12月8日ー1(大東亜戦争のことを思い出して)
12月8日と云えば 今を去る65年前か 昭和16年12月8日 この日 僕は 家
のラジオで 大東亜戦争開戦の報道を聞いて 興奮して 中学校(旧制)に登校した
中学2年生であった 学校に行ってみたら 廊下の掲示板に 新聞が掲示してあった
帝国海軍航空隊の 真珠湾攻撃の 戦果が報道されてあった その新聞報道を見て 僕
は興奮した そして思った よし僕も海軍軍人になろう 航空隊に志願しょう と思っ
た そして それから2年後の 中学4年生の時 海軍航空隊(第13期甲種飛行予科
練習生)に合格入隊した 鹿児島海軍航空隊である ここでは陸上訓練と 海上訓練と
グライダー操縦訓練と 電信信号訓練 等であった。
そして鹿児島を卒業するとき 飛行機操縦組と 飛行機偵察組とに分かれることになり
僕は操縦組に編入されて 宮崎県の富高航空基地に配属された 其処では連日・連夜
の 飛行機操縦の訓練と それに伴う 航空機搭乗員としての 猛烈極まる 然も規律
正しい 魂と躰の強化訓練があった この規律正しい操縦訓練と魂と躰の強化訓練は
今考えてみると 恐らく空前絶後とでも云うべきか 17歳か18歳の青年として 永
遠の人類生活の歴史として 後にも先にも これ以上の “張り切りよう” は無いと
思う
僕の所属分隊は70名ほどの人数であった 僕はどういうわけか あまりに張り切り者
であった所為か その70名を統率する「期長」にさせられた 70名を10組に分け
て それぞれの組で操縦の訓練をした それぞれの組の名称は「との8」とか「との9
」と称した
飛行機の操縦訓練は 面白かった 「93式中間練習機」という前席・後席の複座の飛
行機で 習い始めの頃は 前席が練習生で 後席に教官が乗っての練習であった その
うちに 操縦が上手になると 単独飛行となった
また操縦技術では いろいろな高度な技術を習得した 先ず「宙返り」「失速反転」「横転」「きりもみ」 次に大切な技術は 3機又は4機による「編隊飛行」等々
その頃のこと 今思い出すだけで 愉快でたまらないことがある それは 操縦技術も相当に向上した頃のこと ある日 練習生だけの二人乗りの飛行の時 僕が前席 後席には 原田博之一飛曹(現在大分県日田市在住) 大空を飛んでいると 何か愉快でたまらなくなることが よくあるもので どちらからか 伝声管を通して 歌を歌い始めたのであった それは あの「貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 咲いた花なら 散るのは覚悟 見事散りましょ 国のためーーー」というものであった もう何ともかんとも愉快でたまらなかった
