□生きること・学ぶこと・表現すること
     (平成28年9月27日)

児童健全育成指導士 田中 純一

 平成28年9月5日から11日まで連続しての活動がありました。山形県鶴岡市の児童館で放課後児童クラブの子どもたちに折り紙を教える活動から、支援員の研修会を2回・新潟市の支援員の研修会・学生の成績評価・ニチイさんの英語塾のお手伝いなどでした。幼児から小学生、大人、職員、学生などいろいろな方々と様々な活動をしました。少し過労になってしまったのですが、とても学ぶことが多い1週間でした。生きること・学ぶこと・表現すること・仲間と活動すること・子どもの権利のこと・進化心理学的なことの関連性が見えてきたように思いました。

 生きることとか生活をすることを考えてみます。生活の熟語はどれも生きると活きるです。生きるということはたんに心臓が動いていることではなくて、生きた(=活きた)動きをすることであると思います。生きるとか活きるは自己を表現することがどこかにあり、表現することが人間の本来的な本能であるようです。

 学ぶことを考えてみます。進化心理学的には人間も進化の産物です。ホモサピエンスは他の類人猿に比べ、声帯が発達していて、およそ10万年前頃に言葉を獲得していたとのことの説が出ています。チンパンジーに日本語を教えても理解できるかもしれませんが、チンパンジーが話すことが出来ないの声帯が違うからのようです。学ぶこととは遺伝子的にインプットされていることを出来るようにすることかなあと思います。教育はEducationと言いますが、その語源は抽出するとの意味です。学ぶ(=まねぶ=真似をする)ためには、遺伝子的に抽出するものがある必要性があります。
 さて、ルソーのエミールを良いと思っている日本の教育者が多いようです。進化心理学的に考えてみると、人間はほぼ1万年前の自然環境に適応するように遺伝子的には出来ているようです。1万年前と言えば、日本列島にシベリア経由で日本の祖先がマンモスを追ってやってきた時代です。1万年前には道路もなかったでしょう。広い場所でゆっくり歩いていることは他の動物に襲われる危険性が高いので、平らなところでは、足は走るように遺伝子的にインプットされているようです。1万年前のホモサピエンスは多くても150人くらいの集団だったようです。棒を振り回せば人に当たる確率よりも昆虫等に当たる確率が高かったでしょう。こうした理由から走るのが速くなる3歳児ころから低学年の子どもはオートマチックに『平らなところは走り、棒があったら振り回し、石があったら蹴り投げ、高い所には上る』ものです。これらの行動は足や手などが自動的にやるものです。ルソーの時代ならいざ知らず、現代では危険な行為になるので学びによって、必要な時と必要な場所だけで『平らなところは走り、棒があったら振り回し、石があったら蹴り投げ、高い所には上る』ことを教える必要性があります。学ぶことは時代の変容に合わせていくことが必要です。単純に『自然に帰れ』といった主張は通用しないように思います。

 表現することについて考えます。玉川大学名誉教授であられた故岡田陽先生は
『表現とは「オモテにアラワス」と書きます。表にあらわすためには、内なる何かがあるはずです。自分の内面にあるイメージの世界を具体的な形象として外にあらわすことが表現なのです。』と言われています。また『日本古典の「徒然草」にも「おぼしきことを言わぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける」とありますが、自分の思っていることを外へ表現するということは、昔から変わらぬ人間の本質的な欲求であることが分かります。』と言われ、児童館や放課後児童クラブこそ表現活動を重視することが必要とされると主張されました。また 
『人間が成長発達し、社会のために役立つ人として働けるようになるためには、多くの知識や行動様式を知り、身につけていかなければなりません。特に情報化時代といわれる今日では過去の時代とはまるで比較にならぬほど多量の情報の獲得が必要となってきています。しかし、人間はたえず空気を吸ったり吐いたり呼吸して生きているように、他から知識を教えられ受け入れることと、自分の内なる思考や感情を外へ発揮することとが適度なバランスを保っていることが必要なのです。教えこまれ、やらされることばかりでは息が詰まって苦しくなるでしょうが、一方適度に自己を表現する場があり、外へ自分を発揮することができればストレスは解消され、心の安定が得られます。そのへんのことを充電(チャージ)と放電(ディスチャージ)にたとえる人もいますが、教えられたことを覚え、身につけていくことが子どもにとって必要なチャージであるならば、自由にあそんだり、思ったこと感じたことを外にむかって思いきり発散してみることは子どもにとって、生命の放電ともいうべき不可欠な活動なのです。』と教えてくださっています。生きていることは自由な自己表現を権利としてもつことではないかとも私は感じます。全ての活動の中に表現をする時間を保障することは大切と思います。そうしなければ専制政治と変わりないものになると思います。
 表現するのは自由な表現となります。それは遊びになるということです。全ての活動の中に働く・学ぶ・遊ぶが包含されていると思います。学習である場合の中にも働きや遊びが入り、労働の中にも学びと遊びがあり、遊びの中にも働きと学びが必ずメリハリを入れておくことが必要であると思います。

  仲間と活動することについて考えます。ホモサピエンスは集団行動をして生き延びてきたようです。そのためには互いに伝え合う必要性があります。表現することは仲間に伝えあうことです。表現することはグループワークでもあることです。グループワークの目的は表現しあって高めあうことにあるとも言えるでしょう。仲間がいるからこそ表現が出来ます。ところが集団や社会がファシズムとかコミュニズミのように特定の考えのみが正しいとされる専制主義的な社会では、極端に表現されることが制限されます。仲間も助け合う仲間ではなくて互いに監視しあうものとなってしまいます。
 集団や仲間が自由な表現活動を通して高めあっていくことが必要と思います。

  学習権について考えます。1985年ユネスコは学習権宣言をしています。
 学習権を承認するか否かは、人類にとって、これまでにもまして重要な課題となっている。
 学習権とは、読み書きの権利であり、
 問い続け、深く考える権利であり、
 想像し、創造する権利であり、
 自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる 権利であり、
 あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
 個人的・集団的力量を発達させる権利であ る。
 成人教育パリ会議は、この権利の重要性を再確認する。学習権は未来のためにとっておかれる文化的ぜいたく品ではない。それは、生存の欲求が満たされたあとに行使されるようなものではない。学習権は、人間の生存にとって不可欠な手段である。もし、世界の人々が、食糧の生産やその他の基本的人間の欲求が満たされることを望むならば、世界の人々は学習権をもたなければならない。もし、女性も男性も、より健康な生活を営もうとするなら、彼らは学習権をもたなければならない。もし、わたしたちが戦争を避けようとするなら、平和に生きることを学び、お互いに理解し合うことを学ばねばならない。
と宣言している。生きること学ぶこと表現すること仲間がいることは人間の基本的な権利であろう。

 権利についても考えたいと思います。権利は英語でRightです。Rightは普遍的なものであり、人間がみな平等に保持しているものと考えられます。福沢諭吉さんはRightを日本語に訳す時に権利ではなくて権理が良いと『学問のすすめ』の中で主張されているそうです。Rightは利益の利よりも理(ことわり)の理が良いのではないかと私は思います。権理と考えると、利己的な行為だけではなく利他的な行為も大切にする必要性があることがはっきりしていくのではないかと思います。人間は一人では生きられません。互いに助け合って生きていくことが大切だということがわかります。
子どもの権利について考えます。児童福祉法が改正され第33条の10で以下のようになっています。
第三三条の一〇 この法律で、被措置児童等虐待とは、小規模住居型児童養育事業に従事する者、里親若しくはその同居人、乳児院、児童養護施設、障害児入所施設、情緒障害児短期治療施設若しくは児童自立支援施設の長、その職員その他の従業者、指定発達支援医療機関の管理者その他の従業者、第十二条の四に規定する児童を一時保護する施設を設けている児童相談所の所長、当該施設の職員その他の従業者又は第三十三条第一項若しくは第二項の委託を受けて児童に一時保護を加える業務に従事する者(以下「施設職員等」と総称する。)が、委託された児童、入所する児童又は一時保護を加え、若しくは加えることを委託された児童(以下「被措置児童等」という。)について行う次に掲げる行為をいう。
一 被措置児童等の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。
二 被措置児童等にわいせつな行為をすること又は被措置児童等をしてわいせつな行為をさせること。
三 被措置児童等の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置、同居人若しくは生活を共にする他の児童による前二号又は次号に掲げる行為の放置その他の施設職員等としての養育又は業務を著しく怠ること。
四 被措置児童等に対する著しい暴言又は著しく拒絶的な対応その他の被措置児童等に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。《追加》平20085
《改正》平22071
《改正》平26047
 児童福祉法第三三条一〇の一・二・四はある意味では自由な自己表現に対する制限となるから禁止されると考えることもできるでしょう。研修会などで支援員や児童厚生員・保育士などに一・二・四を口を酸っぱくいう講師もいます。しかし、私自身の多くの経験から言えば、支援員や児童厚生員・保育士などによる暴行・わいせつな行為・暴言よりも子どもによる暴行・わいせつな行為・暴言が圧倒的であると思います。支援員や児童厚生員・保育士は児童福祉法第三三条一〇の三を実施をするための手法を見つけて実施していくことが大切と思います。子どもの権利を権理と考えると暴力をふるいたい放題の子どもへの対応の仕方が見えてくるのではないかと思います。同時に小学生期までの子どもの暴力は自由な自己表現をどこかで妨げられていることにもあるように思います。怪我をさせたり、暴力をふるうしかないように押しつけの躾や教育やきまりが問題となる場合も私はあるように実感しています。ホモサピエンスはほぼ1万年前の自然環境に適応して遺伝子があるというのが進化心理学の考えです。小学校低学年の男の子は『平らなところは走り、棒があったら振り回し、石があったら蹴り投げ、高い所には上る』ように手や足が自動的に動きます。男の子が『平らなところは走り、棒があったら振り回し、石があったら蹴り投げ、高い所には上る』としても、走った足や石を投げて手を叱っても、人格否定的な言動でせめれば反抗的になるのは当然のことだと私は思います。脳科学者の茂木健一郎さんは『なんのために叱るか?それは褒めためである』と言っておられます。危険なことをしたらしっかりと叱り、やらなくなったらしっかりと褒めることが大切だと思います。いつまでもネチネチクドクドでは上手くいきません。児童福祉法第三三条一〇の三を実施するにあたって、子ども達との良好な関係を築きたいと私は思います。それは『褒めるために叱る。叱ることが出来るように褒めておく』ことではないかと思います。

生きること・学ぶこと・表現すること・仲間がいること・学習権・権利のことなどは実際は一体となっているのではないかと私は思っています。その基盤である環境をより良いものに(これ以上悪くならないように)していくことがこれからの使命ではないかとも思います。


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