鳴海璃生
「---で、君たちは一体何の用だ?」
ああっ、しまったぁーッ。余りの火村の暴挙にすっかり忘れ去っていたが、あの場所には私達二人以外に人がいたんだった。ああ、それなのに、それなのに…。
---火村のドアホっ。変態、変態、変態。極悪助教授。えっと、それから…。
言葉に詰まった私は、へなへなとその場に座り込んだ。ドアを背にして床に座り込み、どことなく黄ばんだような白い天井を見上げる。身体中から力が抜け去ったような脱力感に、コトンと軽く頭をドアにぶっつけた。薄いドア一枚を隔てた向こう側から、高い女の子の声と、それに相反するように低い火村の声が聞こえてくる。
どうやら彼女達は火村とのお茶を目論で、東寺まで笹屋伊織のドラ焼きを買いに行ったらしい。言葉を尽くして必死に火村をお茶に誘おうとしている姿が、ありありと脳裏に浮かぶ。それはそれでいじらしいとは思うのだが、たかだか三日間限定の元祖ドラ焼き程度では、火村助教授の魂の自由を彼女達が奪うことはできないに違いない。
暫くドアの向こうの遣り取りに耳を澄ましていたが、結果が見えている勝負に興味を無くし、私は「よっこらせ」と掛け声をかけて立ち上がった。南側の窓の前にある火村のデスクへと歩いていき、どさりと乱暴に椅子に腰を下ろす。窓越しに見える御苑の緑にぼんやりと視線を彷徨わせている内に、先刻の一連の出来事が頭の中に蘇ってきた。
---火村のドアホ。ほんまに何てこと晒すねん。
女子大生相手に魂の自由を守るより、私の体面てものを守ってほしい。よりにもよって第三者の見ている真ん前で、あんな…。
途端、額に触れた柔らかな感触までも思い出す。私はまるで血が集まったような頬の熱さを隠すように、ヘタリとデスクに突っ伏した。
---ああ…、俺の清廉潔白な経歴に汚点がついてしもうた。
火村のせいで、あの娘達の頭の中には、有栖川有栖はへんな人っていうデータがインプットされるに違いない。しかも憧れの火村助教授の株が下がること無しに、きっと私のデータだけが改悪されるのだ。こんなに真面目に人生生きてる私が、何でこういう非道な目に遭わなければならないのだ。理不尽すぎるで、全く…。
デスクに突っ伏したまま心の中でブツブツと文句を並べ立てていた私は、髪に触れる感触に思考を停止させた。
「また寝てるのかよ、有栖川先生は…」
「んなわけあるかい。それより、あの娘達はどうしたんや?」
「面倒臭ぇから、追い返した」
ぶっきらぼうな口調に、やっぱりと思いながらも私はホッと安堵の息をついた。彼女達がここに入ってくる確率はゼロ以外にありえない、と思ってはいても、さすがにあんな場面---いくら私には罪がないとはいえ、だ---を見られた後では、何となく顔を会わせ辛かったのだ。いや、できればほとぼりが冷めるまで二度と会いたくないというか---。
ホッとした途端、今度は現金にもその口調通りに冷たく追い返されたであろう二人に同情の念が湧いてくる。
「きっと君のことやから、めっちゃくちゃ冷たく追い返したんやろな。かわいそうになぁ…。彩ちゃんも佳織ちゃんも、ええ娘やったのに…」
「おい、アリス」
ぽつりと呟いた声に、心持ち低いバリトンの声が返事を返してきた。その声の響きに、私はゆっくりと頭を上げ、正面に佇む火村を見上げた。僅かに双眸を眇めた男前の顔をじっと凝視する。
「何で、お前があいつらの名前を知ってんだよ。前にも言ったがな、ガキ共をナンパするようなら、ここには二度と来させねぇぞ」
「別にナンパしたわけやあらへん」
どちらかといえば逆にナンパされたような気もするのだが、もちろん火村にはそんなこと内緒だ。
「彩ちゃん達には、弘法さんで偶然会ったんやもん」
「弘法さんて、東寺のか?」
デスクの上の灰皿を引き寄せ、火村は口にくわえたキャメルに火をつけた。
「君、弘法さん知ってたんか?」
反射的に問い返した私に、火村は呆れたように眉を上下させた。紫煙を天井に向かって吐き出し、白髪の混じった前髪を乱暴に掻き上げる。
「アリス、俺が何年ここに住んでると思ってるんだ」
「せやって君のことやから、研究に関係ないことは知らんやろう…、て思うたんやもん」
自分が知らないことを火村が知っているということが、妙に口惜しかった。しかもそれが弘法さんなんて露天市のことだから、口惜しさも倍増する。だいたいそういう遊びに属する雑学は、私の専売特許じゃないか。
「前に婆ちゃんにつきあって行ったことがあるんだ」
「なぁ〜んや、そうやったんか。せやったら、判る気がするわ」
婆ちゃんというのは、火村が学生時代から十数年居着いている下宿の大家さんのことだ。確か今年七十五歳だったような気がするが、とてもそんな年齢には見えない上品な京美人だ。もちろん篠宮時絵さんという雅な名前があるのだが、火村も私も「婆ちゃん、婆ちゃん」と本当の息子か孫のように気安く呼ばせて貰っている。女嫌いで傍若無人の火村にとっては、ただ一人頭の上がらない女性、といっても決して過言ではない。
そんな婆ちゃんのお供であれば、火村だとて---喜んでとはいかずとも---あの人で溢れた弘法さんに行ったりすることもあるのかもしれない。おとなしく婆ちゃんのお供をする火村というのも、それはそれで笑えるのだが---。
楽しい想像に口許を緩めた私に、火村が遠慮会釈なく煙草の煙を吹き付けてきた。
「何するんやッ!」
ゴホゴホとむせる私に、火村が白々とした視線を注いでくる。もしかして私が頭の中で考えていたことが判ったのだろうか? ありえないと思っていても、この先生は妙なところで勘がいいから油断できない。
ゴホンと一つ咳払いをして、私は火村から少しだけ視線を反らした。
「で、お忙しい有栖川先生は、一体なんだって弘法さんなんかに行ったんだ? しかも夜しか動かない夜行性生物が、朝っぱらから起きて---」
そりゃ嫌味かい、と思いながら、私はデスクの上の本の山の上に置いていたドラ焼きを指差した。
「どや? 笹屋伊織のドラ焼きやで。弘法さんの前後三日間の限定販売。しかも、元祖のドラ焼きなんやで」
こんな貴重な物を買ってきてやったんだ。涙の一つも流して喜んでみやがれ。
ふふん、と偉そうにふんぞり返った私に、火村は冷めた視線を注ぐ。何となく口許に嗤いが浮かんでいるように見えるのは、果たして私の気のせいだろうか。
「何で二棹もあるんだよ」
「一つは君と俺の三時のおやつで、もう一つは婆ちゃんへのお土産や」
「なるほど。それでアリスは、わざわざそれを飼いに京都まで出てきたのか?」
「そうや。三日間限定の、しかも元祖ドラ焼きやそうやから、火村先生と三時のおやつでもしようかな…、と思ったんや。せやけど先生は甘い物が嫌いらしいから、俺一人で食べるしかないわな」
先刻、火村が結城彩と一ノ瀬佳織を追い払った言葉を逆手にとる。額に大怪我させられて、そのうえ女子大生の前であんな暴挙を働かれたのだ。ここで少々の意地悪をしても、きっと罰は当たるまい。
「ほう…」
煙草をくゆらせ、火村がすっと双眸を眇めた。うっ、まずい。もしかしてまたまた墓穴を掘ってしまったんだろうか。
思わず身を固くした私を一瞥すると、火村はくるりと背を向け、スタスタと大股に左側の壁の前のキャビネットへと歩いていった。
腰ぐらいの高さのキャビネットの上には、幾つかのマグカップとコーヒーメーカー。それに砂糖とポーションミルクを入れた小さなガラスの器がおいてあった。一体なにをするつもりなんだ、と視線を凝らしていると、突然目の前に瑠璃色のマグカップが突き出された。鼻孔を擽るコーヒーの香りに一つ小さく息を飲む。
「ほら」
呆気にとられたように、私はカップと火村の顔を交互に見つめた。そんな私に焦れたのか、火村が私の両手に無理矢理マグカップを押しつけた。指先から磁器を通して、ほんのりとしたコーヒーの温かさが伝わってくる。
「何や、先生。妙に親切やんか」
いつもなら「人の研究室を喫茶店代わりにするな」と必ず言う男が、こんなことするなんて妙に不気味だ。いやそれどころか、私の言った言葉に嫌味の一つも返さないなんて---。
---もしかして病気か、センセ。
火村のことだ。当然嫌味の三つや四つは返してくるだろう、と身構えていた私は、何だか拍子抜けしたような複雑な気分を味わっていた。いやそれとも、捻くれた先生も随分と大人になったものだと、ここは親友として喜んでやるべきだろうか。
「たかだか三時のおやつのために、わざわざ人の研究の城にまでドラ焼きを持ってきたんだろ。だったらコーヒーの一つも淹れてやるのが、友情ってもんじゃねぇか」
ニヤニヤ嗤いで綴られる言葉の内容が、どうにも今ひとつ不気味いい。言葉の端々に含まれる嫌味がチクチクと肌に痛いが、火村にしては余りに控え目すぎないか?
別に私はマゾってわけでもないし、火村に苛められて喜ぶ趣味も持ち合わせてはいない。だが火村の言葉を素直にそうと受け止めることを、今までの経験が押しとどめていた。
「遠慮せずにさっさと喰えよ。有栖川先生お楽しみの三日間限定の元祖ドラ焼きなんだろうが」
---と、そう言われても、何となく「戴きます」とドラ焼きに手を伸ばす気にはなれない。だいたいあの火村が、私の嫌味を黙って見逃すなんて、そんな鷹揚な心の持ち主であるわけがないのだ。
疑わしげな視線を注ぐ私に頓着することなく、火村は短くなったキャメルを灰皿で押しつぶし、二本目のキャメルに火をつける。ついでに自分の分のコーヒーを淹れるために、再度キャビネットへと踵を返した。
「ああ、そうだ」
突然思い出したとばかりに、火村が声を上げた。踵でターンするようにくるりと振り向き、薄い唇の端を皮肉気に上げる。
「婆ちゃんへの土産は俺がちゃーんと届けてやるから、忘れずにおいて帰れよ」
「なっ…」
ガチャンと中身が零れんばかりの勢いで、私は手の中のマグカップをデスクの空いたスペースに乱暴に置いた。
---ちくしょう、やられた。
さすがに敵もさるものひっかくもの。妙に物わかりがいいと思っていたら、その手できたか。人の一番の弱点をついてくるあたり、さすがは姑息な火村助教授だ。
「いや、それは…」
もごもごと口ごもった私に、火村のニヤニヤ嗤いが現実味を帯びてくる。
「何だよ。別に問題はねぇだろ。心配しなくても、ちゃんとアリスからの土産だって伝えてやるし、わざわざ大阪から出てきて買ったもんだってのも付け加えてやるよ」
「いや、だからやな…」
何とか巧く言い繕おうと焦って口中で言葉を探す私を、火村がさも面白そうに見つめてくる。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。火村のドアホ。全部判っているくせに、いくら何でも余りに意地悪が過ぎるんじゃないか。
最初のとっかかりをふったのが自分だということをすっかり頭の中から払拭し、私は恨めしげな視線を注いだ。その先には、小憎らしい程に魅力的な火村のチェシャ猫嗤い。それは火村にとっても良く似合っているけれど、それだけにめちゃくちゃ憎たらしい。
言い返す言葉を見つけられず、私は唇をかみしめた。仕掛けたはずの罠に自ら嵌るなんて今に始まったことじゃないが、それにしても口惜しいったらない。せめて三年に一回ぐらいは、例え全てが判っていてもそれに目を瞑って、私の罠に填ってくれても良さそうなもんじゃないか。それが友情ってもんだろーが。
コーヒーカップを片手に近づいてきた火村は、ゆっくりと身を屈め私の耳元に口唇を寄せた。
「---それともこんなのは口実で、実は俺に会いたかったんだって、素直に言うか?」
火村の肩を押し、反射的に身を引く。
「アホっ。そんな訳あるかい。弘法さんに来てこれを買うたから、火村と婆ちゃんにも食べて貰おうって思うただけや。言うとくけどな、ここに来たんは、あくまでもついでやねんからな。そのへん誤解すんなや」
「そーか、そーか。だったら、俺があれをアリスからの土産だって言って婆ちゃんに運んでも、これといった問題は無いわけだ」
「あっ、いや、だからそれはやな…」
反射的に目の前の上着の裾を掴んだ私に視線を落とし、火村が喉の奥で小さく笑う。慌てて掴んだ裾を離し、手を背中の後ろに回したが、時すでに遅し。有栖川有栖、本日二つ目の墓穴は、きっと地球の反対側にあるブラジル辺りまで届いたに違いない。
「それにしても、わざわざ大阪から京都までドラ焼き買いに来るとはね。有栖川先生は、よっぽど閑を持て余していらっしゃるようだな」
煩い。余計な世話や。大阪からドラ焼き買いにきて、何が悪いっちゅうんや。はっりきっちり説明して貰おうやないか。---と、心の中で悪態をつく。もちろん余計な言葉だと自覚しているので、口にはしない。
人の言葉尻を捕まえることに関しては、天才的な才能を発揮する火村のことだ。ほんの軽い気持ちで発したひと言が、どんな墓穴を掘るか判ったものじゃない。それでもなくてもたった今、穴を二つほど掘ってしまったところなのだ。今までの経験から、いや、たった今学んだ経験のおかげで、私は寿二分に用心深くなっているのだ。早々火村の思うつぼに嵌ってたまるものか。そして口に出して言えない分、私はじっとりと火村を睨め付けた。
喉の奥で小さく嗤いながら灰皿で短くなった煙草を押しつぶし、火村は再度私の耳元に口唇を寄せた。
---こいつ。今度は何を言う気やねん。
身構えるように、私は身体を固くした。
「せっかくここまで来たんだから、今日は泊まっていくだろ」
鼓膜を震わせたバリトンに、私は火村を凝視した。一体なにを企んでいるんだ、とその心の内を図るようにじっと見つめる。だがポーカーフェイスの火村の表情からは、何も読み取ることができない。
自らを落ち着かせるように一つ大きく息を吸い込み、私は身体の強ばりをそっと解いた。僅かに表情を緩め、目の前の男前の顔に共犯者の眼差しを注ぐ。
「条件次第やな」
「条件、ね…」
私の意図を汲み取った火村が、ニヤリと笑う。
「夕飯は、アリスの好きな栗ご飯に肉じゃが。ついでに揚げ出し豆腐もつけてやる。もちろんビール、酒つき。---これでどうだ?」
「出来合いやなくて、当然火村が作るんやろうな」
「せっかくアリスが早起きして、ドラ焼きを買ってきてくれたんだ。そのお返しに全部作ってやるよ」
「君のためやない」と言いそうになって、私は慌てて言葉を飲み込んだ。墓穴は一日二本まで。これが今日からの私の新しい命題だ。これ以上墓穴を掘ったら、はっきりいって我が身が危うい。
それに、何と言ってもここまで来た私の目的は果たされたのだから、今さら余計なことを蒸し返すは愚の骨頂。人間、素直が一番や。
どうする---というように眉を上下させた火村に、私はにっこりと笑みを作った。
「朝ご飯に出汁巻き玉子と、キャベツとジャガイモのお味噌汁、それに鰺の味醂干し焼いてくれる?」
「商談成立だな」
耳元で囁かれた声に応えるように、私は火村の背に腕を回した。すぅっと大きく息を吸い込むと、懐かしいようなキャメルの香りが私を包む。視界の隅に秋の青空が映り、私は漸く一番行きたかった場所にたどり着いた。End/2002.10.26
![]() |
|
![]() |