットは名前がなくても良い遊びの代表である。『白い靴下を履いた人』『男の子』『女の子』『今日朝ご飯に味噌汁を飲んだ人』『お母さんが髪の短い人』といったことで名前がなくても遊べるのである。同様にだるまさんが転んだの遊びでも、動いたら『赤い服を来た子』『青い靴下の子』『背の高い女の子の隣の子』といった感じで、遊びは名前がなくても遊べるのである。ある意味では「ちゃんと名前をよんであげましょう」などという指導は益少なく,害になったりして。 
 群れ遊びを好む時期の子どもは誰と遊ぶかということより、一緒に遊べればよいのだから。
 不登校の子どもなどが来たときには、名前を呼び合うということが原則だと難しい。名前がなくても遊べる原則だと『その子一緒に遊ぼ』で遊びには入れるから楽です。乳幼児なども遊びの仲間に入れるときも『おいで』ですむのは感じが良いものです。なにせ呼ばれた乳児が自分の名前を言えないこともあるからです。
 名前のいらない遊びを増やすためには『ツーパワー・スリーパワー」の手法も有意義です。これについてはまた次回ということにしましょう。

 

 11年前に書いたこと10 ツーパワー・スリーパワーで遊ぼう

ツーパワー・スリーパワーの手法のすすめ
 児童館・児童クラブでの遊びの手法として、ツーパワー・スリーパワーで遊ぼうという手法を使っている。
 一例をあげて説明しよう。七並べを4人でしているとする。そこに5人目の子どもが『仲間に入れて』とやってきた。この時やっていた4人をA・B・C・Dとすると、あとでやってきた1人をAの仲間に組み込む。もちろんAは自分の番が回って来たときに1回しか出せない。しかし2人で相談してやることになる。同様に8人目がくれば、A・B・C・Dはそれぞれ2人組となる。これで全グループがツーパワーとなった。9人10人目が来るとAグループ・Bグループは3人組スリーパワーになる。Cグループ・Dグループはツーパワーで七並べが行われる。Aグループの中には七並べをまったく知らないけれど仲間になりたい,群れたいというニーズの子どももいるであろう。けれどそのことはAグループにハンディにならないのである。
 ツーパワー・スリーパワーの手法を使うことのメリットはいくつかある。遊びの途中で『仲間に入れて』とやってくる子どもをいつでも仲間に入れることができることにより、グループの排他性を取り除くことができることである。また児童館・児童クラブでは途中で塾の時間や保護者のお迎えなどで子どもの数が減ることもある。最初からスリーパワーで七並べと決めておけば、お迎えや塾で一人二人減ってもゲームが継続できる。極端な話、Aグループ3人がみんな塾でいなくなってしまえば、Bグループの一人がAにうつればよいのである。
 リレーなどもスリーパワー5グループ対スリーパワー5グループで行う。3人のうち1人が遅くなっても先頭の1人が次のグループにバトンタッチすれば,次のグループの3人は一緒にスタートできる。遅い子どもでも仲間に入れることができる。リレーの試合としては勝負が決まってしまっていても、群れ遊び時代の子ども達は同じグループ3人の中で誰が一番にバトンタッチするかということを競うのでリレーの楽しさが損なわれない。まるで別のリレーが同時並行で行われているかのようである。
 群れ遊びの時期の子ども達にツーパワー・スリーパワーの手法は取り入れて欲しいと思っている。
 遊びを伝え合う
 ツーパワー・スリーパワーでの遊びは遊びを知らない子どもに遊びを伝え合うのに便利である。
 ドッジボールの場合で考えてみよう。普通にドッジボールをすると,ルールの分からない子どもやボールをうまく投げれない子どもは、参加しても一回当たると外野に出て、最後までそれで終わりになっています。面白くないからその場からいなくなったり、他の遊びを始めたりしてしかられる。
 24人対24人のドッジボールの試合をスリーパワー8グループ対スリーパワー8グループで行う。スリーパワーの内の一人が当てられれば3人とも外野に出る。外野でスリーパワーの一人が当てれば3人とも内野に戻れる。ルールの分からない子どもも他の二人と一緒に出たり入ったりしていると自然とルールが分かってくる。
 バックギャモンなどのボードゲームをやる時も一緒である。バックギャモンのルールがわからなくてもサイコロを振ることはできる。年中児から小学校3年生は群れることを好む時代である。サイコロを振らせてもらえればそれで楽しいのである。サイコロを振っているうちに,コマの動かし方が見えてくる。そしてゲームのルールがだんだん分かるようになる。ツーパワー・スリーパワーの手法はゲームや遊びを伝え合うのに使える手法なのである。
 ゲームの中に小グループを作る
 ツーパワー・スリーパワーの手法は、たんに二人組・三人組にとどまらない。四人・五人組もできる。四人組はフォーパワー、五人組はファイブパワーとなる。
 フォーパワー・ファイブパワーになると、ゲームの中に小グループが編成されることになる。一例をあげてみよう。ジャンケン陣取りをする。普通は5人対5人で陣取りをし、ジャンケンをしながら進む。一人でやるものである。ここでこの5人の一人一人をファイブパワーにして、25人対25人のゲームにする。走るのは5人一組で走るが,ジャンケンは一人である。5人対5人と同じように25人対25人もゲームがスピーディにしかも子どもの運動量は変わらないで行うことができる。同時にジャンケン陣取りというゲームの中に5人組の小グループが10組作られることになる。子ども達はジャンケン陣取りを楽しみながら,同時に5人の小グループの中でフェイスtoフェイスの人間関係を結ぶことになる。ゲームをやりつつも小グループの中で学校のこと・おやつのこと・テレビゲームのことなどが話し合われる。よそ見していても,5人の内の誰か、もしくは他のグループの20人の中の誰かが見てくれているので、ゲームは中断しないでスムーズに行われる。
 フォーパワー・ファイブパワーを使った遊びは仲間つくりに有効である。5人の仲間の中には足の遅い子ども・ルールの分からない子ども・ジャンケンの弱い子どもがいても,グループとして不利にはならない。足の速い子どもが距離を稼ぎ、ジャンケンの強い子どもがジャンケンをし、訳のわからない子どもは訳のわからないまま群れてついて走って喜ぶ。異年齢・異世代交流を目指す児童館・児童クラブにはぜひ使ってほしいと思う。
 フォーパワー・ファイブパワーを使うと勝ち負けへのこだわりが少なくなる。赤信号みんなでわたれば怖くないというのと一緒で、ジャンケン陣取りみんなで負ければ仕方ない。という感じの気持ちになってくるのである。負けるのが嫌いで集団遊びに参加しない子どもも仲間になれる。