推理作家と犯罪学者の華麗なる日常 <前編>

響 ヒロ 




「しまった……っ」
 京都の誇る名門私立大学・英都大学は社会学部の最年少の助教授―――頭脳明晰なだけでなく英明闊達。鼻筋の通ったシャープな顔立ちと切れ長の黒い瞳は見るからに理知的。その眼光は、時に危ない方々も怖れをなして去って行くという代物だったが、薄い唇から発せられるのは、耳元で甘く囁かれたら老若男女、落ちない者はいないだろうとさえ言われる深みのあるバリトン。すらりとした長身に長い手足。高校時代にボクシングで鍛えたという体は未だ衰えを見せていない。
 その、学者というよりホストか身を持ち崩したインテリのギャンブラーとさえ評される新進気鋭の犯罪学者・火村英生氏はその日、北白川の下宿にて、最近白髪の目立ち始めた普段より3割増ぼさぼさの前髪を掻き上げつつ、黒い無地のトレーナーとジーパン、その上に絣模様の青い半纏という出で立ちで、したためていた論文から顔を上げ、呟いた。
 逡巡は一瞬だった。机代わりの炬燵の上、長い腕を素早く腕を伸ばして手にしたのはメタルブラックの携帯電話。指先は迷うことなく短縮0を押していた。
 1コール、2コール、3コール……
 ほどなく回線がつながると、相手が名乗るために息を吸い込んだ隙をついて先制をかました。
「ああ、俺だ」
『どちらの俺さんで?』
 分かっていてそういうことを言う奴には恩情などやらない。もともとやる気も更々ないが。
「お前、暇か? 暇だな? 暇だよな?」
『おい……』
「俺は今、肉ジャガが食いたい。かなり、めちゃめちゃ、ものすごく」
 己の要求を通す時は、相手に答える隙を与えないのが定石。お互い様だ。
「じゃな、待ってるぜ」





 2時間後、部屋の扉を蹴破るように現れた相棒―――学生時代に名物コンビと呼ばれ、今でも時折そう言われる―――推理作家の姿に、火村の口から一言ぽろりと言葉が洩れた。
「似合わねぇ……」
 クールビューティーと呼ばれた火村に対し、スウィートビューティと呼ばれた優しげな甘いマスク。有栖川有栖などという雅な名前に相応しく、少し長めの琥珀の髪は、光に透けると金色で、見るからに手触りが良さそうだ。印象的な大きな瞳は鳶色で、肌はなめらかな象牙色。身長は高い部類に入るだろう。細い首の上に乗っている頭は小さめで、しかし華奢という感はない。その痩身優美な身に纏っているのは見るからに上質そうなミッドナイトブルーのカシミアのロングコート。
 そのモデル張りの姿を裏切っているのは両手に持った、スーパーの白い手提げ袋だった。
 彼は口の悪い男をぎろりと睨み、手提げ袋をどさりと下ろすとおもむろに窓に歩み寄るなり、迷いを見せずに全開した。
「うわっ さみっ!」
「さみ、やないわ。換気くらいせぇ、このアホが。この煙たさにウリらも逃亡せざるをえんかったんやな。可哀想に。婆ちゃんは?」
 ―――道行く人に尋ねれば十中八九、美形だとの答えが返るであろう男の口からぽんぽんぽんぽん飛び出してくるのはベタベタの関西弁ときているのだから、世の中侮れない。
「昨日から近所の茶飲み友達と旅行中。明日帰って来る」
「それで、腹減って何もないのに気づいたはええけど、そのナリ自覚して、例え2時間待ったとしても、出かけんのは面倒になったっちゅうわけやな」
「まぁ、そうとも言うな」
「なにが、そうとも言う、や。まんまやろ」
 そして、そこに鎮座まします冷蔵庫の扉を思い切りよく開け、綺麗な眉を八の字にしかめた。
「わさびとカラシとケチャップのほかにはビールしかないやんか。まったく、その可哀想な男のために食料調達したった俺に向こうて、よりにもよって第一声が『似合わねぇ』やと?」
「悪かったよ」
「独身男と手提げのビニール袋は、切っても切れない親密な仲なんや」
「だから、悪かったって」
「俺が締め切り抱えてたらどないすんのや」
「それはない。俺がお前のスケジュールを把握してないわけねぇだろが」
「嬉し過ぎて涙が出るわ」
 ぶつぶつと文句を言いながら、アリスは冷凍食品は冷凍室へ、生物は冷蔵室へ手際よく詰め込んだ。
 それが終わると立ち上がり、鴨居にかかっているハンガーにコートを脱いで着せかける。 
 その後ろ姿を火村はじっと窺いながら口を開いた。
「……そのコートどうしたんだ? お前、そんなの持ってたか?」
「ああ、これな。もろうてん」
 火村の隣の一辺に足を突っ込みながら、アリスは答えた。
「誰に」
「パパ・ナンバー3―――――― いったー! 殴ることないやろ、暴力助教授! ほんの冗談やんか!」
「お前の場合、冗談に聞こえねぇんだよ。で、誰なんだよ?」
「じいちゃんや」
「じいちゃん? どっちの?」
「外国(とつくに)の方」
「なんだ、また行って来たのか」
「しゃあないやろ。今度こそ死ぬ死ぬ言いよんねんもん」
「そんなの、お前に会いたいための嘘に決まってんだろ。何度騙されりゃ気がすむんだよ」
「せやかて」
 うーっと唸って、アリスは炬燵の上に突っ伏した。
 出会った学生時代から十数年。今以てお人好しは健在だ。物事を冷めた感情で捕らえて突き放したりすることもあるが、その後結局、見捨て切れずに自分からトラブルに飛び込んで行くのだ。
 しかし実のところ、火村はアリスのそういうところが嫌いじゃない。というより、そういうところをひっくるめた全てが、自分の好きなアリスなのだ。そしてまた、その度に巻き込まれながらもアリスのために奔走する自分も、もしかしたら好きなのかもしれない。
「とにかく。じい様だろうがなんだろうが俺以外の男から身につけるものは受け取るな。男が服を贈るのは、それを脱がせるためなんだよ」
「じゃあ、女の人からのプレゼントならええのんか?」
「……(怒)」
「あーもう、冗談やって。ほんまに君はもう……」
 クールだのストイックだの、昔から周りの女性達に騒がれているが、アリスはこの男が本当は、火傷するくらいの情熱の持ち主だと知っている。そして、その情熱を向けられるのも自分だけだと知っている。
「惚れてんだよ」
 突然、ぶっきらぼうに放たれた告白。
「うん、知っとるよ」
 微笑が零れた。
「見てて危なっかしいんだよ、お前は」
「俺、男やで?」
「分かってる。それでもだ。気になっちまうんだから仕方ないだろう? ……あー、ちくしょう」
 顔を赤くしながら、それでも意地を張ってそっぽを向きながら言う男。アリスは目の前のこの男が無性に愛しくて堪らない。でもそんなこと、そう簡単には言ってやらない。
「そうそう」
 アリスは心の中でこっそりと舌を出し、思い出したように立ち上がった。
「じいちゃんもそう言うて、こんなもんくれたわ」
 コートの懐に手を突っ込み、じゃーんっ と自前の効果音で演出しながら取り出したのは。
「S&W・ショーティ40やで。かっこええやろ? ほんまはコルト・パイソンが欲しかってんけどな。あれ、重いねん」
 火村が呆然自失の態から脱するのに要した時間はおよそ10秒。
「ば……っ お前、そんなもん、そんなところに入れて買い物してたのかよ!?」
「うん。って、なんやねん火村。怖いで?」
 なに無邪気に首なんか傾げてんだ、この馬鹿! と火村が思ったかどうか。いや、思うより体が先に動いていた。
「危ないから放せ、馬鹿!」
「なにすんねや、自分! 放さんかいっ これは俺んや!」
「そういう問題じゃねぇだろが、この馬鹿っ」
「関西人に向かって馬鹿馬鹿言うなていつも言うとるやろ、このどアホっ」
「馬鹿を馬鹿と言ってなにが悪い!」
「あー、また言うた!!」
「いいから放せよ、大馬鹿野郎!」
「い〜や〜や〜〜〜っっ」
 




「――――――アホやアホやと思うてはいたけど、ほんまもんのアホやな、君」
「お前にだけは言われたくねぇ」
 すったもんだの大騒ぎの末、アリスは肩で息をしながら呆れたように、目の前の男前の顔を見つめた。
 その男前はやはり肩で息をしながら、目の前にある綺麗な顔を見つめて答えを返した。
「ほんまにもう……ホンモノのわけあれへんやろ。俺かてそれっくらいの常識持っとるわ」
 どうだか、と火村はこれみよがしに片眉を上げた。
「まぁアリスだからな。今更何やっても大抵のことにゃ驚きゃしねぇよ」
「どういう意味やねん、それ」
 アリスはむっと眉根を寄せた。
 けれど、抗議は優しい言葉に包まれて消えた。
「だけどな、結果的にお前が傷つくようなことは絶対して欲しくないんだ」
 痛いくらいに真摯な瞳。だからアリスも本音で応えた。
「それやったら、君も傷つかんようにすることやな。俺も君が傷つくんは見たないから、君が傷つくくらいやったら、君の代わりに俺が傷つく。体だけやない。ここもやからな」
 右手の親指で胸を指差す。
 滅多に聞けないアリスの告白に、火村は目を見開いてアリスを見つめた。アリスの澄んだ瞳が見つめ返す。
「アリス……」
 酔ってしまいそうなほどの甘い雰囲気に、火村はアリスを抱き寄せようと腕を伸ばした。が、しかし。
「ま、そういうことやらから」
 にっと笑ったアリスにするりとかわされて、女に限らず、一度は抱かれてみたいと思うようなその腕は、宙に浮いたまま行き場をなくした。
振った女は数知れず、言い寄る女は5割増とさえ言われる男の情けなさそうな顔に、アリスはもう一度くすりと笑い、鞄の中から取り出したものを火村の首に巻きつけた。
「ん、俺の目に狂いはない。よう似合うとる」
 少し体を離し、さすが俺の見立てや、と得意満面に何度も頷く。
「男が服を贈るのは脱がすためや言うたけど、ネクタイを贈る意味はな、君知っとるか?」
 アリスは両腕を火村の首に巻きつけ、そっと耳元で囁いた。
「“貴方に首っ丈”」
 二人は見詰め合い、口許に共犯者の笑いを浮かべた。今更ながらに、久々の再会に口付けを交わした。
「君はほんま、男前やねんから、もう少し着飾ったらええねん」
「そんなことしたらモテ過ぎちまって、困るのはお前だぜ?」
「背負ってやがる」
「お前は少し手ぇ抜いとけ。俺は日夜、お前に群がる連中を追い払うのにいい加減、疲労困憊だよ」
「それが恋愛の醍醐味っちゅうもんやろ」
「味わい過ぎて食傷気味だよ。今夜は労ってくれるんだろ?」
「アホ抜かせ。君、論文の締め切りあんねやろ?」
「なぁに、お前がいるんだ。鼻先に人参ぶら下げられた馬の気持ちで頑張るさ」
「このアホさ加減、センセに憧れてる女性の皆様方に、是非是非一度お見せしたいわ」
 アリスは天井を見上げて呟いた。
「ところで、小腹空いてへん? ジャガイモ、ようさん買うて来てん。君の好きなイモ餅作ったるわ。バターがな、2個で500円やってん」
 わざわざ炬燵から這い出て冷蔵庫の扉を開け、中からバターの四角い箱を片手にひとつずつ取り出し、にこにこ笑いながらそのパッケージの表面を火村に向けた。
「このバターな、普段は300円以下では売らへんねんで。あー、こっちで買い物して得したわ」
 はっきりいって、この男がスーパーの黄色いカゴを持ちながら「今日のお買い得はなんやろ〜」などと嬉々として目を輝かせて食品売り場をうろつく様は、さぞかし人目を引くことだろう。いや多分、浮きまくっていること疑いなし。
「肉ジャガは晩ご飯でええんやろ?」
 アリスは片栗粉あったやろか? と呟いて、「片栗粉〜 片栗粉〜」と妙な節をつけながら台所の引出しを覗いていた。
 俺がセロテープの歌を歌ったとかなんとか、馬鹿になんてできねぇじゃねぇか、と心の中で悪態をつきつつ、火村は机の上の作業に没頭していった。





 何気に目に入ったコーヒーカップに手を伸ばし、口にしてから気がついた。
 それは、ほんの少し前にはなかったものだ。
 いつもいつも、そろそろコーヒーが飲みたいと思う頃になると、集中を妨げないよう、さりげなく定位置に置かれるカップ。
 口当たりの良い温度。コーヒーと牛乳、甘さはその時々の火村の気分と体調に合わせた分量だ。
 アリスだけだ。こんなことができるのは。
 ふと見ると、吸殻で山になっていた灰皿の中身も綺麗に片付いている。
 口許が自然と綻んだ。
 集中していた気を緩めると、醤油とバターの焦げた香りが芳ばしい。
 振り返ると、フライ返しを手に、小さく鼻歌を口ずさむアリスの後ろ姿。綺麗に結ばれたのエプロンのリボンが小さく揺れて、まるで花に戯れる蝶のようだ。
 アリスという名の花にな。そう考えて、詩人のような発想に苦笑した。
 グレイのエプロンはアリスのもの。タオルの脇、今は空いている場所の隣に掛けられている黒い方が火村のだ。
 アリスとこういう関係になって、殺風景で生活臭のなかった部屋の中はいつの間にか物が増え、色に溢れた。そんなものはどうでもいいと思っていた火村と違って、アリスはささやかな日常の小物達にさえ、「これかわええ」とか「これ綺麗」とか、そんな小さな愛情を向けた。例えば食器棚の中。ペアのマグカップ、茶碗、小皿に小鉢。洗面台の歯ブラシやコップ。
 ああ、さっき使った携帯電話も色違いだっけ。
 煙草を燻らせながら想いを広げていると自然と心が暖かくなった。
 いつだってそうだ。アリスに繋がるものは、それが例え苦いものであっても、その先に甘いものが待っているのを知っている。
 そして、自分の中にまだこんな感情があったのかと気づかせてくれる。
 だから、アリスをやめられない。
 そんな風に考えながら吸い差しの煙草を灰皿に下ろすと、小皿を持ったアリスが振り返った。
「休憩するんか?」
「ああ」
 頷くと2組の箸を握り、嬉しそうにやって来る。
「美味そうやろ〜」
 ざっと片づけられた炬燵の上に乗せられた小皿の中のイモ餅は、それは綺麗なキツネ色で、香ばしい匂いを漂わせていた。
 そういえば、昼飯食ってなかったんだよな、と忘れていた空腹を刺激され、アリスの躾で「いただきます」と頭を下げた火村は、早速箸を小皿に伸ばした。
 食欲を満たしているのはほとんど火村で、早々に箸を止めたアリスはお茶を淹れに立ち上がったついでに、炬燵の向こうに積み上げられた紙の山を見つけて指差した。
「君、レポートの採点も抱えてるんか?」
「ああ。でもそれは急ぐものじゃないからいいんだ」
 ごちそうさま、と呟いて、トレーナーの袖口で口を拭おうとしていたところをアリスに頭をはたかれ、差し出されたティッシュで口許を拭きながら火村は答えた。
「俺が先達て誤字脱字と文法の間違いに赤入れしておいたろか」
 言うなり火村に睨まれて、アリスは心持ち体を引いた。
「気づかなかった俺も悪いけどな。お前、この間のレポート、こっそり赤入れしてただろ」
「ばれたか」
「ばれたか、じゃねぇよ。確認してたらそこだけ点数が控えてないじゃねぇか。レポートを見直してみれば、お前の字で赤が入ってやがるときたもんだ。第一、採点が辛すぎるんだよ、お前」
「君に言われたないなぁ、それ」
 睨まれて再び体を縮こませる。
「せやかて。この間のあれやろ? あれ、途中までは面白いねんけど、オチがつまらなかってんもん。どう決着すんのか楽しみにしてたのに、その期待とそこまで読んだ俺の時間、どないしてくれるっちゅうんや!」
 レポートのまとめを「オチ」と宣う小説家に、火村は心から拳固の一発もくれてやりたくなった。
「勝手に読み始めたのはお前だろ。ったく。お前は教師にならなくて正解だよ」
「俺は小説家になるって決めとったもん」
「良かったな『笑って落とす有栖川』とか言われなくてすんで。そんな風に落とされる学生の身にもなってみろってんだ」
「俺、落とされたことないから知らんもん」
「はいはい、講義中に小説ばっかり書いていても、ひとつも落としたことのない優等生の有栖川くん」
「どういたしまして。社学の秀才、教授泣かせの火村くん」
 天才、秀才―――幼い頃から火村は周囲にそう言われ続けて来た。けれどアリスと出会ってそうじゃないと火村は知った。アリスと話してそれが分かった。真に「頭が良い」というのは学問ができるということではない。机の上のことではない。例えば何も言われなくても相手の気持ちを理解すること。思い遣りができること。関わってきた数々の事件でも、火村はアリスに助けられてきた。何も訊かず、アリスは火村に手を差し伸べてくれる。それは、火村が傍にいて欲しいと思う時でもそうだ。アリスはただ黙ってそこにいてくれる。だから誰もがアリスに惹かれる。特に、心に傷を負う者は。
 けれど、アリスが挫折を知らないわけではないことも火村は知っている。そうでなければ、自分は傍にいられない。綺麗なだけの存在では。
「さぁて腹もいっぱいになったことだし、もう一頑張りするとしようか。このペースだったら、今晩中に終わりそうだ」
「なんや、随分早いやないか」
「やっぱりアリスマジックだな。俺がいるのにお前に独り寝させるなんて、そんな可哀想なことはさせられないしな。愛だろ?」
「うわ、さぶっ」
 アリスは肩を竦め、震える仕草をしてみせた。


to be continued



ヒロさぁ〜ん、ありがとぉ〜〜〜〜!! こんなスンバラシイ頂き物を…。嬉すぎますぅ♪
アリス、むっちゃかっこいいよぉ(≧o≦) 余りのかっこ良さにうっとリンリンリン☆★☆
火村になんて勿体ないッ!!---なんて言うと、火村ファンの方々の怒りを買ってしまいそうですが、あ〜ん、でもそれっくらいカッチョよすぎッ(>o<) くぅ〜、このっ幸せ者ッ!! >火村
しかも、アリスの手料理を食べれるなんて…。パラダイス。私もアリスの作ったイモ餅食べたいですぅ〜(i¬i)

響 ヒロさんのステキで面白いヒムアリは、こちらで読めます