鳴海璃生
ここにいるはずのない人物の姿に、思わず目を瞠る。だがそんな声をきれいに無視して、火村は梛から取り上げたカードに視線を落としていた。
「ふ‥ん…」
嘲るように鼻で笑うと、火村はカードを元のリボンに挟み込む。ついでテーブルの上に取り出されたままの箱や紙包みを、ポイポイと乱暴に紙袋の中に戻していった。
「おい、アリス。行くぞ」
「へっ?」
火村は自分へのバレンタインのチョコレートが詰まった紙袋を両手に持ち、スタスタと大股にドアへと向かった。
「火村、どこ行くんや?」
慌てて、私は火村の背中に向かって声を掛けた。だが火村は、チラリとも私の方を振り向かなかった。まるで私がついて来るのが当然というように、ドアへと進む歩みは凛として揺るぎがない。
「何やねん、もう…」
ムカムカとむかつきながらも、私は慌てて傍らのリュックを取り上げた。ガタンと大きな音を鳴らして、椅子から立ち上がる。
「ほんなら梛、またな」
バタバタと慌てふためいて簡単にそれだけを口にすると、私はドアから出ていこうとしている火村の姿を追った。背中越しに、どこかうんざりしたような梛の声が聞こえてきた。しかし、それに振り替える余裕は無かった。
「おい火村、待てって」
いくら呼び掛けても足を止めることのない火村を追って、私は再度大学構内へと戻ってきた。図書館の脇の道を通り、社会学部棟の中に入る。
ついさっきまでいた学生会館とは違い、人気のない社会学部棟はひんやりとした空気で満たされている。その空気の冷たさに、私はぶるりと見を震わせた。なのに私より数段薄着の火村は、冷えた空気にさえ躊躇することなく、スタスタとホールの脇の階段を上っていった。
「火村ッ! このスカポンタン。何か言うたらどうや」
遂に堪忍袋の緒が切れた私は大声で怒鳴り、火村の黒いコートに手を伸ばした。まさかそれに気付いたというわけでもないのだろうが、私の声を完全に無視して歩を進めていた火村が、突然唐突にその場で歩みを止めた。勢い良く火村に向かって行っていた私は、危うく火村の背中に激突しそうになり、焦って急ブレーキをかけるように足を止めた。
「おい、火む…」
ガタンという大きな音が、耳朶に触れる。私はその音につられるように、ひよいと背中越しに火村の手元を覗き込んだ。二階以上の各階に取り付けられているダストシュートの蓋が開けられ、目前に黒い闇が口を開けていた。
「火村、君まさか…」
火村が今からやろうとしていることに気付き、小さく息を飲む。
冗談じゃないぞ。
それを阻もと、私は咄嗟に手を伸ばした。が、その私の手を擦り抜けるように、火村が紙袋を暗い闇の上に翳す。視線の先で、チョコレートの箱達が暗い闇の中へと滑り落ちていった。
カタンカタンと悲しげな音をたてて最後の一つが闇の中へと消えたあと、火村は手にしていた紙袋もくしゃりと丸めて、その中に放り込んだ。パンパンと満足げに両手を打ち鳴らし、大きな音をたてて乱暴に蓋を閉める。シンと冷えた廊下に長い尾を引いて、蓋を閉めた固い音が消えていった。
「火村のドアホ! 何てことすんねん。俺が全部持ち主に返すって、言うたやないか」
ポケットから取りだしたキャメルを口にくわえ、火村は睨みつける私に向かってニヤリと人の悪い笑みをはいた。
「アリス、できもしねぇことを言うんじゃねぇよ。俺は、お前の負担を軽くしてやったんだからな。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはこれっぽっちもねぇぜ。それに、だ。あれは、俺が貰ったもんだからな。一度受け取った物をその後どうしようと、そんなの俺の自由じゃねぇか」
そりゃ、確かにそうだ。火村の言い分が間違ってないのだって、判ってはいるんだ。だけど…。
唇をかみしめ、睨みつける私に、火村は片頬を歪めるように笑む。何もかも判っているというようなその表情に、私はプイと横を向いて視線を外した。
あのチョコレートを持ち主全員に返すなんて、そんなこと到底できっこないって、私にだって良く判っていたのだ。事実、火村が自分の手であのチョコレート達を始末してくれたことに、どこかホッとしている自分がいる。でもそんな自分を認めてしまうのが情けなくて、口惜しくて、私は正面から火村を見つめることができなかった。
---ちくしょう。火村のアホんだら。
悔し紛れに、心の中で最後の悪態をついた。力が抜けたようにズルズルと壁に背を預け、私は冷たい廊下に座り込んだ。
「おい、アリス」
先刻までの冷たさを含んだ声音とは全然違う、柔らかなバリトンが頭上から降ってくる。冷えた空気に白い息を吐き出し、私はぼそりと呟いた。
「俺はもう二度と、君あてのチョコレートなんて受け取らへんからな。来年からは、勝手に自分で片を付けてくれ」
「漸くアリスも、一つ利口になったじゃねぇか」
「煩い。君、いっつもひと言多すぎるで」
上げた視線の先で、火村の吐き出した紫煙がユラユラと揺れて、冷えた空気の中に溶けていった。−6− バタンと大きな音をたてて、ドアが開いた。研究室の奥のデスクで学生達のレポートに目を通していた火村は、その音にゆっくりと振り返った。視線の先、ドアのすぐそばの所に、何やら妙に不機嫌そうな表情を晒したアリスが、仁王立ちで突っ立っていた。
「よぉ、先生。随分と不機嫌じゃねぇか。そんなに腹が空いてんのか?」
「ちぉうわッ! ここに来る間になぁ、俺は次から次へと嫌ぁ〜なことを思い出してたんや」
「へぇ、そりゃまたご苦労なことで。---で、一体どんなことを思い出したんだ?」
短くなった煙草を灰皿で揉み消し、火村はくるりと椅子を回した。黒目がちの双眸に、からかうような色が見え隠れする。それが、より一層私の機嫌の悪さを逆撫でする。
「どんなやあらへん。余りにたくさんありすぎて、とてもひと口では喋られんわッ」
「じゃ、順番に言ってみろよ」
「まず第一ッ!」
つかつかと火村の前まで歩み寄った私は、高い鼻梁の鼻先に人差し指を突きつけた。
「あん時、君が捨てたチョコレートの中に、俺あてのチョコが混じってたやろ」
「あん時って、一体いつのことだよ。相変わらず言葉の足りない奴だな。話は、聞き手に判りやすく話せよ」
「二十歳のバレンタインの時やッ!」
暫く視線を泳がせていた火村が、納得したように頷いた。
「ああ…。お前が間抜けにも追試を受けに大学まで来て、女共にしこたまチョコレートを押しつけられてきた時だな」
「---何や言い回しに不快なものを感じるけど、とにかくそうやその時や。あん時、君が梛から取り上げたチョコレート。あれ、俺あてやったんやないかッ!」
春休みが終わって事の成り行きを訊いてきた梛に、私は一部始終を説明する羽目に陥った。「ふんふん…」と頷きながら私の話を聞いていた梛は、話が一段落したところで徐に口を開いた。呆れたような口調で「じゃ、お前あてのチョコも一緒に捨てたのか」と言われた時には、顎が外れるかと思うほど驚いた。しかもそれを問いつめた私に向かって、こいつはいけしゃあしゃあと「妙な女に捕まるのを防いでやったんだから、感謝しろ」と言いやがったのだ。
ちくしょう、今思い出しても腹がたつ。
「そういや、そんな事もあったかな」
こんの野郎。何があったかな、だ。
「間違いなく、あったんや。あん時、君があのチョコを捨てへんかったら、俺の大学生活はバラ色やったんや。返せッ、戻せッ、俺の青春!」
「そりゃ、根拠のないお前の思い込みだろうが。実際は違ってたと思うぜ。実際にあZqだろう事をそのまま述べるなら、あとになってふられて泣く前に、俺が救ってやったってとこだな。有り難く感謝しろよ」
「ドアホ。感謝なんかするかいッ。それに、それだけやあらへん」
「何だ、まだあんのかよ。随分と悲しい人生を歩いてきたんだな、お前…」
誰のせいだ、一体。ことの元凶は全て自分のくせして、それをお前が言うか。
「余計な世話や。俺が言いたいのは、そんなんと違う。あのあと君、毎年俺にバレンタインデイのチョコくれては、お返しだとか何とか言うて、俺のこと好き勝手したやないか」
「アリ〜ス。ホワイトデイにお返しをするのは、当然のことだろうが。それに俺は、お前の言うところのバラ色の大学生活を提供してやったんだぜ。どちらかと言えば、感謝してほしいくらいだな」
「何がホワイトデイや。バラ色の大学生活や。だいたい君、それだけやないやないか。俺はな、毎年毎年二月十五日になるたび、来年こそはバレンタインに君には会わへんて、固ぁ〜く心に誓っとるんや」
「…で、毎年その誓いを忘れる、と。猿並みに進歩がないな、お前」
クックッと喉の奥で笑う犯罪学者を、私は大上段に見下ろした。
「煩いわい。ええか。言うとくけど、そんなん言うてられるのも今の内だけや。今年の俺は、ひと味もふた味も違うんやからな。もう何があろうと、絶対、金輪際、君の毒牙にはかからへんで」
「そりゃまた、随分な意気込みだな。まっ、せいぜい頑張ってくれ。---で、アリス」
チョイチョイと人差し指を折り、火村が私を呼んだ。警戒心も露わに、私は座っている火村の視線の高さにあわせるように、ゆっくりと身を屈めた。
「何や?」
「あ〜ん…」
「あ〜ん?」
言われた言葉を訝しむように繰り返し、私は口を開けた。その口の中に、ポイと何かが放り込まれた。
「な、何すんねん」
口の中に放り込まれたものを慌てて吐き出そうとして、反対に噛み砕いてしまった。途端、口一杯に芳醇な酒の香りが広がった。口許を両手で押さえたまま、ごくりとそれを飲み込む。
「---美味かったか?」
低い問いかけに、私は反射的に頷いた。
「もう、めっちゃくちゃ美味かった。これ何や? 一体どないしたん? まだあるんか?」
矢継ぎ早に訊き返す私に、火村は小さく笑った。
「まだ喰いたいか?」
「食べるっ、食べる!」
満面の笑みで頷いた私を見つめ、火村は人の悪そうな笑みを口許に刻んだ。
「お前が食べるってんなら、俺は別に構わねぇがな。ご親切様に忠告してやるなら、ここで止めておいた方が良くねぇか」
「火村のドケチ。なに勿体ぶって、出し惜しみしてるんねん。あーっ! さては君、あとで自分一人で食べようと思てるな。あれ、めちゃくちゃ美味かったから、独り占めする気なんやろ。中に入ってるサクランボといい、口一杯に広がるブランデーといい、とろりと溶けてそんなに甘くないチョ‥コ…」
言いかけて、私は慌てて口を噤んだ。
---ちょーっと、待て。俺、今なんて言うた?
顔色を変えた私を、火村のからかうような視線が縫い止める。極悪助教授は、してやったりとばかりにニヤリと笑った。
「どうだ、美味かっただろ。ブラン・ブリュンの新作だぜ」
しまったーっ。あれだけ固く心に誓ったのに、俺ってばまた---。へなへなとへたり込むように、私は傍らのソファに腰を落とした。
---俺のアホ。何で俺は、こんなに間抜けなんや。
両手で頭を抱え込み、己に向かって精一杯の罵りの言葉を吐く。こんな単純な手に引っ掛かるやなんて…。余りに情けなくて、涙も出ない。
「おい、アリス。今日びの相場は、本命に対しては五倍、十倍返しが当たり前だそうだ。期待してるからな。せいぜい来月は頑張ってくれ」
頭を抱え込んだまま、じろりと横目に火村を睨めつける。
「相変わらず、めちゃくちゃ図々しい奴やな。一体どこの誰が本命やねん?」
「俺に決まってるだろーが。それとも、他に思い当たる節でもあんのか、お前?」
喉の奥で笑い、からかうように火村が言う。それに向かって応える代わりに、私はグイッと右手を突き出した。
「---何だ、その手は?」
「他のチョコも渡せ」
「おいおい、いいのかよアリス。あとの返しがたいへんじやねぇのか、お前」
そんな嬉しそうに笑いながら言う言葉に、説得力なんかあるかい。
「煩い。一つ食べようが二つ食べようが、結果は同じなんや。せやったら、思いっきり喰うたる」
自棄になったようにそう言った私に、火村は笑いながら残りのチョコが入った箱を放り投げてくれた。それを膝の上に置き、ゆっくりと蓋を開ける。円筒型の箱の中には、真ん丸いチョコレートが品良く詰められていた。
「言うとくけどな、火村。来年こそは、お前の罠には填らんからな」
「まっ、せいぜい頑張ってくれ」
笑いを含んだバリトンの声を聞きながら、私は丸いチョコレートをポンと放り上げた。ガラス越しの青空にふわりと浮かんだ丸いチョコは宙空に鮮やかな放物線を描いて、私の口の中に落ちてきた。End/2002.04.04
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