京都へでかけよう!<3>

鳴海璃生 




−4−

 くちくなったお腹を抱え河原町の本屋を思う存分ひやかしたあと、河原町通を北へと上り、私は丸太町通に面した境町御門から京都御苑に入った。ここから反対側にある今出川御門までダラダラと御苑をそぞろ歩き、目の保養も兼ねて縦断しようと思ったのだ。
 周りの景色を見回しながら最初の内は、ほんの軽い散歩代わり---なんて気楽に思っていた。だが普段デスクに張り付いて頭脳労働に励んでいる推理作家の足腰は、私が考えているよりもずーっとずっと弱かった---らしい。日頃の運動不足が祟って、今出川御門に着く頃にはざっと二週間分くらいの運動量を消費した気になってしまったのだ。これだけ歩いたのだから、もう暫くの間は部屋の中でごろごろと怠惰な生活をしても、誰にも文句を言われる筋合いはないに違いない。
 微かに痛みを訴える足を引きずるようにして今出川門の前の信号を渡り、私は門の正面に位置する正門から母校へと足を踏み入れた。ちょうど講義の時間に当たったのか、いつもなら学生が大勢たむろしている木陰のベンチも、今は閑散としていた。時折ぽつりぽつりとベンチに座っている学生は、果たして正規の休講だろうか。それとも自主休講の類だろうか。
 ---まぁ、俺もあんまり偉そうなことは言えへんかったけどな。
 ポリポリと頬を掻き、学生時代の自分を思い起こしながら私は青空を仰いだ。御苑が思いのほか人で賑わっていたことに少々うんざりしていた私は、身体を包むシンとした空気にホッと息をついた。高く広い青空に向かって大きく深呼吸をすると、見慣れた大学の風景がとてつもなく懐かしく感じられる。
 ---そういえば、まじ久し振りやったわ。
 前にここに火村を訪ねて来た時は、まだ夏休みが始まる前だったことを思い出す。それから、ゆうに二ヶ月以上は経っているのだ。懐かしい気持ちが湧いてくるのも、当然といえば当然のことかもしれない。
 もう一つ大きく深呼吸をして、私は躊躇することなく社会学部棟を目指した。そういう風に迷うことなく社会学部棟へ足を向けるということが、まるでここに来た時の条件反射のような気がして、思わず苦笑が漏れる。
 よくよく考えてみれば、今辿っている道筋は既に四年間在籍していた法学部棟よりも、ずっと通い慣れた道になってしまっていた。特に大学を卒業してからというもの、法学部棟には一度として足を運んでいないというのに、まるで関係のない社会学部棟には極々頻繁に足を運んでいる。しかも学生だった頃より、卒業して何年も経った今の方がずっとこの場所を身近に感じてさえいる。
 果たしてそれが喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのかは、判然としない。だが在学していた頃は、卒業したあとにまで、まさかこんなに足繁くこの場所に通うことになる自分がいるとは、夢にも思っていなかったことだけは確かだ。
 僅かに色づき始めた銀杏の木が、陽の光に金色に輝いている。それを見上げ、右手に持ったドラ焼きの包みを所在なくブラブラと振りながら、私はここに頻繁に通っている原因の元へと通い慣れた道を進んで行った。目指す社会学部棟は壁面に焦げ茶色の煉瓦を張った四階建ての建物で、一階には学部の事務室やコピー室、それに狭いながらも休息のできるロビーがあり、二階はゼミ室と講師や助手のための研究室。そして三階と四階が、教授や助教授の研究室に当てられていた。
 火村の研究室もその例に漏れず、社会学部棟の四階の一番奥、南向きの陽当たりのいい場所にあった。助教授に昇進した時に与えられたその部屋は、窓から今出川通を隔てた京都御苑が一望できるという絶好のロケーションだ。だが、助教授殿にはその恩恵も余り関係がないらしい。『宝の持ち腐れ』『豚に真珠』ってのは、全くもってこういうことをいうのだ、と毎年毎年桜の季節になるたびに実感させられる。
 文学部棟を回り込み、社会学部棟の年季の入ったガラス張りのドアを潜る。正面入り口の奥の階段を上り、火村の研究室がある四階を目指した。既に京都御苑を縦断するなどという愚行をおかしたばかりの私は、できうるならこれ以上の運動は極力避けたかった。
 が、あいにく我が母校英都大学には、文明の利器たるエスカレーターやエレベーターなどという有り難い乗り物がついていない。歴史のある古い建物---などというと聞こえは良いが、いい加減くたびれた私には、それがおおいに不満に思えた。外側は古くてもいいから、中は新しくすればいいんだ。
 それでなくても、社会学部棟は烏丸今出川に近い。つまり御苑の今出川門前の正門から入ると、一番奥まった場所に位置していることになるのだ。「図書館が目の前で便利だ」などと、かの助教授殿は嘯いている。しかし箱入り推理作家たる私は、とてもじゃないがその意見に同意する気にはなれない。特に今日みたいに過剰な運動のあとだと、「一体誰がこの配置を決めたんや」と見知らぬ誰かに向かって怒鳴りたくなる。
 今日もいつもと同じ---いや、いつもより少し多めかもしれない---ように、口中でぶつぶつと文句を唱えながら、私は階段を上った。揚々の態で四階まで辿り着いた時にはすっかり息も上がり、思わずその場に座り込みそうになるくらいのていたらく振りだ。
 ---あかん。ここまで来たら、へたるのは火村の部屋でや。
 さすがに、ここで行き倒れるわけにはいかない。己を叱咤し、上がった息を宥めながら火村の研究室を目指す。明るい陽の光の下からやってきたせいか、長い廊下がいつにもまして薄暗く感じられた。
 講義中で在室している人間が少ないせいだろうか、辺りには冷えたような静けさが漂っている。おかげでコツコツという自分の靴音が周りの壁に反響して、不気味なことこのうえない。学校という空間だけが持ち得る独特の静寂。この場所に怪談話がつきものなのも、何となく判る気がした。おまけに、ここは京都。古の都だ。遥か平安の昔から、魑魅魍魎がうじゃうじゃ蔓延るお化けや鬼のメッカなのだ。お化けの一人や二人いたとしても…。
 ---あかん、あかん。真っ昼間からなに考えてるんや。
 妙な妄想を振り払うように頭を振って、私は大股に長い廊下を歩いていった。非常口のすぐ横に位置したドアの前に立ち、深呼吸を一つ。息を整えてノックもせず、ゆっくりとドアノブに手を伸ばした時、聞き慣れた、それでいてある意味最高に耳に馴染まない名前が鼓膜を震わせた。
「有栖川先生」
 どこかで聞いたことのある声の響きと、自分のことでありながらいつまで経っても馴染むことの出来ないフレーズに、緩く首を傾げる。確かつい何時間か前にも似たような気分を味わった気がして、私は眉を寄せた。
 呼び掛けに応えない私に焦れたのか、今度は少し声を上げて再度同じフレーズが浴びせかけられる。その声に引かれるように、私はゆっくりと首を回した。薄暗い廊下の先、視界の中に飛び込んできた人物の姿に、私は呆然としたまま動きを止めた。
 そこにいたのは東寺の弘法市で出会った、私の読者だと言う女子大生二人だった。会った場所が東寺だったので、きっと近くの龍谷大学の学生だろう、と勝手に思い込んでいたのだが、図らずも彼女達は私の後輩だったらしい。余りの偶然にぽかんとした表情を晒す私を気にする風もなく、二人はニコニコと微笑みながら歩み寄ってきた。
「こないな所で会うやなんて、すっごい偶然。もうびっくりしました。一体どないしはったんですか?」
 ここで再び会った偶然に驚くというよりは、楽しんでいるという感の強い声でショートボブの---。
 ---名前なんやったっけ?
 私は、慌てて記憶の引き出しを引っかき回した。いくら人の顔と名前を覚えるのが苦手な私といえども、さすがに二、三時間前に会ってサインまでしたという相手の名前を忘れていたら、余りに申し訳が立たないではないか。
 ---えーと、えー…と。そやっ、結城彩ちゃんと一ノ瀬佳織ちゃんやったわ。
 興味津々という表情で、結城彩が私の顔を下から見上げてきた。それに小さく咳払いして、私は強ばったような表情を少しだけ崩した。漸く彼女達に気を回す余裕が出てきたところで、新たな疑問が湧いて出る。
 ---そういえば、彼女達は何でここにいるんや?
 だが不意に頭の中に湧いて出た疑問は、あからさまな興味を湛えた結城彩の双眸に押し切られたように沈み込んだ。
 ---いかん、いかん。今はそれどころじゃないんやった。
 今の状況を忘れ、ついうっかりしてしまった己を叱り、結城彩の問いに応えるべく、私は再度頭の中身を切り替えた。
「えっと、学生時代の友人がここで働いているんで訪ねてきたんやけど…」
 口中で語尾が小さく消えていく。質問自体はそんなにたいした事じゃないんだが、いざ応えるとなると一体なんて応えればいいのかが良く判らなかった。頭の中で上手い言葉を探しながら、しどろもどろに応える私の言葉に、結城彩はチラリと視線を左手のドアへと走らせた。
「学生時代からのお友達って---」
 語尾を濁し、僅かに考え込むような仕種をした後、結城彩はすぐに両手をポンと打ち鳴らした。
「あっ、そういえば有栖川先生は英都のご出身なんでしたよね。…あれっ、でも、確か法学部やなかったですか」
 暗に訪ねる学部が違うんじゃないか、という意味合いを含んだ言葉に、私はグッと喉を詰まらせた。自分では何とも思っていなかったのだが、普通に考えてみれば、学部が違う者同士が大学卒業後も行き来するほど親しくなる可能性は極端に低い。結城彩が疑問を抱くのも、当然といえば当然のことかもしれない。
「あっ、そうか。もしかしてサークルのお友達やった方ですか?」
 私が応えるようり先に、結城彩が自分で導き出した応えを口にする。それが当たっていれば、ニッコリ笑って肯定すればいいだけなのだが、まるで違っているので何となく罰が悪くて否定しずらい。
 学部も違うしサークルなんてぜんぜん関係ないのに、出会ってから十数年以上ずっと一緒にいました---なんて、めちゃくちゃ言い辛いじゃないか。かといって、実はこの友人は…と、火村と出会った経緯から説明するのも憚られた。あれはあれでちょっと恥ずかしい、話す相手を選ぶ出来事なのだ。
「えっとぉ…」
「煩いぞ。なに騒いでいるんだ」
 応えあぐねた私の声を掻き消すように、低いバリトンの声が重なってきた。その声に反射的に振り向いた途端、勢い良く開いた右手のドアが容赦なく私の顔面にぶつかってきた。まるで目から火花が飛び散ったような痛みに、私はドアに激突した額を押さえてうずくまった。
「火村先生っ!」
 語尾にハートマークが三つはついたような、嬉しげな声が頭上から降り注ぐ。はっきり言って弘法さんで私と出会った時より数段嬉しそうに聞こえたのは、決して決して私の僻み根性のせいじゃない。
 痛みに唸りながら、結城彩が妙にしつこく---いや、興味津々という様子で---問い掛けてきた、その理由に思い至った。多分この二人は火村の教え子で、類に違わず火村のファンなのだろう。もしかしたら、火村先生言うところの親衛隊---本当にあったら、それはそれで怖いような気もするが---の一人なのかもしれない。
 学生時代から嫌になるぐらいこういう類の女の子は目にして来ているが、未だにもって何故こんな性格極悪の男がもてるのか、その理由がぜんぜん判らない。世の中の女は見る目がなさすぎや---と思ってみても、その数が余りに多すぎるので、そう思えば思うほど逆に虚しさが込み上げてくる。そりゃ確かに火村は男前だし、いい声してるし、頭もいいし、背も高くてスタイルも良いが、しかし、しかしである。それら全てを掛け合わせたとしても、捻曲がった性格で十分おつりがくるんやないか。
「こんな所で、なに騒いでいるんだ。静かにしろ」
 こんなことには慣れているのか、微かに苛立ちを含んだ声音にも、二人の女子大生のテンションは落ちなかった。いや、落ちるどころか、火村を目の前にして、そのテンションは上がる一方だ。さすがは怖い物知らずの女子大生。この火村に負けんとは…。拍手もんだ。
 ---それにしても…。
 心の中で、私は思いっきり顔を顰めた。私が横でズキズキと痛む頭を押さえ、立ち上がることもできずにしゃがみ込んでいるというのに、人の頭の上で火村は一体なにしてるんだ。女の子達なんて放っておいて、いい加減こっちに気づけッ。だいたい一体誰のせいや、俺がこんな痛い思いしてるんは。ちくしょう。何だか段々腹がたってきたぞ。
「おい…」
 恨み辛みを目一杯詰め込んで、地獄の底を這うような低い声で呟く。その声に、いつも通りのクールなバリトンが返事を返してきた。
「何だ、アリスじゃねぇか。何やってんだ、お前」
 しかも呆れた---、もしくはバカにした---ような色を含ませてってな調子で、だ。いくら温厚で心の広い私でも怒るぞ、これは。
「何や、やないッ! 一体誰のせいで、俺がこんな痛い思いしてるって思うてるんや。俺に大怪我させたんは、君やないかッ!」
 声を限りに怒鳴って、私は勢い良く立ち上がった。くだんのチェシャ猫嗤いでもって口許を上げた火村が、僅かに首を傾げて私の顔を覗き込んできた。
「へぇ…。大怪我って、そりゃたいへんだな。で、一体どこをだ、アリス?」
「ここやっ、ここッ! 性格だけやなく目まで悪うなったんかい、君はッ」
 前髪を乱暴に上げて、私は突き出すように額を火村へと寄せた。空いた左手でズキズキと痛む場所を指し示した。実際のところ、ぶっつけた場所がどうなっているかは判らない。だが、こんなに痛いんだ。きっと絶対たんこぶができて、しかも流血している大怪我に違いない。
 鏡でもって確認したいような、したくないような---。いや、止めよう。余りの大怪我に、きっと気の弱い私は倒れてしまう。
「何だ、ちょっと赤くなってるだけじゃないか。相変わらず大袈裟な奴だな」
「アホ言うな。そんなはずないわッ! もう信じられんぐらい、めっちゃくちゃ痛いんやからな。今はそんくらいかもしれんけど、きっと後ででかいたんこぶになるんや。いや、もしかしたら頭蓋骨にひびが入ってるかもしれへん。これで俺の優秀な頭がパァになったら、どないしてくれるんやッ!」
 前髪を上げたまま怒鳴り散らす私に、火村はやれやれと言うような仕種で肩を竦めてみせた。そして我が儘を言う子供を宥めるように、ポンポンと緩く頭を叩く。
「はいはい、判ったよ。有栖川先生の少ない脳味噌の容量が、これ以上減っちまったら大変だからな」
「な、なんやてッ…」
 抗議の声を最後まで口にすることはできなかった。何故なら余りの言い種に声を上げた私に構うことなく、火村が額に当てた私の右腕を掴み、自分の方へと引き寄せたからだ。突然のことに抗う隙もなく、私は火村のなすがままに火村の胸へと倒れ込んだ。
 と、突然、痛みに火照った額に濡れた感触を感じた。それは、嫌になるぐらい良く知っている感触で---。
 反射的に右手で額を押さえ、私はがばりと身体を引いた。同時に額の火照りが、マッハの速さで顔全体に広がっていく。
「お、おま…」
 何とか言葉を口にしようとするが、酸素不足の金魚のように口がパクパクと動くだけで音にならない。そんな私の様子を、火村はニヤニヤと笑いながら見つめていた。顔中を覆った火照りが、一気に身体中の血を沸騰させる。
「このドアホッ! 変態! 一体なにさらすんや、お前はッ」
 大声で怒鳴り、肩で息をつく私を平然と見つめ、火村はさも心外だというような表情を作った。そして、外人のような気障な仕種で肩を竦めてみせる。
 ---ええいッ、態とらしいっちゅうねん。
 その様子が妙に様になっているので、苛立ちも倍増する。
「随分な言い種じゃねぇか、アリス。だいたいお前が大怪我だって言うから、大事にならないように手当してやったんじゃねぇか」
「何が手当や。せやったら、あとで消毒液でも湿布薬でも塗ってくれたらええやろ。人の額嘗めるやなんて、お前は獣か」
「残念ながら、薬箱は完備してないもんでね」
 飄々と呟かれる言葉には、反省も恥じらいもない。こういう奴だ、と良く判っていたが、しかし---。ああ、何でこんな奴がもてるんだ。
「せやったら---」
 文句を言いかけた私の腕を引き、火村は僅かに身体をずらしすようにして私を研究室の中へと放り込んだ。よろけるようにして部屋の中へと転がり込んだ私は、体勢を立て直し火村の背中に向かって視線を上げた。
「話はあとで聞くから、中で待ってろ」
 有無を言わさぬ声でそう言って、火村は研究室のドアを閉めた。慌てて両手でノブを掴み、ガチャガチャと大きな音をたてて必死にそれを回す。だが火村が向こうで押さえているのか、手の中でノブが空回りするだけで、ドア自体はピクリとも動かなかった。
 ---くそッ!
 心の中で悪態をつき、縋るようにドアに耳をつけると、ドアの向こうから低い火村の声が微かに聞こえてきた。


to be continued




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