鳴海璃生
−1− 「有栖川有栖選手、10点満点!」
ポンポンと弾むように短い階段を下り、最後の段を勢い良く飛び降りたところで、私は深呼吸をするように、大きく宙に向かって腕を広げた。
見上げた視界の先には、ペンキを零したようなドラえもん色の青空。髪を揺らす風はまだ冷たいが、頬に触れる陽の光は二月とは思えない程に暖かかった。
空に向かってすうっと大きく息を吸い込むと、胸の中にひんやりとした冷たい空気が勢い良く流れ込んでくる。
「最高のお散歩日和やな」
青空を抱きしめるように宙に向かって大きく広げた手をコートのポケットに突っ込み、私は軽い足取りで地下鉄の駅へと向かって歩き出した。◇◇◇ 昨夜、予定外に飛び込んできた締め切りを漸く終え、締め切り後の爆睡から目覚めたばかりの私は、一人ご機嫌な気分で勝利の美酒を傾けていた。---とその時、まるでそののんびりとした優雅な時間を見透かしたかのように、突然電話の呼び出し音がリビング中に鳴り響き始めた。
「はいはい、どちら様ですか?」
コール音を二回数えたところで受話器を取る。そうして私はソファの上にごろんと寝転びながら、相手の声を聞く前に、ふわふわとした軽い口調で受話器の向こうの相手に応対した。
もちろん普段なら、絶対にこんな礼儀知らずな真似はやらない。にも拘わらず、今の私がこんな態度に出るのには、確固たる理由があるのだ。
つまり、当の昔に夜も更けきったこんな半端な時間に電話を掛けてくるような、非常識かつ図々しい人間など、三十数余年の私の友人関係の中でもたった一人しか思い当たらないせいだ。だからなし崩し的に、自然と応対する口調もくだけたものになってしまう。まっ、もっとも先刻から胃袋にたらふくと詰め込んだ酒のせいも、往々にしてあったのかもしれないが---。
『よう。随分とご機嫌のようだな、推理作家の先生は…』
案の定、受話器の向こうからは、丁寧なからかいの言葉を含んだバリトンの声が響いてきた。
---グッドタイミング。
頭の中に、今のこの状況に一番相応しい言葉が閃く。まさに言葉の意味そのものを目の前に突きつけられたような気がして、私は何とも言いようのない間の悪さに、ポリポリと頬を掻いた。
今回私が落とすことなく無事にクリアした締め切りは、予め予定されていたものではなく、本当に不意に飛び込んできた突発のものだった。締め切りまでの日数も少なく、焦り捲って切羽詰まったような状態で原稿に取りかかったため、当然電話の向こうのご友人様には、その旨を報せても、また教えてもいなかった。
---なのに、何でこいつは、まるで時期を見越したように電話をかけてくるんや…。
長年の友情が培った賜物---と素直に感動するのも、何だか腑に落ちない。
---まっ、ええけどな。
締め切りクリアという美酒に酔っている私は、その時ハイでハイで、天にも上り詰めんばかりのとってもハイトな気分だった。だから普段なら妙に意地になってしまいそうなこの状況も、何となく素直に受け入れる気分になってしまっている。
「当ったり前や。今の俺は、勝利の月桂冠を頭上に掲げたエラリー・クィーンの気分なんやからな」
『---意味が良く判らんが…』
憮然とした声音に、私は小さく肩を竦めた。
そりゃ、そうだろ。言っている私自身にだって、意味なんかぜんぜん判らん。が、とにかく今はそういう気分なんだから、細かい事は何だっていいじゃないか。
「余り細かい事に拘るような奴は、すっこーんと禿げてしまうで。若白髪のうえに禿げたりなんかした日には、女子大生にモテモテの火村センセの地位が危うくなるんやないか」
ご親友様の有り難くも勿体ないご忠告を、火村はあからさまに鼻で笑い飛ばしてくれた。
『ますます言葉の内容に、意味が通らなくなってきたな。---で、アリス』
一瞬の間。
すぐに受話器の向こうから、煙草に火をつけるライターの音が響いてきた。匂うはずのないキャメルの香りがほんのりと鼻腔を擽ったような気がして、私は身体の中の熱を逃がすように小さく息を吐いた。
『浪速のエラリー・クィーンは、明日は閑なんだな?』
「う〜ん…」
すぐに「そうや」と返事をしてやるのは口惜しいので、少しだけ考え込むような振りをした。ついで、勿体ぶったように口を開く。
「ん〜、まぁ時間は空いてるわな。次の締め切りは---確か、来月の末やったし…」
『じゃ、久し振りに飯でも喰いに行かねぇか』
飯---というと、もしかして御飯。ランチ、ディナー、フルコース、火村の奢り、めちゃくちゃ豪華版、ついでにもちろん酒付き、お茶付き、デザート付き---。うっとり…。
てな具合に、頭の中で数珠繋ぎの言葉が、一瞬の内に湧いて出た。
「行く行く行くッ! 絶対行くッ。んで、なぁなぁ火村。場所、俺が決めてもええやろ?」
『構わねぇぜ。どっか行きたいとこでもあんのか?』
「あるッ! 金平のタンシチューが喰いたい」
『何だ、それ?』
「この間、旅行ガイド見てて偶然見つけたんやけど、それがもうめちゃめちゃ美味そうなんや」
以前、閑潰しにパラパラと捲っていた京都のガイドブックに載っていたタンシチューの写真を思い出し、私はほにゃりと頬を緩ませた。何とか行くチャンスはないか…、と常々機会を狙っていたのだ。だが、それがこんなに都合良く転がり込んでくるなんて。
---ああ…。締め切り守って、ほんまに良かった。
もちろん火村同様、私もグルメや食い道楽というわけではない。だが好奇心旺盛というか、新しもの好きというか---。ガイドブックや情報誌で見つけたり紹介されている店や物は、チャンスがあれば、ぜひ一度試してみないと気が済まない質なのだ。
火村に言わせると、それは単に私がミーハーなだけ、なんだそうだ。しかしそれについては、私には大いに反論があった。大学の先生はどうだか判らんが、作家たるもの好奇心を失っては終わりではないか。故に私のこれは、純然たる作家魂の一つなのだ、と私は常日頃から自負している。
「なぁ、あかん?」
上目遣いの猫なで声で、お伺いをたてる。どうせ火村にはこっちの様子なんて見えないんだから、媚びを売る必要なんて全く無い。でもまっ、一応念のため。注意を怠らない細心の心掛けこそが、勝利を生む要因なのだ。
『そりゃ別に構わねぇけどよ。どこにあるんだ、それ?』
「英都とは御所を挟んだ反対側や」
『なら、近くていいな。じゃ、夕飯でも---』
「ちゃう。昼ご飯や。夕飯は、萬三でうどん鍋喰うんやからな」
これも金平と同じく、京都のガイドブックで見つけた店だ。時期的に冬の間に行きたいな…と思っていたので、火村の申し出はこれ以上ないってなぐらいの好都合だった。
棚から牡丹餅。葱背負って、ついでに鍋まで抱えた鴨が、ラインダンスを踊って遣ってきた---ってなもんだ。このタイミングの良さは、まさに十年来の親友様ならではのものではないか。さすがは火村。偉いぞ、センセ。
コードレスの受話器を握りしめ、意気込みも露わに、力を込めて言った私の言葉尻に重なるように、呆れたような溜め息が受話器から小さく響いてきた。
『へぇへぇ、お前の好きにしてくれ。で、何時にする?』
う〜ん…。何だか火村のこの物わかりの良さが、妙に不気味な気もする。だが取り敢えずは目先の幸せ、美味しい御飯。それ以外のことは、美味しいものを食べ終えてから考えることにしよう。
「そやなぁ…」
天井を仰ぎ、私は軽く首を傾げた。
「一時ぐらいでええんと違うか? ちょうど昼時にぴったしやと、何か混んでそうやしな。---そんで君、明日は大学の方におるんか?」
『いるぜ。だったら、適当な時間を見計らって研究室の方に来いよ』
そう言って受話器を置こうとした火村を、私は慌てて止めた。
『何だよ、まだ何かあるのか?』
「もちろん明日は火村の奢り、やろ?」
『---何でそうなる?』
問いかけではなく確認するような声音に、受話器の向こうの火村のバリトンが心持ち低くなる。その声に、私はへにゃりと笑ってみせた。
「せやって、俺の脱稿祝いやないか」
『何だ、締め切りだったのか。これでまたお前の後悔が、一つ増えたってわけだ。ご愁傷様』
「煩い。とにかく無事原稿が上がったんやから、お祝いに飯ぐらい奢ってくれても、罰は当たらへんやろ」
『言葉を返すようだがな、アリス。俺が論文を書き上げたからといって、一度としてお前に祝いだ、と奢って貰った覚えはないぜ。それともそれは、もしかして俺の記憶違いか?』
「記憶違いやな」
きっぱりと言い切った私の耳朶を大袈裟な溜め息が一つ、掠めるように流れていった。
『---奢るよ』
苦虫を噛みつぶしたような男前の顔が目の前に浮かび、私は口許に勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「じゃ、それで決まりやな。おやすみ、火む---」
話は済んだとばかりに電話を切ろうとした私を、今度は火村のバリトンが止めた。
『おい、アリス。お前、一体どれくらい呑んだ?』
唐突な問いかけに私は首を傾げ、ソファの上に寝転がったままの姿勢で視線をテーブルの上へと向けた。摘み代わりのスナック菓子の袋が乱雑に置かれたテーブルの僅かな隙間を埋めるように、黄金色の一番搾りの缶が三つと銀色の酎ハイの缶が二つ、ころんと控え目に転がっていた。
「えっとぉ、ビールが三本と酎ハイが---一、二本やな」
『それくらいなら、まだ大丈夫だな』
何がだ?
火村の言葉の意味がとんと判らない私は、緩く眉を寄せた。応えの代わりに訪れた沈黙に、私の疑問を察した火村が緩く笑った。
『酔っ払ってるとお前、約束忘れちまうからな。待ち惚けは、ごめんだぜ』
ええいっ! 失礼なことを言うな、無礼者。
自慢じゃないが、私は他人様に奢って貰えるという有り難くも勿体ない約束を忘れるなどと、そんな人でなしで不埒な真似を働いた覚えは、生まれてこの方一度たりとてやったことなどない。受話器の向こうに向かって力一杯そう言い切ると、火村がうんざりしたように相槌を打ってきた。
『そうだったな。その意気込みで、明日のことも忘れないでくれ』
最後の嫌味を口にして、火村は電話を切った。もちろん私がそれに言い返すチャンスは無かった。to be continued
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