Bitter Sweet Chocolate Day <5>

鳴海璃生 




「アホか。俺かて好きで受け取った訳やないわ。無理矢理渡されたんや」
「チッ」
 短く舌打ちした火村は、畳の上に散らばった小さな箱ゃ紙包みを乱暴に紙袋の中に放り込んだ。そして徐に立ち上がると、紙袋を両手に持ち廊下へと続くドアに向かう。呆気にとられたようにその様子を見つめていた私は、ガラリとドアの開く音に、慌てて火村のあとを追った。
「おい、火村。どこ行くんや?」
 昨年、貰ったチョコレートを全て突っ返したという梛の言葉が頭を過ぎり、私は泡を食ったように火村のセーターの裾を掴んだ。
「ちょい、待てって。まさかそれ、返しに行く気なんか?」
「相手も判んねぇのに、そんな真似できるわけねぇだろ」
 ホッとしたのも束の間、続く火村の言葉に私は色を失ってしまった。
「面倒臭ぇから、捨てに行くんだよ」
 「ゴミの日だから、ちょうどいいな」と嘯く火村のセーターの裾を、あらん限りの力で引く。セーターが伸びてしまうかも…なんて、チラリと思わないでもなかったが、そんなこと構っちゃいられなかった。だって、幾ら何でもあんまりじゃないか。
「なに言うてるんや。ちょい待ちぃ。落ち着けって…」
 必死でセーターの裾を引く。そんな私の様子にうんざりしたように、火村は足を止めた。そしてほんの数センチ高い位置から、じろりと険悪な視線を落とす。
「何で止めんだよ、アリス。お前だって、いいかげん迷惑したんだろうが」
「そりゃそうやけど…」
「だったら、離せよ」
 セーターの裾を握りしめた私の指を、火村が外そうとする。それに逆らうように、私は握りしめた指先に力を込めた。
「アリス」
 苛ついたような低い声。でも、そんなの気にしちゃいられなかった。だって捨てるだなんて、そんなの酷すぎる。
「何も捨てることはあらへんやろ。そりゃ、君がこんなの好きやないってゆうのは判ってる。けど女の子達かて君の気を惹こうと必死なんやから、少しぐらいは大目に見たってもええやないか」
「何が大目に見たっても、だ。俺にとっちゃ、迷惑もいいとこだぜ。おい、離せよ」
「嫌や。君が、それ捨てへんて言うまで、絶対に離さへんからな」
 体力、腕力共に火村に敵わない私は、必死で火村のセーターに取りすがった。
「お前が、こんなもんに必死になることはねぇだろーが」
「せやって、貰ってきたのは俺やもん」
「---ああ、そういえばそうだったな」
 たった今思い出したというように、火村は小さく呟いた。不意に変わった声音に、私はゆっくりと視線を上げた。視界の先で、鼻梁の高い男前の顔が、頬を歪めるようにして笑みをはいた。
「確かに貰って来たのは、お前だったな。だったら、責任持ってお前が返してくるか。それができるってんなら、捨てるのは止めてやるよ」
「な…」
 呆気にとられたように見つめる視線の先で、火村は満足げに笑った。
「できねぇだろ。だったら、とっととその手を離せよ。---ったく、何のために、俺が今日大学に行かなかったと思ってるんだ。こんな面倒なことに巻き込まれたくねぇからだろうが…。それなのに、面倒背負い込んできやがって…」
 「冗談じゃねぇ」と吐き捨てられた言葉に、頭の中でプツンと何かが切れるような音がした。そりゃ確かにチョコレートを貰ってきたのは私だが、そこまで火村に言われる筋合いはない。だいたい私だって、ある意味被害者なんだ。
「仕方ないやろ。追試が今日て決めたんは、俺やないもん」
「てめぇが寝坊して、追試なんて受ける羽目になるからいけねぇんだろーが。小説書いてたのか、本読んでたのか知らねぇが、ガキじゃあるまいし、いい年齢した大人が、んな事ぐらいで寝坊なんかするんじゃねぇよ」
 そこまで言うか、この野郎。もう、完璧にあったまきた。
「ええもん。よぉ判った。どうせ俺は、アホのガキやもん。追試の日程が今日に決まったんも、バレンタインにチョコあげるやなんて習慣が広がったんも、どーせ全部俺のせいやもん」
「誰もそんなこと言ってねぇだろーが」
「十分言ってるやないかッ!」
 大声で怒鳴って、私は火村の手からチョコレートの入った紙袋を乱暴に引ったくった。
「おい、アリス」
「どーせ全部俺が悪いんやから、責任持って、これ全部持ち主に返してきたるわ」
 売り言葉に買い言葉。お互い莫迦な言い合いをしているのは、嫌になるぐらい良く判っていた。だが互いに意地を張り合って、私達は既に一歩も引くことのできない状態に陥っていた。
「勝手にしろッ!」
「勝手にするわ、火村のドアホ! 人でなし、人非人」
 悔し紛れの捨て台詞を残し、ドタドタと乱暴に階段を駆け下りる。そして私は言葉の勢いそのままに、力任せに開けた玄関のガラス戸から外へと飛び出した。頬に当たる寒風に、一瞬だけ身を竦める。だがそれも束の間、脱兎の如くの勢いで、私は古風な木戸から、つい先刻通ってきたばかりの道へと走り出た。
「…ったく、あのバカ」
 ぼさぼさの固い前髪を掻き上げ、火村はアリスの消えた玄関を階段の上から見下ろしていた。だがすぐに踵を返し、部屋へと戻る。身の内にある苛立ちのままに乱暴にドアを開け、部屋の奥の窓際にどさりと腰を下ろした。開いたまま畳に転がっていた分厚い専門書を膝に置き直し、再びそれに視線を落とす。
 妙に静かになった部屋の中に、カチコチと時を刻む硬質な時計の音が響く。つい先刻までは気にもならなかったそんな小さな音が、今は嫌になるぐらい耳につく。苛立ちも露わに眉を寄せ、顰めたような表情で分厚い本のページを捲っていた火村は、数分の後、手にしていたそれを畳の上に放り投げた。
「くそっ。あのバカは、何でこう面倒事ばっか背負い込んでくるんだ」
 他の奴らのように相手にしなければいいのに、何故かアリスに限ってだけそれができない。今日だって余計な事をして、面倒事を持ち込んで来たのはアリスだっていうのに---。
「ちくしょう。何だってんだよ、もう」
 口汚くそう呟くと、火村は徐に立ち上がった。大股に部屋を横切り、無造作に壁に掛けてあったコートを取り外す。それに手を通すのももどかしく部屋を出ると、アリスが消えた玄関へと歩みを進めた。


−5−

「もう、マジであったまきた。絶対許したらへんからな」
 北白川通から今出川通に入ったところで、ちょうどタイミング良く203系統のバスが遣ってきた。それに飛び乗り、英都前でバスを降りてからも、私の憤りはチラリとも薄れなかった。いや、両手に持った紙袋の細い紐が掌に食い込めば食い込むほど、私の怒りにも拍車が掛かっていく。
「あんな奴とは、絶好や。もう二度と口なんてきいたらへん」
 今出川御門前の正門を入り、図書館手前にある社会学部棟へと向かう。だがむかつく私の意気込みとは裏腹に、足並みの方は徐々に遅くなっていった。
「あ〜あ…」
 地面にめり込みそうなでかい溜め息を漏らし、私は目の前のベンチにどさりと腰を下ろした。火村への怒りも冷めやらぬままに、ここまで遣ってきた。が、はてさて。このあと一体どうしたらいいものか。
 寒風に身を晒し、怒りに火照った頭を冷やせば、自分がとてつもなく無謀なことをしでかしたことに気付く。だいたい火村への意地で、預かったチョコレートを全部持ち主に返す、なんて大見得をきったまでは良かった。しかし一体どうやって返せばいいのか、一向に見当もつかない。
 返す時の言い訳云々---そんなもの今さら悩むもんか。火村の人でなし振りを、逐一言い募ってやる---で悩でいるわけじゃない。それ以前に、このチョコレートの山を私に押しつけた人間そのものに、私は全く心当たりがないのだ。これでは持ち主を捜そうにも、捜せるはずがない。それどころか、チョコレートを持ち主に返すなんてことは、砂漠の彼方の蜃気楼にも等しい。
「あ〜、困った…」
 だらりとベンチにもたれ、私は澄んだ青空を眺めた。今さら火村の所に戻るのだけは、絶対にごめんだ。言ったからには、何が何でもこのチョコレートは返してやる。
 しかしそう意気込んではみても、眼前にドドーンと立ちふさがった問題は、エベレストかチョモランマ並みに高い。自慢じゃないが、女性の知り合いが早々いるわけじゃないし---。
「あーっ、もうッ! どないせいっ---」
 人気の無い構内で雄叫びを上げそうになった時、唐突に一人の友人の顔が脳裏に浮かんだ。女性にもてて、女好きで、学内の女の子のことは年齢を問わずに妙に詳しい。
「何や、梛がおるやないか」
 未だに学生会館にいるかどうかに一抹の不安は感じるが、他に頼れる者がいないのだから仕方ない。勢い良くベンチから立ち上がった私は、くるりと方向転換をして、烏丸通を挟んで反対側にある学生会館へと向かって歩き出した。

◇◇◇

 狭い階段を二階へと上がり、入り口に佇み中の様子を一瞥する。さっきいた時よりも学生の数が増えていて、広い部屋の中は雑然とした雰囲気を醸し出していた。煙草の煙で辺りの様子が煙っているような気がするのも、決して私の思い過ごしじゃない。
「えっとぉ、梛は…」
 きょろきょろと視線を巡らし、目当ての人物を捜す。だが人混みの中でも目立つはずの友人の姿は、一向に視界の内に入ってはこなかった。「予定の時間までの閑潰しだ」と言っていたから、もしかしたらもう出てしまったのかもしれない。
 がっくりと肩を落としかけたその時、モスグリーンのセーターに身を包んだ梛の姿が目に飛び込んできた。いつも社交的な彼にしては珍しく、一番奥の窓際の席で、一人静かにテーブルの上の雑誌を読み耽っていた。
 ---道理で気付かなかったはずやわ。
 そう独りごちながら、私は目の前に開けた明るい展望に縋るように、梛の元へと歩み寄っていった。
「梛」
 名を呼ぶと、梛はゆっくりと視線を上げた。一瞬驚いたように双眸を瞠り、ついで唇の端を歪めるように笑った。
「何や、有栖川。火村のとこ行ったんと違うんか」
「う〜ん…。まぁ、行ったことは行ったんやけど…」
 語尾を濁しながら、私は梛の隣りの席に腰を下ろした。
「---あんなぁ、梛。頼むっ!」
 勢いに任せてそう言って、私は拝むように顔の前で手を合わせた。私が何を言っているのかがまるで判らない梛は、びっくりしたように小さく息を飲んだ。
「頼むって、一体どうしたんや?」
「実は---」
 火村の所に行ってからの経緯を、私はボソボソと語りだした。もちろん子供じみた言い争いの部分は割愛して、如何に火村が人非人かということを事細かく説明してやった。黙って私の話を聞いていた梛は、ひと通りの内容が理解できたところで、クスリと小さな笑いを零した。
「こうなるんやないか…、とは思っとったけど、まさに大当たりやな。ビンゴもビンゴ、大正解や」
「---何で? 君、火村があーんな人でなしやなんて、何で知っとるん?」
「う〜ん…」
 私の問いかけに、梛は言い淀むように前髪を掻き上げた。
「火村が人でなしかどうかってのは、よう判らんけど…。チョコレートを迷惑だって奴が言うのは、普段の火村を見てれば判るんやないか?」
「普段の火村…?」
 と言われても、その辺りがどうも私には良く判らない。
 まぁ、確かに口は悪いし、苛めっ子だし、性格だってお世辞にも良いとは言い難い。だが女の子達が心を込めて---いや、その辺は私にも良く判らないんだが、でも多分、きっとそうに違いない---贈ったチョコレートを突っ返すとか、捨てるなんてことをするような奴には思えなかった。
 それとも私が知っている火村と、梛達が知っている火村の間には、とてつもなく大きな隔たりでもあるのだろうか。もしそうだとしたら、それは梛達が、火村のことを誤解しているような気がするんだが---。
 唸るように首を傾げる私に、梛は困ったような視線を注いだ。
「まぁ、有栖川と一緒の時の火村は、俺らに見せる様子とはまるで違うからな」
「---そうなん?」
 応えの代わりに肩を竦めた梛は、話題を変えるようにテーブルの上に置かれた紙袋を指差した。
「…で、それなんやけどな---」
「あっ、そやそや。忘れるとこやったわ。なぁ、梛。何とかならへん?」
 縋るような視線を注ぐ私に、梛は天井に向かって一つ溜め息を吐きだした。私としても、随分と無理なことを頼んでいるのは十分承知している。だが藁にも縋る思いで、私には梛に頼るしかないのだ。
 ガサゴソと紙袋の中から幾つかの箱ゃ小さな袋を取り出し、それを検分するかのように梛は上や下から眺め回した。
「う〜ん、名前が書いてあるやつとかやったら、何とかなるかもしれんけど…」
 口中で小さく呟きながら、淡いピンクのリボンに挟んであったカードを摘み上げた。中を開き視線を落とした途端、素っ頓狂な声を上げる。
「あれっ、これ…」
 だが最後まで言い終わらぬ内に梛の手の中のカードは宙を泳ぎ、別の誰かの手へと移ってしまった。そのカードの動きに合わせるように視線を泳がせ、今度は私が素っ頓狂な声を上げた。
「火村っ! 何で君、ここにおるねん?」


to be continued




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