EVANGELION Another World #27B.
第弐拾七話・最終回
B part.

[ And I Have Come upon This Place by Lost Ways ]

[|]

 
 
 シンジはどこか解らないところにいた。そこにどこでもなく、いつでもなかった。
 そこは暖かく、安らぎに満ちていた。シンジはその安らぎに身をまかせていた。いつからここでこうしているのかも解らなかった。
『…ンジクン…碇シンジ君…』
 シンジは遠くから自分を呼ぶ声に気付いた。その声は少しずつ大きくなっていった。
 その声をシンジが意識したとき、その場所が変化した。シンジはその声が自分に向かってくるのがわかった。
「碇信治君!」
 信治はその声にはっと顔をあげた。次の瞬間、その額にチョークが炸裂した。教室の中に、くすくす笑いがさざなみのように広がる。
 教壇では、美里が教科書を片手に、仁王立ちにで信治をにらみつけていた。
 それを見て信治は慌てて立ち上がり、教科書をめくる。隣の席の明日香に助けを求めるように視線を移す。しかし明日香は馬鹿にしたような目で「バーカ」と小さくつぶやくと、そっぽを向いてしまった。
「128ページ」
 斜め後ろの席の嶺が、静かに告げる。信治はほっとした顔で、教科書を読み始めた。
「Mankind faces a crisis any in human history.To confront this threat,one young boy and two girls now board a machines created by the world's top scientists and engineers.The ultimate all-purpose humanoid wepons:Evangelion…」
 ぎこちない発音の朗読が始まると、教室に広がった喧噪も静まり、静かな授業が再開された。

「さっきはありがとう」
 授業が終わった後、信治はすぐ後ろの席に座る、綾波嶺に礼を言った。明日香は自分の席から、そんな信治の様子を憮然として見ていた。
「困った時はお互い様。私、意地悪したりしないもの」
 嶺は微笑んで答えた。その途端、がたん、と椅子の倒れる音が響いた。明日香だ。
「まるで私が意地悪みたいな言い方ね!」
 明日香は信治と嶺の間に割ってはいると、腕組みして言い放った。嶺は表情一つ変えずにそれに答える。
「誰がそんなこと言ったの?」
「…私、あんたのそういうところ、大っ嫌い!」
 普段とかわらない嶺と、両手を腰にあて、むっとした顔で嶺をにらみつける明日香。そんな二人を前に、信治が話題をそらすようにおずおずと声をかけた。
「明日香、今日も体操部、遅いの?」
 ふっと気勢がそがれたように明日香は信治に視線をうつした。
「ええ、インターハイの予選も近いしね。あんた達みたいに暇じゃないもの」
「僕だって部活くらいあるよ」
「あれ? まだ部だったの?あんたの所?」
「…部員がいるうちは続くよ」
「部員っていったって、あんた一人じゃない」
「そういう所が…」
 二人のやりとりを眺めていた嶺がぽつりとつぶやいた。明日香はむっとして嶺に向き直る。
「言いたいことがあったらはっきり言ったら」
「なにか言われるような心当たりがあるの?」
 平然と言い放つ嶺に、明日香はなにか言い返そうとしたが、きびすを返すと足音も大きく教室をでていってしまった。
「どうしたのかしら、彼女?」
「綾波…もう少し手加減してあげてもいいんじゃないかな」
「何を?」
 困ったような信治に、嶺は真顔でそう訪ねた。

「信治、明日の休み、暇か?」
 帰り支度をしていた信治に、健介が声をかけた。
「新横須賀港にレパルスとイラストリアスが来てるんだ。見に行かないか?」
「残念ね。私と先約があるのよ。」
 信治が返事をするより早く、明日香が口をはさんだ。
「シネマスコーレに『アルファ・ラルファ大通り』見に行く約束したでしょ」
 してないよ、そう言おうとした信治に、明日香は、
〈黙ってなさい!〉
 と目だけで命令した。
 健介はそんな様子を見て、呆れたように言う。
「相変わらず尻にしかれてるな。仕方ない、鈴原でも誘うか」
「ちょっと、誰が尻に敷いてるって?」
「おっと、退散退散っと」
 突っかかる明日香を避けるように健介は片手を振ってその場から離れた。
「アスカ…誘ってくれるのは嬉しいんだけどさ…」
 信治はアスカに答えようとした。しかし、それを遮るように、嶺が信治に話しかけた。
「碇君、明日買い物につきあってくれない?」
「残念ね、先約があるのよ」
 明日香が勝ち誇ったように言った。
「あなたの予定は聞いてないわ」
「あんたねえ!」
 嶺は明日香を無視して信治を見つめた。そのまっすぐな視線に信治はドキリとした。
「私とじゃ、いや?」
 嶺は、正面から信治の瞳を見つめた。
 その深紅の瞳、ルビーのような、そして鮮血を思い起こす紅。
「いやじゃないけど…」
 シンジはためらいがちに答えた。
「これって、現実じゃないんでしょ」
 レイの笑顔が凍る。
「学校は、もう無いんだ。トウジもケンスケも疎開して遠くへ行ってしまった。アスカは無事だってミサトさんは言っていた。でも、まだ会えない。まだ終わったわけじゃないんだ」
 信治は、少しうつむいて淡々と言った。喧噪につつまれていた教室は、水を打ったように静まっていた。
「エヴァンゲリオン初号機、使徒に打ち勝つことのできる唯一の存在。僕はそのエントリープラグにいるはずなんだ。この世界は…まやかしだ」
 その世界は時が止まっていた。周囲の人々は氷ついたように動きを止めていた。信治の視界から、教室が、机が、級友が、明日香が消えてゆく。世界に残されたのは、シンジとレイの二人だけだった。
「でも、この世界はあなたの心が願った世界。だれも死なない、傷つけることもない、平和な世界」


 惣流・アスカ・ラングレー、彼女の場合

「何を願うの?」
 アスカは、目前に立つレイに問いかけられた。その紅い瞳が、アスカの心の奥の扉を開けていった。
〈私は一人で生きるの〉
〈私を殺さないで〉
〈ママをやめないで!〉
〈私を見て〉
〈一人はいや!!〉
 アスカの脳裏にさまざまな思いがフラッシュバックのように蘇った。しかし、その自分の願いが、すべて過去のものだということを知っていた。
「…ママは、そこにいるのかしら」
「死んでしまった人は、もうどこにもいないわ」
 アスカの問いに、レイは小さく、しかしはっきりと答えた。
「そう…残念だな、ちゃんとさよならを言いたかったんだけど。それと、『ありがとう』って」
 アスカはそう言って右手を開いた。
 そこにはシンジに贈られた、銀の指輪が光っていた。
 アスカの心は決まっていた。
「シンジと話がしたい。私の願いはそれだけよ。他には何もいらないし、どこへも行かないわ。私は私だもの。他の誰にもなりたくないわ」
「そう、それでいいのね?」
 アスカは大きく頷いた。それを見て、レイは嬉しそうに微笑んだ。アスカはレイのその表情に驚いた。彼女の笑顔を見るのは初めてのことだったからだ。
 アスカはふと不安になった。
 シンジは何を願うのだろう?


 碇ゲンドウ、彼の場合

 ゲンドウとレイは、その闇の中で向かい合っていた。二人はどちらからも口をひらこうとはせず、じっと見つめ合ったままだった。
「なぜ、私を裏切った」
 ゲンドウはその沈黙の帳を破り、静かに尋ねた。
「…自分の夢を、見たかったから」
 レイは少しためらったが、ゲンドウをまっすぐに見て答えた。
 ゲンドウはそのレイの紅い瞳をじっと見つめ返す。十二年間、ゲンドウ只一人を見つめてきた紅い瞳。しかし、今はその瞳の中にゲンドウはいなかった。
 ゲンドウはそれを見ると、疲れたように肩を落とした。
「長かったな…ここまでの道は。十二年の歳月と多くの犠牲を階段として、私はここまで来た…私の失ったものを取り戻すために…」
「過ぎ去った刻を戻すことはできないわ。…こぼれた水は、元には戻らないの」
「…こぼれた水は…また汲めばいい」
「ええ、でもその水は前と同じものではないわ。時と共に変わってゆくの。…この世界は、未来は子供達のものよ」
 今、ゲンドウの前にいるのはレイではなかった。十二年前に失った人の思いが、そこにあった。
「ユイは…そこにいるのか」
「いないわ。私は私になってしまったもの。過ぎ去った刻は…もう戻らないわ」
「そうか…」
 ゲンドウの中でなにかが終わった。彼の愛した人は十二年前に彼から去っていってしまっていたのだ。ゲンドウは、自分がその事実を認めることのできなかっただけの、弱い人間であったことを知った。
「レイ、私を怨んでいるか」
 レイは、その問いに黙って首を振った。ゲンドウはそれを見ると、口元だけで微笑んで言った。
「ありがとう。さらばだ、レイ」


 碇シンジ、彼の場合

「僕には将来なりたいものなんて何もない。夢とか希望のことも考えたことがない」
「何かするんですか? 僕が」
「そんなの無理だよ! できっこないよ!」
「大丈夫ですよ、乗りますよ」
「た、ただいま」
「笑えばいいと思うよ」
「戦うのは男の仕事!」
「僕はもう、エヴァには乗りません。ここにもいたくありません」
「僕は…エヴァンゲリオン初号機のパイロット、碇シンジです!」
「裏切ったな! 僕の気持ちを裏切ったんだ!」
「仲間じゃないか。一緒に行こう」

 気が付くと、シンジは闇の中にいた。目の前には制服姿のレイが立っていた。二人の立っているところだけが、まるでスポットライトを浴びたかのように明るく照らされていた。
 他には、何もなかった。
「何を願うの?」
 レイはシンジに訪ねた。
「僕を…」
 僕を見捨てないで。叔父の家に預けられたその日から、シンジの心に焼き付いていた言葉。シンジはその言葉を告げようとして、やめた。それは今の自分の願いではなかった。
「…汎用決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン、その初号機パイロット。…初めは望んで乗ったわけじゃないんだ。でもエヴァに乗ったから僕はここにいる、エヴァに乗ったから僕は今の僕になったんだ。今が好きなわけじゃない、だけどエヴァに乗る前の僕は生きているのか死んでいるのかわからないような人間だったんだ。…今が幸せなわけじゃない、でも、昔に戻りたくはない」
 シンジの脳裏に戦闘の記憶が次々と蘇る。
 叫び声と共にプログナイフで闘った第4使徒、ヤシマ作戦、アスカと乗り込んだ弐号機、虚数空間、第壱拾四使徒とのジオフロントの血戦、渚カヲル…、第3新東京市に布陣するエヴァシリーズ。
 そして、閃光に包まれる零号機の最後の姿。
「どうして…あんなことを…」
「私が…私でいるためには、私はこうするより他に道は無かった。私の中に、もう一人の私を感じるの、暗くて何も見えない、何もわからない心があるの…」
 レイはシンジをまっすぐに見つめて言った。
「碇司令を怨まないで。あの人がいたから、私は生まれてこれたのだから。あの人がいたから、私はこれまで生きてこれたのだから」
「それが…絆?」
 少しためらいながら訪ねたシンジに、レイは黙ってうなずいた。
「…そんなものが絆でなんかあるもんか…綾波だって、もっと幸せになれたはずなんだ、生きてさえいれば! それなのに…」
「…ありがとう…私には、あなたのその言葉だけで、その心だけで充分…」
 一瞬の沈黙の後、レイはシンジに言った。
「あなたは、何を願うの? あの世界、それが補完計画の創り出す世界。何ひとつ失われはしない。何ひとつ忘れられはしない。不完全な心と体、それを捨て去り、全ての心を一つに…」
 シンジは、自分が選択を迫られているのを知った。
 彼の答えは決まっていた。
「僕はここにいたい。みんなと…アスカと一緒に。でも、それは心まで一つになることじゃない。そんなんじゃ、僕達が一人づつ生まれてきた意味が無いじゃないか! 辛いことだってあるさ、でもそれだけじゃないんだ。僕にもようやくそれが解るようになったのに…補完計画がそんな物だとしたら、そんなのは止めさせなきゃいけないんだ」
「それが、碇司令の意思だとしても?」
「…誰の意志だとしても」
「そう、それでいいのね?」
 右手を握り締め、シンジははっきりと頷いた。
「最後の使徒を倒しなさい」
 息のかかるような目前に、レイの瞳があった。彼女は両手をシンジの頬にあて、その目をまっすぐに見つめた。
「戦いなさい。あなたがあなたであるために、あなたの未来を遮る者と。初号機と、その心があなたを助けるわ」
「…綾波は、どうなるの?」
 レイはゆっくりと首をふった。
「私が最後の使徒をおさえておける時間はわずかしかないわ…本来なら、その間に使徒の力で補完計画を発動する。でも、私が私であるために、私は補完計画を、私の役割を放棄する。そして還るの…何も無いところへ、私の宿命のままに。…そうなる前に…」
 レイはそこまで言うと言葉を切った。
 その紅い瞳が、シンジの瞳を見つめる。そして彼女は口を開いた。この世界に存在する何よりも堅く、澄み切った意志を持って。
「私を殺して、あなたの手で…」
 シンジの記憶に蘇るセントラルドグマの巨大な水槽、崩れ落ちてゆくレイの姿をしたモノ、脳裏に焼き付いた、閃光に包まれる零号機。
 シンジは突然理解した。
 彼女はもう、どこにもいないということに。
 せめて、人の心を持ったまま死にたい、レイの瞳はそう言っていた。
 シンジはゆっくりとうなずいた。
 レイは優しい微笑を浮かべると、シンジに唇を重ねた。彼女にとって、初めての思いをこめて。
「ママの…キスよ…」
「綾波…」
 レイは一歩退くと寂しそうにシンジを見つめた。
 シンジは彼女を追い駆けたくなる気持ちを押え込んだ。彼には、まだしなければならないことがあることが解っていたから。
 シンジはそっとレイに告げた。
「さよなら…」
 レイはシンジのその言葉を聞くと、静かに微笑んだ。


 シンジはエントリープラグの中で目を覚ました。
 どれほどの間、気を失っていたのかと思ったが、それは一分にも満たない時間だった。
 初号機の目前で、最後の使徒が咆哮した。その悲しみを帯びた声が、瓦礫の山となった第三新東京市に響き渡る。
 シンジは歯を食いしばり、キッと正面を見据えた。その瞳をしっかと見開き、最後の使徒へ襲いかかった。
 土砂を跳ね上げ、初号機は鬼神のごとく疾駆していった。そして大きく振り上げた右腕を、すさまじい勢いで使徒の顔面へと振り下ろす。
 鋭く、透明な音が響きわたった。
 初号機と使徒の間には、強大なATフィールドが干渉していた。その二体を中心にして地面には亀裂が走り、鳴り響く地響きと共に、地表が兵装ビルの残骸と共に次々にめくれ上がってゆく。
「重力場に異常発生!」
「空間曲線が反転していきます! そんな…重力崩壊の発生を確認!」
「第四…いえ、第十二装甲板にまで亀裂発生!」
 発令所に悲鳴のような報告が飛び交う。
「第五層より上にいる者は緊急待避! シェルターもしくは下層へ避難しろ!」
 冬月がそう指示を出す。
「天井部分の施設の倒壊が始まっています、九十二、いえ九十八パーセントが通信途絶!」
「駄目です! 天井が保ちません!!」
 刻一刻と増大してゆく力は、地上だけではなくジオフロントをも揺り動かせていた。次々と報告される本部施設の異常に、発令所は再び混乱の渦に被われていた。
「キャッ!」
 マヤの正面のコンソールパネルが火花を吹いた。即座に駆け寄った青葉が彼女を抱き寄せ、炎をあげるパネルから引き離す。日向はコンソールの下の消化器を取り出すと、炎の上がるパネルを消火する。
 ミサトはそんな混乱も目に入らないような様子で、呆然と正面のスクリーンを見上げて呟いた。
「空が…裂ける…そんな…」
 初号機と使徒との強大なATフィールドの力は、周囲の空間を引きちぎり、その境界面からは虹色の光が縦横に輝いていた。
 初号機は使徒のATフィールドを打ち破ろうと、その両腕に力を込めてゆく。大地にはその開かれた口からのうなり声が響き渡り、天空にはその十二枚の翼が全てを覆い尽くさんばかりに広がっていた。そしてその目には、血のような紅い光が満ち溢れていた。
 限界まで高まった力に、その均衡が破られた。
 ATフィールドがはじけ飛び、閃光と衝撃波の白刃が、二体を中心として円形に広がってゆく。それを追うように巻き起こった爆風が、ジオフロントの天井ごと周囲の大地をえぐり返した。
 膨大な土砂と芦ノ湖の水が、ジオフロントへと降り注ぐ。地底湖に巨大な水柱が次々とわき起こる中、初号機と最後の使徒はジオフロントへと落下していく。初号機と使徒も、地底湖の横の地面に叩き付けられた。
 シンジは初号機を立ち上がらせると、視界の隅に一緒に落下した使徒を見つけた。起きあがろうとする使徒へと向きを変え、一気にその懐へと飛び込む。
 使徒は両手を広げたまま動かなかった。まるで初号機を迎え入れるかのように。
『私を、殺して…』
 シンジの脳裏に、レイの言葉と最後の微笑みがよぎる。
「綾波は充分苦しんだんだ、もう…いいじゃないか!」
 シンジの目から、涙があふれた。電荷されたLCLの中を、涙がゆっくりと落ちてゆく。
 咆哮と共に、初号機の右の手刀が使徒の胸へと突き立てられる。その腕はコアを貫き、肘までが鮮血に彩られて使徒の背から突き出していた。
 初号機はその腕で使徒をしっかり抱きしめ、その場に跪いた。
「レイ…君のために、泣く」
 シンジの目から、止めどなく涙が流れた。
 二体はきらめく閃光に包まれた。
 次の瞬間、強大な光と熱が、その二体を中心として解放されていった。


「初号機は…」
「多分、溶けて蒸発してしまったのでは…」
 砂嵐しか映さないメインスクリーンを見上げたミサトの問いかけに、日向がうつむいて答えた。
「映像、回復します…」
 青葉の声と共に、メインスクリーンに映像が蘇る。
「センサーに反応! 初号機です!!」
「エントリープラグ内、パイロットの心音確認! 無事です、生きてます!!」
 マヤの声に、ミサトが指示を返す。
「回収部隊を大至急向わせて! 私も行きます」
 ミサトはそこまで言って司令席を見上げた。ゲンドウはまったくの無表情だったが、冬月はそんなミサトにゆっくりとうなずいてみせた。
「日向君、一緒に来て」
「はい! 葛城三佐!」
 日向はそう言って立ち上がると、ミサトの後に続いて発令所を出ていった。
 ミサト達の去った後、ゲンドウは突然口を開いた。
「マギに自立自爆をセットしたまえ。総員退去。本部を放棄する」
「碇!」
「総ては終わったのだ。ここの全てを老人達に渡すわけにはいかん」
 リツコは黙ってコンソールからマギの自立自爆を指示した。総員待避のアナウンスが鳴り響き、スクリーンのいくつかで爆破までのカウントダウンが始まる。
「冬月、脱出の指揮を頼む」
「それはいいが…碇…」
「ユイは…もうどこにもいない。十二年前に解らねばいけなかったことだ。…一代の野望に身を焦がすならば、せめて引き際は潔くありたいものだな」
「…後始末は私に押し付けてか?」
「すみませんね、冬月先生」
「なに、今に始まったことじゃないさ」
 冬月は仕方が無い、というようにため息をひとつ吐くとその場を離れた。

「マヤ、後のことは頼むわ。松本のシステムを上手く使いなさい。あなたの武器よ」
 リツコは、マヤにマギのマスターキーを手渡して言った。
「先輩…」
「青葉君、彼女をお願いするわ」
「…博士はどうなさるのですか」
「私にはここですることが残っているの。急ぎなさい、ここも長くは持たないから」
 青葉はなにか言おうとしたが、なにかを決意したリツコの瞳を見ると、なにも言えなくなった。踵を合わせ、短く敬礼すると、マギのマスターキーを握り締めたまま、呆然と立ちつくすマヤの肩に手を置いた。
「先輩! そんな…いやだ、一緒に行きましょう!」
「…行くぞ!」
 青葉は、リツコにすがりつこうとするマヤを抱きかかえるようにしてエレベータに向かった。他のオペレータ達も指令席に敬礼を残して順次去っていった。

 リツコは指令席の横へ立った。これまでは副司令の定位置だった場所だ。その場所からは人気の無くなった発令所を一望のもとに見渡すことができた。
「盲目の希望、それは絶望の別の呼び名ですわ。シンジ君、それが解っているでしょうか。…親子ですわね」
「なにをしている。早く脱出したまえ」
「ご一緒させていただいてよろしいですか」
「…好きにしたまえ」
 ゲンドウは一瞬リツコに目を向け、短く答えた。
 リツコはゲンドウが一瞬苦笑したような気がした。しかしそれが錯覚だとも解っていた。
 彼女はそれでもよかった。


 遠くから自分を呼ぶ声がする。シンジは自分のぼやけた視界の中に、自分に覆い被さる紅い塊を見つけた。
「…アスカ? …何、泣いてるの?」
 ほとんど動かない腕でシンジを揺さぶり、その名を呼び続けていたアスカは、シンジのその言葉に動きを止めた。
 アスカは自分の中からこみ上げてくるものを押しとどめることができなかった。わっとシンジの首にすがりつくとその胸で泣きじゃくりはじめた。
「怖かったの、ファーストと一緒に行っちゃうんじゃないかって…」
 アスカはシンジの胸に顔を埋めたまま言った。シンジはくすりと笑って答えた。
「莫迦だなぁ…アスカを置いて行くわけないじゃないか…」
 シンジはそっとアスカの髪を撫でた。
 体にのしかかる重さが、妙に心地よかった。


 北米大陸の消失に端を発した一連の事件は、公式にサードインパクトと呼称されることとなった。
 サードインパクトを引き起こした「使徒」と呼ばれる謎の活動物体、そして超法規的組織ネルフについては国連を中心とした調査組織が設置された。
 調査組織の総責任者の名は冬月コウゾウ。人事には全てを闇に葬ろうとしたゼーレの存在があるのは言うまでもなかった。
 三年後に提出された第一次報告は簡素な物だった。ネルフ総司令・碇ゲンドウはすでに亡く、ネルフ本部の存在したジオフロントが水没した今となっては、真相を知る者は一握りしかいなかったのだ。
 それに世界の大半はそれどころではなかったのである。北米大陸の消失による経済への影響は世界に大恐慌を巻き起こしていた。
 太平洋と大西洋が一体となったことによる気象への影響、そして極短時間とはいえ、第3新東京市で引き起こされた重力崩壊が、地球という星に与えた影響も決して小さいものではなかった。
 世界は再び季節を取り戻し、セカンドインパクト後の環境に順応してきた生態系は、再び大打撃を受けることとなった。
 そんな中でも、人々は当初の打撃から序々に立ち上がり始めた。
 死者には安息を、生者には苦難の道を。
 生き残った者達には、死者の分までやらねばならないことがあったからだ。


 ― 十年後、第2新東京市 ―

 シンジは一つの指輪を取り出した。その戦乙女をかたどった銀の指輪は、十年前に彼がアスカに贈ったものだった。
 傍らで聖書を開いた牧師が静かに宣誓する。
「この指輪を、私の愛と忠誠の誓いとします」
「この指輪を、私の愛と忠誠の誓いとします」
 シンジがその宣誓を述べると、純白のウェディングドレスを着たアスカが左手を差し出した。
 シンジはひとつ深呼吸すると、その差し出された左手の薬指にそっと指輪をはめた。
 続いてアスカも宣誓し、シンジの左手に真新しい銀の指輪をはめると、そっとその手を握り締める。
「神の御名において二人の結婚を宣言します」
 牧師が満面の笑みを浮かべて言った。
「誓いのキスを」
 シンジはアスカの顔にかかるベールをめくり、その白い顎に手をかけると、彼女にそっとキスをした。
 今回は鼻をつままれたりはしなかった。

 アスカは嬉しそうに、その左手にはめられた指輪を眺めていた。
「気に入ってくれてるのは嬉しいけど、そんな古い指輪を引っ張り出さなくてもよかったのに。」
 シンジはすこしあきれたようにアスカに言った。
「あら、私はこの指輪をもらったときに決めてたのよ。そのつもりでくれたんでしょ?」
「そんなわけないだろ! まだ中学生だったじゃないか!」
「私はそういう意味だと思ってたけど?」
 アスカはシンジに視線を移すと言った。
「シンジ、私のこと、好き?」
「え?」
 シンジはそのアスカの唐突な質問に驚いた。が、それも一瞬のことで、すぐに気を取り直すと、微笑んで答えた。
「教えない」
「もお! 相変わらずはっきりしない奴よね!」
 アスカは憮然と答えると、差し出されたシンジの腕に自分の腕を絡ませた。
「さ、いくわよ」
 そういって二人は教会の出口へと歩いていった。

 六月の青空に、チャペルの音が高らかに鳴り響いた。
「おめでとう」
「おめでとう」
「おめでとさん!」
「おめでとう!」
 教会の階段を駆け降り、真っ赤な絨毯の上を進むシンジとアスカに、参列者が二人にライスシャワーと共に祝福の言葉を投げかける。
 トウジ、ケンスケ、ヒカリ、ミサト、日向、青葉、マヤ、冬月…ネルフ、そして第3新東京市のころからの友人達の姿もその中には数多く見られた。
「残念だな」
「何が?」
「ファーストよ! 彼女が悔しがる顔を見たかったんだけど」
 アスカは意味ありげにシンジの耳元にささやいた。
「そんな、アスカじゃあるまいし。笑って祝福してくれるさ!」
 真剣なアスカの瞳に、シンジは微笑んで答えた。
「そうね! じゃ、ファーストに!」
 アスカはそう言ってブーケを空高く放り投げた。

aw_27b

完 



[|]

[index|NEON GENESIS EVANGELION|EVANGELION Another World.]

Copyright(c)1997-2000 Takahiro Hayashi
Last Updated: Sunday, 09-Sep-2007 18:42:49 JST