Alice <1>

鳴海璃生 




「---ったく、あのバカ何やってやがる」
 耳元の受話器から聞こえるノイズに、気鋭の若き犯罪学者は抑揚のない声で毒づいた。

 気持ちを逆撫でするような乾いた音に、苛立ちが募る。それでも我慢して、暫くの間受話器を耳に当てたままでいる。が、耳朶を打つ不快なノイズが消える気配はない。
 がちゃんと派手な音をたてて、火村は受話器を本体にたたきつけた。ここ数日己を支配している苛立ちが、胸の中でますますその存在を主張し始めた。
「あの野郎---」
 低い声で呟き、テーブルの上に無造作に放り投げてあったキャメルの箱を取り上げた。若白髪の混じったぼさぼさの髪を乱暴にかき乱しながら、蓋を開ける。と、中にはぽつんと1本だけ煙草が残っていた。
「チッ」
 一つ歯車が狂い出すと、全てが上手く運ばなくなる。普段なら気にもならない小さなことさえ、今は苛立ちの原因でしかない。
 忌々しげに舌打ちして最後の1本をくわえ、空箱を掌の中でぐしゃりと握りつぶした。部屋の隅においてあるゴミ箱にそれを投げ入れ、煙草に火をつける。一つ大きく息を吸い込む。胸に流れ込んだ紫煙と共に、凶暴な怒りにも似た苛立ちが身体中を駆け巡った。
「あのバカ。一体なにしてやがるんだ」
 ここ数日の間に何度口にしたか判らない言葉を、再度火村は口の端に上らせた。が、それに応えを返す者はいない。しんとした静寂の中に、呟きがゆっくりと溶けていった。
 扉を隔てた廊下からは、学生達の賑やかなざわめきが聞こえてくる。それが、より一層この部屋に満ちた静けさを際だたせ、火村の苛立ちを募らせる。
 午後のまだ高い陽の光が窓から射し込み、目の前できらきらと光の粒子が乱舞する。それに向かって、火村は紫煙を吐きつけた。その時、3講目の始まりを報せる鐘の音がドア越しに響いてきた。それを合図のように、火村は短くなった煙草を灰皿の上で揉み消した。
 学内一若い助教授はテーブルの上においてあった数冊の本を取り上げ、苛立つ気持ちもそのままに、狭い研究室をあとにした。

◇◇◇

 火村がアリスと連絡を取れなくなってから、既に5日が経過していた。別に喧嘩をしたわけではない。理由の判らない始まりのその日を、火村は苦々しげに思い起こす。
 今から5日前の土曜日、兵庫県警捜査一課の樺田警部から臨床犯罪学者の元に連絡が入った。いつも通りの、フィールドワークへの誘いの電話だ。
 ざっと事件の概略に耳を通し、「これから、すぐそちらに向かいます」とのひと言を告げ電話を切ったあと、火村はすぐに馴染みの短縮ナンバーを押した。不謹慎な言い方だが、樺田警部から事件の内容を聴いた時から、アリス好みの事件だと思っていた。だから、いつものようにアリスを誘うつもりだった。
 受話器の向こうで自動的にプッシュボタンを押す小さな音が響き、一瞬の静寂が耳朶に落ちた。いつも通りであれば、続く数度のコール音のあと、すぐにアリスの声が響いてくる。
『はい、有栖川です』
 どこか硬い、気取った声。だがその声は電話の相手が火村だと判った途端、すぐに安心したような砕けた口調に変わる。
『なんや、火村か』
 この差に、毎回苦笑が漏れる。その様子を頭の中に描きつつ、火村はコール音が切れるのを待った。が、この日は違った。数度のコール音のあと火村の鼓膜を振るわせたのは、聞き慣れた推理作家の声ではなく留守電を報せる無機質な女性の声だった。
 ---仕様がねぇな、出掛けてんのか。
 煙草を口にくわえながら、火村は素っ気ない口調で伝言を吹き込んだ。こうしておけば、テープを聴いたアリスは取るものも取り敢えず、現場にやってくるに違いない。---その時は、単純にそう思っていた。
 だが火村の思惑とは裏腹に、その日、いつまで経ってもアリスは現場に姿を見せなかった。当然ながら、アリスからは何の連絡もない。不思議に思った火村は、翌日再びアリスの部屋に電話を入れてみた。が、響いてくるのは、昨日と同じ留守電を報せる無機質な女性の声。小さく舌打ちし、火村は乱暴に受話器を置いた。
 それから数日間、火村はアリスに何度か連絡を入れてみた。だが、受話器の向こうから聞こえてくるのは、いつも同じだった。留守電を報せる女性の声と高い発信音。それを聞くたびごとに、火村の苛立ちは徐々に募っていった。
 そんなある日、アリスと連絡がつかなくなってから3日ほど過ぎた日のことだ。火村はいつものようにアリスの家に電話を入れてみた。ここ数日の間にアリスの家に電話をかけるのは、殆ど日課と化してしまっている。
 受話器の奥で、いつものようにコール音が鳴り響く。2度、3度---。火村は無意識の内に、頭の中でその数を数えた。そして4度目のコール音。昨日までは、このあとに留守電を報せる機械的な女性の声が響いてきた。苛立つ気持ちを静めるように火村が大きく息を吐いた時、かちゃりと回線が切れる音が響いた。
 ---何だ?
 火村は、受話器を持ったまま怪訝な表情を作った。数秒の静寂のあと、やがて口の中で砂を噛んでいるかのようなざらざらとしたノイズ音が聞こえてきた。
「チッ、仕様がねぇな。またやりやがった」
 口の端にくわえたキャメルに火をつけながら、溜め息をつく。が、その口調と様子とは裏腹に、火村の口許にはどこか嬉しげな微笑が刻まれていた。
 突然回線が切れた理由---。普通なら何かあったのかと慌てそうなそれを、火村は経験から学んでいた。アリスの家に電話をかけた時、こういう自体に陥るのは決して珍しいことではない。そそっかしいアリスが、多分また受話器のコードを引っ掛けて引き抜いてしまったのだろう。そしてそれは、アリスが家にいるという事実を表していた。いや、表しているはずだった。
「…ったく。この急いでいる時にあいつは」
 言葉の内容とは裏腹に、どこかしら楽しそうな雰囲気が火村を包む。ぶつぶつと口中で文句を唱えながら一端電話を切り、今度は携帯の方の短縮ナンバーを押した。煙草をぷかぷかとふかしながら、自動的にナンバーがプッシュされる音を聞く。
 数瞬の静寂---。火村の顔から、すっと表情が消えた。
 いらいらするような静寂のあと、耳元に機械的な女性の声が聞こえてきた。
『こちらはNTT Docomoです。おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか---』
 その声に、火村は投げ捨てるように受話器をフックにおいた。昨日帰ってきた時から畳の上に置きっぱなしにしていた白いジャケットを取り上げ、ポケットの中のベンツのキーを確かめながら大股にドアへと向かう。
「俺のせいじゃないからな。おいていかれた、とかぬかして、あとで文句言うんじゃねぇぞ」
 扉の前で振り向き、電話機に向かって吐き捨てるように呟く。皮肉げに片頬を歪め、臨床犯罪学者はここ数日、何度か通いつめた犯罪現場へと向かった。


to be continued




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