鳴海璃生
ぶつぶつと文句を唱えながらも、火村はその後も時間を問わず、ことあるごとに夕陽丘のマンションへ、携帯へと電話を掛けてみた。が、結果はいつも同じだった。
乾いたノイズ音と機械的な女性の声---。
最初の内は何かあったのか、と心配していたのだが、それが3日、4日と続いていく内に、火村の中に凶暴な怒りにも似た苛立ちが徐々に膨らんでいった。
もちろん時間を作ってアリスのマンションにも行ってみた。2度、3度と続けざまにドアホーンを押してみる。が、中からは何の応えも返ってはこなかった。耳を澄ましてみても、重い鉄の扉の向こうに人のいる気配は無い。
別にアリスに連絡が取れないからといって、苛立つ理由はない。子供じゃあるまいし、いい年齢をした大人の姿が数日見えないからといって、心配する必要などどこにもないのだ。が、これまでにも何度か、器用に事件に巻き込まれたことのあるアリスのことが、頭から離れない。
---幾らアリスでも、早々事件に巻き込まれることはない、よな。
自身を慰めるように、同じ言葉を何度か繰り返す。あのアリスのことだ。たぶん原稿が上がらなくて、ホテルにでも缶詰になっているか、取材だの何だのと適当に理由をつけて、ふらふらと旅行でもしているのだろう。
だが、そうは思ってみても、電話を掛けるたびに耳に響くノイズ音が、砂のようにざらざらと胸に溜まっていく。その不快な感覚に、苛立ちが募る。
今までにだって1週間や2週間、お互いに連絡を取らない時もあった。それなのに何故。アリスと連絡が取れなくなってまだたった5日だというのに、何故こんなにも苛つくのか。
目を反らしてみても、理由は嫌になるぐらい良く解っていた---。アリスから、事前に何も聞かされていなかったからだ。
家を留守にする---例えばホテルに缶詰になる場合や旅行に行く場合など---場合、どんな時でもアリスは、事前に火村に己の予定を連絡してきていた。慌てていて時間が無い場合は、出先から必ず火村の元に電話を入れてくるのが常だったのだ。
そうと約束したわけでもないのに、いつの間にか当然のように互いの予定を報せ合うことになっていた。それは初めて知り合ってから13年の間に、互いの中に培われてきた暗黙の了解だったのかもしれない。
だから、この13年間、一度としてアリスの居場所が判らないことなどなかった。
苛立ちが募る---。砂のようなざらざらとした乾いた感触が、身体の中に溜まっていく。
いつの間にか、そばにいるのが当然のようになっていた。
名を呼べば振り返る。返事をする---。まるで空気のように、自分の傍らにいても違和感のない存在---。そばにいることさえ忘れ去ってしまう。そんな当たり前の存在---。
いつの間にか、火村自身でさえ気づかぬ内に、アリスはそういう存在になっていたのだ。
妙に疲れた身体を引きずるようにして、火村は部屋のドアを開けた。カーテンを開きっぱなしにした窓から、月の光が柔らかく差し込んでくる。
頼りない光に照らされ、部屋の様子が青白く浮かび上がる。壁の三方を支配した書棚から溢れた書物が、畳の上に山を作っていた。くるりと部屋を一瞥し、火村は本の山の中から電話機を探し出した。闇の中、青白く浮き上がった電話機に、留守電が入っている様子はない。
部屋のドアを開けたら、まず最初に留守電を確かめる。それがこの5日間の内に、無意識的な習慣となってしまっていた。
小さく溜め息をつき部屋へと踏み込んだ火村は、壁のスイッチへと手を伸ばした。柔らかな暖色の光が部屋の中に溢れる。それに一度眩しげに目を細め、脱ぎ捨てた上着を本の山の上に放り投げた。一つ息をつき、本の間の僅かな隙間に腰を下ろした時、突然電話のコールが鳴り響き始めた。
弾かれたように、音の方向を振り返った。瞬間的に、アリスの顔が脳裏に浮かぶ。僅かに眉を寄せ、留守電に切り替わるぎりぎりまで待って、火村は受話器を取り上げた。
『もしもし火村先生ですか。府警の森下です』
聞き慣れた声が、耳に飛び込んできた。その声に、火村は詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
---あのバカ。
心の中で微かに舌打ちし、抑揚のない声で返事を返す。
「火村です。また何か事件ですか」
『はい、夜分に申し訳ありません。できましたら、火村先生に府警本部までご足労頂きたいと思いまして』
「判りました。今から伺います」
儀礼的なマニュアル通りの受け答えをしたあと、火村はフックを押し、通話を切った。受話器を片手に持ったまま、無意識のうちに短縮へと手を伸ばす。
指がボタンに触れる。いつも通りの一連の動作。が、火村はボタンに指を掛けたまま、凍り付いたように動きを止めた。らしくもなく、逡巡する。果たしてこの向こうにアリスがいるのか、いないのか---。
数分の間そのままの姿勢で固まっていた火村は、決心したようにゆっくりと片手に持ったままの受話器を元に戻した。
たぶんアリスはいない。もしいるのであれば、必ず自分に電話をいれてくるはずだ。
「犯罪だけが友だ」と言ったくせに、今でもその気持ちは変わらないのに、何故か不思議なほどの強さでそう思っている。いや、信じていると言っても良い。
今聞きたいのは、アリスの声。何事もなかったような脳天気な声で、自分の名を呼ぶアリスの声---。それ以外の何ものも聞きたくはない。もう二度と、あの胸の奥がざらつくような乾いたノイズ音を聞きたくはなかった。
投げ捨てたジャケットを取り上げ、火村はゆっくりと立ち上がった。大股にドアへと歩み寄り、何かを思い止まるように足を止めた。緩慢な動作で、畳の上の受話器に一瞥を落とす。留守電のランプが点灯したままの電話機に、電話が掛かってくる気配はない。
頭を左右に振り、火村は脳裏にある友人の顔を追い払った。
待っている---。唯一の友である犯罪者が、自分を待っている。
無理矢理気持ちを切り替えるように、火村は乱暴に部屋のドアを閉めた。◇◇◇ 大手前にある大阪府警本部に火村が到着したのは、午後9時を少し過ぎた時間だった。受付で名を名乗り、奥へと向かう。
関係者以外立入禁止の場所に入った途端、受付付近に漂っていた開放的な雰囲気は消え、建物全体に民間人には馴染みのない独特の雰囲気が漂い始めた。
ここでは、空気の持つ色や質量さえ違う。一歩奥へと進むごとに、それは徐々に強くなっていった。が、一種独特のその雰囲気にも頓着することなく、火村は慣れた様子で捜査一課一係のある部屋へと向かった。
「火村先生」
突然名を呼ばれ、声のした方へと視線を向けた。洒落たアルマーニのスーツに身を包んだ森下が軽く右手を上げ、火村の方へと駆け寄ってきた。
一見したところ、とても刑事には見えない。この場所にまるでそぐわない雰囲気と様子を持った青年は、にこにこと微笑みながら火村の傍らに立った。
「お忙しいところ、ご足労お掛けして申し訳ありません」
尊敬する犯罪学者を目の前にして、恐縮したようにぺこりと頭を下げる。さらさらの髪が、風に吹かれたようにゆらりと揺れた。
「いえ、構いません。それより事件の方は、どうなっているんですか?」
挨拶もそこそこに本題へと入る。
「それは、部屋の方で警部からお話致します。こちらへどうぞ」
捜査一課の扉の奥にある応接室を指し示しながら、森下は火村の背後へと視線を走らせた。火村のうしろ、数人の制服姿の警官が行き交う廊下を見つめ、森下は僅かに首を傾げた。
初めて犯罪学者火村英生の存在を知ったその時から、当然のように傍らにある人の姿が今はない。
「あのぉ、有栖川さんはあとからいらっしゃるんですか?」
何気なく訊ねた言葉に、火村がゆっくりと双眸を細めた。瞬間、森下の背にぞくりと冷たいものが走る。が、ごくりと息を飲み込んだその時には、いつもの見慣れた犯罪学者の姿が目の前にあった。
決して他人に媚びることのない、無愛想でクールな犯罪学者。どんな凄惨な殺人現場であろうと表情ひとつ変えず、例え何があろうとその冷静な判断力が鈍ることはない。今、森下の目の前にいるのは、彼が火村に対して持っている印象そのままの、犯罪学者の姿だった。
だが、常とは微妙に違う雰囲気に、微かな違和感を感じる。それを、上手く言葉で言い表すことはできない。が、火村の周りに、確かにいつもと違う雰囲気が漂っているのだ。強いて言い連ねるならば、どこか一線を引いたような、他人を拒むような、そんな雰囲気だ。
火村から漂ういつもとは違う雰囲気を敏感に感じとり、森下は一人の推理作家の姿を脳裏に描いた。
初めて火村に会った時から常に火村の傍らに立つ、見るからにのんびりとした雰囲気の推理作家。火村自身は彼のことを『助手』と説明してはいたが、そうでないことは森下のような新米の目から見ても明白だった。
警察自らが犯罪捜査に協力を請う火村ならまだしも、民間人が犯罪現場---それもその殆どが殺人現場---に足を踏み入れることなど、普通なら言語道断、決して許されるべきことではなかった。にも拘わらず、一民間人の推理作家は、大抵の現場で火村と同じように、警察の人間に好意的に受け入れられていた。
それは彼、有栖川有栖自身の持つ雰囲気と性格に起因するものなのかもしれない。が、それ以上に、彼と一緒にいる時の犯罪学者の安心したような、リラックスした雰囲気にも因るものが大きかったのかもしれない。
「いや、今日はあいつは呼んでいません」
切れ者の犯罪学者にしては珍しく、歯切れの悪い言葉が返ってくる。何とはなしに気まずい雰囲気を正すために、森下は殊更に明るく言葉を続けた。
「あ、お仕事が忙しいんですね。じゃあ、次の新刊は---」
「森下さん」
続く言葉を、火村の低い声が止めた。感情の伺いしれない双眸が、じっと正面から森下を捕らえた。
「船曳警部が、お待ちなんじゃないですか」
抑揚のない声音に、再び冷たいものが森下の背を走る。一瞬の内に、四肢が凍ったように動きを止めた---ような感覚。今、自分の目の前にいるのは、良く見知った、自分の尊敬する犯罪学者でない。それは、まるで---。
森下は無意識の内に、ごくりと唾を飲み込んだ。それを合図のように、火村はゆっくりと踵を返し、右手奥の応接室へと歩き出した。火村の背中が徐々に遠ざかっていくのを見つめ、森下は知らず知らずの内に詰めていた息を吐き出した。
身の内を過ぎったそれを、一体なんと呼べばいいのかは判らない。恐怖、戦慄、恐れ、畏怖---。それら全てがない交ぜになったような感覚。
が、警察の、それも一課に属する以上、いつか今と同じ感覚を味わう日があるような気がする。理性ではなく、本能でそれと判っていた。
そういう感覚を他人に与える人間。それを何と呼ぶのか、自分は良く知っている。
「おい、森下。何やってる。早く来いッ!」
奥の扉から丸い禿頭を覗かせて、船曳警部が廊下の真ん中で足を止めたままの森下を呼んだ。その声に弾かれたように、森下は顔を上げた。一瞬の内に、思考が中断される。
---良かった。
不意にそう思った。「何故?」と問われても、理由は判らない。が、間違いなく、何かに対して安堵した自分がいる。
--- 判っている。
本当は、全て判っていた。でも、それ以上を考えてはいけない。胸の内に沸き上がる声を掻き消すように、森下は船曳達の待つ応接室へと走った。
---有栖川さん。あなたじゃなきゃ、駄目です。あなたがいなければ、駄目です。
それはきっと、あの人自身が一番良く判っている---。まるで助けを求めるように、溺れた者が藁でも掴むように、森下は今この場にいない推理作家の顔を脳裏に思い浮かべた。いつもクールで無表情な犯罪学者とは対照的な、ころころとよく変わる表情。
---有栖川さん。あの人があなたを呼んでいるのに、聞こえないんですか?
もどかしいほどの思いを抱え、森下は応接室の扉を後ろ手に閉めた。to be continued
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