南果ひとみ
隣の701号室に新しい住人がやってきたのを知ったのは、気分転換を兼ねた散歩ついでに近くのコンビニに昼食を買いに出かけようと玄関を出たときだった。前の住人が引っ越していった後、しばらく空室だった隣室に作業服姿の青年たちが重そうなダンボールを幾つも運んでいたのが目に入った。
「うわっ」
あまりにも重かったせいか、はたまた作業員の持ち方が悪かったのか、ダンボールの底が抜け中に入っていた本が床に落ちた。当然、床だけでなく自分の足の上にもそれを公平に落とした青年は声もなくその場にしゃがみこんでしまった。有栖にも経験があるが、はっきり言ってあれはかなり痛い。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。すいません」
茶髪の作業員は有栖の通行の邪魔になると思ったのだろう、まだ足もしびれているだろうにあわてて通路に取り落とした本を片付けはじめた。有栖もそれを手伝おうと本に手を伸ばす。どこかで見たことのある装丁に、ふと目を留める。自分の著書だった。それも、デビュー作である。思わず頬が緩んだ。思わず横目で他の作品も探してみたが他は何かの専門書らしい横文字の本ばかりで、その中に混じった有栖の本は見知らぬ国に迷い込んだ異邦人のような孤独を感じさせた。だが、有栖の本は大切にしてもらっているらしく、一冊だけ綺麗にトレーシングペーパーがかけられている。有栖は思わずニヤリとしてしまいあわてて真面目な表情をとりつくろった。
「すいません、ありがとうございます」
「いえ、足、大丈夫ですか」
「ええ、何とか」
青年は苦笑いを浮かべて見せた。
「実は今日、二度目なんです」
ぺろっと舌を出す。幾分幼げな表情だった。よく見ればまだかなり若い。アルバイトなのかもしれない。
「大学の先生だとかで、本がすごく多くて」
「へえ」
有栖は、大学の先生の言葉に即座に火村を連想した。それから散乱した本から北白川のあの部屋を。あの部屋も有栖の部屋に負けず劣らす本が多い。しかしその内容はだいぶ違う。有栖の本の大半が推理小説なら彼の本の大半は学術書だった。
青年の作業服の胸ポケットにクリーム色のパッケージがのぞいていた。
キャメル……彼くらいの年齢が吸うには珍しい煙草だった。
不意に、その臭いを思い出した。
あの独特の臭い。
あの長い指先からたちのぼる、あの煙の臭い。
ぞくりと身体の奥底で何かが蠢いた。
「本当に、どうもありがとうございました」
明るい青年の声が有栖を現実に引き戻す。
「いえ」
礼儀正しくお辞儀をした彼に有栖は軽い会釈を返してエレベーターに乗り込んだ。
狭苦しい函の中、壁によりかかって目を瞑る。
幻のキャメルの煙が頬をなでる。
有栖の中に刻まれた彼の痕跡が鮮明に甦った。
灼けつくような口づけの熱さ、
耳元で囁かれる掠れた声。
甘い、みだらがましさすら感じる睦言のあの響き、
身体の線をあらわにする指……
心臓をわし掴みにされたような息苦しさを覚えて胸を押さえた。
連想。記憶の……感覚の再現。何気ない日常の中、些細なことに火村を想う。
そのたびに切なさの発作に襲われる。これはもう病気だと有栖の中のもう一人の有栖が言う。そう、確かに病気に違いなかった。
それは、もう手遅れの不治の病。
「火村センセ、おはようございまーす」
「おはようございまーす」
女子学生たちの朝の挨拶に火村は軽く手を上げて応じた。
「「「きゃーっ」」」
朝っぱらから同音異口の歓声があがる。
毎朝のことだが、俺はパンダか、コアラ並の珍獣だなと心の中でつぶやく。
『そんなかわいいもんやない。ずうずうしいやっちゃなあ』
耳の奥から聞こえてくる声に、薄く笑みを浮かべる。
何でもない一瞬に、有栖を想う。
そんな瞬間の積み重ねが火村を支える。きっと、有栖は知らないけれど。
大教室での講義を終え、研究室の自分の机にたどりつくと、いつものように新聞が三紙きっちりと重ねて置かれていた。社会面のニュースデータだけをメールで送ってもらうサービスと契約していたが、研究室では地方紙と経済紙と全国紙を一紙ずつ取っていた。学者はよく専門バカだと言われるが、人が犯す犯罪を学術テーマとしている以上、広範な知識が必要となる。その点、広く浅くさまざまな情報が盛り込まれている新聞というのはなかなか便利な代物だった。
コンコン。
「はい」
活字から目を離さずに返事をする。
「すいません、レポート届けにきましたー」
「どうぞ」
締め切りは三日後だったが、提出は一昨日から受け付けている。すでに提出用のダンボールは半分くらい埋まってた。
「失礼しまーす」
チラリと視線をやると入ってきた5、6人の集団は意味もなくニコニコしている。
「火村先生、何読んでるんですか?」
「見てわかるだろう、新聞だ」
「あ、これ、去年の年末のケンタの景品ですね」
一人が有栖がもってきて押し付けていったマグに目を留める。同じカップを有栖も持っている。
『お揃いや』
そう笑った有栖の声が火村の耳の底に甦った。屈託の無い明るい笑顔。
『これなら、ファーストフードの景品やもん。俺と君がお揃いでも誰もおかしく思わんやろ』
『おまえの部屋と俺の研究室と両方出入りする人間がどれだけいるんだよ』
『万が一ってこともあるやろ。俺は自由業やからええけど、君は気をつけんと……』
『別に』
それでも、その心遣いがうれしかったから、日本全国、何千人の人間とお揃いかわからんなというセリフは口にしなかった。有栖が持ってきたのはこれ一つだけだから。これは自分と有栖だけのお揃いだった。
(声が、聞きたいな………)
無性に有栖の声が聞きたかった。
この自分の内にさえ優しい何かが満ちてくるほどのあの声を……。
ドクン。
心臓が一つ強く鼓動を打つ。
有栖のことを想った。
姿を、思い浮かべる。
柔らかな茶色の髪も、すべらかな肌も、すべてが愛しかった。
それから、声を思い出した。
甘い甘い声。あの柔らかな響きの声が、熱を帯びた時、どんなに艶を帯びるか知っているのは火村だけだった。
絶え間なく漏らされる嬌声も、半ば意識を飛ばしながら自分の名を呼ぶときの甘い声音も……全部、火村だけのものだった。
「センセ、これ、誰ですか〜?」
「すっごいハンサム〜」
「えっ、どれどれ」
女生徒らの声に現実に引き戻されて、火村は軽く首を振った。
ちょうど開いていたページに目を落とす。
「……書いてあるだろ、K大の助教授だとよ」
彼女達が騒ぐのも無理はなかったが、旧知の、それもあまりおもしろくない知り合いの顔を目にした火村の声にわずかだが不機嫌な響きが混じる。
「これ、何て読むのかな?」
「ことりゆう?」
「……たかなしだろ」
本当にこいつら大学生かと思いつつ教えてやる。
「えーっ、何で小鳥遊でたかなしなんですかぁ?」
「鷹がいないから小鳥が遊べるんだよ」
「うそー」
何がうそーだと心の中で罵る。
「いいなーK大の子達ー、こんなかっこいい先生に教わってー」
「うちの学校の先生だとよかったのに」
「あっ、でも、私たちは火村先生のファンですから安心してくださいね」
……何を安心しろと?火村は思ったが、口に出すのも面倒くさくて黙殺した。あからさまなしぐさで時計に目をやる。
「あっ」
「では、失礼しますー」
「失礼しました」
口々に声をかけあわてて出て行く。火村の研究室はゼミ生以外は5分以内で退出するのが暗黙のルールとなっている。そんなルールでもなければまたたくまに女生徒に占拠されるのは確実だった。
ふぅと火村はため息を一つつく。
何だかひどく疲れていた。
それもこれも、有栖にあえないからだった。しかし、締め切りに終われていることがわかっているのに行かれるはずがない。今の自分には、行ったら絶対に邪魔する自信があった。
「ったく、我慢のしすぎで病気になりそうだぜ」
しかもその我慢を嫌だと思えないのがさらに始末に終えない。むしろ、どこか楽しんですらいた。有栖といると、彼は自分の知らない自分を発見することができた。そして、それは必ずしも嫌悪するばかりではない自分の一面だった。
「仕方がねえか……とっくに病気だもんな……」
だから、とっくの昔に諦めていた。
それは、彼が気づいたときにはもう手遅れの不治の病だった。End/2000.11.15
おじゃましたサイトさんで拝見した南果さんの火村とアリスに一目惚れして、思わずナンパしてしまいました。 まさか本当に自分のサイトに書いて頂けるなんて夢にも思っていなかったので、もうめちゃめちゃハッピーです(*^o^*) 南果さんに拠れば、このお話は一話完結(予定)のシリーズ物とのこと。これからの展開がとーっても楽しみです♪ |
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