健全育成のための発想の転換(2014年12月12日)

児童健全育成指導士 田中 純一

 

   子どもの健全育成の発想の転換1 少人数学級に私は反対

 子どもには未来があるから、子どもを大切に育てなければならないとの主張がある。子どもの意思を尊重して、子どもが体罰にあうことのないようにする。子どもたちが自由に活動できるようにするなどなどである。結果的にどうも上手くいっていないことが多い。どうしてであろうか。発想の転換をしてみたいと私は思う。

 ぬるま湯の中に育つと子どもも人間もたくましくて、元気に生きることが出来ないようだ。ある程度の切磋琢磨がないと人間は磨かれることがなくなる。意図的に厳しくしろとは言わないけれど、ある程度の困難を乗り越えるようにすることは大切である。最初から、手助けだけをしてしまうと上手くいかないものだ。

 少人数学級の主張などはぬるま湯教育の典型ではないかと私は思っている。クラスは少なくとも23人〜25人くらいは必要である。ということは45人学級でも良いとの考えだ。40人学級だと21人と21人のクラスが出来るからだ。43人になってもクラスは一つにして、複数担任にすれば良いだけだ。

 多くの「」付き革新と言われる人たちや党派が少人数学級を主張している。これは子どものためではなくて、教える側の都合であることが多い。本当に子どものためを考えれば、子ども同士の切磋琢磨が生まれるクラス編成が必要である。少人数学級は間違いである。

 

     子どもの健全育成の発想の転換2 健全育成のための会議?

 いかに健全育成するかではなくて、いかに環境を整えるかが問題ではないかと私は思う。PTA・育成協・各種子どものためのグループや団体が子どもの健全育成が大切かを主張して、会議のための会議を開いて論議をしている。ときには、飲み会のためのだしに子どもの健全育成がなっていることもある。子どものための防犯協会の飲み会・交通安全のための飲み会そして、公費を使っていることが多い。ただ酒を飲んで、健全育成を主張するのはいかがなものかと私は思っている。酒を飲むのは必要な場合もある。けれど飲み代は自分で持つべきだと私は思う。

 問題は会議や論議することではなくて、子どもの活動場所の環境整備をすることではないかと思う。東日本大震災の支援(私にとっては学びでもありましたが)で学んだことは子どもの活動場所の除染を急ぐべきだとのことである。活動場所が室内のみでは子どもも大人も大変です。

 同様に、遊びの場所であれ、学びの場所であれ、安全で安心、緑あふれる環境の提供が大人の使命ではないかと私は思っている。活動拠点の整備を管理職が率先してやることが必要である。

 

     子どもの健全育成の発想の転換3 活動場所の環境整備

 いろいろな民族があり、いろいろな国民性がある。日本人の国民性として、勤労精神とか互助互譲の心があると言われる。持ち続けたい民族性だと思う。

 プロナチュラリスト佐々木さんの話である。佐々木さんの仲間のスリランカ(?)のお坊さんが、スリランカの空港に近づいたら、佐々木さんにこう話したという。『スリランカでは身分の高い人は荷物を持たないので、私は日本の時のようにするわけにはいかない』とのこと。日本人は自分の荷物は自分で持つのが基本である。また、汚い仕事やきつい仕事をやっても身分を疑われることはない。むしろ立派な人だと思われることもある。インドでは身分の低い人しか道路清掃やゴミ拾いをしないという。中国・朝鮮・ヨーロッパも似たところがある。

 文化人類学的には武士の先祖はマタギであったとの話を読んだことがあります。鷹狩りとかお茶をたてることなどはマタギの文化だというのです。山の中に入れば、自分のことは自分でやらなければなりません。私は高校時代に山岳部だったのですが、全て自分たちのことは自分たちでやる必要性がありました。こうした民族性から全ての人が草木いじりやお茶出しなどをするようになったと思います。

 日本人の民族性はとても良い面だと思います。世界に発信して、子どもたちの活動拠点の環境整備を率先してやる体制を作りたいものです。 

    子どもの健全育成の発想の転換4 地域つくりと環境整備

 自治会活動やPTA活動そして行政なども地域の仲間つくりが大切と盛んに主張されている。三世代交流・祭りの復活・子どもの見守りなどなどいろいろな活動が試されている。もっと簡単な活動があって良いのではないかと最近感じている。

 地域には公園があり、道路があり、側溝があり、空き地があり、空き家がある。こうした社会資源が各家庭と家庭を結んでいる。よその家庭に入ることは難しいが、自分の家の前の側溝や道路に面する花壇をきれいにすることは誰にでも出来る。家の前に花を植えれば、通りがかりの人が花を愛でてくれる。そこから交流が生まれる。街路樹の下の雑草を取り除いてマツバギクなどの多年草を植えれば、きれいである。近くの小さな公園でも小さくても30坪はあるだろう。30坪の庭など普通の人は持てない。小さな公園でも地域の仲間とガーデニングすれば、楽しみが増える。ちょっと大きな公園なら、きれいにしておけば、ちょっとした祭りも可能である。

 地域つくりをどうすべきかと論議する前に、地域の公園・街路樹・側溝・空き地・空き家などの環境整備・環境美化が児童の健全育成の一番の近道ではなかろうと私は強く思っています。

 

   子どもの健全育成の発想の転換5 しっかりした日本語教育が必要

 小さい時から英語教育が必要と言われ始めて、小学生の英語教育などがなされ始めている。しかし私は英語教育の前にしっかりした日本語教育が必要であると思う。『うるさい・ダサい・きもい』などしかしゃべれない子どもが英語を習っても役立たないであろう。

 ロシアの天才教育学者ヴィゴツキーは母国語の学習と外国語の学習パターンは違うと言っている。母国語は小さい時から身につくが、外国語は母国語の基本的パターンの学習の基礎の上にあるとの主張のようだ。

 三つ心・六つ躾・九つ言葉(十二文・十五理と続く)と江戸期から言われているように、九つ(数えであるから満8歳)までに基本的な日本語をしっかりと教えることの出来る教育が必要である。もし基本的な日本語教育が遅れているのなら、英語教育よりも日本語教育が優先されるべきであろうと私は思う。

    子どもの健全育成の発想の転換6 インターナショナル(国際化)について

 国際化するというのを日本人的に考えると、日本的な発想から、西欧的もしくは外国的な発想も出来るようになるとのことになる。しかし、西欧人にとってインターナショナル化(≒国際家)というのは自分が国際化することではなくて、相手をインターナショナル化させることだという。

 基本的な国際化に対する考え方の違いがそこには存在する。なぜこのことを取り上げたかというと、どうも日本の学校は日本人を国際化することが必要と考えているような気がするからです。日本の中にもとても良い考え方があっても、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・スウェーデン・フィンランドの学者がこう言っていると権威つけることが好きである。思想的な問題でも外国人の名前が次々と出てくる。新自由主義だって外国の考えだし、その対極にある共産主義も外国だ。お互いに日本ではない考えが正しいと押し付け合っている。日教組と文科省のケンカみたいだ。

 子どもの健全育成の場においてもインターナショナルを主張する前に、自分たちの日本人としての日本の歴史をきちんと把握する教育をすることが必要であろう。ただし世界史の中に日本史は存在するわけだから、地球規模の歴史の展開ときちんとした日本史の展開を知ることは全く矛盾しないと私は思っている。 

   子どもの健全育成の発想の転換7 人類の動きと日本の歴史 (NHK日本人はるかな旅より)

 大まかな日本の歴史を人類の動き(ホモサピエンスの動き)と関連して、考えておくことが必要と私は思っています。ホモサピエンスは今から20万年前にアフリカで誕生し、6万年前にアフリカを出て、4万年前にヨーロッパに進出、3万年前にシベリアへ。おおよそ2万年前にベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に進出したり、日本にやってきたりしているようです。やがて氷河期の終わりが来て、日本は大陸から孤立することになります。

 一方南方ルートで2万年前ころより沖縄や南九州にホモサピエンスはやってきているようです。

 北方ルートや南方ルートとは別に中国や朝鮮からのルートも入ってきて、日本人へと同化していきます。日本人の特徴的なことは北方系・南方系・中国系・朝鮮系からのルートの人たちが排斥し合うのではなくて、混血したり,同化したりすることで縄文文化や弥生文化を作っていったことが、遺伝子や骨格研究等でだんだんわかってきたということです。

 日本は世界史の中で孤立していたのではなくて、まさに世界史の中で存在していたのです。その後も日本史の展開も朝鮮・中国・ヨーロッパ・アメリカと関連しながらあります。また私が住む新潟市も日本史の中で重要な地位にあります。北方系ルートとの関係で律令制の中で越の国があり、沼垂の柵がありました。戦国時代には上杉家が越後の国にあり、その後、江戸時代になり、譜代大名や天領になっています。新潟湊は幕末まで長岡藩領地で密貿易もやっていたとのことです。明治維新での一番の主戦場は見附の今町での戦いでもありましたし、新潟市中央区の金鉢山の戦いもありました。

 人類の歴史・世界史・日本史・新潟の歴史が一体であることをしっかりと学ぶことが必要であると私は思います。 

 

   子どもの健全育成の発想の転換8 日本の歴史と日本の見直し

 私は日本だけが素晴らしい国で他国が日本より劣っているとは思っていない。同時に日本も他国より劣っているとも思っていない。日本の良さは良さで認めて、良さを伸ばしながら国際貢献をするのが良いと思う。

 日本の歴史の中で北方系ルート・南方系ルート・中国系・朝鮮系のルートでいろいろな人々が遺伝子的にも混じり合って発展してきた要素が強いと言われている。日本人は排他的ではなくて誰でも仲間に入れる要素を強く持った民族であると私は思う。その良さを活かすべきではないかと私は強く考えています。しかしながら、日本の歴史は明治維新で江戸時代は古い時代と決めつけられ、第2次世界大戦で日本は間違っていたと決めつけられて過去を否定されてきたように思う。

 代わりに欧米人的な考えが正しくて、日本の古い考えは間違っているみたいな傾向が強く出てきたように思う。例えば母乳よりも粉ミルクが子どもの頭をよくするみたいな考えが過去にあったが、それなどはその典型ではなかろうかと思う。

 健全育成の現場でも教育は明治維新後の学制から始まったり、保育園や幼稚園教育にもその傾向がある。しかし、日本人は子どもを大切にしてきた。寺子屋だけではなくて、多くの子育ての手法が明治維新前にも存在していた。再度、日本の子育てを考え直すべきと私は思う。 

   子どもの健全育成の発想の転換9 日本の子育ての面白さ

 学校の保護者面談などで、担任に『最近、子どもの心が不安定である。何か問題が?仕事のことばかりに専念しているんでは?愛情不足では?』みたいな言われ方をして、涙を流して私のところに相談される方けっこういた。

 私はお母さんに『お父さんとあなたと子どもがいて、海に投げ出されたがその優先順位は?』と聞くことが多かった。母親は『1に子ども、2に私、3にお父さん』と答えるケースが多かった。(10人中8人くらいかな)父親は『1に子ども、2にうーんお母さん、3に仕方なく私』(10人中6人くらいかな)と答えるケースが多い。そこで『自分の命よりも子どもの命が大事だと思っている人に愛情不足ということはないから、愛情不足との話は間違い。パートだって、子どものためでしょ。』『ただ愛情が多いだけでは問題。その方向性が大事。過保護過ぎてもダメだし、過干渉でも困る。』みたいな話をしていた。もちろん私の子育て反省でもあるが。

 日本人は子どもの生命を大切にする国民である。これはすごいことだと私は思っている。

 

  子どもの健全育成の発想の転換10 こどもの権利条約

 こどもの権利条約を主張して、こどもの立場に立っているかのようなスタンスを持つ人が多い。日本におけるこどもの権利条約の主張はときに、不法行為をする子どものたんなる権利擁護となり、正当な暮らしをしている人々を苦しめていることにもなることがある。

 危険な行為をしたので、きつく叱ったら『言葉の暴力をされた』、危ないので手を抑えたら『跡がついたので暴力行為をなされた』と主張する親や子どももいる。

 権利は英語でtitleRightとがある。普通はRightだが、Rightには正しいとの意味がある。みんなにとってある程度普遍的に正しいことが権利であり、Rightであろう。だから権利には当然他人の権利を踏みにじって成立する権利はないことになる。

 他人の権利を踏みにじることを禁止していくことが権利擁護である。しかし、最近の子どもの権利擁護論者は死刑廃止論と同様に、実際に子どもの権利を守っているのか、それとも子どもの権利を実質的に踏みにじっているのか疑問に思うことも私にはある。

 簡単にこども権利条約の主張のみでは上手い展開は出来ないのではないか。もちろん子どもの虐待等の問題を放置するのが良いという意味ではない。欧米的な自己中心的な考え方からの脱却を抜きにして、子どもの権利は実現しないのではと私は思う。

 日本の家庭では母親は自分のことをお母さんと言い、自分の連れ合いをお父さんと呼んでいることが多い。父親も自分のことをお父さん、連れ合いをお母さんと呼ぶことが多い。欧米的に夫婦が名前で呼び合うことにすべきだとの主張は良いだろうが、それを押し付ける必要性もない。子ども中心の家族があってそれはそれで良いのではないか?

  子どもは子ども同士の切磋琢磨(具体的にはケンカ)で成長する。トラブルがある。きちんと注意する。ときには実力で抑えることもある。でも深追いはしない。そんな繰り返しでしか子どもも人間も成長しないのではないあk。そこら辺の現場の状況をみないで、『こども権利条約』の念仏を唱える人が学者に多いことを憂う。

 

   子どもの健全育成の発想の転換11 いくつかの論理が混沌と

 最近、少し思うことがあるのだが、実際の世の中や自然等々は、いろいろな要素や論理や法則が重なり合って、混沌として成り立っているのではないかと思う。ところが一つの論理や思考や法則やシステムを主張したほうがすっきりとしたものになる。結果的にこっちかあっちかの言い合いになるように思う。最初から論理やシステムや法則はいろいろあって、重なり合っている。今の場合はこのシステムや論理や思考を使った方が良いようなので使うけれど、メリットデメリットは当然出てくるし、違った論理システム法則を使うこともありうるとしておいたらどうであろうか?

  子どもの健全育成発想の転換12 経済的格差と教育格差

 経済的貧困や格差が子どもの教育格差に大きく影響しているとの考え方がある。一面において正しいが、一面においてそうとも言えないこともある。開発途上国等において教育を受ける権利さえ奪われている子どもからみれば、日本の子どもは恵まれている。教育現場から考えてみても、経済的格差によって、学力が低下しているよりは教育に対する意欲の減退が学力の低下を生んでいると私は感じている。

 専門学校などでの授業でも身体を動かすときは何とか起きているが、理論的なことを漢字交じりで、話し出すとすぐに寝てしまう学生が多い。教育の機会が与えられていないのではなくて、教育の機会を活用できていない場合の方が多い。これは小学校や中学校でも言えることではないかと感じている。

 ほんの60年前までの日本は、子どもも労働力になっていて、学校を休ませられて、たんぼ仕事をさせられたこともあった。こうした時代には『よく遊べ、よく学べ』が必要であった。基本がしっかり『働く』があったからだ。飽食の時代となって今では、もう一回『働く』=勤労の精神を取り戻して、学ぶ意欲を復活させることが必要ではないかと私は感じる。

 もちろん、高校の無償化や大学進学のための奨学金制度の充実等、学ぶ意欲がある人が安心して学ぶことの出来る制度を充実させることはとても大切であると私は思っています。

 学ぶ意欲を出すための授業の方法や手法はたくさん開発が必要であろう。折り紙を折るときにアクション折紙で折り紙を折りながら、身体を動かし、声を出すようにしたら、子どもたちの意欲がとても高まった。働き・学び・遊びのメリハリをつけることも大切であると思う。学ぶだけでは子どもはついてこない。みんなといろいろな工夫を考えだしたいと思う。
 最近では鉄棒も逆上がりに固執するのではなくて、塩引き→ブタの丸焼き→飛び上がり前回り→地球回りなどなどといろいろなプロセスを楽しめる授業になってきたようだ。
 リコーダーもまずはタンギング→救急車の音などと簡単なものからだんだん複雑なものへと変容させていく指導を教員時代に教わった。私が小学生のころは下のドからやらされて出来なかった。なんとか手法を見つけなければと思う。教える側としては。経済的格差が教育格差を生むなどと評論しているひまはないなあと感じつつ。