「さぁてアリス、起きろよ」
目をしばたかせると、そこは見覚えのある部屋だった。
「目ぇ、覚めてるか?」
軽く頬を叩かれる。ようやくはっきりしてきた。ここは自分の寝室。
どうしてここに火村がいる?
今日は――。
アリスはぼうっとした頭で回想する。
夕方、火村の家に行って。それから夜、バーで朝井と会って。しゃべって飲んで。
そうそう。忌まわしいボーイズラブの本の話で盛り上がって。
「アリス、襲っちまうぞ」
朝井と店の前で別れて、火村とタクシーに乗りこんで。
そこまでははっきりしている。だが、今夜は火村の下宿に厄介になるはず、だったのに。
「火村。なんでこんなことしとんねん!」
悪戯な火村の手がシャツの裾からもぐりこんでくる。
アリスは思わず火村の腹を蹴った。膝がきれいに入る。火村は「うぅ」とうめき、アリスから身を離した。
「明日は朝早くに東京行くからって言うたやんか!」
そう。明日は京都から出発するつもりで、新幹線の指定もとってあったというのに。
「ちょうどよく夢うつつ状態だったのにな」
「黙って聞いてれば、寝込みを襲うつもりやったんかい!」
怒りのあまり、柄が悪くなる。油断も隙もないったら、この助教授は。
「人聞きの悪い。素直なアリスのが好きだってことさ」
火村が懲りもせず手を伸ばしてくる。意味深な目付き。ニヤニヤした笑い。腹が立って、アリスはパチンと、その手を叩き落した。
「悪かったな、素直やなくて」
つい、ふくれる。だって素直な自分が好きなんて、全くひどい言い草だ。ムカツク。俺に言いなりの人形になれってことか?
「違う違う。普段のおまえもいいんだよ。ただ、こういうときには、素直な方が好みだなってことで」
こういうとき、と言いながら、火村はすうっと動いて耳もとに口づける。アリスはぴくりと震えた。全くの不意打ちはずるい。隠しようがない。
「お、いい反応」
ひゅうと火村が口笛を吹いた。その微かな息にも敏感に応えてしまう。悔しい。火村にかかればアリスは思うがままだ。でも今日は思い通りにはさせない。アリスは拳を密かに握りしめる。
「いい加減にしろや」
やった! やれば出来るやん。
冷たい声で火村を突き放した。どうやらまだ腕に力は入った。ぎりぎりセーフ、の模様。
火村が唖然とした顔をしている。滅多に見れないマヌケな面で、少しばかりいい気分である。
「嫌やって言うてんねん。明日は約束あるっておまえも知っとるやろ」
邪険に立ち上がる。
ちょっぴり火村がかわいそうな気もしたけれど、背に腹は代えられないのだった。
「出てけや」
ドアを指さした。だが火村は立ち上がらない。焦れてアリスは腕をつかんだ。引っ張る。火村がゆっくり腰をあげた。そうや、このままあっちへ行ってソファで寝てくれ。そう思って彼の身体を押し出そうとしたとき。
「俺を愛してるなら、突き放すなよ」
デジャヴュ。
とっておきのバリトンで火村がささやいた。あぁ、このシーンどこかで。
アリスは動けない。凝然と火村を見つめた。
「おまえの全てを愛してるんだ」
引き寄せられ、抱きしめられた。滅多に言わない火村の甘いセリフに身がすくむ。
「アリス。おまえを見せてくれないか」
ゆっくりとアリスのシャツのボタンをはずす。なぁいいだろ。甘くささやかれ陶然とする。シャツがそっと押しやられ、肩から滑りおちた。アリスは火村の手が動く様子をひたすら追うのみだ。
触れるか触れないか。ぎりぎりのタッチで背筋を指が伝いおちる。長い神経質そうな指。自らの背中をそれが動くさまをイメージしてしまい、余計にアリスは煽られた。
「や…ひ、むら」
やっと出た声は、みっともないほど掠れていて。
「感じるんだろ、ここ」
そう。嫌になるくらい敏感。火村の動きのひとつひとつに反応してしまう。
いつの間にかベッドに横たえられていた。鎖骨をあまく噛まれ、為すすべもなく声をもらした。その甘えた声が耳に入りアリスは口唇を噛む。自分じゃないみたいで恥ずかしい。
火村はすうっと指を滑らせ首筋から胸、そして腹へと悪戯する。反応をみせた胸では執拗に乳首を苛めて楽しんでいる。
「…ん、あっ」
「我慢するなよ。聞いているのは俺だけだから」
あぁ、どうしてこんなに感じてしまうのだろう。身体が我がものでないように慄くのはなぜ?
火村はいつもにまして意地悪だ。ぞくぞくする。確かにアリスは感じている。
ズボンを取り払われ裸にされた。対する火村はまだ首もとすらくつろげていない。羞恥。いいように扱われる切なさ。なのに感じる確かな快感。
アリスは混乱した。
「やぁ…やめ、て」
顔を覆い隠す。見られたくない。
「どうして?」
「おねが…」
火村が笑う。意地悪な笑みだったのだが、アリスの目には入らない。翻弄されている自分を見られたくない一心で、アリスは必死に抗った。
「違うな、アリス。そこで『きて』って甘く言ってくれなきゃ」
な………に?
「足を大きく広げてさ。潤んだ瞳で誘ってくれないと」
???
そんなことするわけ、ないやろ。
「ほら、言って」
「…え、ひむ…?」
愛撫に翻弄されて、まともに喋れやしない。
「『さわって』でもいいぜ」
「あ…あん」
「おや、先にさわっちまった」
火村が残念そうに舌打ちをした。何かが、頭の奥をかすめる。
この光景。このセリフ。
らしくない火村。
らしくない自分。
これは……。
「あっ!」
ボーイズラブ本!!!
「やっとわかった?」
あの私情入りまくりのヤツ!!!
「なななな…!!」
「なんでって? おまえがすーぴー寝てる間に読んだんだ」
やばいっ。
「朝井さんに聞いたぞ」
めちゃくちゃやばい。やばすぎる。
「おまえはあれを参考書に買ったんだってな」
「ち、ちが――」
「隠し場所なんてすぐわかるさ。洗面所の下か冷蔵庫」
ばれとる。どないしよ? ばれとるやんかぁ!!!
「なぁ、おもしろいもんだな。あの手の本って」
火村がそんなことまともに言うわけない。
第六感が危険信号をガンガン鳴らしている。
あの本はエッチシーンが過激で露骨で――。
「こういうのがお好みだったとは知らなかったぜ、アリス。案外、鬼畜なのがご所望だったんだな」
「ひひひひひむら!!!」
有栖川有栖、絶体絶命のピンチ!
「物足りなかっただなんて、悪かったなぁ」
火村が笑った。口唇の片方を上手に引きあげて。
「知らなかったとはいえ、失礼した」
ひぃぃぃぃぃぃ!!
「恋人が欲求不満なようじゃ、失格だからな」
「あああああ、あの」
「さ、満足させてやるから」
「ええよ、ええ」
「ま、そう言わずに」
腰を抱えられた。けれど身体に力が入らない。思いのほか先程の愛撫は効いているようで。
「ひひひひ」
「なんだ? 怖いのか?」
必死でうんうんと肯いた。もう既に“今日は思い通りにさせない”と誓ったことなど、忘却の彼方である。
額にキスされ、アリスは思わず目を閉じる。
耐えられない。あんなことやこんなこと。やっぱり耐えられない!
「じゃあ特別に。優しくしてやるからな」
可愛そうな子羊アリスに、再び合掌――。
End/2001.06.18