EVANGELION Another World #23A.
第弐拾参話
A part.

「猫と少年」

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 夕焼けが、血の色に見えた。
 シンジは姥子にある公園に来ていた。眼下には第三新東京市の兵装ビル群が夕日の中に林立していた。シンジには、その赤い姿が血にまみれ、鎖に繋がれた罪人の群れのように見えた。
 シンジは、そんな街を前に公園の端に一人たたずんでいた。
〈トウジ…左足がなかった〉
 シンジは、最後に見た級友の姿を思い出して目を伏せた。視界から兵装ビルは消えるが、赤い色は世界のすべてを覆い、視界から消えることは無かった。
〈トウジ、どうしているだろう。でも会いには行けない、どんな顔をして会えばいいのかわからない…〉
 どこからか子供を呼ぶ母親の声が聞こえる。シンジの背後を子供が駆け抜ける気配がした。
〈人造人間エヴァンゲリオン。使徒を倒すことのできる唯一の存在。でもそれがトウジを傷つけたんだ〉
 シンジは先日加持に告げられた言葉を思い出した。日が落ちるにつれて、街の影が少しずつ長くなってゆく。
〈使徒。天使の名を持つ僕らの敵。…いったい、使徒って何なんだ。エヴァって何なんだ? 父さん…いったいここで何をしているんだ〉
 無意識のうちにシンジは両手を力いっぱいに握りしめていた。そんな自分に気がつくと、シンジは大きく息を吐き出して握り締めていた指を一本ずつ開いてゆく。
〈結局ぼくはなにも知らないんだ。…こんな時、加持さんならどうするんだろう〉
 無意識のうちにうつむいていたシンジの耳に、軽いハミングが届いた。「歓喜に寄す」、第九交響曲の第四楽章である。シンジはそのメロディに魅せられたように、無意識にその声の方向へと目を向けた。
 そこには、シンジと同じくらいの年齢の少年が鉄柵に腰掛けていた。透き通るような白い肌、薄い色の髪。そして赤い瞳。もうすぐ地平線に隠れようとする太陽は、その最後の光線を少年に投げかけ、彼の全身を赤く染めていた。シンジが少年を見ていると、どこからか全身真っ黒な猫が現れ、少年の腰掛けた柵に飛び乗った。
「歌はいいねぇ。歌は心をうるおしてくれる。リリンの生み出した文化の極みだよ」
 少年はそう言うとゆっくりとシンジに視線を向けた。
「そう感じないかい、碇シンジ君?」
「僕の…名前を…」
 シンジは少年の口から自分の名が発せられたことに驚いた。
「知らない者はいないさ。失礼だが、君は自分の立場をもうすこし自覚した方がいいね」
 少年はそう言ってシンジに微笑みかける。
「僕はカヲル、 渚カヲル。君と同じ仕組まれた子供、フィフス・チルドレンさ」
 少年がシンジにそう名乗ると、傍らの猫がそれに呼応するように一声ないた。

「フィフスチルドレンが到着したそうです」
 日向は、ミサトに表紙だけは立派な薄いファイルを渡した。
「渚カヲル。過去の経歴はすべて抹消済みか…レイと同じね」
 表紙にマルドゥク機関の名が記されたごく薄い報告書をめくりながらミサトは答えた。
「公開されているパーソナルデータは誕生日のみ、それもセカンドインパクトと同一日です。アスカが不調になったとたんに登場するなんて、裏になにかありますよ。これは」
「いかにも思わせぶりな話ね。なめられてるのよ、私達。委員会が直に送り込んできた子供よ。必ずなにかあるわ…」
「で、どうします?」
「どうするも…」
 ミサトは書類をぱたんと閉じる。
「今日のところは、素直に彼の実力を見せてもらいましょ。委員会ご推薦のね」

「フィフスチルドレン、渚カヲル。間違いなく本人だな」
 黒を基調にまとめられたブリーフィングルームに冬月の声が響く。軽く確認するようないつもの口調だ。
 冬月の右側にはミサトと日向、左側にはリツコとマヤが立っている。そしてその五人の正面にカヲルが立っていた。
「しかし…」
 冬月が視線をカヲルの足元に向ける。そこには部屋の黒に溶け込むかのように一匹の猫が座っていた。
「ここは動物園じゃないぞ。どういうつもりだ」
「直接ここへ来たものですから。どこにも預けることができませんでした」
 カヲルが悪びれる様子もなく答える。猫の瞳が冬月に向けられる。
「次からはこのようなことがないようにな」
 そう一言いうと冬月はリツコに視線を移す。
「さっそくですが、シンクロテストを行いたいと思いますが」
 リツコの発言にミサトが確認する。
「カヲル君、いきなりだけど、いいわね。」
「かまいませんよ。すみませんがジョフィエルをお願いします」
 マヤが一歩進み出て、ジョフィエルと呼ばれた猫に手を差し伸べる。
「おいで、ジョフィ」
 ジョフィエルは真っ赤な口をあけて大きくあくびをすると、とてとてとマヤへと歩み寄り、その手に擦り寄る。マヤは両手でジョフィエルを抱き上げる。
「かわいい! ほら、先輩!」
 マヤはそう言ってリツコにジョフィエルを差し出す。リツコは喉をなでようと右手をだすが、ジョフィエルはとつぜんうなり声を発するとリツコの手に爪を立てた。
 反射的に引かれたリツコの手には、二本の赤い筋から玉のような血が浮き出していた。
「すみません、大丈夫ですか」
 カヲルがおどろいて声をかけた。リツコはしばらく呆然と右手の傷を見ていたが、ふと気を取り直すと大丈夫だと答えた。
 マヤにジョフィエルを、日向にカヲルをまかせると、ミサトはリツコと共にハーモニクス・シンクロテストの準備が行われている第七実験室へと向った。
「めずらしいわね、リツコが猫に嫌われるなんて。大学じゃ、どんな野良猫でもリツコを見ると喉を鳴らせてよってきたのに」
 廊下を歩きながらミサトはリツコに軽口をたたく。
「そうだったわね。…でも、私も変わったもの」
「そんなもんかしらね」
 物憂げなリツコの声の普段とは違う響きに、ミサトは気付かなかった。

 テストプラグへの登場口に黒いプラグスーツのカヲルが現れた。カヲルはシンジを見つけると微笑みかける。それをうけて、シンジもおずおずと笑みを返す。
 アスカはそんな二人をみて不快感を覚える。
〈なによ、あいつ。なれなれしいやつね!〉
 そんなアスカの視線に気付いたのか、カヲルがアスカに目を向ける。アスカには、カヲルの笑みが自分をあざけっているように見えた。

「レイはあいかわらずの平常値、シンジ君も高レベルで安定しています」
 第七実験場の管制室でマヤがハーモニクスのデータを読み上げる。
「フィフスチルドレンは?」とミサト。
 リツコはマヤの背後から詳細データのディスプレイをのぞきこみ、時折他のオペレータに指示を飛ばしている。普段の試験に比べて、出される指示の量は異常に多い。
「どうしたの、トラブル?」
 不安になったミサトが尋ねる。
「そうだったらいいんだけど…あと、〇・三下げてみて」
「はい」
 リツコはそう言うとキーボードに指を走らせ、正面スクリーンにデータをまわす。
 そのデータを見たミサトは絶句する。
「このデータに間違いはないの」
「マギによるデータ誤差、認められません」
「計測システムは、すべて正常に作動しています」
 オペレータから次々に報告がよせられる。
「しかし、信じられません。システム上ありえないことです」
 マヤがリツコを見て言った。
「そうね、なんの準備もなしにいきなり弐号機とシンクロ、それもこんなの高レベルで。…理論的には考えられないわ」
「それってどういうこと?」
「…わからないわ。とりあえず今は取れるだけのデータを採取するのが先決ね。考えるのはその後」
 リツコ両手を白衣のポケットに入れ、窓の外に視線を移して答えた。
「そう…」
 ミサトは一言答えると、リツコの視線を追うように窓の外の実験場を見る。プールにそびえ立つテストプラグは、いつもより一本多い。
「…アスカは?」
「ひどいものね。シンクロ率が二桁ぎりぎりよ。起動限界に近いわ」
 リツコはそう言うとマイクを取った。
『アスカ、余計なことは考えないで。データ、落ちているわよ』
「わかってるわ! 気が散るから話かけないで!」
 アスカは目を閉じたまま怒鳴りかえす。
 無視しよう、そう思っても意識は隣のテストプラグの中のカヲルにむかう。
〈なんか気に入らないと思ったら、あの女に似てるんだわ〉
 アスカはカヲルの登場をまったく意識していない、普段と同じ無表情なレイを思い出した。
〈シンジもあんなやつと仲良くして! 男同士でしょうに!〉
 ふとアスカの心に疑問が浮かぶ。エヴァは三機。しかしパイロットは四人。
 アスカは自分の考えを否定するように頭を大きくふった。

「先、行くから」
 テストの後、プラグスーツを着替えもせずに座り込んでいるアスカを残して、レイは一人で更衣室を出た。いつもと同じテスト、いつもと同じ廊下、いつもと同じはずの一日…。
 そんなことを考えながら、地下鉄の駅への長いエスカレータを昇る。しかし、エレベータの終点と共に、いつもと同じ一日は終わりを告げた。
 エスカレータを昇ったところには一人の少年が立っていた。渚カヲル、レイはテストの時に紹介された名前を思い出した。
「君がファーストチルドレンだね」とカヲル。「綾波レイ。君は僕と同じだね」
 レイは正面からカヲルを見つめた。自分と同じ透き通るるような白い肌、薄い色の髪。そして赤い瞳。
「あなた…誰」
 奇妙な既視感を覚えながら、レイはカヲルに向って尋ねた。

「フィフスの少年がレイと接触したそうだ」
「そうか」
 公務室で冬月がゲンドウに報告した。その報告を受けたゲンドウの顔は、こころなしか普段よりも険しく見えた。冬月は現在の状況が好ましくないことをあらためて認識し、報告を続ける。
「今、フィフスのデータをマギが全力をあげて洗っている」

「にもかかわらず、いまだに正体は不明か…」
 ミサトのマンション、自室の端末の前でイスの背にもたれかかり、ミサトはつぶやいた。
 手を伸ばして端末を休止状態にさせると、リビングに出る。
 すでに窓の外は漆黒の闇につつまれていた。明かりのついていない部屋の方が多い家の中は、しんと静まり帰っている。ペンペンがミサトを見つけて足元にやってくる。
「アスカもシンジ君も帰ってこないか…保護者失格ね」
 ミサトはしゃがみこむと、そっとペンペンを抱きしめた。

 シンジは本部ゲートを出たところでSDATを聞いていた。カヲルが口ずさんでいた曲。ベートーヴェンの全九曲の交響曲の最後を飾る作品である。
 シンジの周囲に影が落ちる。顔を上げるとそこにはカヲルが立っていた。ヘッドフォンのせいで気付かなかったのだ。
「僕を待っていてくれたのかい」
 カヲルはその屈託のない笑顔でシンジに尋ねた。
「いや、べつに…そんなつもりじゃ」
 シンジは図星をつかれてしどろもどろに答えた。そんなシンジを楽しそうに見ながら、カヲルは言葉を続ける。
「これからどうするんだい?」
「あの、定時試験も終わったし、あとはシャワーをあびて帰るだけだけど…でも、本当はあまり帰りたくないんだ。このごろ」
「帰る家、ホームがあるという事実は幸せに繋がる。よいことだよ」
「そうかな」
 不思議なことを言う人だ。でもその言葉が自然に心の中に入ってくる。もっと彼と話がしたい。シンジの心にそんな思いが浮かんだ。
「僕は君ともっと話がしたいな。一緒にいっていいかい」
「え、」
 自分の心が見透かされたような、そんな気恥ずかしい思いがシンジを包んだ。そんなシンジを見ながらカヲルは言葉を続ける。
「シャワーだよ。これからなんだろ」
「う…うん」
「だめなのかい」
 あいまいなシンジの答えにカヲルはすこし眉を曇らせる。
「いや、べつに…そういうわけじゃないけど」
 シンジがやっとそういうと、カヲルは嬉しそうに微笑んだ。

「一次的接触を極端に避けるね、君は」
 ネルフの広い浴場で、並んで浴槽につかりながらカヲルはシンジに話しかけた。
「恐いのかい? 人と触れあうのが。他人を知らなければ裏切られることも、互いに傷つくこともない。でも、寂しさを忘れることもないよ。人間は寂しさを永久に無くすことはできない。人は一人だからね。ただ忘れることができるから、人は生きていけるのさ」
 忘れることで人は生きてゆける。そのカヲルの言葉はシンジにとって、とても甘美なものに聞こえた。
 カヲルの手がシンジの手に重なる。その感触にシンジははっとしてカヲルを見た。視線が会う。顔が熱いのは風呂のせいだけではなかった。
 巨大な動作音と共に、突然明かりが消えた。入浴時間の終わりである。
「時間だ」
 非常灯が残る天井を見上げながらシンジはつぶやいた。
「もう終りなのかい?」
「うん、もう寝なきゃ」
「君と?」
「え?! あ…カヲル君には部屋が用意されていると思うよ。別の…」
 いたずらっぽいカヲルの質問にシンジはしどろもどろに答える。
「そう…常に人間は心に痛みを感じている。心が痛がりだから、生きるのも辛いと感じる」
 カヲルが浴槽から立ち上がる。シンジは非常灯の薄明かりに浮かぶ、カヲルの透き通るような白い体を見上げる。そんなシンジの視線をカヲルはまっすぐに受け止める。
「ガラスのように繊細だね、特に君の心は」
「僕が…」
「そう、好意に値するよ」
「コウイ…?」
「そう。『好き』ってことさ」
 シンジはいままで自分がその言葉を渇望していたことに気付いた。

 そこは真っ暗な部屋だった。
 低いうなるような音と共に、室内に十二枚の黒石板がそびえ立った。
 一枚の石版に、「SEELE 03 SOUND ONLY」の文字が浮かび上がる。
「ネルフ、我らゼーレの実行機関として結成されし組織」
 暗い部屋に声のみが響き渡る。その言葉を受け、他の石版にも次々と文字が浮かぶ。
「我らのシナリオを実践するために用意されたもの」
「だが、今は一個人の占有機関となり果てている」
「さよう、我らの手に取り戻さねばならん」
「約束の日の前に」
 十二枚の黒石板から次々と声が上がる。
「ネルフとエヴァシリーズを本来の姿にしておかねばならん。碇、君の真意、試させてもらうぞ」

 ゲンドウは一人で初号機のケージに来ていた。
「我々に残された時間はもう残り少ない」
 正面から初号機の顔を見上げてつぶやく。
「だが、我らの願いを妨げるロンギヌスの槍はすでに無いのだ。残る使徒は二体。それらを消せば道が開ける。…約束の地、閉ざされたエデンへの道が、そして私の願いが。もうすぐだよ…ユイ」
 初号機は黙したまま答えない。ゲンドウは黙ってその顔を見上げていた。

「ヒカリ、泊めて!」
 そういってアスカはヒカリの部屋に転がり込んできた。
 ヒカリは突然のことに驚いたが、快くアスカを迎え入れた。二人は一緒に風呂に入り、寝間着に着替え、いろいろな話をした。
 学校のこと、はやりのファッションや芸能人のこと、駅前でやっている映画のこと、おいしいケーキ屋さんのこと、そして友人のこと。
 アスカは一人の級友のことを思い出した。
「鈴原…どうしてる?」
 アスカは恐る恐る尋ねる。
「ん…だいぶよくなったみたい。もうすぐ起き上がれるようになるって」
「そう…」
 アスカはクッションをかかえて黙り込む。そんなアスカにヒカリが問い掛ける。
「…あのロボットの実験中の事故なんだって? アスカ達は大丈夫なの?」
 ヒカリは不安そうに尋ねた。あの日、なにが起こったのか彼女は知らない。罪悪感を感じながらアスカはつとめて明るく答える。
「私は大丈夫よ。…それに、事故なんてめったに起きるもんじゃないわ」
「そうか、そうよね。安心した」
 ヒカリが笑顔で答える。アスカはその笑顔を直視できなかった。自分はあの日、彼の乗った参号機を倒すためにあそこにいたのだ。そして鈴原はパイロットではなくなった。次は自分の番かもしれない。シンクロテストの時に湧き起こった疑問が再びアスカの心を包む。
 ヒカリはアスカの様子がすこしおかしいことに気付いた。
 だから自分のところに来たのだ。
「…寝よっか」
「うん」
 ヒカリの提案に、明かりが消され二人はひとつのベッドに潜り込んだ。
 暗闇に沈黙が流れる。
 ヒカリが静かに口を開いた。
「アスカ…なにかあったの?」
 一呼吸の間を置いて、アスカが答える。
「私…勝てなかったんだ、エヴァで」
 ヒカリがアスカの方を向くと、その視線を割けるようにアスカはヒカリに背を向けた。
「今日、新しいパイロットが来たの。今の私なんかよりずっと優秀な…。私、きっと弐号機から降ろされちゃうわ。…もう、私の価値なんか無くなったの、どこにも…」
 アスカはヒカリに背を向けたまま、ひざを抱え込む。
「きらい、大嫌い、みんな嫌いなの。でも一番嫌いなのは私…。何かもう、どうでもよくなちゃったわ…」
 ヒカリにはアスカの事情、ネルフのことはよくわからなかった。解っているのは、アスカが自分の大切な友人であることだけだった。
「私は…アスカがどうしたっていいと思うし、なにも言わないわ。たとえ勝てなくたって、アスカはよくやったと思うもの」
 ヒカリはそれだけをゆっくり、まるで妹に言い聞かせるように話した。
 アスカは、泣いていた。

 明かりの消えた部屋に、窓からの月明かりが差し込む。鏡の中のもう一人の自分。透き通るような白い肌、薄い色の髪。そして赤い瞳。
 レイは鏡に向って手を伸ばす。鏡の中の自分とその表面で指先がふれあう。
〈私は私。この世で唯一人のはずの自分〉
 指先をそっと鏡の表面に滑らす。そして鏡に背を向けるとベッドへと仰向けに倒れ込む。
〈私、なぜここにいるの。なんのために、だれのために〉
 ゆっくりと頭を動かして、窓の外から冷たい光を投げかける月を見つめる。その白い光に本部で出会った少年を思い出す。
〈フィフスチルドレン、あの人。私と同じ感じがする。どうして…〉
 レイはゆっくりと瞳を閉じる。自分の中から答えを探すように。

 第3新東京市地下F区。第四次整備計画で建築されたNERV職員向けの独身寮。どこにでもあるような普通のワンルームマンションである。
 しかし数十室ある建物の中で人がいるのは、渚カヲル、彼に割り当てられた部屋だけだった。
 彼らは明かりを消した部屋の中にいた。ベッドにカヲルが、そのすぐ横の床にシンジが横になっていた。カヲルの足元には、ジョフィエルが丸くなっていた。
〈知らない天井だ。でも、こんなに落ち着くのはなぜなんだろう〉
 シンジは眠れない様子で天井を見上げていた。
「やはり、ぼくが下で寝るよ」
 眠れないのか、カヲルもシンジと同じように天井を見ていた。
「いいよ、ぼくが無理言って泊めてもらっているんだ。ここでいいよ」
 シンジが答えた。そのまま沈黙が訪れる。
「君は何を話したいんだい?」
「え…」
 唐突にカヲルが問い掛けた。シンジはその問いに虚をつかれて戸惑った。
「僕に聞いてほしいことがあるんだろ?」
 カヲルは静かに、重ねて問い掛ける。
 話したいこと、聞いてほしいこと。
 シンジは、自分が心の奥に閉じ込めてきた物の存在に気付いた。これまでの自分の喜び、悲しみ、怒り、感情と呼ばれるもの。これまで誰にも見せたことのない、心の壁の内側に押し込めてきたもの。カヲルの言葉にシンジの心の壁はゆっくりとその姿を消してゆく。崩れ落ちるジェリコの壁のように。
「いろいろあったんだ…ここに来て。来る前は先生のところにいたんだ。穏かで何にもない日々だった。ただそこに居るだけの」
 シンジはゆっくりと話始めた。カヲルは黙ってそれを聞いている。
「でも、それでもよかったんだ。僕には何もすることが無かったから」
「今は、どうなんだい?」
 シンジはすこし考えて答えた。
「ここには僕のすることが、しなきゃいけないことがある…あるはずなんだ。加持さんが教えてくれた。後悔しないようにって。でも…楽しいわけじゃない」
「つらいのは、嫌かい?」
「好きじゃない。でも、僕を必要としてくれる人がいるなら、それでもいいと思う」
「人間は好きかい?」
「ここに来るまでは…どうでもよかったんだと思う、考えたこともなかった。ただ、父さんは嫌いだった」
〈どうしてカヲル君にこんなことを話すんだろ? 初めて…人と話をしたような気がする〉
 人に自分の思いを話す。これまでしたことのない自分の行為をシンジは不思議に思った。ふとカヲルのほうを向く。彼は真っ直にシンジの目を見つめていた。
「僕は、君に会うために生まれてきたのかも知れない」
 カヲルはうれしそうに言った。



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Copyright(c)1996-2000 Takahiro Hayashi
Last Updated: Sunday, 09-Sep-2007 18:42:46 JST