Alice <おまけ2>

鳴海璃生 




「おい、アリス。寝るんならベッドに行けよ」
 ソファにごろんと寝ころんで、ビール片手にプロ野球ニュースなんぞを見ていた私の頭上から、少しだけ呆れたようなバリトンの声が降ってきた。

「別に寝てるわけやあらへんもん」
 顔を上げることなく、私は声の主に応えを返す。リクエスト通りの夕食を腹一杯に詰め込んだ後ゆったりと風呂に浸かり、冷たいビールを飲みながらのテレビ鑑賞。身体から溢れ出そうな満足感と持て余すようなふわふわとした気分は、正に極楽状態だ。

「だったら、少し場所を譲れよ」
 だらしなくソファに伸ばした足をこつんと軽く叩かれ、私は渋々というように少しだけ身体をずらした。ソファが微かな振動にぎしりと揺れるとすぐに、視線の先をすいっと長い指先が走り、テーブルの上に置いてあった飲みかけの缶ビールをさらっていった。
「チェッ、温くなってやがる」

 美味そうに喉を鳴らして私の飲みかけの缶ビールを一気に飲み干した助教授殿は、文句を零しながら空になった缶をテーブルの上に放り投げた。アルミ缶とガラスの触れ合う硬質な音が、テレビからの声の合間を縫うように室内に響く。その音のあとを辿るように、カラカラと軽い音をたててテーブルの上を転がったビール缶は、まるで計ったかのようにテーブルの端近くでその動きを止めた。
「なに言うてんねん。俺が風呂から上がってきた時に出したんやから、そんなん当たり前やろ。冷たいのが呑みたいなんら、横着せんと冷蔵庫から出してくればええやん。あっ、キッチン行くなら、ついでに夜食でも作ってくれるか?」

「それこそ、なに言ってんだ、だ。夜食担当はお前じゃなかったか。確か俺がラーメンを作ってやる、とか何とか聞いたような気がするが?」
「あ〜、そういえばそういう事もあったような気がする。でもま、過去は過去。全ては臨機応変に、や」

「ふざけたこと言ってんじゃねぇよ」
 ぱしりと幾分強めに膝の辺りを叩かれ、私は大げさに顔を顰めながら起きあがった。見るともなしに見ていたテレビでは、我が愛する阪神タイガースが宿敵巨人に黒星を喫し再び最下位へと舞い戻ったニュースがちょうど終わったところだ。次の試合結果に移った画面から視線を外し、新しいビールでも取ってこようかとキッチンの方を一瞥する。とその時、ライターをつける小さな音が耳朶に触れ、序でふわりと独特の煙草の香りが漂ってきた。

 その香りに引かれるように、私は隣りに座る犯罪学者へと顔を向けた。パジャマのズボンだけを身につけ、裸の肩にタオルを引っ掛けた姿の助教授は、味わうように大きく息を吸い込んだあと、天井に向かってゆったりと紫煙を吐きだした。
 頼りなげな白い煙がゆらりと空中を漂い、ゆっくりと冷えた空気に溶けていった。最初は微かだったキャメルの香りは、煙草が短くなるのに比例するかのように少しずつ強くなり、隣りに座る私を包み込んでいく。
 ---参ったなぁ。

 日本人にしては彫りの深い彫像のように整った横顔を見つめ、私は小さく苦笑した。あのビルの屋上で感じた気持ちは、どうやら気の迷いでも旅の感傷でもなかったらしい。
『家に帰った時やなくて川を見て帰ってきたって思うなんて、それへんやないんか』

 学生時代はそう言って友達の言葉を笑い飛ばしてした私が、今ではその友人と同類項だ。いや、隣りに座る男の姿を見て自分のあるべき場所に帰ってきたと思うだなんて、故郷に流れる川を見て帰ってきたと感じる友人より数10倍は始末に困る。だって、とてもじゃないが人様に言える台詞じゃない。これなら淀川を見て帰ってきたんだと感じる方が、よっぽどましってもんじゃないか。
「おい、どうしたんだよ?」
 突然耳に飛び込んできたバリトンの声に、私は意識を目の前の犯罪学者へと戻した。怪訝な様子を含みながらも、口調の端々にどこか楽しげな雰囲気が垣間見える理由なんて、嫌ってなぐらい判ってしまった。きっと私はよほど惚けた、嬉しそうな表情をこの口の悪い犯罪学者の前に晒しているのだろう。
「何でもあらへん」
 虚勢をはるように憮然と呟き、こつんと火村の胸の辺りに頭を寄せる。途端、私を取り巻いていたキャメルの香りが一段と強くなった。その香りを確かめるようにすぅと大きく息を吸い込むと、身体中がキャメルの香りに満たされるような気がした。
「---火村」
 囁くように小さく、隣りにいる人の名を呼ぶ。応える代わりに、火村はくしゃりと私の髪を梳いた。
「ただいま」
 消え入るような声でぼそりと呟いた言葉に、頭の上でふわりと空気が緩む気配がした。ゆっくりと髪を梳
く指先の心地良さに、そっと目を閉じる。
「おかえり」
 耳元で囁かれた声は、夜の闇よりも優しかった。


End/2000.09.20




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