代筆調書 <前編>

鳴海璃生 




「おい、アリス」
 煙草をくゆらせながら、京都の下宿から抱えてきた手紙の封を切っていた火村が、不意に私の名を呼んだ。
「何や?」
 テーブルの上の缶ビールへと手を伸ばし、開いた雑誌から目を離さずに、私は気のない返事を返した。今の私は、火村の話などマジに聞いてやる気はない。いや、もしあったとしても、私の頭蓋骨の中身が、残念なことにそれを拒否している。
 そう…、現在、私こと専業推理作家の有栖川有栖は、人生最高の幸福を噛み締めている真っ最中なのだ。いくら大学からの友人とはいえ、火村に構ってやる気などこれっぽっちもない。
 先日以来続いていた地獄の締め切りも漸くクリアーして、ついでに餓死寸前だった私のお腹も、火村助教授の手作りの夕食のおかげで、すっかりくちくなっている。そのうえソファの上に身体を伸ばし、ごろごろと怠惰の限りを貪るこの幸福---。この幸福を火村ごときの相手をして、手放すことなどできようはずもない。
 視線は、取り敢えず雑誌の字面を辿ってはいる。が、頭の中には何も入ってこない。心地よい疲労感とお腹が一杯の気怠い満足感。今の私は、まさに幸せを絵に描いたような状態だった。空気を振るわせ、微かに耳に響く空調の音さえ、恰好の子守歌に聞こえる。
 まるで日溜まりの猫のように、幸せ100%の私へとテーブル越しに冷ややかな視線を走らせ、火村は若白髪の混じったぼさぼさの神を掻き上げた。
「お前、俺に色々と借りるよな」
「借り…?」
 良く通るバリトンの声で語られた聞き慣れぬ言葉に、私は僅かに眉を寄せた。突然そういうことを言われても、これといって思い当たることは---まぁ、すぐに思いつくだけでも2、3個はあるが。
 が、当然のことながら、それを素直に認める気はない。確かに、火村に対して色々と借りがあるのかもしれない。だが、私にだって奴に対して、色々と貸しがあるのだ。
「そうだ。その一つぐらい返してやろうって気は…、当然あるよな」
 新しいキャメルを口にくわえ、火村は器用ににやりと唇の端を上げた。火村の意図がまるで読めない私は、彼の口をついて出る言葉に対してのみ返事を返す。ここで余計なひと言でも発しようものなら、揚げ足を取られまくって、禄でもない結果を目の前に突きつけられてしまうから要注意だ。
「なに言うてんのや。それやったら、君かて俺に借りがあるやろ。それでちょうど五分五分や」
 ぱらりと本のページを繰る。紙の擦れる乾いた音が、リビングに響いた。火村が態とらしいほどに驚いた様子で、片眉を上げた。
「俺がお前に借り? ちーっとも思い出せねぇな。もしあるってんなら、ぜひ先生に教えて貰いたいもんだな」
「おうさ。記憶力の無いセンセのために、俺がきっちり説明してやる」
 開いた雑誌を放り投げ、身体を起こした私は、ソファの上で胡座をかいた。
「ええか---」
 子供に説教する親父のように勢い込んだところで、私の言葉は不意に止まってしまった。私の記憶の中では、確かに色々と火村に貸しがあるような気がしていた。だが、いざデータを掘り起こしてみると、中身は全て真っ白け。何一つ、確かな記憶として拾い上げることはできなかった。
 ---ゲッ。俺、もしかして借りは山ほどあっても、貸しは一個もないんか…?
 そんなはずはない、と必死に記憶の底の底まで漁ってみても、悲しいかな出てくるのは、火村に借りたあれやこれやの面倒ばかり。せっかく忘れ去っていたいその一つ一つを鮮明に思い出し、たらーりと、冷や汗が背中を流れ落ちた。
 私が火村に対して貸しと思って記憶の底から掘り出したものには、逐一おまけがついていた。つまり、何時の間かにか貸しが借りへと変わってしまっていたのだ。ああ、何てこったい。有栖川有栖、一生の不覚。
 目の前で、火村がニヤニヤと笑っている。
 ---まずい、読まれてるやんか。
 私の頭の中を駆けめぐっている映像を、火村は完全に読んでいるに違いない。これではまさに火村の思うつぼ。何とか、火村を納得させるだけのものを見つけ出さなければいけない。
 が、そう思ってみても、私の乏しいデータバンクの中からは、悲しいぐらいに何にも浮かんではこなかった。言葉に詰まったままの私を見つめる火村の双眸が、腹がたつぐらいに楽しそうに笑っている。
「---さて」
 私の様子に満足したように紫煙を宙へと吐き出し、火村は短くなった煙草を灰皿の上で揉み消した。
「アリスにもよーく納得して貰えたみたいだし、早速---そうだな、今日の分でも返して貰おうか」
 ゲゲゲゲゲッ! そうきたか。こいつ、手短なとこから攻めてきやがった。
 火村いうところの今日の分に関しては、はっきりいって反論できない。締め切りが終わって、欠食児童状態だった私は、上げたばかりの原稿をファックスで珀友社に送りながら、携帯で火村に飯作りに来い、と電話したのだから---。

◇◇◇


「火村ぁ、腹空いた。ごはん、ごはん作って」
 開口一番、受話器に向かって大声で叫んだ私の耳に、あからさまな舌打ちの音が聞こえてきた。
『てめぇ、何ふざけてやがるッ。自分の腹ぐらい、自分で何とかしろッ。俺は、お前の飯炊きに行くほど閑じゃねぇんだ』
 一気にそれだけまくし立てると、すぐに電話を切ろうとする雰囲気が受話器を通してダイレクトに伝わってきた。冗談じゃない。ここで火村に見捨てられたら、私の行く先は棺桶の中だ。意地でも電話を切らせてなるものか。
「火村、俺が餓死してもええんか?」
『すぐ近くにコンビニだの喫茶店だの、色々あるだろうが。そこで好きなもんでも買ってくるか、喰ってくるかすりゃぁいいだろ』
「いややーッ! コンビニの弁当は、もう食べとうない。温かいご飯が食べたい。火村のご飯がいい。揚げ出し豆腐にカレイのフライに出汁巻き卵に海老フライに麻婆茄子に海老シュウマイ。それにカレーに餃子に和風ハンバーグに…」
『アリス---』
 次から次へと、思いつくままに食べ物の名を並べ立てる。そんな私の言葉を、脱力したような火村の溜め息が止めた。
『せめて、中華にするとか和食にするとか、統一性をもたせろ』
「そんなら和食や、和食」
 受話器の向こうから、再び火村の溜め息が聞こえてきた。
 ---もう一息というとこやな。頑張れ、アリス。温かいご飯は、もう目の前や。
 私は、駄目押しにも似た言葉を口にした。
「火村。なぁ、ええやろ」
 100匹ほど猫を被った猫なで声--- 三十路過ぎた男の猫なで声というのも不気味だが、んなことに構ってられない。何せご飯が掛かっているのだから、何だってやってやる---で、ついでにベッドの中でもこんな声は出さんぞ、というくらいの甘ったるさを込めてやった。その甲斐があったのか、火村は苦々しげに再度舌打ちした。
『チッ、仕様がねぇな。今から行くから、そっちに着くのは八時過ぎだぞ』
 受話器の向こうの声の機嫌は、余り良くない。だが、その声音に微かな苦笑が混じっていることを、私は聞き逃さなかった。
「かまへん。楽しみに待ってるから。でも早う来んと、俺、餓死してるかもしれへんで。俺の死体の第一発見者は、君、イヤやろ」
『バカ、なに言ってるんだよ。その時は、俺がきっちりてめぇの死因を警察に説明してやるよ』
 憎まれ口をたたき、火村は電話を切った。ツーツーと耳元に響く電子音に、私は小さく笑った。結局、何だかんだと文句を言いながらも、火村が最後には私の我が儘を許してくれることを、経験から私は学んでいるのだ。

◇◇◇


 ---そうやったわ。
 今現在、こうして気怠い幸福感の中で怠惰の限りをつくしていられる要因を思い出し、私はとっても非常に罰が悪い。「だから何や」と開き直ってしまうには、食事を終えてからの時間の経過が短すぎる。
 ぼりぼりと指で頬を掻き、私は詰めていた息を天井に向かって吐き出した。
「判った。借りでも何でも返したる」
「男に二言はないな」
「あらへんッ」
「間違いないな」
「しつこいッ!」
 私の言葉を煩いぐらいに確認した後、火村はぽんと手の内にあった封筒を私の方に投げてよこした。ありきたりのA4サイズの事務用封筒に、私は首を傾げた。なぜなら、その封筒の下部三分の一ぐらいのところには、良く見知った出版社の名前が印刷されていたのだ。
「これがどうかしたんか?」
 訳が判らず、私はテーブルの上の封筒を手に取った。中を覗いてみると、数枚の書類が入っている。
「見てもいいんか?」
 返事の代わりに、火村は気障な仕種で掌を返した。私は中の書類を遠慮がちに取り出した。ワープロ打ちされた挨拶文の最初の一枚に、さらりと目を通す。
「---何やねん、これは」
 それは『名探偵の自筆調書』というタイトルの原稿依頼だった。
「名探偵って君のことなんか?」
 私の呆れたような視線を外し、火村は紫煙を吐く。
「ふ〜ん。君も妙なとこで有名になったもんやな」
 からかうような私の言葉に、火村はテーブルの上の缶ビールを一気に飲み干し、手の中で空になったアルミ缶を握りつぶした。そうして苦虫を噛みつぶしたように、片頬をゆがめる。
「ちょっとした義理でやることになっちまったんだ」
「ほぉ…」
 犯罪学についての論文ならいざ知らず、こんな小説もどきを火村が書くと思うと、思わず口許がニンマリと緩んでしまう。ことあるごとに、私の小説をファンタジーだの馬鹿馬鹿しいだのと言ってくれる助教授に対して、これはまたとない仕返しのチャンスだ。
「まっ、頑張ってくれ。本が出たら、俺にも連絡してくれや。何せ友人の作家デビューなんやからな、盛大に祝ったるわ」
 私は手に持った書類を封筒に戻し、再度ソファに横になろうとした。
「いつ俺がやると言った」
 私の分の缶ビールに手を伸ばし、火村は顎でテーブルの上の封筒を指し示す。
「へっ…? やって、君のとこに来た依頼やろ。それに、義理でやることになった、って言うたやないか」
「俺が…とは、ひとっ言も言ってないぜ」
「君がやらんかったら、誰が---」
 私の缶ビールを美味そうに呑みながら、火村は意味深な笑みを口許に浮かべた。いやーな予感が身の内を駆け巡る。ごくり、と唾を飲み込み、私は指で自分の鼻先を指し示した。
「--- 俺、がやるんか」
 恐る恐るの私の問いに、火村は当然のようにゆっくりと頷いた。
「じょ、冗談やないぞーッ」
 テーブルを両手で力任せに叩き、私は火村の方へと身を乗り出した。つい数時間前に原稿を終えたというのに、このうえ何で他人様の分までやらにゃあいかんのじゃ。
 正面から睨みつける私にも、火村は一向に動じない。当たり前のような平然とした表情で、しかもニヤニヤと楽しそうな、質の良くない嗤いを口許に浮かべている。
「ア、リ、ス」
 歌うように私の名を呼ぶ。
「何やッ」
「借りでも何でも返すって言ったよな」
 鼻歌混じりのような口調に、私は返す言葉に詰まる。
「男に二言はないって言ったよな」
 --- 言った。確かに言った。いくら私だって、ほんの1、2分前に言った言葉ぐらい、よーく覚えている。
「---で?」
「で?」
「アリスは、どうすればいいんだ?」
「うっ…」
 私の気持ちとしては、世界中に響くくらいのでかい声で、「絶対やるもんかッ」と叫びたい。が、今のこの状況で、その言葉を口にできないことも、嫌になるくらい良く判っていた。上目遣いに火村を睨め付け、私は小さく頭を振った。
「判った。やる…。やらせて頂きます」
「さすがアリスだな。俺はいい友達を持ったもんだ」
 けっ、勝手に言ってろ。
「だが、火村---」
 私は私なりに抵抗を試みる。一度口にした以上、やるのは構わない。しかし---。
「俺が何書いても、文句言うなよ。お前の気に入らなくて、書き直せなんて言うても、俺は絶対に書き直さへんぞ。それが嫌なら、君、自分で書くんやで」
 これは物書きのプライドみたいなもんだ。自分の責任において文章は書く。例え相手が火村といえども、絶対に他人の言うとおりの文章なんか書きはしない。
 火村はにやりと笑った。私の言葉に怒っている風ではなく、何となく楽しそうに見える。
「構わねぇよ。俺はお前と違って、書かれて困るようなことは何にもねぇからな」
 どういうこっちゃ。私にだって、書かれて困ることなんか一つもないわい。---口は悪いが、奥にある意味は、私にだって判る。私が火村を信じているように、火村も私を信じてくれているのだ。火村が知られたくないことを、私が敢えて世間に知らしめる真似などするわけがない、と。
「まっ、楽しみにしてるんやな」
 私は、火村の手の内にある私の缶ビールを取り返して、一気に煽った。


to be continued




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