台中の宴会 12月4日台中に行き、午後車で取引先へ挨拶回りをした後、台北と同様社長さん達との宴会が始まったが、何故か私が北投温泉でひっくり返った情報が伝わっていて、逆に皆から飲んでは駄目と言われる位だった。現地の習慣として、飲むなら徹底してつぶれるまで飲む、飲まないなら一滴たりとも飲まない、中間が無いと教えられたので、台中では全く飲まずにもっぱら台湾料理を味わう事に専念しました。私の話がどう伝わったか良く分かりませんでしたが、どうもひっくり返った事が何故か非常に評価されて皆さんが好意の目で見てくれていた様です。酒の世界は全く持って摩訶不思議な世界ですわ。 鹿間先生の名前 台中から台南に向かう時列車の都合で時間があったので現地の方が博物館を案内してくれた。 色々陳列品を見て廻った時に偶然だったが発掘調査品の横に「この標本は日本の横浜大学鹿間時夫先生によって・・」の文字が目に入った。 今から25年以上前飯田高校で先生から地学を教えて頂いた時の事が思い出されて、案内の方にこの鹿間先生は私の高校時代の恩師なのでですと説明したら何たる偶然と喜んでくれた。鹿間先生のお名前を台中で見る事が出来るなんて不思議な事もあるんですね。 北回帰線記念塔 回帰線なんて言葉は地学に興味の無い方にはおよそ縁遠い言葉だろうと思います。 要約しますと、夏至と冬至に太陽の真下となる地点を連ねた線・・・え? 余計にわからない?・・ええんです 兎に角台中から台南に向かう線で台南の少し手前の嘉儀駅のそばにこの記念塔がで〜〜んと建っています。 正確に言いますと北緯23度27分の位置です。鹿間先生の地学のお蔭で、興味を持ち列車の窓から記念塔を狙って撮ったのがこの写真です。現在はこの記念塔の周辺は高層ビルが建って当時の面影は全く無いようです。すんません まさに「閑話休題」です。 ![]() 日本語の上手な台湾人って誰のこと? 12月6日。台南で挨拶回りも終わって恒例の取引先社長を招待しての宴会を開いた。この時に私が日本語で出席の皆さんにお礼の挨拶をしたら、座がざわめいた。変だなと思ったが、次に同行した台北の社長が台湾語で挨拶されたら座が余計にざわめいて方々で皆が顔見合わせてヒソヒソと私語の広がり・・・私に挨拶が何か失礼な事を言ったのだろうか?念のため申しますと戦前の日本統治の影響で60歳前後の方は日本語をかなり流暢に話すし理解も出来ます。ですから私の日本語の中に何かと案じたのですが取引先の社長の一人が台湾語で同行の台北の社長(彼は滅多に台南にきませんので台南の取引先は彼の顔を知りません)になにか質問した。同行の社長がそれに答ええたらもう全員が腹抱えて大笑い、文字通り爆笑の渦!こちらは全く事情が分からないのできょとん・・笑い過ぎて涙流した台北の社長が説明してくれた。 まずとんでもない誤解! 私が台北から来た社長で、同行の人が日本から初めて来た人と思われていたのだ。理由は私の顔は全く台湾人の顔(ご先祖様よ!ひょっとして浮気したのかな?) そして同行の社長の顔は日本人の顔に似ていたからだとか。だから私が最初に挨拶した時に台湾人なのに流暢な日本語を話すんだなあと感心したわけでザワザワ。次に同行の社長が台湾語で挨拶したら日本人の癖に台湾語がぺらぺらで驚きザワザワ。。そこで出席者の一人が同行の社長に「何処で台湾語を習ったのか?」と質問し、同行の社長が「???私は台湾人ですよ(笑) 彼が日本人です。」と説明して皆が誤解に気付いて大爆笑となった次第。このお蔭でそれからの宴会は実に和気藹々で「おい!日本の台湾人」と皆な裃脱いで付き合ってくれた。 こんな騒動で以後台南に行くと必ずと言って良い位「台湾語上手になったか」とからかわれて商談は実にスムーズに行きました。でも、台湾の皆さんからは本当に君は台湾人の顔だと言われました (う〜〜ん、本当に御先祖様 浮気してませんでしょうね?心配になりました) |