響 ヒロ
「マクシミリアン……?」
アリスの口から自分の名が零れると、喜色満面、男はアリスの前へ早足でやって来るなり、その身体を抱き込んだ。
「アリス! ああ、アリス! ほんまにアリスなんか!?」
アッシュブロンドにアッシュグレイの、どう見ても白人男性以外には見えない男の口からベタベタの関西弁が飛び出してくるのは、はっきりいって、妙。
しかし、アリスはそれどころではなかった。
「ちょ……っ マックス!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる男の腕から逃れようと藻掻いてみるが、抜け出せない。
「相変わらず綺麗やなぁ。肌もすべすべやし。ん〜このさらさらの髪の感触がめっちゃ好きやってん」
男はアリスの項に鼻先を埋め、ますます強く抱きしめてきては、アリスの頬に髪にと手をすべらせた。
アリスは、ひ〜っと心の中で悲鳴を上げた。
「ほんまに昔とちっとも変わってへん。いや、もっと色っぽうなった。あの頃も色っぽかってんけど、まだ17やってんもんな。せや、マサユキ、元気にしとるか?」
ここに至ってやっと、突然のハイテンションに押されて呆然としていた火村は、見知らぬ男の腕の中に捕らわれたアリスの腕を掴んで引き寄せた。端的にいうと、片腕で抱き込んでいる状態だ。これはこれで、アリスは心の中で悲鳴を上げた。
「あなたは?」
「ああ、失礼しました」
火村の鋭い眼光にも怯まず、にっこり笑って男は答えた。
「マクシミリアン・フローゲルです。アリスのウォーキングのコーチをしていました」
心休まる暇などなしに、アリスの顔が強ばった。
「マ、マックス!」
その先を止めようとするが、間に合わず。
「ウォーキング?」
「はい。ショーの」
「ええっ 有栖川さんて、モデルやったんですか!?」
森下の頓狂な声にアリスは頭を抱えた。火村だって初耳だ。
「なるほど。それで詳しかったわけですね」
先刻の話を振り返り、鮫山が呟く。
「でも有栖川さんだったらなぁ」
更に森下は、うんうんと首を振った。
「写真、見ます? いつも肌身離さず持ってるんですよ」
「え?」
森下の目がキラリと輝いた。
「だ――――――っっ」
アリスの叫びが森下の声を遮るように交差し、
―――ごほんごほん。
船曳のわざとらしい咳払いに、場違いな騒ぎは鎮静された。
森下の首が竦めるのを横目で睨み、船曳は2人の新参者を手で指し示した。
「あー、改めて紹介します。こちら犯罪学者の火村先生と、助手の有栖川さんです。これまでにも捜査に協力と助言をいただいています。今回もご協力願うことになりました」
へぇ……と向けられた視線は、いつもあるような「どうして民間人が」というものではないが、代わりに好奇心に満ち満ちたものだった。特にアリスに向けられたそれは。
それはそうだろう。自分達の先生と先ほど交流を深め合っていた、しかもステージに立ったことがあるという美しい男が犯罪学者の助手だというのだから。
「まず、現場を見ていただきましょう。火村先生、こちらです」
船曳が言うと、彼らの間から声が上がった。
「ねぇ刑事さん、俺達いつまでここでこうしていなきゃいけないんですか? あいつ、自殺やったんでしょ? いっくら続いたからいうて、なんでここまでやらなあかんのです? 本番まで、もう時間ないんですよね」
どうやら、まだ他殺だとは話していないようだ。それにしても、この状況で、予定通りに公演をするというのだから恐れ入る。
「実は、今まで話しておりませんでしたが、今回のこの件、殺人事件として扱われることになりました」
途端に悲鳴とざわめきが、あちこちから上がった。
「そんなわけですので、後程みなさんからも改めてお話を聞くことになると思います。申し訳ありませんが、もうしばらくご辛抱下さい」
ざわめきが大きくなる。しかし馴れたもので、船曳は火村の前に立って歩き出した。その後について行きながら、火村はアリスに小声で訊ねた。
「おい、マサユキって誰だ?」
「叔父貴や」
「叔父貴? っていうと、もしやあの?」
「せや。君の卒業式にポルシェ貸してくれたった。俺が向こうで暮らすんを心配してついてきてくれてな。マックスは、その頃の叔父貴の友達やねん」
その叔父さんの御友人とやらが、どうしてアリスとまで親しいのか。親しいというより、馴れ馴れしい。火村にしてみれば、アリスがあの男をマックスなどと親しみを込めて呼ぶことさえ気に入らない。
「その頃マックスはまだ駆け出しのコーチやってん。叔父貴とは行きつけのバーかなんかで知り合うたらしねんけど、見に来んかて叔父貴に誘いがあって。そん時俺も一緒に行って知り会うたんや」
「で? なんでそれでコーチ受けることになったんだよ?」
「んー。そん時に、そこに居合せたデザイナーの先生に自分の服着て、出てみんかて誘われてな。あんまり気ぃ向かんかってんけど、なんでも偉い先生らしいて、断ったら失礼やて周りが騒ぎよるから」
そのデザイナーの先生とやらの気持ちは火村にはよく分かる。今でも―――出会った時からずっと―――アリスは綺麗だ。おそらくきっと、その頃のアリスはまだ大人になりきらない、少年とも少女とも言い切れない不思議な美しさで見る者を魅了したに違いない。
アリスがそのままその道を進まなくて良かった、火村は心から思った。でなくば今頃、火村のアリスは世界中の人々の目に触れて、心痛は今の比ではなかったはずだ。それ以前に、この出会いはなかったかもしれない。
それはさておき、引っかかったことはもう一つ。
「お前、向こうには、たまに遊びに行くとかいうだけじゃなかったのか?」
「うん。小中学校はこっちで、高校、大学は向こういうんが、じいちゃん達の取り決めやったらしいん。その後は、俺がどっちに住みたいか決めろっちゅうわけやな。まぁ、ハイスクールの時ちょっとあって、こっち戻って来てもうたんやけど」
「……聞いてない」
「言うてへんもん」
火村の不機嫌なんて気に止めた風もなく、アリスはあっさり答えたが。
「せやけど、戻ってきてよかったて思うとる。君と会えたんやから」
効果狙いなのかなんなのか。笑顔でそんな殺し文句を言われては、それ以上言うことはできないというものだ。それでなくとも、今はフィールドワークの最中で。
「火村先生、ここです」
火村はほんの少しだけ、悔し紛れにアリスを睨み、船曳が指差すところへと意識を集中させた。
確かに木の壁の一部に、文字を書いたような引っ掻き傷があった。明かりをつけても暗い舞台裏では、それこそ目を凝らしても見えるか見えないくらいの、ただの引っ掻き傷とも言えなくない傷だ。
「確かに、イコールの文字のようにも見えなくもないですね」
「和泉忍の左人差し指の爪の中から、同じ塗料が検出されました。和泉は左利きでした」
「僕は絶対、高藤が怪しいと思います」
森下が言った。
「名前書きかけて力尽きたんですよ」
その森下の言い分に、しかし鮫山は冷静に言った。
「トップの座を奪われ、恋人に乗り換えられた恨みか? それも変やろ。高藤はもともと別れたがってたみたいやし、最近では、その恋人がまた高藤に乗り換えそうやて、和泉の方が焦ってたみたいやないか」
「う〜」
鮫山と森下の、教師と生徒のような会話はともかく。
「どう思う?」
「て言われてもなぁ」
訊いてはみたが、火村も別にアリスに答えを期待しているわけでもないらしく、人差し指の関節でダーク系のペンキで塗りたくられた板壁を叩いた後、通路として使われるのだろう裏側を一度覗いて、ふぅんと呟いただけだった。その行動も事件に関係はなさそうだった。
「彼らの話を聞いてみますか?」
船曳の言葉に火村は頷いた。
「最初の聞き込みから比べても、大した収穫はありませんでしたなあ」
手帳を閉じながら茅野が言った。
「和泉らの三角関係を除いては、成績の入れ替わりやショーに向けてのゴタゴタと、特に普段と変わったこともないということやし」
仲間の話では、恋人を奪われそうな状況だった和泉の方が高藤を殺しかねなかったという。性格的にも和泉の方が思い込みが激しく、そういった思考に走りやすい傾向があったようだ。対して、高藤の評判は、概ね好意的だった。
「和泉の探していたものというのはなんでしょう?」
「件の彼女が自殺する3日ほど前から何やら必死になって探し回っていたというあれですね」
火村の問いに、鮫山が答えた。
「そうです」
「周りが訊いても誰にも教えなかったというくらいですからねぇ」
「本番を間近に控えたこの時期に、発表作の最終仕上げもせずに探さなければならなかったものというのはなんでしょう」
「事件に関して重要なことですか?」
「さぁ、どうでしょう」
船曳が身を乗り出すのに、火村の答えは、いっそ、拍子抜けするくらいだ。
「そういえば、最後に話したあの男は、デザイナー教室の事務員でしたっけ?」
「田所ですね。教室と、事務所の方を兼ねているということです。こういうところの事務員といえば、私なんぞは中年のおばちゃんを想像するんですが、昨今は一人前の男でもやるんですなぁ」
船曳が、ともすれば差別発言とも取られる言葉を、トレードマークの頭をハンカチで拭きながら言った。
「事務員というのは、普通こんな場面―――ショーの準備中の会場という意味ですが―――にも来るものなんでしょうか?」
「田所の言うところによれば、会場の費用の支払いについて、ここの責任者と話があったということですが」
「この会場は、自治体のものですよね? そういう話は役所に行くものだと思うのですが」
「言われてみれば、そうかもしれません」
「絶対怪しいのは高藤ですよ!」
「捜査に思い込みは厳禁やぞ」
食い下がる森下を、鮫山が窘めた。
「調べ物をお願いしてもいいですか?」
「ええ、構いませんとも」
どうやら火村にエンジンがかかりはじめたようだと、船曳は嬉しそうだ。
火村の言うことにいちいち頷き、メモを取る。
「早速、調べてみましょう。おい、森下!」
「はい、警部!」
森下が元気良く駆けだしていく。その後ろ姿を目で追うこともなく、火村は唇に指を滑らせ、思索に耽りはじめていた。
こうなったら自分がいてもいなくても同じだろう。アリスはコーヒーを買いに、取調室代わりの楽屋を出た。正面に同じような楽屋のドアがもうひとつある狭い廊下を通り、扉を開けると目の前がロビーだ。
ソファに腰を下ろして煙草を吸っているマックスと目があった。
手招かれるまま、アリスはマックスの隣へ座った。
「若い刑事さんが走って行ったけど、話は終わったのかい?」
「終わったというか、第一幕が終了てところやな」
「驚いたよ。まさかこんなところで会うことになるとは思わなかった」
「俺かてそうや。なんや、大変なことになってもうたなぁ」
「まったくだ。こんなことになるなら、こんな仕事、引き受けるんじゃなかったって思うのが普通なんだろうけど。アリスに会えたしね。そう思えない」
「日本語、うまなったなぁ。お世辞まで言えるんか」
「仕事上、必要になることも増えたからね。でも、気を抜くと関西弁になるのは、君らのせいだな。さっきみたいに」
「俺と叔父貴のせいなんか?」
「ほかに誰がいるって?」
少し考え込んでしまったアリスにマックスはくすりと笑った。
そして、一言。
「お世辞じゃないよ」
そう言ったマックスの顔は、今までの穏やかな表情とは打って変わって真剣で。
「アリスに会えて、嬉しい。本当だよ」
「マックス?」
「あの事件のあと、君は日本に帰ってしまって、伝える機会を失ってしまったけれど」
「マ、マックス……?」
「一目惚れだったよ。あの頃の君は、どこか傷ついた顔してた。守ってあげたいって、思ったよ。あの頃の君も随分綺麗だったけど、だけど、今の君はもっと綺麗だね。多分、今の今の君が本物なんだね」
「マックス、手、放し……」
振り切ろうとして身を捩ったアリスの耳元に、マックスは口許を寄せて囁いた。
「あの男前の先生、アリスの彼かい?」
「!!」
咄嗟に振り向いたアリスとマックスの瞳がぶつかる。まるで口付けを交わす恋人同士の距離だ。
「そうだなあ……差し当たり、僕の頼みをきいてくれたら黙っててあげてもいいよ」
「マックス、あんたって……っ」
「おっと。そんな睨まなくてもいいじゃないか。もっとも、そんなアリスの顔も、ゾクゾクしていいけどね」
がっくりと、アリスは肩を落とした。諦めたというより、言われた言葉に脱力したというのが正解だろう。
「なにをすればええんや?」
「なぁに。別段難しいことじゃないよ」
マックスは再び、アリスの耳元に唇を寄せて囁いた。
「そ、そんなん無理やて!」
「大丈夫。問題ない。僕が教えたことを思い出してやればね」
顔色を変えるアリスに、マックスは飄々と答えた。
「俺は素人やなんやで? 第一、一体何年前のことやと……っ」
「嫌なんだ。あっそう」
マックスはにっこり笑ってアリスを見つめ返すが、目が笑っていなかった。
伊達に人に教える立場にはいない。こんな時は高圧的だ。
「〜〜〜っ」
「さて、どうする?」
「分かった……」
肩を落とすアリスを見て、マックスも今度は心からにっこりと笑った。
「どうせ笑いモンになるんは俺だけや」
しかし、ぶつぶつと呟くアリスを横目に実のところ、マックスは呆れていた。
―――あれだけ見せつけておきながら、本当にバレてないと思ってるのかね。
そりゃあもちろん、万人にとは言わないが。
昔から、利発なくせに、どこか抜けてるところがあった。それがまた、見る者の微笑みを誘った。人の心を優しくさせた。
マックスは両目を細め、未だぶつぶつ呟いている青年を愛しげに見つめた。
「そうですか、やはり……」
船曳の話に火村は頷いた。
「では、さきほどの件についても調べていただけますか?」
「ええ。すぐに分かると思います」
「ところで、アリスが何処へいったか知りませんか?」
「有栖川さんですか? そういえば……」
「森下、戻ってくる時、有栖川さんを見かけなかったか?」
鮫山が背後の部下を振り返った。
「僕はお見かけしてませんけど。ホールにいらっしゃるんじゃないですか? お知り合いの方もいらっしゃるようですし。昔話に花が咲いているとか」
火村の両目がスッと細められた。
「あ、そうだ。あとで有栖川さんの昔の写真も見せてもらうの、忘れないようにしなくちゃな。先生も見たいですよねー?」
この歳で捜査一課の刑事になったほどの男にもかかわらず、こういうところが妙に鈍い森下は、徐々に険悪さを増すこの雰囲気どころか、その後ろで脂汗をかく鮫山や茅野の心情などにも気づかなかった。
「ちょっと行って見て来ます」
「ああ、我々もそろそろ戻らんといけませんので」
そして、剣呑な眼差しのまま口調だけは冷静な火村に、やはりその辺り無頓着な船曳が
言った。
わあっ――――――!!
連れ立って楽屋から舞台袖への扉を開けた火村たちは、湧き起こった歓声に、何事かと視界を遮るカーテンを慌てて捲った。
途端、目に飛び込んでくる色鮮やかなスポットライト。
そして、なお一層鮮やかなシルエット。
目が、釘付けになった。
「綺麗でしょう。アリスは」
いつからそこにいたのか、火村の隣に立ったマックスが呟いた。ステージの上のアリスを見つめるマックスの目は誇らしさと愛しさで溢れていて。
「26のあの頃からずっと、ステージに立つ人達を教えてきたけれど。僕は彼ほど美しく歩いた人を、見たことがない」
けれど、どこか切ない眼差しだった。けして手に入れることが出来ないと分かっていてさえ、諦め切れない。そんな、憧れを追い続ける男の目……
「フローゲルさん、あなたはアリスを―――」
問いかける火村にマックスは自分の唇に人差し指をそっと当て、その先を押し留めてアリスを見つめ続けた。少しでも目を離したら、見失ってしまうとでもいうかのように。
花道の端で軽やかにターンするアリスのジャケットの裾が翻った。なんの変哲もない、普段着ている服でしかないのに、その姿は羽衣を纏っているかのように優美で艶やかで。蝶が羽ばたくように、花びらが風に踊るように、
舞う―――
「高藤がいないぞ!」
刑事の無粋な怒鳴り声がホールに響いたのは、そんな時だった。
せっかくいい気分だったのに! 火村はちっと舌を打った。そう思ったのはおそらく火村だけではないだろう。
森下らがホールを飛び出し、もう中にはいないだろうがロビーの左右を慌しく窺った。
「いました! あそこです!」
制服警官が指差すガラスの扉の向こう、高藤はバイクで道に飛び出していくところだった。
「逃がすな!」
「追うんだ!」
刑事達の激した声が飛ぶ。
追ったところで、走り去る背中が遠ざかって行くのが見えるだけだ。
「ちくしょう!」
そんな呟きが聞こえる中、バイクのブレーキ音が鳴り響いた。
「乗れ!」
火村の前で止まったバイクから、声とともにヘルメットが投げられる。
「アリス!?」
「早よせぇ!」
反射的に受け止めながら驚きに瞬きをする火村に焦れったそうにアリスが言う。
「どうしたんだ、これ」
「借りてきた」
「借りてきたって、お前」
言いたいことは分かってると、アリスは答えた。
「安心せぇ。免許は持っとる。早よ!」
「あ、ああ……」
火村は答えて後ろに跨り、アリスの腰に両腕を回した途端、狼狽えた。
「あほ。すぐに、変な気起こしとる暇なんやのうなるくらいのスリルを味わわせたるわ。しっかり掴まっとれよ!」
アリスがアクセルを踏み込む。バイクは軽快なエンジン音を響かせて走り出した。
「……いつ取ったんだよ」
加速に身を任せながら火村はどこか不満そうだ。
「ああ? 聞こえん〜」
「いつ取ったんだよ!」
「ん? 免許か? 結構前やで。君が1年ばかしアメリカに留学しとった頃や。君がおらんて、時間あったしな。ちなみに、セスナとヘリコの免許も持ってんで」
「ああ!? 何考えてんだお前?」
「そらやっぱ、犯人の逃走経路を考える上でやなぁ」
「お前が書いてんのは、海外のアクション物かよ!?」
「最近は国内もアバウトやからなぁ」
そうこうしているうちに、後方からパトカーの音が聞こえはじめた。
「……む。あの野郎〜 町中やってのに、飛ばしおって…… 成敗したる! 火村、飛ばすから舌噛まんようにし!」
「って、おいアリス!」
体感速度では既に、相当スピードが出ている。それを、もっとだと? 後ろからはパトカーが追いかけてきているのに、いい度胸だな、お前。と火村は思う。もっとも、だからといって、スピード違反で捕まることはないだろうが。危険なのはどう考えても火村の方だろう。
「しっかり掴まっとけや!」
アリスが声を荒げる。そんなことはとっくに―――言い返す前に、体が大きく傾いだ。
高速に乗る前に追いつかなければ。
風圧に仰け反りそうになる上体をアリスに密着することで保つ。確かにアリスの言った通り、それでもそういう気分になるどころではなかった。
ギュンッと摩擦でタイヤが軋る音がして、全身に、今度は別の意味での重力がかかった。
火村が一瞬閉じた目を開いてみると、バイクは高藤の前に立ちはだかるように停車していた。エンジンの音が静かに止み、アリスがヘルメットに手をかける。大きく息を吐き、頭を軽く 振ったアリスの、圧迫から解放された琥珀の髪が宙に躍り、光を受けて金色に輝いた。こんな場面だというのに、その姿に火村は見惚れた。おそらく高藤も。
「ここまでや」
そのアリスは高藤に、静かに告げた。
「俺じゃない! 俺は殺してない! 俺はやってないんだ! 本当だ! 俺は殺してないんだ――――――っっ」
ほどなく数台のパトカーと覆面カーが到着し、船曳警部らが姿を現すと、高藤は
うわああああっと、あらん限りの声で叫び、頭を抱えてうずくまった。
その高藤を見下ろしながら、冷静に、火村は言った。
「そうだ。君は犯人じゃない」
その言葉に、高藤は呆然と、顔を上げた。しかし安心したように顔が弛んだ高藤に、アリスが言った。
「せやけど君は、それよりもっと、卑劣なことをした」
火村でさえ聞いたこともないようなアリスの、声。
必死で感情を押し殺そうとしている、瞳も。
強く、強く抱きしめて、世の中の汚れから切り離して閉じこめてしまいたくなるほどの痛々しさで。
だから。
その、罪の深さに。
「うわああああああ――――――っっ」
高藤は声を上げて、泣いた。
あいつは俺んこと、目標やて、自分の憧れなんやて言うてくれてました。俺はそれが嬉しくて、そんなあいつに恥ずかしないように頑張ってたつもりです。せやけど俺は、いつの間にかあいつの上に立っとるのが当たり前やと思うようになっていたんです。せやから、俺がまたトップになった時、慰める振りをして、やっぱり俺の方が実力が上なんやって、そんな優越感を感じました。これでまた一緒に歩いて行けると思ってたんです。そしたらあの女、やっぱり俺の方がええて、言うてきたんです。俺は別に、あんな女は元々どうだって良かったんです。自分のために男を利用するだけの女でした。せやけどあいつは、あいつはあの女を選んだんです。そう思うたら、あいつにもあの女にも腹が立ってムシャクシャして……
毎日、容姿を貶す一言をワープロで打ってロッカーに貼り付けてやりました。ちょっと懲らしめてやろうて、それくらいの気持ちでした。あの女がほかの子らにやってきたことです。あんなことになるとは思ってもみませんでした。はい。あの日、あいつのデザインしていた服を隠したのも俺です。
―――――俺があいつを、殺したんです。
「高藤は、ほんまに和泉が書き残したメッセージは自分のことを指しているんやと思うたんやろうか」
火村の隣、ソファの前のひでぽんを両腿で挟み込むように抱え込みながら、小さく小さく、誰に問うでもなしにアリスは呟いた。
「驚いただろうな。高藤が朝一番に来るのは和泉も知っていた。高藤がやったことに和泉が気づいて、お前が俺を殺したんだ、と見せつけて死んだように思えたんだろう」
「せやけど和泉は高藤の本当の名前が「まこと」やのうて「せい」やというのを知っていた。和泉はちゃんと高藤のことを考えていたんや」
「ロマンチストだな、アリスは」
犯人は事務員の田所だった。
作成途中の作品が紛失したと知れてしまえば、自分はショーに参加する資格を失う。それを怖れた和泉は誰に相談することもできず、みんなが帰った後の建物の中を捜して回っていた。 その時、たまたま出くわした田所が、事務所の金に手を出していたことが和泉にバレたと思い込み、殺人に及んだ。おそらく、お前の探し物を知っている。皆に知られないようこっそり渡すとでも言って誘い出したのだろう。高藤が朝一番にやってくることは周知の事実だった。三角関係の只中にある高藤に罪を着せようと企んだのだろう。
ダイイングメッセージの「=」は名前ではなく、犯人を示す特徴だった。首筋にくっきりと残った古い引っ掻き傷。普段は長めの髪に隠されてたが、争った時にでも目にしたのだろう。あるいは、それ以前に知っていたか。なんにせよ、和泉の目にその傷は印象的だったことに変わりなく、薄れゆく意識の中、残る力で示せるものは、それしか思い当たらなかったのだろう。
「犯人の名前がなんだろうが日本人は、なんでか自分を殺した犯人の名前をイニシアルで書きたがる。ま、これも推理作家の功績といえなくもないな。おかげで、あのイコールが名前の書きかけだという説は考えるまでもない」
褒める言い回しを使っているが、これは「推理作家がうつる」以来の嫌味満載、職種差別的発言ではなかろうか。
「しかし、正に和泉が示した通り、イコールの形の引っ掻き傷とはね」
火村は一息つくと、ソファの背もたれに両腕を広げて踏ん反り返った。
「で、お前は何を拗ねてんだ? いや、違うな。落ち込んでんのか」
「拗ねてもおらんし、落ち込んでもおらん」
「嘘だね。連中の話聞いてから、お前なんだか無理してたよな。もう、空元気バリバリ」
人の心の機微に聡いアリスは、火村の与り知らぬところで心に傷を負ってしまったのだろう。
「……気づいてたのか?」
高藤のしたこと。火村達から逃げて、命を絶とうとしていたこと。
火村はひでぽんに抱きついたまま唇をきつく結んだアリスを見遣り、かける言葉を探して開きかけた口を閉ざした。言いたくないなら、何を言っても無駄だろう。そんなところは自分と似ている。一見儚げで、けれど意地っぱりのこの男は。
「……俺、」
やがてアリスは、ひでぽんを抱き締めたまま言葉を洩らした。
「ほんまはステージには立っとらんのや」
それは聞こえるか聞こえないかの、本当に小さな声だったけれど、アリスの声は、それでも充分、火村に届いた。
「いくら名指しやいうたかて、実際、見学に来ただけのド素人や。専属を、それこそ喉から手が出るほど欲しいて毎日血の滲むほどの努力しとった人間が、そんなん認めるはずあらへん。そんな中でたった一人、頑張ろうて笑うてくれた奴がおった。一緒にステージ上がれたらええなぁて言うてくれとった。せやから俺、そいつんこと目標に頑張ろうて思うとった。せやけど」
火村には次にアリスの口から出てくる言葉の種類が察せられて、聞きたくなくて。
淡々と語る口調が却って痛々しくて。
「もういい、やめろアリス」
こんな顔をされるくらいなら、泣いてくれた方がどれほどいいか。
けれど聞いて欲しいというように、アリスは続けた。
「ほんまは邪魔やて、いつも思うていたんやて。気ぃついたら病院の、ベッドの上やった」
「もういい。アリス」
火村はアリスを力いっぱい抱きしめた。
そんな哀しみは、押し出されて消えてしまえというように。
そんな辛い想いをしながら、それでも。
綺麗に微笑むことのできるアリス。
痛みを包んで、優しさに変える。
強い、アリス。
火村の憧れ。火村の大切な、愛しいアリス。
「なぁ、アリス」
お前の笑顔は俺が守ってみせるから。
そんな科白はさすがに口に出しては言えないけれど。
「俺は、お前がいなくなったらきっと泣く」
アリスはその日、世界で一番綺麗に微笑んだ。End/2001.06.05
スーパーアリスファンの皆様。お待たせしましたッ!! ろくろ首にも負けないぐらいに首を長ぁーくして待っていた後編が、「業界の皆様。何分、部外者の創作ですので、無知によるご無礼の段、お許しください。推理物ではありませんので、ツッコミはご勘弁願います〜」とコメントよろしくお願いします〜---とのヒロさんのお言葉付きで届きましたvvv 一つずつ明らかになるアリスの華麗な、そして衝撃の過去---と思わずコピーを付けてしまいたいぐらい、今回のアリスも私達をびっくりうっとりさせてくれました。---にしても、あの場にいてアリスのモデル姿を見た人達、「もうううっ、この幸せ者ッ!!」って感じ。私だって…、私だって見たかったよぉ(>o<) 大勢の人間を夢見心地でうっとりさせながら、そのすぐ後でバイクをぶっ飛ばすアリス。綺麗なくせしてこういう無茶苦茶なとことか、外見からは想像できない強さとかが、とってもツボです☆ そして---。 おかえりィ〜、ひでぽんvvv 私は君の帰りを待ってましたぁ〜〜〜ッ(≧▽≦) |
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