Alice <7>

鳴海璃生 




「呆れた奴だな」
 アリスの話を聴き終わった後の火村の第一声がそれだった。いつもの口の悪さでもって、バカだのアホだの間抜けだのと、それ相応に罵られる覚悟だったアリスにしてみれば、何となく気抜けしてしまうリアクションだ。
 もちろん罵られたいわけでも、それを期待しているわけでもない。だが、口の悪さを取った火村というのは、まるで気の抜けた炭酸のようで何となくしっくりこない。普段の火村から考えると妙に優しい反応のような気がするのは、決して自分の気のせいではないと思う。
「眠っていて電車を乗り過ごすって話は良く聞くが、東京から博多まで乗り過ごしたなんて奴は、お前ぐらいのもんだぜ。良かったな。ギネスに載れるんじゃないか」

「東京からやない。新横浜までは起きてたんや」
 実は検札に来た車掌に起こされたんだが、ま、その辺はご愛敬というものだ。

「同じだよ」
 心底バカにしたような口調に、アリスは火村に対して感じた、先刻の優しい云々という意見を早々に取り下げることにした。よくよく考えてみれば、火村がアリスのドジに対して甘い寸評をしたことは、今までに一度としてなかったのだ。それを鑑みれば、あの最初のひと言はスタートラインに立つ前のウオーミングアップのようなものだったに違いない。その証拠に言葉の数が増えるに従って、火村の毒舌が少しずつ顔を覗かせ始めている。
「まぁ、お前のことだから、どうせ缶詰か取材旅行のどちらかだとは思っていたが…。それにしても、片桐さんは気の毒だな。ドジでそそっかしい小説家を担当に持つと、本当にご苦労様なことだぜ」

 徐々に調子を取り戻してきた火村の毒舌は、いよいよ止まるところをしらずという雰囲気だ。こんちくしょう、と握り拳を作ってみても、根が温厚な私はただ黙って火村の毒舌を聞いているしかない。もちろん言い返したいことは山ほどある。だが自分が大事ならば、こういう場合は黙って火村先生のお言葉を拝聴していた方がいい。それは10数年に及ぶ付き合いの中で、私が学んだ貴重な経験の一つであった。
 それにだいたい、例え言い返したとしても、口で火村に勝つわけがない。口惜しいぐらいにそうと判っていても、やはり腹はたつものだ。何とか一矢を報いる方法はないものだろうか---。

「でも、火村---」
 アリスの声に、火村が片眉を上げた。膝に置いたクッションの上で頬杖をつきながら、アリスは視線を火村の方へと向けた。

「フロッピーが壊れていたんは、俺のせいと違うで」
 相変わらずキャメルをくわえたままの火村が、信じられないとばかりにアリスへと視線を走らせた。

「お前のことだ。磁石にでもくっつけたんじゃないのか」
 さらりとした口調に、アリスむっとしたように眉を寄せた。

 ---こいつ、徹底的に俺をバカにしてるな。いくら俺だって、フロッピーの近くに磁石を置いちゃいけないことぐらい知ってるってんだ。
 アリスは表情に、火村の言葉に対する不満を浮かべた。温厚を信条とする自分であっても、不当な言い掛かりには断固たる態度をとらねばならない。

「んなこと、するかいッ。俺かて、それっくらいのこと十分気ぃつけてる」
 アリスの言葉に、煙草を灰皿で揉み消した火村がゆっくりと唇を指でなぞった。それはフィールドワークに付いていくと良く見掛ける、ものを考える時の火村の癖だ。
 ---んじゃ、何かい。俺のフロッピーが壊れたのは、何かの事件にでも巻き込まれたせいってか。

 そうだ! もしかして有栖川有栖の作品だということで、闇のブローカーが暗躍して---って、そんなことあるかい。
 ぼんやりと火村の様子を眺めながら、埒もないことを考える。

「クリップは?」
 火村がぼそりと呟いた。その声に、私は現実へと引き戻された。

「クリップ…? クリップって、あのクリップかいな?」
「ああ。ごく普通のゼムクリップってやつだ」

「ゼムクリップ---」
 何とはなしに懐かしいような響きを持つその言葉を口の中で反芻しながら、アリスは記憶の底を掘り起こした。クリップは落書きのようなメモを留めたりするのに偶に使っているし、そのそばにフロッピーを置いていたことがあったかもしれない。

 ---よぉは思い出さんけど、クリップぐらい机の上にはごろごろしてるしなぁ…。
 僅かに考え込むように小首を傾げ、アリスは火村の方へと視線を戻した。
「クリップやったら、フロッピーのそばに置いとったかもしれん。---ああ、そうや。それにフロッピーと一緒に送った手紙は、確かにクリップで留めたわ」

「それだな」
 言い切った火村の声に、アリスが怪訝な表情を作った。それ、と言われても、何がそれなのか一向に判らない。一語一語確かめるようにゆっくりと区切りながら、アリスは火村に訊いた。

「それって、クリップのせいでフロッピーが壊れたってことか?」
「ああ」

 半信半疑のまま口にした問いに、火村があっさりと肯定の返事を返す。予期せぬ応えに、アリスは火村の方へと身を乗り出した。
「クリップは磁石と違うぞ」
 反射的に言い返す。そりゃあ、中には磁石を使ったクリップもあるかもしれない。だが、私がフロッピーと一緒に入れたクリップは何の変哲も無い、唯のゼムクリップだ。火村先生も焼きが回ってきたもんだ、と少々の同情を込めて、アリスは態とらしく頭を左右に振った。

「お前の書斎、マグネットとか色々置いてあるだろう」
 アリスの様子を気に止める風も無く、火村は言葉を続けた。言い返した内容とは何の関係もなさそうな、どこかちぐはぐな問い掛けに、アリスは曖昧に頭を上下に動かした。もちろん多少の優越感を持って、だ。
 ---だから、マグネットのそばにフロッピーは置いてないって言ってるのに、こいつぜんぜん俺の話を真面目に聞いてないな。残念ながら、臨床犯罪学者の火村先生も、今回はペケやな。

 頭の中でついた悪態が聞こえたのだろうか、まるで見計らったかのように火村がアリスに向かってにやりと質の悪い笑みを零した。
「お前、そのマグネットのそばにクリップを置いていたんじゃないか。さもなくば、マグネットにクリップをくっつけてたとか」

 まるで見てきたかのようにきっぱりと断言する。その言葉の迫力に押されるように、アリスは自分の書斎を脳裏に思い描いてみた。
 窓に向かった机の上には、いつもこちゃこちゃと色んな物が溢れている。取り敢えず、商売道具のワープロが置いておけるスペースだけはいつも確保してあるが、それ以外は結構無頓着だ。もっともそうは言っても、フロッピーのそばに磁石を置いてはいけないということは常に頭の片隅にあったので、それに関してだけはこれ以上ないってなぐらいに気をつけている。

 が、それ以外に関しては、はっきり言ってもの凄くいい加減だということを、嫌々ながらも認めざるを得ない。そういう状態だから、クリップがマグネットにくっついていようがいまいが、知ったことじゃない。---というよりは、その程度のことは日常茶飯事。いちいち気に止めてなどいられないってのが、マジなところだ。
 それにだいたい、クリップなんてマグネットにくっつけていた方が無くならないし、いざって時に探す必要がなくて大助かりだったりする。---でも、それが一体なんだっていうんだ。それくらい、みんなやっていることだろう。

「火村、クリップはマグネットやあらへんぞ」
「磁気を帯びるんだよ」

「は?」
 火村の言った言葉の意味が判らずにきょとんとした表情を作るアリスを見つめ、火村は大きな溜め息をついた。

「有栖川先生は、小学校の理科からもう一度やり直した方がいいようだな」
 にやりと意地の悪い笑みをはいた火村の表情に、アリスが渋面を作る。

 ---煩い。どうせ俺は文系の頭やッ。
 火村に言われなくても、昔から数学、化学の類は大の苦手だった。いつも赤点ぎりぎりの低空飛行だったし、そんなこと今さら思い出したくもない。

「だから、詳しく説明してくれんと判らんやろう」
 開き直ったアリスが、逆に火村の説明が足りないことを責める。火村は組んだ膝の上に肘をつき、頬杖をついた。その如何にも気のないだらけた姿は、大学で学生相手に講義をしている様子を連想させる。

「マグネットにくっつけていたクリップ---プラスチックで作ったやつとかは関係ねぇぞ。あの金属でできたゼムクリップとかだけだ---は磁気を帯びて、それ自体がマグネットと同じ状態になるんだよ」
 マグネットと同じ状態?
 ---それはつまり、あのクリップがフロッピーを壊すってことか…?
 アリスは、火村の言葉が俄には信じられないように眉を寄せた。

「---嘘やろ?」
「嘘ついてどうすんだよ」

 そう言われても、どうしても信じることができない。そりゃあ化学の苦手な頭でも、マグネットのそばにあったクリップが磁気を帯びるっていうのは、理論的には判る。確かにクリップ同士が、磁石みたいにくっついていたのを何度か見掛けたことがある。だが、例えそうであっても、あの細くて小さなクリップに、フロッピーを壊すほどの磁力があるとは、とても思えないのだ。
「---冗談みたいや」

「ふん。冗談だったら、お前も楽できたよな」
 的確に的を射たからかいの言葉に、アリスは僅かに肩を竦めてみせた。そうして力が抜けたように、ハァ〜と天井に向かって息を吐く。

「ほんま、冗談みたいや。あのちっこいクリップが原因やなんてな」
 判ってしまえば、ことの真相なんて呆気ないものだ。私のフロッピーを駄目にしたのが、あの小さなクリップだなんて---。今さらショックを受けるなんてことも、ましてや怒る気になど到底なれない。いや例え怒りたくても、その矛先をどこに向ければいいのだ。

 クッションを枕に、アリスはごろんと横になった。俯せになり、頭だけ起こしてクッションの上に肩肘をつく。
「でも、そんなん知ってる奴なんて早々おらんやろうな。君、そんな事よう知っとったな」

 素直な感想の言葉である。が、それに対して火村は思いきり嫌そうに眉を寄せ、片頬を歪めた。新しく取り出したキャメルに火をつけながら、じろりと険悪な視線をアリスに注ぐ。
「何やねん、その顔は?」

 火村を怒らせるようなことを言った覚え---逆に誉めてやったんだぞ---のないアリスは、心外だとばかりに怪訝な表情を作った。その表情に、火村がプイとアリスから視線を逸らした。その瞬間、アリスの頭の中に閃くものがあった。まるで鬼の首でも取ったかのように、アリスがにやりと勝ち誇ったような笑みを表情に浮かべた。
「火村。もしかして、君もやったんか?」

 アリスの当てずっぽうの言葉は、珍しくもずばりと的のど真ん中に突き当たったようだ。眉間に皺を寄せた火村が、罰が悪そうに若白髪混じりの髪の毛を乱暴に掻き上げた。
「---それで一度、論文をパァにしたんだ」
 独り言のようにぼそりと呟かれた言葉を耳にした途端、アリスは吹きだしそうになった。火村もやっぱり人間やったんやなぁ…と、妙に嬉しくなる。それに、苦虫を噛みつぶしたような火村の表情。溜飲を下げるとは、正にこういうことに違いない。何となく気分のいいアリスは、自分の失敗を棚に上げて偉そうに講釈をたれた助教授を、快く許してやることにした。

「アリス」
 にこにこと満面の笑みを作るアリスに、火村が低い声で呼びかける。

「何や?」
 いつになく機嫌のいいアリスは、鼻歌でも歌わんばかりの雰囲気で愛想良く返事を返した。

「俺は一度やったことは二度と繰り返さねぇが、お前はその容量の少ない頭に、自分の失敗をしっかり刻み込んどくんだな。じゃないと、絶対またやるぜ」
 口の端に笑みを刻み、そう断言した火村に、アリスは思わず口許を強ばらせた。つい今し方火村に対して感じたばかりの勝利感が、跡形もなく霧散していく。何とか言い返してやりたいが、自分でも何となくまたやってしまいそうな気がする。返す言葉の無いアリスは口惜しそうに目の前の犯罪学者をひと睨みした後、窓へと向き直り火村に背を向けた。背中越しに、喉の奥で笑う火村の声が聞こえてくる。

 ---どうせ俺はドジで、そそっかしいんや。
 開き直ってみても、何だか虚しい。

「さてと---」
 一頻り笑って気の済んだ火村は、口にしていた煙草を灰皿に捨てゆっくりと立ち上がった。

「おい、アリス。夕飯の買い出しに行くぞ」
 傍らに投げ捨ててあったジャケットを羽織りながら、背を向けごろりとフローリングの床の上に横になったままのアリスに声を掛ける。が、アリスからの返事はない。

「おい、アリス。いつまでも不貞腐れてるんじゃねぇぞ」
 ぶつぶつ呟きながら、火村は大股にアリスに方へと歩み寄っていった。

「アリス、さっさと---」
 肩越しに覗き込み、火村の言葉が唐突に止まった。一瞬、しんとした沈黙が部屋に落ちる。が、それはすぐに呆れたような苦笑したような、それでいてどこか優しさの籠もった溜め息に取って変わった。火村の足下、落とした視線の先では、アリスが気持ちよさそうに寝息をたてている。

「---お前はそういう奴だよ」
 火村の口から、ぽつりと言葉がこぼれ落ちる。それは、いつものクールな口調からは信じられない程に優しい。

 数瞬の間アリスを見つめていた火村は、ジャケットを脱ぎ、それをアリスの背に掛けた。僅かにアリスが身動ぎする。が、目を覚ます気配はない。
「しょうがねぇな…」

 エアコンの設定温度を少し高めに調節すると、火村は夕食の買い出しのためにリビングをあとにした。


End/2000.08.20




NovelsContents