推理作家と犯罪学者の華麗なる日常2 <中編>

響 ヒロ 




 何処か遠くで音楽が鳴っている。
 浮上しかけた意識の中、そんなことをぼんやりと思っていた。
 “展覧会の絵”だ。あれは確か――― 
 そうだ。アリスの家の電話の音。
 そんな意識とは別の、ぬくもりと、雲の上を歩いているというのはこんな感じだろうか、というふわふわとした浮遊感にも似た心地良いまどろみの中。
 ―――ばっふんっ
「ぐえっ」
 突然上からかかった重力に、火村は潰れる間際のカエルさながら声を上げた。
 この楽園からの強制送還といったら、釣り上げられた深海魚というのはこんな気分じゃなかろうかというほどだ。
「お、お前……っ もう少しマシな起こし方があるだろうが!」
 耳元で優しく名前を呼んでくれるとか、おはようのキスをしてくれるとか。同性とはいえ恋人同士なのだから。そんな甘い夢を夢見て何が悪い?
 かてて加えて昨日の晩からクーリングヒット。俺の腹になんか恨みでもあるのか、お前? 
 そんな気分が合わさって、起きるに起き上がれずに呻いていると、その体と十字を描くように腹の上にのしかかっていた上体を起こし、
「せやかて君、半分起きかけてたもん」
 麗しい恋人は、そんなことを悪びれもせず宣った。
 じゃあ、100%眠りの世界にいたならば、そんな風に起こしてくれたというのだろうか。おお、それなら次回からはハリウッド俳優も真っ青な名演技を披露してやろうじゃないか。京都の名門、英都大学始まって以来の最年少の助教授は、優秀な頭脳を朝っぱらから、そんなことに使っていた。
「って君、ほんま起きとる?」
 その思考の中心に自分がいることなど知る由もないアリスは火村の頬を両手で挟み、瞳の奥を覗き込むかのように顔を寄せた。合わされる、澄んだ泉のようなアリスの瞳。心の中の全てを映し出されてしまうような。
 何もかも。
 消してしまいたい火村の過去も。
「お前の目、本当に吸い込まれちまいそうだな」
 綺麗な綺麗なアリスの瞳。火村の宝物。
「なっ なに朝っぱらから口説いてんねん……っ」
 不意打ちの口説き文句に、一瞬にしてアリスの顔が赤く染まった。
「いや、別に口説いてるつもりじゃないんだけどな」
 火村にしてみれば、本当に思わず洩れてしまったセリフなのだ。
「でも、お前が口説かれてくれるってんなら、文句なしに大歓迎だぜ?」
「ええ加減、脳みそ起きさらせ!」
 片目をつぶって見せる仕草が嫌味なくらいによく似合う男は、投げつけられたジーパンに足を通して引き上げながらベッドから降りた。
「はいはい、電話か?」
「船曳警部からや」
「了解」
 けれど懲りない男はアリスの脇を通り過ぎざま、後頭部に指を差し入れ引き寄せて、甘い唇に音を立ててキスをした。
「Mornin, Sweet」
 リビングへ続くドアを開け放ちながら悔しそうなアリスの気配を背中で感じ取り、昨晩のことはこれで雪辱ってことにしてやるよ、とばかりに火村は気分良く電話に向かった。
「お待たせしました、火村です」
 ともすれば楽しそうな響きを帯びてしまいそうな声を、素早く対一般人用に切り替える。
『ああ、火村先生、やはりこちらでしたか』
 船曳の少々嬉しげな勝ち誇った声に、だから、それは一体なんなんだと前回に引き続き思ったりもするが、今朝は気分が良いので黙っておくことにした。
『お休みのところ申し訳ありませんが』
「事件ですか?」
『はい。解決した事件まで考証し直さにゃならんという事態です。しかも、特殊な業界でのことでして』
「ということは―――」
『有栖川さんも是非ご一緒願いませんでしょうか? 場所はですね―――』
「分かりました。ええ、多分わかります。大丈夫です。はい」
 火村は複雑な心境で返事をすると、いつものように船曳の言う場所のメモを取り、復唱してから受話器を置いた。
「ゆっくり朝食って気分やなさそうか?」
 振り返るとライムグリーンのエプロンをしたアリスがマグカップを両手に、キッチンから顔を覗かせていた。
 食卓の上を見ると、まだ湯気を上げているハムエッグとトースト、火村のお気に入りのピーナッツバターの瓶と温め直した昨日の残りのシチュー、プチトマトが彩りを添えたサラダが乗っていた。
 おそらくアリスが火村を起こしにきたのは、電話というより食事の準備ができたからというのが実のところなのだろう。
「まさか。新婚気分はちゃんと味わわせていただくぜ」
 火村は長い足を活かして、数歩で定位置の椅子に腰を下ろすと、アリスがコーヒー―――火村のマグカップにはカフェオレ―――を淹れて席につくのを待ってからキツネ色のトーストに手を伸ばした。今日もアリスが呆れるほどにたっぷりとピーナッツバターを塗りながら、おもむろに訊いた。
「お前はどうする?」
 もちろん、フィールドワークだ。
「行くに決まってる」
「原稿は?」
「俺を誰やと思うとるねん」
「締め切り破りも天下御免の有栖川大先生」
「人は問う。何故締め切りを破るのか? と。男は答えた。そこに締め切りがあるからさ」
「それを言うなら『山』を『登る』だろ」
 長年の付き合いで、ツッコむことは忘れない。
「―――や、なくてなぁ。しっつれいやな、お前!」
「自分で言ったんじゃねぇか」
「俺は締め切りを破ったことはない!」
「お。また自信たっぷりに断言するじゃねぇか」
「……最終締め切りは」
「それ、やったら、お前の作家人生終わりだぜ?」
「せやから! 今回のは余裕綽々で終わらせて、もう出して来たわ。やから、心おきなく君と行ったる!」
 念のため、火村は訊いた。
「お前、ちゃんと寝たか?」
「寝た。なんで?」
 まさか、目が覚めた時、隣にアリスが寝ていなかったから拗ねているんだなどとは口が裂けても言えやしない。
 隣で眠るアリスの顔を見ていると生まれてくる心の安らぎ。幸せを噛みしめるということの意味を。火村はアリスと出会って初めて知った。
 一度だけでいいからと、はじめはただ、それだけを願った。けれど、一度でも触れてしまったら、その甘露を手放すことなどできるはずもなく―――
アリスといると幸せの数は、どんどん増えた。もっと、と望んで何が悪い?
「君が布団に潜り込んで1時間くらいの頃やと思うで?」
 それなら、尚更だ。こき使うだけ使われて、それでも締め切りに追われていると思えばこそ我儘も言わず、我慢したというのに。そんなに余裕だったのなら、おいたの少しもすれば良かった。頑張ってもう少し起きていれば良かった。火村は憮然とテーブルの上を睨んだ。
「よっぽど疲れてたんやなぁ。すっかり熟睡しとったで。しゃあないよな、もう若うないねんから。もう無理はきかんねやな」
 揶揄するようにアリスは笑った。
 けれど本当のところ、アリスにはアリスの思惑があったのだ。それは寝る時も、目が覚めた時もそうだった。悪夢も見ず、穏やかな火村の寝顔をもっと見ていたかったから起こさなかっただなんて。白髪の混ざった少し堅い髪を指で梳きながら額や瞼に幾度となく口吻を落としていただなんて。そんな、起きていたら絶対絶対できないだろうことをしていたなんて、脅されたって言うものか。
 こうして内容はともかくとして、お互い思うところが一致した2人は、黙々と胃袋の欲求を叶えることに専念した。
 
 



「嫌な予感がする」
 アートなベンツの助手席で、ぼんやりと前方を見つめていたアリスが呟いた。
「これ以上『風のように』は無理だぜ」
「あほう。そうやないわ。あ、そこ信号左な」
「了解。じゃあなんだ?」
「なんだ、と言われても」
「野性の直感か?」
「俺は君と違うて文明人や」
「残念でした。それを言うなら文化人だ。文明人という単語はない。言葉は正確に使うこったな、作家先生」
「既存の言葉を使うだけが作家やない。新しい言葉を生み出すこともまた作家の務めや。ま、出来合いの言葉で表現することしか許されん、お可哀想な助教授殿には分からんやろうけど」
「減らず口叩きやがる」
「どっちが。おっと、次の信号右のとこ、道なりに行って、あとは直進や」
火村のメモと地図を見比べていたアリスは、もう用は済んだとページを閉じて、ドアポケットに突っ込んだ。
 目の前に現れたのは、昨今どこの自治体もひとつは持っているだろう、ちょっとしたオーケストラや劇団が舞台を踏めそうな、いわゆる芸術劇場といったものだった。
 案内の矢印に従って屋内駐車場へ入ると、一般の車に混ざって大阪府警のパトカーが数台並んでいた。
 車を降りた火村が入り口を探してぐるりと見渡すと、ちょうど正面の扉を開けたアルマーニの刑事と目があった。
 笑顔で大きく腕を振る様はとてもじゃないが、事件現場の刑事には見えない。
「有栖川さ〜ん!」
 甘いマスクのジャニーズ刑事は片腕を上げ、嬉しそうにその名を呼んだ。
 お前と目が合ったのは俺だろ、俺! それになんだ、その嬉しそうな顔は! と、ことアリスに関して狭量な火村は思うのだが、アリスが歩いて行ってしまうので仕方がない。
「先日はありがとうございました」
 そんな火村の心情など露知らず、森下自身に他意はないのだろうが、にこにこ笑ってアリスにぺこりと頭を下げた。
「有栖川さんの教え方が上手やったおかげで、パソコンばっちり使えてます」
 先日、町中でパソコン教室帰りの鮫山と森下に会ったことがきっかけで、アリスが自宅で2人のためにパソコン教室を開くということになったのだ。
「夕飯までご馳走してもろうて。ほんまに美味しかったです。有栖川さんて、ほんまになんでもお上手なんですね」
 褒められて嫌な気分になる人間はいない。ましてやアリスだ。
「おだてても何も出ませんよ」
「おだてるやなんて、いややなぁ。ほんまですって」
「よかったら、また来てくださいね」
「ええんですか? 嬉しいなぁ」
「ただし、手ぶらでな。なぁんも持ってこんでええですからね」
「僕がお菓子食べたいんです。せやから持って行くんです」
「しゃあないなぁ」
 毎度のことだが、放っておいたらいつまでも続きそうだ。火村はイライラと煙草のフィルターを歯噛みし始めた。
「おいアリス、いい加減に―――」
「頼まれモンひとつ取ってくんのに、どれだけ時間食ってんのや、森下!」
 痺れを切らした火村の声と鮫山の声が重なった。これでは前回と同じパターンだ。
「ええ大人が、はじめてのお遣い以下か?」
 しかし、顔を覗かせた鮫山は、火村とアリスの姿を認めて畏まった。
「ああ、火村先生、有栖川さん、いらしてたんですか。せやったら、早う警部のとこに案内せんとあかんやないか」
 前半は火村とアリス、後半は森下に向けられたセリフだ。
「す、すみません。この間のお礼をしてましたっ」
「ああ、それはちゃんとしとかなあかんな。火村先生、有栖川さん、先日はいろいろありがとうございました」
「いや、そんないろいろやなんて。嫌やなかったら、またいつでも来たってくださいね」
「機会があれば……」
 そう答えながら、鮫山はちらりと火村を窺った。
 酒のせいで、多分アリスは覚えていない。けれど火村は、その独占欲ゆえ、アリスにそれを思い出させて責められない。
 森下にとっては嬉しいアクシデント。火村にとっては大いなる誤算。さて、自分にとってはどうだろう?
「せっかく4人もいてるんやし、今度はたこ焼きパーティでもしましょう」
「くるくるぱー、ティですね」
「そんなんお前だけや」
「ひどいです、鮫山さ〜ん」
 大阪人トリオのノリノリの会話に、火村はなんとなく疎外感を感じてグレかけた。と、
「おい鮫やん、何してんのや。お前さんまで戻って来んて、我らが班長、海坊主やのうて茹でタコになってんぞ」
 更に刑事が一人、顔を覗かせた。
「すまん。ちょうど先生方がいらっしゃってな。先に戻って警部にお伝えしてくれ。俺は現状を先生に話がてら行く」
「ほいよ。森下、お前も早よ来い」
「はーい、今行きま〜す!」
 茅野刑事に向かって元気よく返事をすると、森下は車のトランクに顔を突っ込みに行った。
「じゃあ、お先に失礼します!」
 それから一度、アリスと火村前に立って足を止め、ぺこりと小さく頭を下げて走って行く。
 元気ですねーと感心するアリスに、「あれでも一応、うちのホープですから」と警部補は苦笑ながらに親馬鹿ならぬ、上司馬鹿を披露した。それはともかく。鮫山は真面目な顔に立ち返り、黒い手帳のページをめくった。
「被害者はデザイナーの男性。和泉忍、23歳。遺体が発見されたのは今朝8時半頃。場所は舞台裏です。2週間ほど前から、この会場は明後日行われる予定のファッションショーのため貸し出されていました。ファッションショーといっても、デザイナーやモデルの卵達の発表会といった感じのようです。今朝も9時から準備等で集まることになっていました。第1発見者は高藤誠、22歳。被害者の親友だそうです。縊死でしたので、所轄の見識では最初、自殺と判断されました。1週間前、ここで同じ手段での自殺がありました。被害者の恋人で、このショーに出る予定だった女性です」
「後追い自殺と思われたわけやな」
 アリスの言葉に鮫山は頷いた。
「ええ。仲間内の話では、最近少し精神的に参っているところがあったそうなので。しかし、もしかしたら他殺ではないかという見方が出てきたので、前回の件も含め、改めて一課に話が回ってきたというわけです」
鮫山の説明に、火村はほぅ? と呟いた。その意味を悟って、鮫山は言った。
「前回の件に関しては、一課が見識したわけではありませんが、他殺と自殺の区別がつかないほど経験がないわけはないでしょうし、第一、そんな過ちはあってはならない。しかし、慎重に事を進めるに超したことはないというわけです」
「で、一課の見立てはどうなんですか?」
「女性の件は、まず間違いなく自殺でしょう。今回に関しては、他殺ということで意見が一致してます。あとで見ていただきますが、どうもいわゆる、ダイイングメッセージというやつが残されているようなんですよ」
「よう、というのは?」
「壁に残った引っ掻き傷なんですが、極薄いものなんです。苦し紛れに引っ掻いた物だと言ってしまえば、それまでなんです」
 火村はふぅんと小さく呟いた。
「おいアリス。どうやらこれは先生向きらしいな。期待されてるみたいだぞ。頑張らないとファンが減るかもしれないな」
「茶化すなや。人が死んでんのやで」
「これは失礼」
「今回のこのショー、認められればデザイナーとして認められる、目に留まればモデルとして名を売り出すええ足がかりになるゆうんがあるんでしょう。表舞台は華やかやけど、舞台裏に入ったら、そりゃあもう、えげつない世界ですからね。一般には理解できないような苛烈な争いがあるんですよ」
「さすが、お詳しいですね。次作はこの世界を舞台にしたものをお書きになるんですか?」
「や、その、そういうわけでもないんですけど」
「どうせお得意の好奇心てやつだろ」
「君がいうと、なんやめちゃくちゃ嫌味に聞こえる」
「そりゃあ、重ね重ね失礼しました」
「ムカツク!」
 2人のじゃれ合いには、いい加減馴れた。
「関係者はホールに集めてますので。こちらです。どうぞ」
 鮫山は地元の多目的ホールにしては凝った作りの扉を開けた。
 嬉しそうな顔で船曳班の面々が迎えてくれるのと同時に、新たにやってきた 2人に人々の視線が集まるのはいつものことだ。
 しかし、その中で自意識過剰というのではなく、アリスは自分を見つめる一際強い視線を感じた。
「アリス――――――?」


to be continued



「このお話はフィクションです。業界の方、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい〜っ」というお言葉付きで、ヒロさんからスーパーヒーローアリスの続きが送られてきましたvvv
今回もアリスは絶好調で、火村かわいそ…、かな!?
ヒロさんの相棒のたまきさんに拠れば、「このシリーズの火村ってばホント、可愛いよね。やんちゃ坊主みたい。アリスのがお兄ちゃんしてるよ〜。くすす」なんだそうです。確かに火村ってばだだっ子さんで、可愛かったかもかも…。
今回は私ご贔屓の森下さんと鮫山さんのコンビも出てきて、とってもナイスでした☆
このお二人は、絶対大阪府警捜査一課一の名コンビだと思います(爆)
ところで、私の(?)ひでぽんは一体どこに行ってしまったのでせう(i_i)
ひでぽんカムバァ〜〜ック!!---ということで、ペンギンさんのカットはそのままです。

響 ヒロさんのステキで面白いヒムアリは、こちらで読めます