Bitter Sweet Chocolate Day <2>

鳴海璃生 




−2−

 地下鉄駅への階段をてくてくと下りながら、私は腕時計へと視線を落とした。時間は、あと二十分ほどで午前十時というところだった。
 セットした目覚まし時計のベルよりも早い、九時なんて時間に目覚めた私は、明るい陽の光に誘われるようにベッドから飛び降りた。火村との約束の時間までには、まだ随分と時間に余裕があった。だが私はそれまで部屋の中で時間を潰すことが我慢できず、早速着替えて外に出ることにした。
 火村に会いに行く前に、ここ暫く部屋に閉じ籠もっていた鬱憤晴らしもかねて、街に繰り出すことにしたのだ。随分とご無沙汰だった本屋にも行きたいし、いやそれよりも何よりも世間の空気に触れたかった。
 券売機で東梅田までの切符を買い、私は改札を通り過ぎた。まるで私の日頃の行いの良さを表すかのように、私がホームに立った途端、ジャストなタイミングで電車がホームに滑り込んできた。
 ---う〜ん。何か今日は良いことがありそうや。
 電車の中はきっちりとスーツを着込んだビジネスマンで、結構混み合っていた。その中を縫うように奥へと入り込み、私は車両の連結部分のドアに寄りかかった。
 心地よく揺れる振動に身を委ね、暗い窓ガラスに映る自分の顔をぼんやりと眺める。知らず知らずの内にも、その顔はニコニコと笑み崩れてしまい、私は慌てて頬の筋肉に力を入れた。どうやら久し振りの外出と清々しい天気に、私の気持ちは思いのほか舞い上がってしまっているようだ。
 東梅田の駅から迷路のような地下街を通り、私はまず第一目的地の本屋へと向かった。曜日日にちにまるで関係なく、相も変わらずの梅田の地下街は、一体どこから湧いて出たんだ、と首を傾げたくなる程の人並みで溢れかえっていた。
 が、普段なら妙にいらいらするこの人混みも、今日は何故か心地よく感じられる。久し振りの解放感にうきうきと弾む心は、この人混みさえも快感に変えてしまっているのかもしれない。
 地下の入り口から本屋へと入り、文庫やノベルズを並べてある階へと向かう。これから京都まで出張っていく身なので、本を買い込んでわざわざ重い思いをする気は更々なかった。
 だが締め切りの間中涙を飲んで本断ちをしていたため、「おいでおいで」と私を誘う活字の誘惑には、とてもじゃないが逆らうことなどできなかった。本屋中隈無く歩き回って、時間ぎりぎりまで思いっきり立ち読みするぞ、と甚だ書店にとっては迷惑な意気込みでもって、私はミステリーの新刊が平積みにされた棚の前に立った。

◇◇◇

 上の階から順番に下りてきた私は、一回の雑誌売り場で今日発売になったばかりの情報誌に見入っていた。ひと息ついた拍子に、何げにふと視線を上げる。
 と、カウンターの向こうの時計が視界に飛び込んできた。丸い、まるで学校の壁に掛かっているような素っ気ない時計の針は、いつの間にか午前十一時半を少しだけ回ってしまっている。本屋でなら何の苦もなく時間を過ごせる私は、どうやら今回もそれと気付かぬ内に、一時間以上の時間をここで過ごしていたらしい。へたをすると火村との約束をすっぽかし---なんて事態に陥っていたかもしれない事実に気付き、私は途端にあたふたと焦りだした。
「あかん。のんびりしとったら遅うなってしまうわ」
 手にしていた情報誌を慌てて棚に戻し、私は地下へと向かうため売り場の中央のエスカレーターへと向かった。ぼんやりと佇んでいるのももどかしく、そそくさとエスカレーターを駆け下り地下街へと飛び出す。そうして人混みの中を縫うようにJRの駅へと足早に歩いていた私は、突然通路の真ん中でくるりと方向転換をした。
 何せ今日は酒も食事も火村の奢りなんだから、早々とそれをお開きにして大阪に戻る気など、端から私にあるはずがなかった。となると、必然的に今日は火村の部屋に転がり込むことになる。---ので、久し振りに会う婆ちゃんに、お土産でも買っていこうと思い立ったのだ。
「婆ちゃんへの土産やったら、やっぱバウムクーヘンやろな」
 駅の周りに建ち並ぶデパートの地下ででも買おう…と思い、私は今いる場所から一番近い阪急デパートの入り口を目指した。確かそこから入ってすぐの所に、美味しいケーキの店があったはずだ。
 ショーウインドウのガラス越しにデパートの中を見渡しながら、私は入り口から一歩中へと踏み込み---。思わずその場で佇んでしまった。入り口から入ってすぐの所に、何故か若い女性達の人だかりができていたのだ。
「一体なんやねん、これ…」
 身体が引けるようにして一歩後退り、視線を上げたその先にある物に、私は思わず目を瞠った。金モールに縁取られた長方形の布の中では、ピポパピポと甲高いラッパを鳴らしそうな天使が、目にも鮮やかなでっかいピンクのハートを捧げ持っている。そしてその上には、優雅に羽根ペンででも書かれたような、流れるような筆記体の英文字。季節が来るたび、街中の至る所で見掛けるその文字は---。
「げぇ〜ッ、しもたッ!! もしかしてバレンタインやったんかい、今日…」
 思わず口をついて出た言葉に、周りにいた女性達の視線が一斉に私へと集まった。じろり、と音がしそうな程のきつい眼差しで睨まれ、私は慌ててくるりと踵を返した。肩を丸めるようにして入ってきたばかりのドアから外へと飛び出し、数メートル離れたショーウインドウのガラスに寄りかかる。
「あ〜、どないしよ…」
 思い起こせば、一年前の二月十五日。確か来年こそは同じ轍を踏まないぞ、と固く心に誓ったはずなのに---。
 なのに、なのに…。
 幾ら締め切りに追われていてカレンダーに疎くなっていたからといって、スコーンときれいさっぱりこの日を忘れてしまうなんて---。
 しかもそのうえ、これから火村に会うために、私は京都まで出掛けて行くのだ。
「ひぇ〜、全く冗談やないで」
 食事の誘いはともかくとして、あの火村がとてつもなく妙な物わかりの良さを発揮した時に気付けば良かったんだ。
「いっそのこと、このまんまとんずらしてしまおか…」
 火村との約束を反故にすることに対しては、何の躊躇も罪悪感も覚えない。しかも今日に限っていえば、バレンタインだから特に、だ。だがしかし、その後の報復は、はっきりいってむちゃくちゃ怖い。長年の付き合いのおかげで、ねちねちと嫌味を言われるぐらいなら、これといって何とも思わなくなってしまった。そんなもん、右から左に軽く聞き流す芸当だって身に着けた。
 だがこういう場合、火村の奴は口だけじゃなく手まで出るから始末が悪い。今までにも、こういう場面においてやられたアレやコレやを思い出し---。
 思い出して、私は慌てて頭を左右に振った。
「俺のアホ。こんなとこで、何てこと思い出すんや」
 そんなことを思い出してる隙があったら、とにかく今日これからの打開策を考えなければならない。
 今日一日。二月十四日の今日さえ乗り切ってしまえば、あとは野となれ山となれだ。
 チョコレート会社の陰謀か、はたまた貿易黒字に悩む政府がチョコレートとカカオの輸入拡大を謀ったせいなのか。二月の足音が聞こえてくると同時に、日本中至る所でバレンタインの文字が目に付くようになる。
 一体いつの間にこんな国中を巻き込んだイベントになってしまった---だったら、いっそのこと祝日にでもしてほしいものだ---のかは、とんと定かではない。だがしかし世の女性達は義理チョコに文句を言いつつも、チョコレート売り場へと走り、片や男性陣は平静を装いつつも、それなりに一喜一憂の期待を膨らませていたりするのだ。
 もちろん私とて例外ではなく、遥か昔には女の子達が手にしているきれいなラッピングの箱に、ちょっとだけドキドキしながら視線を注いでいた---なんて初な年齢の時もあった。その頃の私にとって、バレンタインは人並み程度には気になる行事の一つだったのだ。だがここ数年、正確には現在母校の英都大学で教鞭を取る助教授殿と知り合ってからというもの、バレンタインは思い出したくもない嫌な思い出の日となり果ててしまっている。
「う〜ん。何かいいアイディア---」
 ショーウインドウのガラスに寄りかかったまま頭を捻っていた私は、不意に頭の中に閃いた考えに、ポンと両手を打ち鳴らした。
「何や。要するにチョコさえ食べんかったら、ええんやないか」
 何で、今までこんな簡単なことに思い至らなかったのだろう。そうしてあれやこれやと色々思い出してみれば、全ての元凶はチョコレートから始まっていた。
 ということはチョコレートさえ食べなければ、悪いことは何にも起こらないというわけで…。
「ふっふっふ…」
 今年こそ、の勝利に、俯いた喉の奥らかくぐもった笑いが漏れる。
「火村ぁ、見とれよ。今年の俺は、ひと味違うんやで」
 ぐっと拳を握りしめ、私は婆ちゃんへの土産を買いに再び阪急の入り口へと向かった。
 一歩中へと踏み込んだ途端、目前にはチョコレートを買い漁るOLらしき女性の群れ。昼休みも間近のこんな時間にやってくるということは、きっと義理チョコの買い出しに違いない。
「---あっちの入り口からにしとこ」
 意気込みとは裏腹に、私はその場でくるりと回れ右をした。今入ってきたばかりのドアから外に出た私は、どことなく殺気だったチョコレート売り場を避け、もう数メートル先にあるドアへと足を進めた。


to be continued




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