鳴海璃生
煌々と明かりのついた広い部屋には、シンとした静けさが満ちていた。部屋の中には暑いぐらいに暖房が効いているのに、部屋を満たすのはふわふわとした暖かい空気ではなく、どこかひんかりと固まったような冷たさ。静けさのしじまをついて聞こえてくるのは、キーボードを叩く私の指先から発せられるカタカタという寂しげな音と、隣りから聞こえてくるページを繰る乾いた響き。灰色の画面の中でチカチカと点滅するカーソルを見つめながら、私は隣りに座る人に聞こえないようにそっと溜め息をついた。
終業時間も当に過ぎた午後8時半。本来なら、この部屋の中に人の気配が残っているような時間ではない。事実、普段なら20人以上の人で溢れかえっているこの部屋に今現在残っているのは、今年の春にめでたく社会人となった私、有栖川有栖と、5年先輩である長谷川邦彦の二人だけだった。それ意外の人間---男性も女性も、若者、中年、お年寄りに限らず---は、みんながみんな5時30分の終業のチャイムの音と共にこの部屋をいそいそとあとにしていた。残っている私と長谷川に「たいへんだね」とか「こんな日なのに…」とか「悪いね」とか、少しの哀れみと同情を口にしながら---。
それに応える私の顔が、笑いながらも少しだけ引きつっていたのは、ある意味仕方のないことだと思う。なぜなら、確かに本当に間違いなく、彼らの言う通りに『こんな日に』なのだから。
つらつらとディスプレイの中に踊る文字と数字を確認して、私は「えいやっ!」とリターンキーを押した。ウィーンと微妙な振動音を響かせて、隣りの机に置いてあるプリンターが作動し始める。バサリと分厚い書類の最後のページを捲った長谷川が、私の横からディスプレイを覗き込んできた。
「これプリントしたら、もう帰ってええから…」
ちらりと部長席の横にある柱の時計に視線を走らせた長谷川が、さりげに声を掛ける。私は驚いたように、長谷川の端正な顔を見上げた。
「えっ、そんなええですよ。別にこれといった予定もありませんし…。やって、これ仕上げないと月曜の定例会議に間に合わへんのでしょう」
私と先輩である長谷川は、毎月最終月曜日の朝に開かれる営業1部の定例会議の資料を作成していた。この会議はそれぞれが現在手掛けている仕事の経過報告と、これからの段取りについて発表する定例の会議であった。
最初の頃はパートナーを組んでいる長谷川の隣りで、ただ木偶人形のように座っているだけだった私も、夏が終わり秋に入った頃から、それなりに発言する機会も増えてきた。資料作成の方も、最初の頃は長谷川の指示を仰ぎながら何度も何度も訂正を繰り返して、仕上がるまでに結構な時間が掛かっていた。外周りの仕事との時間配分も上手くできず、そのために残業を繰り返すということもざらだったのだが、ここ一、二ヶ月は、そのための残業をすることもなく定例会議に参加していた。それが今月に入って何故また会議の資料作りのために残業をする羽目に陥ったかというと、これはもう不運な巡り合わせというしかない。
いつも通り長谷川と一緒に朝から得意先への挨拶回りと打ち合わせに出掛けたのだが、その最後の得意先で木曜日までと言っていた見積もりを、急遽月曜の昼までに持ってきてくれと言われたのだ。何でも月曜の午後からの部内会議に使いたいとのことなのだが、突然そう言われた私達は、顔で笑いながらも内心焦りに焦りまくっていた。
なまじ大きな金額が絡む仕事だけに、上司や関係部署の決裁も仰がなければいけない。相手は「見積書を」と簡単に口にするが、そのための社内書類を作成し、幾つかの部門に根回しをしなければならないのだ。しかも本来の予定であれば、ここを辞した後、私達は社に戻って月曜日の営業会議用の資料を作る予定でいた。だが、だからといって相手の申し出を「ちょっと---」と断る訳にもいかない。そこに至るまでに、例え諸々の事情が山積みされていようとも、得意先の言葉であれば「はい」と頷くしかないのが営業マンの仕事だ。
のほほんのんびりとした予定がすっかり狂ってしまったのは、1週間もそろそろ終わりに近づいた金曜日の午後2時。慌てて会社に取って返した私達は、部長、課長と打ち合わせをし、決済用の書類と見積書を作り、そしてあちこちの判子を貰うために社内中を駆けずり回った。何せ通常の手順通り社内便に乗せて各関係者の間を回していたのでは、とても今日中に書類が回ることなどあり得ない。漸く最後の営業担当専務の承認を得たのが、午後5時を回ったところだった。
それからホッとひと息つく間もなく、私達は月曜日の定例会のために今月の営業レポートを作成し始めた。
「いや、有栖川が頑張ってくれたから、これで何とかなりそうや。あとは経理の方から数字貰うだけやし…。会議は10時からやからやし、もし訂正があっても1時間もあれば間に合うやろ」
「でも…」
できるものなら、私もいい加減で帰りたい。だがそうは言ってももしもの場合を考えると、ここで最後までやっておかなければ不安で仕方がないのだ。煮え切らない私の態度に、プリンターから出てきた書類を取り上げていた長谷川がポンと軽く私の肩を叩いた。
「俺もこれだけ目ぇ通したら帰るから…。訂正個所は付箋貼っておいとくから、明日の朝1番でやってくれ
ればいい」
「はぁ…」
納得できないというように曖昧に頷く私に、長谷川がニヤリと唇の端を上げた。
「俺ももう、いい加減で帰りたいんや。これ以上遅うなると、奥さんが煩いからな」
どこかふざけたような口調に、私はクスリと小さく笑った。
「そういえば長谷川さん、新婚さんやったんでしたね」
私より五つ年上のやり手の中堅営業マンである長谷川は、今年の春に同じ営業1部の二つ年下の女性と結婚したと、酒の席で聞いた。ちょうど私の入社と入れ替わりに寿退社したその女性は、陰で『ミス営業』と呼ばれていたとか、いないとか。やっかみ半分で長谷川の同期である川本がそう話した時、ちょっとだけ残念だと思った覚えがある。
「それやったら早う帰らんと、奥さん寂しいんやないですか?」
「寂しいなんてタイプやないけど、あとあと煩いんは間違いないわな。もうめっちゃ気ぃ強いねん」
悪いと思いながらもクスクスと笑う私の背中を、ドンと強い力で長谷川が叩いた。
「よっしゃ、これで最後やな。それ、セーブして帰ってええで。俺もこれに目ぇ通したら、帰るから」
長谷川がプリンターから取り出した書類を肩の辺りまで上げて、2度3度と小さく振った。何となく煮え切らない思いを抱えながらも、私は長谷川の言葉に小さく頷いた。
「それやったら、お先に失礼させて貰います」
「おおっ、ええで。彼女にちゃんと遅うなったこと、謝るんやで」
「はっ!?」
マウスを動かしてフロッピーディスクに書類をセーブしていた私の手が、突然止まった。調子よく、何だかとんでもない言葉を聞いた気がするが---。
きょとんとした顔で隣りの席を振り向くと、書類の陰から長谷川が顔を出してからかうような笑みを口許に刻んだ。
「さっきから、えらい時間を気にしてたやろ?」
自分で気づいてなかったのかという口調に、私は慌ててブンブンと頭を左右に振った。
「か、彼女なんて、そんなんいてませんッ!」
焦って否定した私を書類越しに見つめ、長谷川がニヤニヤと人の悪い笑みを作る。その笑いに何故か頬が熱くなるのを感じながら、私は否定の言葉を続けた。
そりゃ確かに早く帰れたら大学時代の悪友に連絡を入れて呑みにでも行こうか、とは思っていた。だが、それだって別に約束をしているわけでも何でもないのだ。
「判った判った。それよりそれ保存して、さっさと帰れよ」
「はい---」
どうにも納得のいかない思いを抱えながら、私は書類をフロッピーディスクにセーブし、終了のボタンをクリックした。プッツンと呆気ない程の簡単さで電源が落ち、ディスクドライブからフロッピーが吐き出される。それを箱に入れ、机の引き出しにしまった。
「それじゃ、お先に失礼します」
デスクの上に散らかした資料を適当に片付け、私はぺこりと隣りの長谷川に向かって頭を下げた。資料から視線を上げた長谷川は軽く右手を上げ、すぐに資料へと視線を戻した。書類に目を通している長谷川のじゃまをしないようにと気を付けながら、私は極力音をたてないようにしてだだっ広い部屋をあとにした。◇◇◇ 砂袋でも背負ったようにずっしりと重い身体を持て余しながら、こつこつと凍ったような足音の響く廊下を歩き、ひんやりとした空気に満ちたエレベーターで地下へと下りる。すっかり明かりの消えたガラス扉を横目に見つめながら、私は地下の出口から駅へと続くショッピングモールへと出た。
重いガラスの扉を押して空気の中に静寂が編み込まれたようなビルの出口から一歩足を踏み出すと、目の前には別世界が広がっていた。
思わず目を細めてしまいそうなくらいに煌々と眩しく輝く照明。鼓膜を振るわせるクリスマスソング。通路の両側を彩るショーウインドウには、赤や緑のクリスマスカラーや金銀のモールで作られたクリスマスディスプレイが、まるでその美しさを競い合うかのように飾られている。
行き交う人々は華やかに着飾り、肩を組んで歩くサラリーマン達の中には、まだ9時前だというのにすっかり出来上がってしまっている者もいた。そんな中を漂うように歩いていく私は、まるで薄いベールを通して別の世界を垣間見ているような気分だ。
もちろん仕事がら街に出ることは多く、忘年会・クリスマスとイベントごとの多い12月になってから、街の雰囲気が何となく浮き足立っているように華やかになっていくのも感じてはいた。また今日がクリスマスイブだということだって、仕事に追われながらもちゃんと気づいてはいたのだ。
ただ学生時代に比べて、その華やかな雰囲気もウキウキとスキップしたくなるような街中の様子も、すっかり遠くなってしまった。賑やかな街中を歩いていても、全てが別世界の出来事のように感じる。それはもちろん自分に余裕がないせいなのは、良く判っている。でもほんの1年前と比べると、何と自分を取り巻く環境は変わってしまったことだろう。それを悲しいとか残念だとか懐かしいとか、そんなことを感じる余裕さえ今の自分には無くなっていたのだ。
賑やかな人並みの中をぼんやりと歩き、私は小さくひとつ溜め息を吐き出した。就職と同時に家を出て独り暮らしを始めたために、今から狭いマンションの部屋に帰っても食べる物とて満足にない。あるのはせいぜいカップラーメンと冷凍食品ぐらい。どこかで食事をして帰ろうかと思ってみても、こんな日に一人で食事をするのは、とてつもなく虚しい。それじゃ、何か適当に買って帰って…と思っても、何となく気が進まない。きっと心の底で1番嫌だなと思っていることは、これから暗い部屋に帰って自分で明かりを点けるということなのだ。
こんなに周りは明るいのに---。
こんなに人々は楽しげなのに---。
周りが明るければ明るい程、周りが楽しげであればある程、その中を通り好きて行く自分は、まるでこの世の中にたった独りのような寂しさを覚えてしまう。
暗い部屋に帰るのは嫌だ。
独りの部屋に帰るのは嫌だ。
まるで子供のような我が儘な気持ちが、むくりと頭をもたげてくる。だが例えそうだからといって、実家に帰って家族の温もりを得るには、私のプライドは高く、また負けん気と意地っ張りも度を過ぎるくらいに強すぎた。いっそのこともっとくたくたになるぐらい疲れていれば、こんな憂鬱な気分も感じずに済むのかもしれない。なまじ中途半端に疲れているから、きっといつもは頭の隅にも無いような余計なことまで考えてしまうのだ。
---あ〜あ、俺って結構情けないかもしれへん。
重い足取りで一歩一歩進んでいく。徐々に賑やかさを増していく人混みの中で、私は前から遣ってきた一団を避けきれずに、肩をぶっつけて足を止めた。
「あっ、すいませーん」
少し甘えたような口振りで、ぶつかってきた女性が軽い謝罪を口にする。それに小さく会釈を返し、私は通り過ぎて行く一団の背中を見つめた。どう見ても学生と思しきその一団は、つい1年前の自分だと思う。大人数で呑んで騒ぐということは余りなかったが、毎年クリスマスにはいつも皮肉屋の友人と二人で安い酒を酌み交わし、最後には本で埋まった彼の部屋に雪崩込んだものだ。
「そういえば、火村どうしてるんやろ?」
卒業と同時に院に進んだ友人、火村英生とは、ここ一月半ほどの間互いに電話もかけていない。何だかんだと自分も忙しかったが、火村も色々と忙しかったのだろう。そういえば最後に話したのは10月の末で、その時に論文の締め切りがどうのこうの、と言っていたことを思い出す。
学生時代には、それこそ毎日のように顔を会わせてくだらない話に興じていたものだ。だが大学を卒業し、社会人としてまたは院生としてそれぞれの道を歩み始めた時からは、こうして少しずつ少しずつお互いの距離は遠くなっていき、そしていつかその存在を思い出の中で懐かしむようになってしまうのだろうか。
ツキンと痛んだ胸の痛みに慌てて頭を振り、私は人混みの中に見え隠れするJRの改札に視線を止めた。このまま何事もなかったように真っ直ぐ歩いていけば、私の乗る谷町線の東梅田駅へと着く。たぶん蒲団に潜り込んでしまえば、今のこんな気持ちも眠りの中に溶けていくはずだ。夢の無い眠りの中に落ちて朝を迎えれば、一体あの時の自分は何を落ち込んでいたんだろうと、自分で自分を笑うこともできるかもしれない。
ゆっくりと歩を踏み出し、唐突に私は踵を返した。
---別に、寂しいとかそんなんやあらへんねんからな。ちゃんと火村が生きてるかどうか、顔を見てくるだけや。
心の中で自分に向かって言い訳を繰り返しながら、私の歩調は少しずつ少しずつ速くなっていく。券売機で焦ったように京都までの切符を買い、改札を通り抜けた時には思わず走り出したほどの衝動が身体中を駆け巡っていた。◇◇◇ 京都駅から5番のバスに乗って、北白川へと向かう。途中四条河原町や河原町三条を通った時には、こんな時間にも拘わらず車の列に飲み込まれ遅々として進まない苛立ちに、思わずバスの中で足踏みをしてしまった。だが不思議と梅田の地下街で感じたような孤独感は、私の胸にちらりとも去来しなかった。ただのろりのろり進むバスの速度に、歯噛みしたなるような苛立ちだけを感じる。
煌々と明かりの輝く河原町三条を抜け、黒々とした鴨川を超え、東山三条から神宮道へ入り京都市美術館、動物園を経由して市道蹴上高野線から白川通へと進む。神宮道へ入った辺りから街の様子は一変し、疎らな街頭に照らされた道路はひっそりと静まり、通り抜けてきた四条河原町や河原町三条の華やかさを微塵も感じさせない。
窓の外の暗さを一層助長させる車内の明るさもシンとした静寂に包まれ、どこか寒々しいものを感じさせた。スピードを上げ調子よく走っていくバスは、思い出したように唐突にバス停に止まり、酔っぱらったサラリーマンやほろ酔い加減の学生を下ろしていくが、さすがにこの辺りから乗り込んでくる客は見掛けられなかった。京都駅から三条京阪に行き着くまでに満杯になった車内も一人二人と人数が減っていき、私が下りた北白川別当町では乗客数は両手に余る程度の人数にまで減っていた。
バスを降り、大きく深呼吸をする。梅田より2、3度は低い凛と冷えた空気に、心地よく肺の中が満たされていく。殆ど車の通らない信号を渡り、私はゆるく上り坂になっている30号線へと入った。
偶にスピードを上げた車が通り過ぎていく程度で、人一人通らない暗い道を足早に歩く。自分の家へと向かう道筋と同じ程度には慣れ親しんだ道を迷うことなく歩き、私は見慣れた家の前で足を止めた。
まるで闇に溶け込むかのような黒い影を見つめ、一つ大きく溜め息をつく。古い木造の塀に沿って正面へと進み、私は火村の部屋の窓を見上げた。周りの闇を写し取った窓ガラスは、部屋の主が不在であることを無言の内にもはっきりと私に知らしめている。
無駄だとは思いつつもそっと格子戸に手を伸ばし、少し力を入れて引いてみた。がっちりと鍵の掛かった格子戸は、古い作りながらも頑強でぴくりとも動く様子はない。
私の立っている位置から伺うことのできる窓ガラスは、どれもこれも夜の闇を写し、静寂の中にひっそりと佇む家の様子からは、中に人のいる気配は微塵も感じられなかった。そこには、いつも暖かく私を迎え入れてくれたこの家の温もりも、またそこに住む人達の優しさもまるで感じられない。闇の中にひっそりとそびえ立つ木造家屋は、まるで私を拒絶しているかのようだ。
「婆ちゃんも出掛けてんのかな」
ぽつりと呟いた声が、冷えた闇色の空気に溶けていく。この家の主であるたおやかな老婦人は、もしかしたら嫁いだ娘さんの家でお孫さん達と暖かなクリスマスを迎えているのかもしれない。男ばかりで構成された下宿人達は、きっとサークルの仲間や友人と賑やかなクリスマスを迎えているのだろう。
「---火村もそうなんかな」
自分でも嫌になるくらい頼りない声が、知らず知らずの内に口から漏れる。他の下宿人達はいざ知らず、火村だけは今日という日にあっても、一人でこの家にいるような気がしていた。もしかしたらそれは、私の儚い願望だったのかもしれないが---。
「院生になったんやもん、今までみたいにはいかへんよな」
ぽつりぽつりと漏れる言葉は、まるで自分に向かっての言い訳のようだ。きっと言葉に出すことで、私は少しずつ火村との距離が離れていくことを否定したいのだ。暗い窓を見つめ、ぼんやりと佇む。そんなことはありえないと判っているのに、心のどこかであの窓が開くことを期待している。
クシュンと小さなくしゃみをして、私はぶるりと身を震わせた。ここに来るまでは心地良いとさえ感じていた冬の寒さが、今はシンシンと足下から立ち上り、私の身体をじわりじわりと凍らせていくかのようだ。
「あかん。風邪ひいてまうわ」
言葉とは裏腹に、地面に張り付いて動くことのない足を無理矢理その場から引き剥がす。それでもしつこく暗い窓ガラスを見つめている眼差しを、小さな瞬きでもって諦めさせる。
---このままここに止まっていたい。
声にならない思いを断ち切るように、私はゆっくりと踵を返した。今までに感じたことのないような疲労感を持て余し、一歩一歩地面を踏みしめるように、今来たばかりの道を戻る。
ここは私の最後の砦だった。ここに来れば、こんな訳の判らない孤独感も単なる思い過ごしだと笑いとばすことができる。---はずだった。
まるで世界中から見捨てられたような重苦しい寂しさが、一歩進むごとに私と世界を隔てていく。こんなことなら、さっさと部屋に帰って蒲団の中に潜り込めば良かった。そうすれば、全ては単なる私の思い過ごしで終わっていたのだ。火村は学生時代と同じ距離で私のそばにいて、皮肉気な笑いで私を迎えてくれる。私達の間で少しずつその領域を広げていく距離に、知らない振りをして目を瞑っていられたのだ。
なのに今目の前に突きつけられた現実は、決して私が認めたくなかった、気づきたくはなかった火村と私の間に横たわる距離そのものだった。互いの道を選んで歩き出した私達は、こうして少しずつ擦れ違っていって、そしていつかは擦れ違うことさえ敵わぬ程に、私と火村の間の距離は開いてしまうのだろうか。◇◇◇ ずっしりと思い身体を引きずって、とぼとぼとした足取りで私がマンションに帰り着いたのは、既に日付も変わろうかという時間だった。こんな時間になったのは、別に自棄になって一人で酒を煽っていたからじゃない。何だか動くのも億劫で、かといってタクシーやバスにも乗る気になれず人気の無い道を出町柳まで歩いて、しかも京阪電車の各停に乗って天満橋まで戻ってきたら、こんな時間になってしまったのだ。
人通りの絶えた商店街を通り、ひっそりと静まりかえった住宅街を歩いて自分のマンションに辿り着いた時には、いいかげん身体も冷えて何だかもう全てが嫌になってしまっていた。力無く正面玄関のドアを押し開けて中へと入る。明々と白熱灯の明かりに照らされた狭いロビーには、外と同じひんやりとした空気が満ち溢れていた。
ほっと小さく溜め息を零し、私は左手の壁際に取り付けられた集合ポストへと歩み寄って行った。住む人間の多くが単身者であるこのマンションの集合ポストは、その殆どに居住している人間の名前が書かれたプレートは入っていない。
斯く言う私自身も、最初の頃は面倒くさがってポストに名前のプレートを入れてはいなかった。それを入れるようになったのは、最初に私の部屋に遊びに来た火村が「ポストで確かめようにもどこなのか判らない」と開口一番に文句をたれたからだ。そんなことを思い出しながら、自分の名字のプレートが取り付けられたポストを明ける。中に入っているのは、ダイレクトメールの類だった。
ごそごそとそれらを取り出し、私は奥のエレベーターへと向かった。いつもは簡単な挨拶を交わす好々爺の管理人の姿も、今日は見あたらない。まるで病院の受付を思わせるような管理人室の窓ガラスには白いカーテンが閉められ、いつもは開いているガラス窓がぴたりと閉じられていた。
1階に止まっていたエレベーターに乗り込み、私は5階のボタンを押した。大の大人が4人も乗ればそれで満杯になりそうな狭いエレベーターは、低い振動音を唸らせ上昇を開始した。壁に寄りかかって、ゆっくりとしたスピードで点灯していく階数表示のボタンを眺める。『 5』と書かれた丸いランプが点灯すると、小さな振動を伴ってエレベーターは動きを止めた。
「よいしょ」と年寄り臭い掛け声をかけて身体を起こし、開いたドアから外へと滑り出た。吹きさらしの狭い廊下を奥へと進み、1番奥の501号室の前で足を止める。薄っぺらいビジネスバッグの中を探り、私は一つだけ鍵のついたキーホルダーを取り出した。
---今日はもう寝てまおう。
ぼんやりとそう考えながらキーを回し、重い鉄の扉を引き明けた。と同時に目に飛び込んできた、煌々と明かりのついた狭いダイニングに、私はぽかんとした表情でその場に佇んだ。独り暮らしの部屋である。私が電気をつけない限り、この部屋に明かりが灯っているはずはない。
---俺、もしかして朝出掛ける時に明かりを消し忘れたんか?
一瞬そう思い、慌ててそれを否定した。息を詰め、恐る恐るというように狭い三和土へと視線を落とす。最近では滅多に履かなくなったお気に入りのブルーのスニーカーの横に、履きつぶした黒のバッシュが揃えられていた。
---まさか。
後ろ手にドアを閉め、焦って靴を脱いで、転がり込むような勢いで部屋へと上がり込んだ。狭いダイニングを駆け抜け、奥の磨りガラスの扉を引き明ける。ベッドを背もたれにしてこたつに入り、テレビ画面を所在なげに眺めていた人物が不意に顔を上げ、口許にニヤリと笑みを作った。まるで自分の部屋にいるかのようにくつろいだ相手の様子に、私は一瞬、今自分がどこにいるのかを忘れそうになった。
「よぉ、お疲れさん。随分と遅いお帰りじゃねぇか」
聞き慣れたバリトンが、鼓膜を振るわせ通り過ぎていく。だが私は、目の前の人物をぼんやりと見つめたままで応えを返すことができなかった。そんな私の様子に緩く眉を寄せた男は、若白髪混じりの髪の毛をやや乱暴な仕種でがしがしと掻き回した。
「おい、アリス。何惚けてんだよ。寒いだろうが、とっととそこ閉めろ」
まるで金縛りにでもあったかのように佇んでいた私は、のろのろとした動作で扉を閉め、ゆっくりとこたつの方へと歩み寄り、力が抜けたようにぺたりと座り込んだ。正面から伸びてきた腕が、まるで泣いている子供を慰めるかのようにゆっくりと髪を梳く。少しだけ冷たい指先が頬に触れ、慣れた仕種で髪に触れても、私はぼんやりとその様子を眺めているだけだった。目の前にいるのは確かに見知った人物なのに、何だか夢を見ているようではっきりとした現実感が乏しい。
「---ったく、何惚けてんだかな」
ぺしりと軽く額を弾かれる。そうして漸く、私は今目の前にいる人物が夢ではなく、まぎれもない本物だということを納得することができた。
「ひ、火村---」
訊きたいことも言いたいことも色々とあるのに、焦って口にした言葉はまるで喉に張り付いているようで上手く続けられない。
「何だよ?」
落ち着いた低い声に助けられるように、私はこくりと一つ息を飲んだ。見慣れた男前の顔を正面から見つめ、ゆっくりと確かめるように言葉を継ぐ。
「何でここにおるの?」
素朴な、それでいて1番の疑問を口にした私に、火村はやれやれと言うように頭を左右に振った。
「お前が忙しそうだったからわざわざ飯を作りに来てやったってのに、それが第一声かよ」
嘆息するような火村の台詞に、私は緩く首を傾げた。確かにここのところ忙しかったが、それを火村に告げた覚えはない。だいたい火村と話したのは、1ヶ月半以上も前の10月末の電話が最後だったはずだ。きょとんとした表情を作る私を見つめ、火村はうんざりしたように溜め息を零した。
「10月の終わりに電話した時に、これから年末進行で印刷会社は忙しい時期に入るって愚痴ってただろうが---。その後ぷっつりと音沙汰無しじゃ、嫌でもわかるぜ」
言われてみれば、確かにそういうようなことを言った記憶がある。だがそれにしても、火村の訪れは余りにもタイミングが良すぎて、目の前にいるのが本物の火村だと判っていても、俄には現実として受け入れられないほどだ。
「さて、と---」
ぼんやりとした私を残し、火村がガタンと音をたてて立ち上がった。その音に意識を引き戻された私は、立ち上がった火村のジーンズの裾を慌てて握りしめた。普段だったら、絶対にそんな恥ずかしい真似はしない。だが今日の私はそんなことを思うよりも先に、勝手に身体が動いてしまった。
「何だよ?」
ジーンズの裾を掴んだまま見上げる私を訝しむように、火村が見下ろしてきた。僅かに顰められた眉にさえ、ずきりと小さく胸が痛む。
「帰るん?」
自分でもびっくりするぐらい頼りない口調に、火村は小さく苦笑を零した。ゆったりとした動作で屈み込み、座っている私と視線の高さを同じにする。
「んな訳ねぇだろ。お前を待ってて腹ぺこだから、飯の仕度すんだよ。---まさかお前、もう喰ってきたなんて言うんじゃねぇだろうな?」
少しだけ憤慨したように低くなった声音に、私は音がするぐらいの力強さで頭を左右に振った。
「まだ喰ってへん。やけど、君もまだ食べてへんの?」
「喰ってねぇよ。お前が帰ってこねぇのに先に食べちまったら、お前あとで絶対文句言うだろうが。嫌だぜ、俺は。何年も経ったあとで、あん時火村は---なんてしつこく言われるのは…」
「そんなに言わへんもん」
「アリスのことだから、絶対言うにきまってる。こと食い物のことに関しちゃ、アリスのしつこさは天然記念物ものだ。その証拠にお前、出会った頃のプリンの話を卒業する頃もまだ言ってただろうが---」
火村の台詞に、私は罰の悪い思いで口を尖らせた。確かに出会ってすぐの頃に火村が私のデザートのプリンを食べてしまったことを、何回か繰り返して言ったことがあったが---。
「あれは君が悪いんやないか」
「へぇへぇ、判ってます。だから今日は、ちゃんとお前が帰ってくるまで待っててやっただろうが…。あんまり帰ってこないんで、お前んちにまで電話をかけてたいへんだったんだぜ」
ぶつぶつと文句を唱えながら立ち上がった火村のジーンズから手を離し、私はごそごそとこたつの中に潜り込んだ。ほんわりと凍った身体が溶けていくような心地よさに、うっとりと微笑む。
「俺んちに電話をかけたって、何で?」
「10時過ぎても帰ってこないから、もしかしたら実家の方に帰ってんのかって思ったんだよ。お前がぜんぜん連絡してこないって、おばさん怒ってたぞ。---おい、寝ころぶんなら服着替えてからにしろよ」
コートを傍らに丸めて早速ごろんと横になった私に目を眇め、火村が母親のような小言を口にする。自分だって似たようなことをやるくせに、人のことばかり煩い奴だ。
「少し暖まったら着替える。ほんでおかん、他に何か言うとった?」
「正月には、あのアホ息子を引きずって遊びに来いってさ。お前に言っても埒があかないから、俺に言っとくって、おばさん言ってたぞ。判ったか、この放蕩息子」
ごそごそと首までこたつの中に入り、私はむーっと頬を膨らませた。学生時代に初めて家に火村を連れて行った時から妙に気があってる母親と火村は、こうして時たま共同戦線を張る時がある。息子の私にしてみれば、いい迷惑以外の何物でもない。
「おかん、火村のファンやねんもん。これで正月は火村が来るってんで、今頃はラッキーとか思ってるで、絶対」
「何ぶつくさ言ってんだよ。お前がまめに連絡入れてねぇのが、悪いんだろうが---。おかげで俺は、1時間近くもおばさんの話につきあったんだぜ。ほら、とっとと着替えろ。スーツ、皺になるだろうが」
「へーい」
どうにも旗色の悪い私は、渋々というようにこたつから立ち上がった。ベッドの下に置いてある衣装ケースから適当なシャツとセーターを取り出して、あたふたと着替えた。ハンガーに掛けたスーツとコートを鴨居に引っ掛け、火村のいるダイニングへと歩いていった。ことことと鍋の煮立つ音のするダイニングに満ちる柔らかな空気と温かな人の気配に、私はむず痒いような幸せを噛み締める。
肩越しに鍋の中を覗き込むと、ふわりと慣れた匂いが鼻孔をついた。どこか乾いた砂を連想させるその香りに、ここにいるのは間違いなく火村だと妙に安心する。
「なに懐いてんだよ」
後ろから肩に顎を乗せたまま動こうとしない私に、火村が呆れたような溜め息を吐いた。私自身だって妙にらしくないことをしていると頭では判っているのだが、どうにも今日の私の身体は持ち主の思考を無視して勝手に動いてしまう。
「腹すいた…」
「だったら懐くのは蒲団に入ってからにして、今は飯の仕度を手伝え」
ちぇっと思いながら食器棚から皿やスプーンを取り出した私は、それらを手にしたままとことこと火村の方へと戻っていった。
「なぁ、火村---」
「何だよ」
呆れたように振り向いた火村の唇に、そっと自分のそれを寄せる。
「メリークリスマス」
10000hits御礼は、時期柄を考慮してクリスマスものです。
というか、テレビで山下達郎の『クリスマスイブ』が流れてるのを久々に聞いたら、何だかちょっと甘めのやつが書きたくなりました。でも、私達じゃタカが知れてるけど…(笑)
随分と色々なアリスと火村を書いてきましたが、もしかしたらアリスがリーマン時代の話は初めてかも---。
アリスがリーマンやってたっていうのが何だか信じられないような気もしますが、リーマンのアリスって一体どんな感じだったんでしょう!? 想像が……。もしチャンスがあったら、いつかまた挑戦してみたいものです。
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