12月8日ー2(大東亜戦争のことを思い出して)
戦局は急迫を告げ 沖縄も 米軍に占領されたとの 報道もあった 時々 富高航空基地にも 米軍機が飛んでくるようになった
あれから六十数年後の 今 考えてみると 僕は お国のために 命を投げ出して 戦う搭乗員として 戦死することは 決まっているようなもので 何らの恐怖心もなかったと思う 唯飛行機を操縦して 大空を駆けめぐることが 愉快でたまらなかった
その頃海軍航空隊では 「特攻隊」というものが編成されて 250キロ爆弾を積んで 敵に体当たりするという報道が聞こえてきた 嗚呼 僕もそれをやるんだ と思って 楽しくなってきたものだ お国のために 特攻機で戦死 何という光栄あることか 本当にそう思って 日々の操縦訓練に励んだ 練習機ではあったが 飛行機の操縦技術は 僕は完璧に身につけたと思っている
その頃であったが 郷里の母が面会に来た その時のことを 「峯夫のひとりごと」の中に 次のように書いている
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平成18年5月31日(限りなく 尊く 有難い 親の愛)
見守る親の愛を背中に受けて
今朝、自宅から出勤途中、まことに美しい光景に出会いました。
大きなマンションの玄 関の前で、背の高い父親か、或いは祖父かも知れない男性が端然と立って、可愛いランドセルを背負った小学校六年生くらいの女の子が、学校に行くのを見送っているのです。
道は一直線の歩道で数百メートル。 女の子は後ろを振り返り振り返りして手を振ります。それに応えて父親も手を振るのです。何回も何回も。 女の子が街角を回って見えなくなっても、父親はじっと立っています。何かを祈っているかのように。
いつの世も親というものは有り難いもの。親は我が子の幸せを切に願って、愛し育ててくれます。 それにしましても、今朝見た光景、端然と不動の姿勢で立って見送る親と、可愛い眼差しで見返る子供の光景は尊くも美しいものでした。
この時、ふと私は昔のことを思い起こしました。昭和十九年の暮れのこと、戦争は日本の敗戦の色濃く、私の所属していた宮崎県にある富高海軍航空隊では連日、特攻訓練をしていました。
たまの休日、外出先に私の母が面会に来てくれました。食料難の中を私の好物 「おはぎ」 をこしらえ、また交通難のところを、くぐり抜けての面会でした。おそらく母は、息子は航空兵であるから、戦死すると思っていたでありましょう。
私と母は夕刻まで一緒に民家で過ごしました。そして別れる時が来ました。母に別れの挨拶をして、私は民家の玄関を出ました。航空隊の近くまでは田圃道です。
私は背中に、見送る母の心の視線を強く感じましたが、この時の私の意識は、
「うしろを 振り返るな、未練を残すな、お国の為に死に行く者が、何の未練ぞ」というものでした。
あれからもう六十年以上を経た今、その時の若い自分の心情を 「あっぱれ、いさぎよし」 と思っています。
今朝の親子の愛の光景は限りなく美しいものに感じられました。
嗚呼、お父さん・お母さん、ありがとうございます。ありがとうございます。
