霧流めぐむ
事態の発端はほんの一月前のこと。
そして、アリスはそんな事があったことすら
忘れ去っていた。「なんやねん。これ」
ぽんっと投げられた物を見て、アリスは眉をしかめる。投げられたものを受け取ったのは、有栖川有栖。そのままペンネームのような本名を持つ男性推理作家。少なくとも自筆で書く書類の職業欄には、そう記入している。そして、投げた方は火村英生。二人の母校でもある英都大学の助教授。アリスによると、その職業は臨床犯罪学者だそうである。が、二人して、夕食後のアリスのマンションに居る現在の状況に、そのようなことはなんら関係はない。突如電話が鳴りださない限りにおいては。
アリスの手の中にあるのは、ちょうど掌にのる位のサイズのぬいぐるみ。
「何って……気に入らないのか?」
かるく視線を流してアリスを見ながら火村。その迫力に押されたかのような振りをしてアリスが応じる。
「そうやなくて、……ギズモにしてもえらい出来わるいんちゃうか?」
たぶん、それは率直な感想なのだろう。全体の色使いといい、とぼけた表情といい、凶悪化していない、普通のペットとしての『ギズモ』に似ている。が、ギズモでないことは一目瞭然で。
「ギズモ?」
「ああ、お偉いセンセイにはわからんか。グレムリンって映画のなぁ……」
呆れたような口調でアリスが説明を始めようとする。それを遮るように
「……ギズモぐらい知ってる。確か、ちょうど今、やってるんじゃないか」
視線の先でテレビをさす。確かに、新聞によると3月14日、日曜洋画劇場の番組は『グレムリン2 新・種・誕・生』となっている。
「ギズモじゃねぇぞ。それは」
呆れたような口調の火村。それにムッとしてアリスは言い返す。
「だったらなんやちゅうねん。ギズモのバチもんにしか見えへんぞ」
確かに基本的な形はギズモにそっくりで、色つかいがギズモの方が明るい色調だという程度にしか変化はないだろう。できの悪い偽物と言われても仕方がない。少なくとも知名度はギズモの方が上なのだから。現在では。
「ファービーだよ。それは」
「ファービー?」
「作家先生の好奇心はどこへ行っちまったんだ? 確かに日本での一般発売はまだ、だけどな。新聞とか写真週刊誌には載ってるそうだぜ」
馬鹿にしたような口調で火村。それに、自分の方が分が悪いとはなんとなく理解したものの、火村の台詞だってファービーとは何かという質問の答えにはなってないやないか、とアリスは思う。
「だから、なんやっちゅうねん」
火村が学生に講義するような口を開く。
「米国家安全保障局から閉め出しをくらった天才ペットだそうだがな……」
米国家安全保障局(NSA)。名称から想像できるように防衛関係の部門で、その専門は電波傍受や暗号解読。正真正銘の情報機関である。確かに米国中央情報局(CIA)や連邦捜査局(FBI)ほどの知名度はないが。
「……米国家安全保障局? こないにうるさけりゃ、しゃあないんちゃう?」
投げられたものを思わず受け取ってから、手の中でずっと訳の分からない事を言ったり(?)踊ったりしておとなしくしていないぬいぐるみにアリスは視線を落とす。それが30を越した男の行動としては似合わない筈なのだが、アリスには何故か似合ってしまう。ま、作家なんて精神的にはガキじゃないとやってられないか、と火村は無理やり自分を納得させる。
「……おまえ……米国家安全保障局って、何してる所か知ってて言ってるんだろうな?」
「知らん、んなこと」
即答で返される。
「それで推理作家だって言うんだから、世の中平和な筈だぜ」
まあ、情報機関だと承知していれば、『うるさいから閉め出された』なんて結論には達していないだろう。それにしても、この手の雑学はアリスの専売だった筈だ。
「なんやねん、それは。これでも新作を待っててくれる読者は多いねんぞ」
「……少数の奇特な読者に支えられてるんだな」
そんな事は十分承知している。当人の前で認めてやるつもりはないが、自分だってその奇特な読者の内のひとりなのだから。
「マイナーな作家で悪かったな。で、何やっとんの。その保障局とやらは」
早くはけ、とでも言わんばかりの表情。
「自分で調べようって気はないのか」
雑学データベースは俺じゃなくてお前だった筈だぞ、と火村はアリスに自分で調べろ、と突き放そうとする。
「えっ、だって、君知っとんやろ。訊いた方が早いやないか」
しつこく、しかも手にしたファービー人形を振りながら訊いてくるアリスに、こいつは泣く子よりたちが悪いな、と火村は口を開く。どうやら、アリスはファービー人形が振られることによってうるさくなる事と、火村がそれをうるさいと思っていることに気付いていて、そういう行動にでているらしい。もっとも、一番うるさいのはアリス当人なのだが。
「米国家安全保障局ってのは国防総省所属の情報機関で、そいつが閉め出しを食らったのは、情報漏れを防ぐ措置ということだ」
「はぁ?」
せっかくしてやった説明だが、アリスには理解できなかったらしい。反応が不可解という表情では。
「好きだろ、そういうの」
「アメリカさんの情報機関が……? このギズモの出来損ないを? 冗談やないのか?」
「だったら、話題にはならないだろう。先週末のテスト販売、梅田では徹夜組まで出たそうだ」
てっきりアリスのことだから並びに言ったかと思ってたんだが、今の様子じゃ知らなかったみたいだな。と火村は笑う。楽しそうな笑い。確かにそんな裏があるのなら、野次馬根性を出して買いに行っていただろう。そう、締め切りを過ぎた原稿に追われていなければ。
「で、わざわざこうて来てくれたんか?」
火村助教授がぬいぐるみを買うために徹夜で行列…。
「アリスじゃあるまいし。アメリカに出張に行った奴に買ってきて貰ったんだよ」
きょとん、とした顔でアリスは火村を見る。買ってきて貰った……? ということはわざわざ頼んだのか? あの、あまり人付き合いの良いとはいえない火村が?
「という事で、日本語版と違ってそいつはファービー語とやらと英語で話しかけてやれば、英語で意味の通じる言葉を話すようになるらしい」
「ギズモがかぁ?」
アリスの声は、十分に信じられないと思っている事を表している。ま、いくら説明書にそう書いてあったとしても、信じられることではないだろう。ぬいぐるみが意味の通る言葉を喋りだすなんて。映画じゃあるまいしと。
「だから、情報機関から閉め出されたんだろ」
ふぅん……と、アリスは手にしたファービーとニラメッコをしている。ア、アーとうるさいことこの上ない。けれど、その分アリスが静かなのだからいいか、と火村は手にしていた書類に視線を落とした。
食後の穏やかな時間が流れていく。◇◇◇ 「なー、火村ぁ……」
しばらくファービー人形とじゃれていたアリスがそれにも飽きたのか、火村に声をかけてくる。同じようなことを手を替え、言葉を替え主張しているレポートに辟易していた火村は、すぐに視線を上げた。
「なんだ?」
「なんで、これ、くれたん?」
食後に投げられただけのものだが、アリスにとっては当然自分が貰ったもの、らしい。
「しかも、わざわざこうて来てもろたんやろ」
ああ、なんだ、そんな事か、と火村は苦笑する。
「先月のチョコレートのお返しだ」
「チョコレートぉ?」
んな、覚えないぞ、とアリスは自分の記憶を手繰り寄せる。少なくともお返しを貰うようなチョコレートを火村に食わせた記憶はない。
「何言ってやがる。今日は3月14日だろが」
「……3月14日……それが……?」
と言いかけてアリスの動きが硬直する。
「な、なに、ナンパなことやっとんねん! だいたい俺、君にチョコレートやった覚えなんかないで」
流石にホワイトデーだとは分かったらしい。
「冷たいな、バレンタインデーにチョコレートを貰ったから、お返しにアリスが好きそうなおもちゃを持ってきてやったんだろうが」
しかも夕食のオプション付きで。というのは実は電話を受けた時、原稿を脱稿したばかりだったアリスのリクエストだったのだが。
「俺は君にチョコレートなんかやってへんで。君の勘違いや」
「つれないな。覚えてないのか」
「何をやねん」
拗ねたような口調に苦笑がもれる。仕方ない、説明してやるか、と火村は口を開いた。
「先月の14日も日曜日だった」
それが、どうした。とふてくされた声が返る。
「ご挨拶だな。入試で忙しい俺に向かって学生がいない分、暇だろうなんて言ったことも当然忘れてるよな」
ピクッとアリスの動きが止まる。どうやら、薄れかけていた記憶が蘇りつつあるらしい。
「そ、そんな事もあった……よな……」
ほおっ、と火村はアリスを睨む。その視線に、びくっとアリスは身を竦ませる。いくら休みだとはいえ、キャンパス内に学生が居ない筈はないし---大学院生には休みなどほとんど関係ないのだ---入試なんて普段にない行事があるせいで、いつも以上に忙しいのだ。余程の偉いさんにでもなっていない限りは。
「ま、その埋め合わせも今晩して貰えるんだろう?」
当然だな、と火村はアリスにだめ押しする。
「何の話や。いましてんのはそんな話とちゃうやろ」
「ああ、チョコレートの話だったな」
慌てて話を逸らそうとするアリス。それをわかっていながら、火村はあえて話を逸らしてやる。もっともアリスにとっては、話を逸らさないほうが平和だったかも知れないが。
「だから、先月も晩飯を作りに来てやっただろう」
それにはしっかり覚えがあったのか、アリスが頷く。それを認めて、火村は言葉を続けた。
「で、食後に酒盛り……」
「あ〜」
火村の言葉を遮ってアリスが叫ぶ。うるさい奴だな、と火村は一言。
「ちゃう。絶対ちゃう。あれは、そんなチョコレートちゃうんや」
そのアリスの慌てぶりを気づかれないように、くすっと火村は笑いを漏らす。こういう慌て方が可愛いと思っているとばれたら、きっとまた烈火の如く怒るのだろう。その姿も実に可愛いものなのだが。
「どう違うっていうんだ? 俺が欲しいっていったら、アリスがくれたんだぞ」
煽ってみると見事に挑発に乗ってくる。これで、作家なんて『嘘をついていくら』になるような商売が良くできているな、と思えてしまう。確かに正直は美徳だ。
「ちゃう。あれは、君がつまみが欲しいってゆうたから出したっただけや」
状況的にはまさしくその通り。但し、アリスはそのチョコレートをいつも食料等が置いてある棚ではなく、書斎というか仕事場から持って来たのだが。わざわざいつもと違う場所から持ってきたのだから、誤解ぐらいされても仕方ないだろう。
もちろん火村には状況が分かっている。前日の土曜日に、珀友社の担当編集、片桐氏が原稿を取りに来ていたという。つまり、直接取りに来なければ間に合わないような状態だったということだ。そして、そのときに編集部に来ていたお手紙、俗にファンレターというものだ、も届けてくれた、とアリスは話していた。そしてその日付は2月13日。14日の一日前。ということは、わざわざ仕事場に取りにいったチョコレートはファンからのプレゼントということだ。いったい誰宛にくれたものだがわかったものではないが。
「けど、アリスが俺にチョコレートをくれたのは事実だぜ」
う〜とアリスが呻く。事実を事実として認識するなら、それは事実に違いない。
「ちゃうわ。あれは江神あてに来たもんや。やから、君にチョコレートを与えたんは江神ということや」
「……江神って……大学生のお前が語り手になっているシリーズの謎の人物か……」
有栖川有栖のクローズドサークルシリーズ。学生シリーズともいうらしいが、当人は『シリーズキャラクターもの』と他人に向かっては主張している。基本的に外界とは離れた閉ざされた輪の中で事件は起こり解決するので、まぁ広い意味では密室ものになるのだろう。確か江神というのはその中の探偵役だった筈だ。救いを求めていて、いつも裏切られている。そんな印象がある。
「そうや。女の子に人気あるんやぞ」
自分でなくても自分が創造したキャラクターに人気があるというのは、嬉しいことなのだろう。何処か威張って言うアリスに思わず肩を竦めてしまう。
「ってことは、結局アリスが俺にくれたってことだな」
「なんやて?」
なんだ、わからないのか?と火村は口を開く。
「あのキャラクターなら、語り手の有栖に強請られりゃチョコレートぐらいさっさとくれてやるだろ。でもってその有栖川有栖ってのはアリスの分身だって言われてるんだから、その有栖が貰ったチョコレートは当然有栖のものの筈だな?」
火村の目の前では、当のアリスが煙りに巻かれたような顔をしている。
「ということは、あのチョコレートはアリスが俺にくれたって事だ。わかったか?」
「ちょい待ち。なんか適当にごまかしてへんか? 俺には理解でけへわ」
ふうっ、と火村はこれ見よがしなため息を吐く。
「アリス、らしくないことしたから恥ずかしいっていうんならそう言っていいぜ」
「んなこと、思てへん」
「素直になった方がいいと思うけどな。で、そいつは気に入ったのか?」
そいつと指さされたのは、アリスがずっと遊んでいたファービー人形。放っておくと寝てしまうそうだから、ア、アアーと、まだうるさいということはアリスがずっと構っていた、というか遊んでいたということだろう。
「おもろいで、これ。ダイイングメッセージとかに使えへんかな」
そのまま、人形にむかってアリス、アリスと自分の名前を唱えてみたりしている。その様子を呆れたように見やって火村は口を開く。
「どうやってダイイングメッセージを特定するんだ。そんなにうるさく喋ってる人形から」
指摘は正にその通り。いくら意味を成す言葉を喋りだし情報もれの可能性があると某所から閉め出しをくらったとはいえ、精度のいいおもちゃにすぎないのだ。
「それもそやな」
アリスもあっさりとその意見を入れる。
「ま、のんびり考えるんだな。どうせ次の締め切りまではまだ時間あるんだろう?」
ダイイングメッセージより産業スパイの方が、まだ話になりそうだな。とアリスはファービーを投げ上げる。と、火村が片手を伸ばしてそれを取り上げた。
「アリスが俺にチョコレートをくれてないなら、こいつをやる必要も無いわけだ」
「火村、一回くれたもんを取り上げんのはガキのやるこっちゃで」
ムッとした顔を隠しもせずに、アリスは火村の手の中にいるファービー人形に手を伸ばす。が、あと僅かの差で届かない。
「最初にガキみたいに現実を認めなかったのは、アリスの方だぜ。俺は事実を言っただけだ」
「そいでもなぁ……」
アリスは、まだ未練がましい視線を火村の手のファービーに向けている。とりあげられると途端に欲しくなる、しかもそれを表に出すというのはまるで子供と同じだ。
「ま、欲しいっていうならやるけどな。俺が持ってても仕方ないし」
せいぜい研究室に置いておいて、学生が遊ぶ程度だろう。火村の研究室で遊ぶだけ度胸のある学生がどれぐらい居るのかはしらないが。
「結局、アリスがチョコレートをくれたって浮かれた俺が悪かったって事だな?」
確認するような口調に、アリスが真っ赤になる。シュチュエーション的にはその通りの行動をしていた訳だが、意識していなかったことを指摘されると恥ずかしい。
「な、何恥ずかしいこというてんねん。信じられへん奴やなぁ」
「で、どうする?」
アリスの手にファービー人形をもどしてやりながら火村が訊く。それにアリスはきょとんとした顔で応じた。
「何を?」
こいつは何もわかってないな、と火村は心の中で嘆息する。それでも、この態度に自分は幾分か救われてもいるのだと。
「この後。俺としては、ホワイトデーのプレゼントを渡した後は当然お返しのフルコースを期待したいんだがな。食事もリクエスト通りに作ってやったことだし」
火村の主張通り、確かに今日の夕食は贅沢だった。本当は火村は昼食を作るのに間に合う時間に呼び出されていたのだが、いかんせん、締め切り直後の作家の睡眠欲には勝てなかった。ということで、昼食の予定が夕食に変わったのだ。
「昼間あれだけ寝てれば、夜は元気だろうしな」
そのまま、犯罪学者は推理作家の身体を抱き寄せる。そして『ウェイ、ロウ』。人の気配の無くなったリビングで微かにそんな音がすると、総ては夜の闇に閉ざされた。End/2001.09.20
『ファービー』1999年5月、日本語版発売予定
発 売 元 :株式会社トミー
予定価格:3,980円参考資料 1999年1月17日朝刊
FOCUS / 3月17日号
バースデイプレゼントの代わりに原稿をもらっちゃえ---ということで、『ロマンチックにリボンをかけて
2』(1999.05.02)用に書いて貰ったお話です。 もちろんコンセプトは、「他人様によるみどりばのためのアリス本」vvv そして送られたきた原稿を見て、もうウッキャアアア〜〜〜なのです。 私、ファービーを振り回すアリスに、1ラウンドKOされちゃいました。可愛い、可愛すぎるッ!! あぁ…私はファービーになりたい。 んがっ、失敗したなぁ…と感じる部分もチラホララ---。 依頼書には「2段組の10ページ以上でなきゃイヤよん☆」とか何とか、色々と注文を付けたんですが、書き忘れたことが一つ。霧流さん用の依頼書には特別に、「江神さんに愛を注がないように…」との注釈もつけておくべきだった…。と、原稿を貰った後で、深ぁ〜く後悔しました。だって、たった数行しか出てきてない、しかも名前だけの江神さんに、何だか目一杯の愛を感じるのは果たして私だけでしょーか!? まぁね、江神さんファンの霧流さんに向かって「アリスに愛を注いでくれぃ」とは言わないけどさ、でも何だか口惜しいじゃないスか。 ちなみに火村先生の詭弁は、私にも理解不能でした。読んでて頭こんがらがったもん☆ |
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