飯田高校の先生達 その1 2008.10.5追記



1.変遷

昭和20年は、まだ「飯田中学校」であったが、昭和25年卒業の時は「飯田高松高校」となっていた。 戦後の大混乱時で、昭和23年には飯田東高校となり、 翌24年には飯田高松高校となり、現在の飯田高校になったのは昭和33年であった。以後混乱を避ける為に全て飯田高校の名称で進めて行きます。

さて、卒業は昭和25年1950年、今から半世紀も前の事で、次第に記憶も薄れ、正確性も危ぶまれて来ているが、記憶に残っている先生方の思い出を書いてみたい。

神戸の三中の先生方もそのお名前よりも「あだな」の方が記憶に残っているが(ご勘弁を!) 飯田高校も三中にひけを取らないほど賑やかな「あだな」の先生方ばかりだった。羽生校長のカカシを筆頭に 「チャボ」 「おんま」 「みけねこ」「たぬき」 「だるま」 「ウラサ」 「ひきた」 「ゴリラ」 「せこさ」 「おろし」「なまず」 「げた」 ・・・これらの「あだな」は顔付きや外観から付けられたものが多いが、決して軽蔑の意味ではなく、「あだな」が付けられた事はその先生が生徒達に人気があった証拠と思ってください。

1.校長先生

羽生校長は 大正9年1920年当時の飯田中学卒業、東大を出て長野県各地の校長をされて、母校に戻ってこられた方で、遠い親類と聞いている。親しく話をした事は無く、逆に真冬にストーブの薪が足りなくなった時
おんぼろ机を校舎の屋上から校庭に放り投げてばらばらにし、薪に使用とやったら、それを運悪く見つかってしまい、羽生校長に、羽生がしっかりと油絞られた事しか記憶に無い。恥ずかしい限りである・・・。

2.理系の先生方

化学は根岸春五郎先生、実験用具がなくて、この実験をやったつもりと言って 黒板にやたらと化学記号を書きまくった。 さっぱりわからずおかげで化学というものが大嫌いになった。
  
生物は宮下先生、もりあお蛙研究では名前の知られた方だが、授業は脱線ばかり、 蛙の卵を味噌汁に入れたら美味かったとか、お前達は役にたたん「製糞器」にすぎんとか、おかげで生物とは何の授業であるか最後までわからなかった。

物理は市瀬先生、東大を卒業されて、暫く東京生活後飯田に戻られて教鞭をとられたとか、授業はキチントされたと記憶しているが、期末試験に「電車の動く原理を説明せよ」の一問だけの出題があった。 一夜漬けの
山掛けが、見事に外れて白紙回答、 後にも先にも 試験で「零点」を取ったのはこれが最初で最後、 そのため「物理」も大嫌いな科目になった。後日談だが、「電車は運転手が動かす」と書いて合格点を貰った野郎がいたそうだ。

地学は鹿間先生、 横浜大学から伊那谷の化石研究に来られてついでに
地学を教える様に成ったと言われているが、定かではない。とにかく大学受験には、理科1科目は選択しなければならず、化学はさっぱり、生物はチンプンカンプン、 物理は零点の後遺症で駄目、そうなると地学しかない。

昭和24年だったか地学が正式に理科の入試科目として認定されたが、歴史の浅いのと専門家の不足で入試問題もどちらかといえば、基本問題が中心で、これならなんとかなると思って鹿間先生の授業には真面目に出席した。地球物理、天文学等 全く新しい分野の学問で 又鹿間先生が専門家であった為益々地学にのめり込んだ。 余談だが、名古屋大学に合格出来たのは、この地学で点数を稼いだお陰と今でも感謝している次第。  社会人になって、台湾の台中博物館に行った時、展示品の中に「横浜大学鹿間教授により・・・」の説明文を読み感慨無量だった。この地学のお陰で今でも 星の運行や宇宙の原理、地質や化石、火山等々に興味をもっている。

3.体育の先生

松島秀春、あだなは「せこさ」−そのいわれは忘れたが昭和15年から39年まで約24年の長きに渡って 飯田高校の体育の先生であった。私と同じ喬木村で、住まいもご近所、体育の先生らしく背筋をピンと伸ばして自転車で通勤。てくてく歩いている私の後ろから「おーい、はよ行かんと遅刻だぞ」そう声をかけて追い越していかれるのが、毎朝の日課みたいだった。
当時運動場の西に川の水を引いたプールがあった。 夏は水泳と決まっており、「ふんどし」姿で、飛び込んで楽しんだ。脱衣室、シャワーなんてものは、一切無し。 プールの端で裸になってふんどしを締めて、川の水を身体にかけて、「それ、飛び込め!」 終わったら タオルで身体を拭いておしまい。今の高校生には想像もつかない時代だと思う。噂では、「せこさ」は かなずちということになっていた。真偽のほどは確かではないが、そう言えば 「せこさ」がプールに飛び込んだ姿は記憶に残っていない。退職後は喬木村で 書道の先生をされて、近所のばあ様連の人気の的だったと聞いていたが、その先生も数年前に故人となられてしまった。

◆2008年10月5日追記

松島秀春先生(昭和15年から昭和39年まで在職)のあだなが「せこさ」と書きました。昭和20年頃上級生は皆な松島先生の事を 「せこさ」と呼んでいたので そのいわれも知らず 我々も 「せこさ」と言って親しんでいました。
 
先日 同窓会のゴルフがあり 終了後のパーティーで回顧談に花が咲いて恩師の思い出話になった時 「せこさ」の話が出ました。

その時 私より6年先輩のH氏より「せこさ」のあだ名は 当初は「せこさ」ではなく「せこまん」と呼ばれていたんだ。  H氏が入学した時の体育の先生は
サルそっくりであったので モンキーと呼ばれていたが 昭和15年に転任になり その後釜に来られたのが松島先生。

ところが松島先生も何故か サルの親類?といわれて 二番目のサルという意味でセカンドモンキー、これを省略して「せこまん」と呼ぶようになったが
先生の暖かい人格で サルの「まん」が消えて 「せこ」だけが残り伊那谷の方言で親しみをこめた表現の「さん」が「さ」となるので 「せこ」と呼び捨てではなく「せこさ」と変化したんだ との説明に同席した同窓生も 誰もそのいわれを知らず 一同 「へえ〜〜!」60年以上経って 初めて「せこさ」の真相?を知った次第でありました。



温田市助先生
昭和22年に赴任されてこられたが、あだなは「なまず」 この頃には
授業も少し軌道に乗ってきた感じで、「なまず」先生は、我々に初めて
棒高跳びを教えてくれた。 ポールは 付近に幾らでもある竹を切ってきて使用したが、あの「なまず」先生が巨体をジャンプさせてバーを軽々と
越えていく姿に 皆な驚嘆したものだった。 いまから思えばバーの高さは
精々三メートル位だっただろうが、それでも初めて見る棒高跳びには
流石の悪童連も脱帽、 走り高跳びも、以前からあったが、やたらと
飛び上がるだけだったのが、なまず先生は 「背面飛び」なるものを見せてくれた。 とにかく今までの体育は 徒手体操、鉄棒、後はトラックを走るだけでなんとかヘリクツ仮病でさぼる事が多かったが、この「なまず」先生になってからは体育の時間が待ち遠しい位になった。  高校3年の夏休みが終わった後の授業で、「なまず」が突然 この夏休み、伊那谷から出た奴は手を挙げろ、と言った。
何人かが、手を挙げたら、何処に行った? 一人一人聞いて、「この夏休みに受験勉強で、伊那谷に閉じこもってる奴は ロクでも無い奴でそんな奴には体育の合格点はやらん、 いちばん遠くに行った奴から100点をやる」運良く私は名古屋の親類の家に行ったので、それを言ったら、2学期の成績表の体育が、「優」になっていて、たまげた! 小学校以来体育は苦手で、優良可の可に近い良しか貰った事がなく、驚いた記憶がある。 このなまず先生も今は故人となられたが せこさ先生と同様、私の記憶にはその顔ははっきりと残っている。




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