鳴海璃生
−1− リビングの床にごろんと寝転び、私はまるで窓ガラスに嵌め込まれた絵のような青空を見つめていた。
「空が高いなぁ…」
ぽつりと漏れた言葉はシンとした空間に落ちて、溶け込むように消えていった。
毎度毎度のことながら、狭い部屋の中でワープロの画面と格闘している内に、いつのまにか季節が一つ進んでしまっていたらしい。視界の先にある空の青色は、既に夏とは違う穏やかさを孕んでいた。青というただ一つの言葉で言い表せる色にこんなにも様々な色合いがあるのかと、今さらながらに驚くほど、それは夏の空色とは大きく異なっている。
この汚れた空気の都会には珍しく、澄み切った青空はどこまでも高い。浮かぶ雲の形さえ夏とは違い、刷毛ではいたようにすっきりと鮮やかだ。微かに明けた窓の隙間から吹きこんでくる風も、さらりと肌に優しい。「今日も残暑が厳しかった」なんて、時候の挨拶のように口にしていたのはつい昨日のことにように思えるのに、今はその言葉さえもが妙に懐かしかった。
「何かどっかに行きたいなぁ…」
話し相手がいるわけでもないのに、ガラスの向こうの青空を見つめていると、知らず知らずの内に言葉が口をついて出る。それは、まるで自分の中にある何かを確認しているかのようだ。
特に放浪癖があるわけではない。が、この空の青さに惹かれるように、柔らかな風に誘われるように、あの白い雲を追いかけて、ふとどこかに行きたくなるのだ。
もちろんどこに、なんてはっきりとした目的があるわけじゃない。ただここじゃない場所…。自分の今いる場所とは違うどこかに、不意に行きたくなる。
筆で書かれたような鰯雲を見つめ、私はホッと息をついた。
---どこかに行きたい。ここじゃない、どこか…。
風船が膨らむように、身体の中で想いが膨らんでいく。窓に映る青空から視線をはずし、私はゆっくりと眼差しを彷徨わせた。まるでスローモーションフィルムのように、私の視界の中で部屋の様子が動いていく。そして、視線はやがて壁際のローボードの上の時計に行き当たった。
さして広くはない---といっても、私が今寝転んでいる窓際から、そのちょうど反対側に位置する壁までは、それなりの距離があった。いくら目は悪くないとはいえ、時計の時間を見るには十分過ぎるほどの距離だ。
焦点を合わせるように目を眇め、私は針の位置を確認した。まるで重なるように、銀色の長針と短針が微妙な角度を保っている。そうして何とか確認した時間は、午前九時五十分。夜行性生物の私が起きて動いているにしては、とてつもなく早い時間だ。だがどこかに出掛けるとなると、きっとこれ以上ベストな時間もないに違いない。
「どないしようかな…」
心の中では既に決まってしまっていることを、再度確認するように口にしてみる。当然、応えは一つ。撤回されることはない。ただ少しだけ自分を押し出すための何かが必要なのだ。
「---よし、決めたッ」
掛け声一つで、私は勢い良く身体を起こした。遠くへ…なんて望まない。取り敢えず、ここじゃないどこか。久し振りに青空の下を歩くのも良いかも知れない。
そう…。空の色に惹かれて、どこかに行くための資料でも漁りに行こう。風に呼ばれるままに、雲に誘われるままに、この部屋から飛び出そう。
そう思った途端、矢も楯もたまらず、私は寝室へと駆け込んでいた。ベッドの上に放り出されていた紺のジャケットを乱暴に羽織り、ぽんぽんと緩くポケットを叩いて財布の位置を確かめる。ついで書斎に戻ろうとして、不意に足を止めた。
---今日は、車は止めや。
どこかへ行きたい今の気分に、鉄の箱である車は相応しくない。自分の足で歩いて、肌で季節を感じよう。呼ばれる声には、きっとそれが一番相応しい。
そして弾むような足取りで、私は時間の止まっていた部屋をあとにした。−2− 平日の午前中ということもあってか、思っていた程に梅田の地下街も混んではいなかった。人混みを歩くことが苦手な私が、誰にもぶつかることなく平穏に前に進むことができる。
泳ぐようにするすると人の合間を潜り抜け、私は一路目的の場所へと向かった。目指すのは、書店の旅行雑誌売り場。これからどこかに行くための情報を仕入れるのだ。
今の私の気分に最も相応しい場所。どこよりも何よりも強く私を惹きつける場所---。きっとどこかにそんな場所があるはずだ。
まるで宝物を探すようなウキウキとした気持ちで、私は書棚の前に立った。目の前には、これでもかという程ズラリと並んだ旅行雑誌の数々。その一つ一つを辿るようにゆっくりと視線を移していた私は、ある一つの街の名前に目を留めた。それは私にとってとても身近で、そして余りに身近か過ぎて遠い街の名前だった。
不意に、その街とイコールで結ばれる友人の顔が脳裏に浮かんだ。
皮肉な笑み。若白髪の混じった前髪を煩わしそうに書き上がる指先には、彼のトレードマークとも言えるキャメル。耳に触れるバリトン。私の名を呼ぶ時の、どこの誰とも違う独特のイントネーション。
---そういえば、もうどれくらい会ってへんのやろ。
考えるより先に手が伸びる。
『京都へでかけよう』
視線に飛び込んできた表紙の言葉に、トクンと一つの鼓動が跳ねた。
互いのスケジュールが合わず、一カ月くらい顔を会わせないことも、私達にとってはそう珍しいことでもなかった。だが一カ月もの間声一つ訊かないなんてことは、大学二年の時に出会ってから今までの間に、一度として無かったように思う。
「生きてんのかいな、あいつ…」
ぽつりと言葉が漏れた途端、強烈に会いたいと思った。どこかへ行きたい、なんていう衝動よりもずっと強く、そう思った。
なのに、素直にそうと言える性格を、残念ながら私は持ち合わせていなかった。会いに行くには、口実がいる。どんなにくだらない理由でも構わない。「それがあるから、そのついでに君の顔を見にきたんや」と、そう言えるだけの口実が、意地っ張りの私には必要だった。
自分でも素直じゃないのは、嫌になるぐらい良く判っている。だが私がこんなにねじ曲がった性格に育ったのは、絶対に、間違いなく、会いたいと思うその当人のせいだ。
もちろん今さら性格を矯正しよう、なんて殊勝な気は、さらさらない。齢三十うん歳にして、何で今さら素直な性格になるだとか、ひねた性格を直すなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことをやらなきゃならないんだ。
「それにだいたい性格矯正の必要があんのは、俺やない。間違いなくあっちの方や」
思わず上げた声に、隣りのOLらしき女性が訝しげな視線を送ってきた。しまった、と思っても、もう遅い。
---火村のアホんだら。
チラチラと伺うような視線を感じながら、そもそもの原因に向かって胸の中で一つ悪態をく。そして私は、心の中でペコリと頭を下げた。
---思考と口が直結なんです。すいません。
それから罰の悪さを紛らわすように、慌てて手にした雑誌のページをパラパラと繰る。視界の中に、次から次へと現れる京都の街並み---。それはこの上もなく良く見知っているようで、そのくせどことなく目新しくてよそよそしい。
よくよく考えてみれば、京都は私にとって生活の場だったのだ。だからある一定の季節が巡り来るたびに、極端に上がる人口密度に閉口したことも一度や二度じゃなかった。
大学を卒業してからは生活の中心が大阪に移ったため、私自身はそういう境遇から遠のいて久しい。喉元過ぎれば、というわけでもない。だが時間の流れと共に、今ではそれも「そう言えば」と懐かしく思い出せる思い出の一つに変わっている。
しかしそれも京都在住の助教授にとっては、変わることのない現在進行形の出来事らしい。京都に住んで長いのだから、いい加減慣れればいいのに…とか、だったら別の場所に引っ越せばいいのに…とも思うのだが、犯罪学者にそういう気はまるでないらしい。
---あれはあれ、これはこれということなんかいな。ほんま、我が儘なんやから。
「煩い。喧しい。煩わしい」
持てる限りの悪態雑言を口にしながら、観光シーズンの京都から私の部屋に逃げ込んでくる臨床犯罪学者は、締め切りに追われ時間の間隔の無くなった私にとっては、ある意味季節の変わり目を告げる使者でもあったのだ、と思い知る。
---そういえば、紅葉も有名やったんやわ。
パラリと捲ったページの一面を飾った鮮やかな紅に、小さく息を飲んだ。
春の桜、夏の新緑、秋の紅葉、そして冬の雪景色。四季折々それぞれに美しい姿を見せる古都の街並みは、春の桜と秋の紅葉の景勝地として、とみに有名だったのだ、と改めて気付く。確かに毎年毎年春が来るたびに「花見、花見」と騒いでいるから、春の桜は私にとっても身近な出来事だ。しかし秋の紅葉は---。
学生時代からこの季節は、後期試験、運動会、学祭と、次から次へと押し寄せる慌ただしい行事の中に紛れ込んでしまっていた。あっと言う間もなく時は過ぎ去り、妙に気持ちの急かされる年末へと雪崩れ込むのが常だった。
当然のことながら、紅葉狩りなどという優雅なことをやる閑も余裕も見出すことはできなかった。いや、頭の片隅にさえなかった、と言ってもいい。旅行代金もぐーんと跳ね上がるこの古い都のベストシーズンは、私にとってはぽかりと空いたエアポケットのようなものだったのだ。
そして、それが学生時代から今に至るまで、十数年続いているわけだ。今さらだが、随分と勿体ないことをしたもんだ。
だったら、今年は京都で紅葉を楽しむのもいいかもしれない。嵯峨野、嵐山、高雄、大原、八瀬、貴船に鞍馬---。身近に紅葉の名所はごろごろ転がっている。
---保津峡のトロッコ列車なんかもいいかもしれん。
観光客に混じるのはちょっとうざったいが、有る意味それはそれで一興かもしれない。たまには違った視点から、その古く美しい街を見るのもいいんじゃなかろうか。もっとも、何かにつけやたらと文句の多い友人が、私のこの案に素直に頷いてくれるかどうかは、定かではないのだが---。
---う〜ん。何とか火村をその気にさせる、上手い手はないもんやろか…?
そんなことを考えながら、ゆっくりとページを捲っていた手が不意に止まった。視線の先には、でかでかと書かれた『二大名物市』の文字。月に一度の青空マーケット。毎月二十五日に行われる天神さんと、二十一日に開催される弘法さんの記事が目に飛び込んできた。
その内の一つ、菅原道真を祀る北野天満宮の縁日で、菅公の誕生日と命日にあたる毎月二十五日に行われる天神さんには、学生時代に私も何度か足を運んだことがあった。
何百年もの歴史を持つ京都恒例の催し物だけあって、地元の人はもちろん、関西近郊から足を運ぶ常連さんも多く、その人出の多さにうんざりすることも多々あった。だがそれを差し引いても、ちょっとした散歩がてらに大学から歩いていくことのできる距離で行われる天神さんは、空いた講義の時間を潰すには、図書館、御所での昼寝に続く恰好の場所だったのだ。
それにこの青空市は、いたく私の好奇心を満足させてくれた。何せプロの露天商から若い女性のサークルまで、この青空市の出店者の顔ぶれは実に様々で、それに見合ったように店先には骨董品や手作りの雑貨、駄菓子や日用品など、思い思いの品がずらりと並べられている。例え一日歩き回ったとしても、決して見飽きるということはなかった。
それとは逆に、東寺で毎月二十一日に行われる弘法さんの方は、恥ずかしながら今この記事で見るまで、まるで知らなかった。それは東寺が、京都駅を挟んで英都大学とは完全に正反対の方向にあるせいなのかもしれない。
だが結局四年間通った---それ以後も足繁く通ってはいるのだが---街とはいっても、良く見知っているのは生活圏内だけで、つまるところ元を正せば、この街についてはその程度の知識しかないということの現れにすぎない。だいたい京都に十数年間住み着いている我が親友殿でさえ、果たしてこの催しを知っているかどうか、非常に怪しいものがある。いや、きっと私以上に、彼は己の生活圏内以外のことは知らないに違いない。
---そやな。せっかくやから、今度行ってみるかな。
呑気にそう思いながら、ページを捲る。ふと落とした視線の先に、私はこれ以上はないってなぐらい魅惑的な言葉を見つけた。
『三日間限定の元祖ドラ焼き』
食い入るようにその記事を読み、慌てて腕時計に視線を移した。小さな四角い窓の中には、ちんまりと二十一の文字。
---なんてバッチグーなタイミングなんや。
思わず日頃の行いの良さ---もちろん私自身のだ---に感謝する。これはもう、「さぁ、弘法さんに行きなさい」という有り難い天のお告げに違いない。ついでに、火村に会いに行くいい口実も見つかった。
カステラ下げて私が缶詰めになっている東京のホテルまで陣中見舞いに遣ってくるような奴の元へ、私が三日間限定のドラ焼きを偶然手に入れて持って行ったとしても、決しておかしくはない。いや、それ以前に私が何としてもドラ焼きを食べたくて、わざわざ京都まで出掛けていくのだ。火村のとこへ顔を出すなんてのは、そのついで以外の何ものでもない。
せっかく手に入れた三日間限定の元祖ドラ焼きだ。長年の友人である火村先生にも、お裾分けしてやろうではないか。しかも、京都駅の反対側からわざわざ出向いて、だ。
ああ…、なんて有り難い友人なんだろう、私は---。こういう優しい友人を持ったことに、あのひねた火村先生といえども、おおいに感謝するに違いない。いや、感謝させてやる。
---よしッ、決めた!
心の中でガッツポーズを作り、勢い良く本を閉じる。手に持った本を書棚に戻そうとして、私はふと思い止まった。
---この本は、めっちゃ役に立つんやないか。
もちろん、何に対してか、なんてのは内緒だ。ついでに二、三冊書棚から旅行雑誌を選び取り、その本を片手に携える。にんまりとした、余り行儀の宜しくない笑みを湛え、私は嬉々とした足取りでカウンターに向かった。to be continued
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