大衆迎合主義=オポチュニズムについて(2013年8月23日)

児童健全育成指導士 田中 純

大衆迎合主義だと思うこと1 30人学級の主張

大衆迎合主義=オポチュニズムの意味に『情勢の変化を弁えず(わきまえず)現実性を持たない急進主義的方針を常に主張するような考え方を「左翼日和見主義」と(批判的に)呼ぶのはこの用法である。』とある。30人学級の主張はこの典型ではないかと私は思っている。

私は放課後の子どもを見る仕事を31年間していた。当然、子どもの保護者の相談を受ける機会がたくさんあった。その中でも学校の担任のことが多かった。『またあの先生が受け持ちになってしまった。1年間どうしたらよいのでしょうか?』とのことは多かった。しかし『クラスの人数が多いので、担任がうちの子どものことをしっかりみてくれないで困る。』との相談はなかった。クラスの人数が40人以上であっても問題点はそれほどない。かえって人数が多いほうがいろいろな子どもと触れ合うことができてプラスの面が多い。にも関わらず『子どものための少人数学級』みたいな言われ方が蔓延る(はびこる)のなぜだろうか?子どものためとオブラートに包んだ左翼日和見主義的なオポチュニズムであると私は思っている。

30人学級は、教員が少人数のほうが楽であるということで、子どものためではない。もし少ないほうが良いというのなら、へき地で複式学級にする意味がないことになる。一クラスの子どもの人数は30人以上が良い。しかし、30人以上のクラスを作るためには1学級が最大61人となる。なぜならば、61人となると30人と31人に分かれるからである。そこで私は1クラスの最大は40人くらいにしておくのが良いと思う。41人になれば20人と21人となる。81人となれば27人27人27人の3クラスとなる。121人ならば30人・30人・30人・31人の4クラスとなり、最大で40人・40人・40人・40人の160人が4クラスである。

平成20年で、日本の小学校は全国に約22000校小学生は712万人とのことだが、平均で1学校に324人くらいとなる。これを6で割ると1学年は54人程度となるから、2クラスが主となる。多くても3クラスか4クラスであろう。

ここで考えなくてはならないのは、1学年1学級の場合に、1クラス9人から40人との幅が出てきます。1クラス8人以下だと複式学級のなることがあるので、基本的には1クラス9人以上となります。そこで40人を20人・20人に分けるのではなくて、1学年40人・2学年40人の場合に、1クラスずつにしておいて、教員を3人配当すればよいと思うのです。同様に2クラスならば、40人・40人の2クラスにして、3人の教員を配当するのが良いと思うのです。

小学校は、1クラス一人の担任と決まっていることが多い。これを守ろうとしているのは「左翼日和見主義」的傾向が強い。保護者も子どもも実際には『嫌な担任』に出会ってしまったことが一番の悩みである。複数の先生が、授業に関与してくれれば、子どもにも保護者にもとても良いことだ。また、担任が休みをとったら、自習ではなくて、他の先生が教えることになる。複数の眼で子どもの生活や学習を見守ることはとても大切なことである。

多人数学級のマイナス面は多数の教員がクラスに関与することでずいぶんと改善されることであろう。そしてまた、子どもたちは、多くの子ども同士との経験や多くの教員との交流の中で育ちあっていくと私は思います。

少人数学級の主張はオポチュニズムであると私は思います。現実を弁えない(わきまえない)での主張であると思います。

大衆迎合主義だと思うこと2 男女共生やジェンダーフリーのこと

男女が共生することはとても良いことである。しかし、それは互いの違いを認め合った上で、助け合って仕事をするとの意味であると私は思う。ところがジェンダーフリーの主張は女性性的なことや男性性的なことは文化の背景によって作られると主張しているように思う。かっこよいけれど、現実を弁えて(わきまえて)いないから、このギャップで子育てに苦労しているお母さんやお父さんが多い。

男の子は『高いところに上り、穴を掘り、石があったら蹴り投げ、鼻くそをほじくる』ものです。これは本能で無意識でやるものです。『なんでそんなことをするの?』などと言われても困ってしますのです。お母さんは女ですから、男の子のこんな行動はなかなか理解できないのです。やっている本人も理解してやっているわけではないから、お母さんが理解できないのは当然なのです。だったら理解しようと思わないで『こんなもんなのだ』と思ったほうが楽でしょう。

昔の教え子のお母さんの話です。担任から呼び出しがあり、『席替えをしたばかりですが、お宅のお子さんをまた席替えをさせてください』とのことでした。『かまいませんが、理由をお聞かせください』というと、『お宅の息子さんが、鼻くそを食べるのを見て、隣の女の子が息子さんそのものを鼻くそと見えて我慢ができない』とのことでした。男の子の10人のうち6人くらいが鼻くそを食べていて、そのうちの1人は『鼻くそほど旨いものはない』と豪語していました。

平島公園の砂場で遊んでいて、おもちゃのスコップの取り合いとなって、かっとなり、相手に砂をかけるのは男の子に多いものです。お母さんはそうした行動を理解できませんから、縷々とお説教をします。子どもには説教を理解できません。それよりは『この砂を投げて手が悪い』とびっしと叩いてあげるか、痛いくらい強く握ってやり『手がわかった?』と聞き、『わかった』と言ったら『手が悪い子だったけれど、あなたはよい子だね』と抱きしめてあげれば、効果てきめんです。

男の子は女の人には理解できないことをやるものです。やっていけないことはしっかりとダメということが必要です。そのあとに『あなたはいい子』とほめることが必要です。脳科学者茂木健一郎さんは『何のために叱るか。それは褒めるためである。』と言っておられる。私は『何のために褒めるか。それは本当に危険なことをしたときにしっかりと叱ることができるためである』と考えている。

 

  大衆迎合主義だと思うこと3 子どものための学校五日制

『子どものための学校五日制』などはオポチュニズムの典型ではなかろうか?日曜学校などない日本の子どもには週休二日制は不用である。子どもたちに聞いてみても、『土曜日に学校に行って、午後に友達と遊ぶ約束をするのが良い』との声もある。

子どものための学校五日制は実は学校教職員の週休二日制を大衆迎合主義的に表現しただけである。私は早急に日曜日のみの休みにし、土曜日は半日にすべきであると思う。教職員の週休二日制はこのままでよい。少子時代だから、子どもが少ない。そこで1学校2クラス12学級の場合なら、12人の担任とは別に3人程度の副任を配当し、週休二日制はそのままにしておくのである。週に1回くらいは担任以外の教員が教えるのが良いとの考えです。少人数学級の閉鎖社会では、子どもも窮屈です。暴れる子どもに問題があるときもありますが、下手な授業のやり方に問題がある場合もあります。不必要な体罰があるときもあります。一人の先生が全てを握るとの小学校の学級王国はそろそろ終わりにする必要があります。

保育園でも朝の7時から夕方7時までの長時間になっている。ですから複数の担任がいて担当している。放課後児童クラブも長期学校休業期間中は同じ人だけで見るわけにはいかない。小学校のみが担任制で基本的に一人の先生がクラスを支配する時代は終わったのではなかろうか?

  大衆迎合主義だと思うこと4 体罰禁止の観念論

体罰禁止を叫んでいると民主的な人だと思われているような錯覚がある。これこそ情勢の変容を弁えない(わきまえない)オポチュニズムであると私は考える。これで何もかもうまくいくというのであれば、軍隊も警察も裁判所も要らなくなるであろう。何事も話し合いが必要であると主張する人もいる。こういう人がいざ暴力をふるったり、危険な行為をしようとしている場面に出くわすと、見て見ぬふりをしている。私流の考えからすれば、実際の現場で危険な行為があった時に、実際に対処の手法を示して見せてほしいものだ。

私はダメなことはダメ主義である。他人に不当な暴力を振るえば実力行使をして許さない。それでも無理なら警察を要請する。ある5年生の子どもが気にくわないことがあるとすぐに暴力を振るうことがあった。学校では男の先生が3人くらいで押さえつけ、タクシーで精神科に連れていって、筋弛緩剤を注射して抑えた。私は小さな子どもにその子が暴力を振るえば、『これだけ私がお前のことを大事にしているのに、小さな子を叩くとはその手が許せない』と手を叩いた。これが体罰禁止となるのだろうか?

日本は法治国家である。刑法に定められた傷害罪・暴行罪・侮辱罪等々に該当する行為を許してはいけない。しかし、体罰禁止やいじめ根絶みたいな大衆迎合的表現は間違いである。ちょっと手を触れただけで体罰となったら、どうなるであろうか?きつい言葉かけをしただけでいじめと言われたらどうするのか?電車が揺れて少し相手に接触したらセクハラと言われたらどうしよう?

情緒的であいまいな体罰・いじめ・セクハラはオポチュニズム=左翼日和見主義ではなかろうか?

 

大衆迎合主義だと思うこと5 しっかり考えることが良いのかな?

よくしっかりと考えて行動しようとの主張がある。確かに正しそうだ。欧米は宗教があり、また哲学がある。基本的に観念論が物質に優先している。精神や心が物の上にある。ですから、人間が何かをなすときは、しっかりと考えて行動することが必要となる。『我思う故に我あり』との考えが基本となっている。この精神論や哲学の下に科学の知が存在する。

しかし、人間以外の物や動物などもそれぞれに存在意義がある。その大自然の中に人間は生かされているとも考えることもできる。しっかりと考えて行動するとのパターンが真理と決めつけることが間違いないとは限らない。

また、人は無意識的本能的に行動することのほうが多いものです。大きな音がしたり、ピッカと光ったりすれば、意識はそちらのほうに自動的に向かう。このことで、他への注意はストップしてします。これは考えてから行動しているわけではない。

学習とは考えて行動することではなくて、考えなくても自動的に行動できるように訓練することでもあるといえよう。私たちは7+8=15と考えなくても計算できるようになっている。これは小学校の低学年の時に訓練をするからである。しっかりと考えて行動するではなくて、考えなくても自動的に行動ができるように訓練することが必要なことがたくさんあるのである。

しっかり考えるとの主張は一見、みんなの受けが良さそうであるが、そうとはかぎらない。天皇皇后両陛下が行幸啓され、子どもたちのけん玉をご覧になられた。『ケン止めが上手くなるようにするにはどうしたらよいのですか?』とのご下問に『練習です』と答えたけん玉名人の言葉が思い出される。

 ひたすらの練習の繰り返しの中で、弁証法的に質的な転換がはかられるということはよくあるものだと私は思います。

    大衆迎合主義だと思うこと6  受容と共感について

 本来的な受容と共感は、人間の中にある魑魅魍魎(=ちみもうりょう=いろいろな化け物・さまざまな妖怪変化)の存在を含めて、理解が必要なことである。しかし、手法として簡単なために、相手の話をしっかり聞いてあげて理解してやることが大切だみたいな風に安易に使われてしまっている。結果的に下手な受容・共感が大流行りをしている。しかし、子どもたち(=クランケ)のほうがその底の浅さを見抜いているので、うまくいかないことも多々ある。「」付き受容共感派が困るのは、手法が受容共感だけなことだ。ある人には家族療法または音楽セラピーあるいは深層心理学的治療が必要な場合があるであろう。それをなんでも受容と共感でやれば、上手くいくと考えるのは宗教を信じているのと変わりがないのではないかと思う。

 受容して共感してあげれば、子どもは必ずよくなるみたいな主張は左翼日和見主義ではなかろうか?

 たとえば子どもが『僕は担任に恨まれている。担任を殺してやりたい』のような発言をしたら、『そうあなたはそのように感じているの?気持ちはよくわかった』などと受容共感してどうなるのだろうか?担任との関係性に固執させるよりは、その子どもの得意なこととか、好きなことは何かとか、誰と仲が良いとかポジティブな方向に持っていくことが適切だと私は思います。子どもはポジティブな存在ですから、ネガティブなことを根堀り葉ほり聞いてみてもマイナス面ばかりで出てくるのではないでしょうか?もちろん、話をよく聴いてあげることは必要です。ネガティブな愚痴もこぼせば愚かと病がとれてくるでしょう。でも凡人が下手な共感をすることは危険なことであると私は思います。

    大衆迎合主義だと思うこと7 評論家に陥りやすい

 情勢の変容を弁えず、あれこれ言うのはいかがなものか?と私は思っている。一つのことについて、自分・相手・第三者がいる。いつも第三者的に発言をしている人を見るとこの人は「」評論家で大衆迎合主義的な発言が多いなあと思う。その内容はまさに左翼日和見主義的である。すべての事象は自分が当事者の場合、当事者の相手の場合、第三者の場合と考えてみる必要があるだろう。

 たとえば、ゴミの不法投棄があった時に、不法投棄の当事者は何を考えているか?不法投棄に悩まされている人の立場はどうか?そして自分が行政の立場ならどうか?の3点の視点を持つことが必要であろう。第三者の立場のみでの発言はみんなに利することはない。

 天知る地知る我知る汝知るとの言葉がある。自然と共生しているのが基本と考えて、関係ない第三者ではなくて、天知る地知るの立場に立つのは「」評論家の立場とは違ったものである。ある意味では天知る地知るの考えになりたいものです