推理作家と犯罪学者の華麗なる日常2 <前編>

響 ヒロ 




「あかぁん……」
 大阪は夕陽丘在住の推理作家―――殺人小説など書いているとは到底思われないような優しげな顔立ち。少し長めの琥珀の髪はそよ風にさえ零れそうなくらいに細く、肌は陽に当たらない生活のためというより本来の性質なのであろうすべらかな象牙色。しかし、専門家をして「世界に2つしかない稀少な宝石」とさえ言われる、人を魅了してやまない鳶色の瞳は幾分翳りを見せていた。見ている者を切なくさせる、憂いに満ちた風情だ。
 その作家というよりはモデルかホストと間違われることの方が多いであろう、年齢不詳、性別男の有栖川有栖氏はまるでピアノを弾くが如くに流れていた細くて長い指をパソコンのキーボードの上で止め、カスタードクリーム色のシャツとブルージーンズ。その上に、北白川にある下宿の大家の婆ちゃんが「火村さんと色違い」と作ってくれた―――分かってやっているのかどうなのか―――小豆色の半纏を着込んだ姿で、聞く者を穏やかな気分にさせると定評のあるテノールに悲壮感を滲ませながら、傍らに佇むつぶらな黒い瞳の彼にぎゅうっとしがみついて、呟いた。
 逡巡は一瞬だった。机の上、片方の腕は彼の首に巻き付けたまま、もう片方のしなやかな腕を素早く伸ばして手にしたのはシルバーの携帯電話。指先は迷うことなく短縮1を押していた。
 1コール、2コール、3コール……
 回線が繋がってから一呼吸間を措く相手のクセは知っている。そこへすかさず先制をかけた。
「俺や」
『ああ?』
 返って来たのは間の抜けた返事。この相手には珍しいことだが、わざとやっているなら許すものか。
「腹減った腹減った腹減った! 今すぐなんか作りに来てや。直ちにすぐさま大至急!」
 確か、己の要求を通す時は、相手に答える隙を与えないのが定石でお互い様だったはず。
 ―――と、コンコンとノックの音。
 振り返るとメタルブラックの携帯電話を耳にあて、正に電話の相手が入り口の縁に肘をついて寄りかかり、アリスを見つめて立っていた。
「へい、お待ち」
 口の端を皮肉げに上げた見慣れた笑みと耳に馴染んだ心地よいバリトン。
 アリスは数回瞬いて、風のように現れたダークブルーのエプロンも実に似合うハンサムな男を呆然と見つめた。
「……あれ?」
「あれ、じゃねぇだろ。間抜け顔晒しやがって」
 今、なにか聞き捨てならない言葉を聞いた気もするが、あえて不問に付してやろう。
「君、なんでここにおんねん」
「……これだ」
 火村は携帯の電源を切ると、額に手を当ててわざとらしく溜息をついた。
「やっぱりてめぇ、覚えてねぇな?」
「お、覚えてって?」
「1時間前!」
 まるで講義中の重要ポイントを述べるかのような強調されて区切られた言葉に、アリスは思わず背筋を伸ばした。
「俺は、ここに、来たんだよ!」
「……は?」
「は、じゃねぇよ。そろそろ腹空かしてんじゃねぇかと思って、この間お前が食いたがってた弁当をわざわざ買ってきてやったってぇのに、呼んでも呼んでも返事がねぇ。その上、こっちにわざわざ様子を窺いに来てやった親切な俺に向かって開口一番、お前、なんて言ったか分かるか?」
 普段はしゃべれと言ってもしゃべらないくせに、こういう時だけ饒舌だ。
 おまけになんだ、この恩着せがましい言い分は。と思いはしたが、こういう時の火村には下手に言葉を返すと手に負えなくなるのは長年のつき合いで経験済み。アリスは素直に首だけ振った。
「“踏んだらシバク!”」
 アリスはそのまま、自分のいる椅子の上から書斎の入り口に至るまでのスペースを見渡した。はっきりいって、アリス自身、部屋を出る時はどこを歩いていたんだろうというくらい、1枚の紙から厚いの薄いのに至るまでの本が、所狭しと並べたてられている。
 これで踏むなということは、取りも直さず「寄るな、来るな、近づくな!」ということになるだろう。
「更にお前は言った。“腹減った。シチューが食いたい。あつあつのホワイトシチューや〜!”」
 いまいちノリの悪い関西弁はともかく、どうだ! とばかりの火村に、アリスは黙ってにへっと笑った。
 その、いかにも「何も存じ上げません〜」という笑いに、火村はもう一度、今度は心から溜息を吐き出した。
 これが、学生時代から、もてるくせにアリスが一人として長続きしなかった原因の大半を占めていることはまず間違いない。火村の知るところで、保って1ヶ月だ。まぁ、火村としては、おかげでアリスを手に入れることができたとも言えるのだが。時折、自分の存在を忘れ去られてしまうこともあるが、この何者にも代え難い存在の傍らに自分の居場所を確保するためなら、それすら小さな代償だろう。
「で、どうするんだ?」
「?」
「シチューだよ。ちょうどいい具合に出来たから呼びに来たんだ。食うのか?」
「食う〜♪」
 もう仕方ない。1時間待たされたが、見たかったアリスの笑顔は見ることができたのだから。




 アリスの要望で野菜たっぷりのシチューの皿は、リビングのガラスのテーブルの上、アリスのお気に入りのアフリカンな象柄のランチョンマットに乗せられて饗された。火村のは色違いだ。北白川の下宿に揃った小物達が色違いなら、もちろん、ここに揃った物達もそうだ。例えば、ダークブルーのエプロンが火村の物なら、アリスのエプロンはライムグリーン。火村のスリッパがブラックなら、アリスのはスカイブルー。そんな感じで。
 そして、その小洒落た食器やカラトリー達と並んで置かれたのは火村が買ってきたデパートの和風弁当。見るからに奇妙な取り合わせだが、おかずの種類が少量ずつで増えた分、栄養バランスは良さそうだ。結果的には2人にぴったりの食事かもしれない。
「うわぉ、ニンジンが星形や! やるなぁ、君」
 火村が座るのをお行儀良く待っていたアリスはシチューの中のそれを見つけ、素直に感嘆の声を上げた。しかし褒められたにもかかわらず、火村の顔はいつも以上に憮然としていて。
「もしかして……」
「“ニンジンはお星様やないと泣くで!”」
 アリスに向けられた視線はヤのつく方々も思わず逃げ出すといういわく付きのそれで。
「あ、あははははは。それはそれは。よ、シェフ! かっこええで火村君」
「お追従は結構だ」
「あ、そ」
 何故だか火村の機嫌が悪い。さて、原因はと考えると、締め切り間際などに電話で呼びつけて食事の仕度をしてもらったりするのはいつものことだし、さっきまでだって不機嫌そうな顔はしていたけれど、本気でないのはアリスにだって分かっていた。「先に行ってる」と言った火村は確かにちょっと笑ってだってくれたのに。
 アリスは目の前の、作りは良いのに人前ではほとんどいつも憮然としている男の顔を見つめながら小首を傾げた。火村の目には、アリスのその仕草は常識的に考えてもこの年齢の男に相応しいものではないことは重々分かっているのだが、どうにもこうにも可愛らしい。そう思うのはおそらく火村だけではないと思うが。端的に言うとつまり、弱いのだ。目の前で子犬がご主人の命令を待つかのように、自分をじっと見つめている男に。
 それでもしかし、癪にさわるものは仕方がないではないか。書斎にいた時からずっとなのだ。さっき火村と話している間も、いつもだったらまず自分を抱き締めてくれるアリスのしなやかな腕を独占していた。あの一面に敷き詰められた資料の中、1枚たりとも動かさず跨ぎ超えるだけでも至難の業だろうに、わざわざ抱えて連れ出してきて、今もまた、アリスの隣を独占しているその存在。
「あ、こいつ?」
 視線に気づいた罪作りな推理作家は立ち上がり、こともあろうにその背後から両腕をその太い胴体に回してにっこり笑って宣った。
「かわええやろ」
 ぎゅっと抱きつき、その首筋にさも気持ちよさげに頬ずりしているそれは。
「なんなんだよ、それ」
「ペンギンや」
 そう。それは、等身大―――身長150cmはあろうかと思われる皇帝ペンギンのぬいぐるみだった。
「そんなもん、見りゃ分かる!」
 はっきりいって、そんなものにまで嫉妬しなけりゃならないというのは情けないの極地だろう。分かっている。だけれど、2週間振りの逢瀬だというのに、自分は抱擁どころか、お帰りなさいのキスどころか。指先1本、触れることさえままならないでいるのに。さっきからさっきからさっきから! 人が下手に出てりゃあいい気になりやがって。抱きつく相手が違うだろう、アリス? 
「ええやろ〜。あっち(外国)のじいちゃんがコート買うてくれたて言うたら、こっち(日本)のじいちゃんが買うてくれたんや」
「一体どういう一族なんだよ、お前のところは!」
 アリスは平然としたもので、右手の人差し指を唇に当てて、呑気に「ん〜」と呟いた。
「っていうか。じいちゃん同士が張り合うとるんやな、あれは」
「そうだろうな」
 火村は今までのあれやこれやを思い起こし、両手の拳を震わせた。
「学生時代からのライバルっちゅうか、親友同士っちゅうか、悪友同士っちゅうか…… なんや、俺達みたいやん」
 アリスは笑った。いい加減、火村はグレそうになった。
「何言ってやがる。俺達は恋人同士だろ、こ・い・び・と」
 言って、ちょいちょいと指先でアリスを手招いた。
「なんや?」
「その、恋人たる俺に、し忘れていることがあるだろ? ん?」
 そのあまりにも期待に満ち満ちた様子に、今にはじまったことではないが、アリスはやはり、呆れてしまった。
「なんや、どっちかいうたら子供にただいまとかお帰りのキスを強請られとる気分や」
 これで母校の最年少の助教授。天才・俊英の賞賛を欲しいままにし、犯罪者を一刀両断にする新進気鋭の犯罪学者。クールよ、ニヒルよストイックよ、あの大人の魅力が堪らないわぁと世の女性達が声を上げ、熱い眼差しで悩殺に情熱を傾けるというのだから、如何に世間が当てにならないかがよく分かる。
「そんなもん買ってもらって喜んでる30男に言われたくないね」
「君かて猫に目ぇないやんか」
「それとこれとは別だろ」
「しゃあないやん。ホンモノのペンギンなんて飼えんのやもん」
「そういう問題じゃねぇだろ」
「君が身につけるもんは駄目や言うたんやないか」
 確かにそれは言った。しかし、だからといって。
「こんなにかわええのに」
 巨大なペンギンのぬいぐるみに抱きつきながら頬ずりする30男……
普通だったら寒いどころか氷河期並の極寒以外のなにものでもない風景なのに、違和感がないというのはなんなのだろう。
「このおじさん、見る目ないよな。なぁ、ひでぽん?」
 お前を選んだこの俺に対して見る目がないとはなんだ。
 いや、それよりも。
「……っ、その、ひでぽんってのは、なんだ?」
「ひでぽん言うたら、ひでぽんやないか。この子に決まっとる。なぁ、ひ〜でぽん(はぁと)」
 おそらくはアリスがわざわざ作らせたのであろうペンギンの首にかかった銀色のネームプレートには、確かに平仮名でそう彫られていた。だけれど。
 ―――そんなもん作るな!
 じゃなくって。
「真面目な顔してそんなもんに話しかけてんじゃねぇよ!」
「なんや君、妬いとるのか? それともなにか? 君、ひでぽんて呼ばれたかったんか?」
「んなわけねぇだろ、気色悪ぃ」
「せやろ。君がひでぽん、なんてかわええ玉なわけないもんな。したら、なんも問題ないやんか。なぁ、ひでぽ〜ん(はぁと)」
 アリスは火村にはそう言っておきながら、ペンギンには飛び切りの笑顔を向けた。
「……っ」
 やっぱりどうにも我慢ができない。腹が立って仕方がない。悔しいというか、ムシャクシャするというか。一体どうしてくれようか。優秀な頭脳でそんなことを考える。
 しかしアリスはそんな火村をそっちのけ。
「さ、はよ飯にしよ、飯。君はええかもしれへんけど、俺はあっつぅ〜いシチューが食べたいんや」
 改めてテーブルの前に座ると、お行儀よくいただきますと両手を合わせた。
 そうして、ちらと目だけで窺うと、クールでニヒルが売りのはずの助教授は、結局挨拶のキスひとつしてもらえないままで、すっかり不貞腐れてしまっていた。
 まったく子供なんやから。でも、自分だけに見せてくれるそんな態度や表情にアリスは口許に微笑みを浮かべながら小さく溜息をつき、子供のような男の傍らに膝を進めた。
「お帰り、火村。シチュー作ってくれてありがとな」
 おあつらえ向きに横を向いた、少し荒れた唇にキスをひとつ。
 火村はぱちくりと瞬きをひとつ。実はふとした時に垣間見せる、火村のそんな子供っぽい表情が可愛くて好きなのだというのはアリスの秘密。
「さ、温かいうちに早よ食べよ。君の唇かさかさや。どうせやったらようさん栄養摂って、唇柔らこうしてからいっぱいキスしよ」
 無意識に小首を傾げ、にっこり笑ってアリスは言う。もちろん、こんなチャンスをみすみす見逃す火村ではない。
 すかさずアリスを押し倒し、抵抗をものともせずに本格的なキスをかました。が。
 ―――ドカっ
「〜〜〜っっ」
「シチューが冷めるて言うてるやろ!」
 腹を抱えて蹲る男が一人。
「あ、すまん。ちょお強ぅ蹴り過ぎたかも」
 ―――火村英生、3●歳。時に冷酷無比とさえ言われ、あちら側へ飛んだ犯罪者を一発必中で叩き落とす犯罪学者。しかし、この先いかにこの惑星に人口が増えようとも、その男を一撃で叩き落とせるのは一見害のない、この推理作家だけだろう。


to be continued



うわいッ★ ヒロさんから、素晴らしいアリスのお誕生日スペシャルが届きましたぁ〜っvvv ばんざぁ〜い、ばんざぁ〜い!!
今回のお話は、ヒロさんの相方のたまりんさん曰く「火村〜、気の毒な奴ぅ。くくう〜。と言いつつ目が笑う」というシロモノなんだそうです。んが、そうですかぁ!?(笑)
私なんて、ペンギンさんに『ひでぽん』て名前付けて貰えるとは、くっそぉー火村ってば幸せものッ!!---と思っちゃいましたけど(笑)
でもそう思いつつ、確かに私も心の中でケケケッと笑ってしまいました。ショーがないよね、私らアリシストだから…vvv
ちなみに今回の私のイチ押しは、ペンギンの『ひでぽん』と星形人参入りクリームシチューです(^-^)v

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