代筆調書 <後編>

鳴海璃生 




 リビングにドアホーンの音が鳴り響いた。私は、膝の上に置いていた原稿をソファの上に置き、慌てて玄関へと向かった。チェーンと鍵をはずし、ドアを開ける。そこには、見知った犯罪学者の顔があった。
「出来上がったそうだな」
 目の前に立つ犯罪学者は家主である私の許しも請わずに、勝手知ったるとばかりに中へと入ってきた。私は少しだけ身体をずらして、図々しい客を奥へと招き入れた。
「そうや。きっと君も気に入るで」
 リビングのソファに腰を下ろし、早速キャメルを取り出した助教授に、私は灰皿と一緒に出来上がったばかりの原稿を渡した。片手でそれを受け取った火村は、煙草に火をつけ、だらしなく締めているネクタイをさらに緩めながら、原稿に視線を落とした。
 私は火村先生のじゃまにならないように、キッチンへと移動する。それほど長いものじゃないから、アイスコーヒーをグラスに注いでいる間に読み終えてしまうだろう。あれを読んだ後の火村の反応が楽しみで、私は急いでグラスに氷とコンビニで買ってきた出来合いのアイスコーヒーを放り込み、どぼどぼとグラスの縁近くまで牛乳を注いだ。
 両手にグラスを持ち、リビングへと戻る。当たり前だが、ストローやコースターなんてご大層なものはない。僅かに腰を折り、火村の前と私の前にグラスを置いた。ガラスのテーブルとグラスが触れ合い、硬質な音を部屋中に響かせた。
「アリス---」
 私が代筆した原稿を読み終えた火村が、ぽんとそれをテーブルの上に放り投げた。仏頂面をしている火村の言いたいことが、私には手に取るように良く判った。まさかこういう内容を書かれるとは、火村自身夢にも思っていなかったのだろう。うまく裏をかいてやった満足感に、私は一人ほくそ笑んだ。
「火村。書いたもんに文句つけるな、って言うたよな、俺」
 ここぞとばかりに先手を打った私に、火村が露骨に眉を寄せた。不機嫌さがにじみ出た表情に気づかぬ振りで、私は言葉を続けた。
「ほれ、そこ…」
 私は原稿の最後のページを1番上に持ってきて、『氏名』と書かれた空欄を指さした。
「そこんとこにサイン書けや。じゃないと、送れんやろ。ペン持ってへんのやったら、俺が貸してやるで」
「いらねぇよ」
 ソファの背に掛けたジャケットのポケットから万年筆を取り出し、渋々というように火村は所定の位置にサインをする。
 --- ざまぁみろ。俺に余計な仕事を押しつけるからや。
 ブルーグレイのインクで綴られる名前を見つめ、私は己の勝利を確信した。駄目だと思っても、思わず知らずの内に、満足げな笑みが口許を緩めてしまう。
「これでいいのか」
 ひと纏めにした原稿の束を受け取り、私は火村のサインを確認した。
「よし、OKや。んじゃ、送るからな」
 テーブルの上で原稿を揃え、私は依頼書の入っていた封筒も一緒に持って立ち上がった。ファックスの置いてあるローチェストへと歩み寄り、再度原稿漏れがないかどうかを確認した。枚数を数え、原稿をファックスにセットする。片手の封筒でファックスナンバーを確かめながら、慎重に相手のナンバーを押していく。小さなスクリーンに表示されたナンバーをもう一度確認して、スタートボタンを押した。数度のコール音ののち、原稿はゆっくりと動き出した。
「ほんまは別のこと書こうと思ってたんやで、俺」
 ファックスの流れていく独特の音を聞きながら、火村に背を向けたままで私は言葉を続けた。火村からの返事はないが、彼が私の言葉をちゃんと聞いていることは判っていた。
「火村センセの人となりの紹介は、色々あるもんな。けど、火村センセの名誉のためにも、下手なことは書けへんやろ。特に変態性欲の権威やなんて、とても書けんもんなぁ。君、大学クビになっても困るし…。で、ながーい付き合いの俺としては、色々考えたわけや。そして1番当たり障りのない、猫の飼い方に一家言を持つ火村センセのことを書くことにしたんや。---さて、これでええな」
 ファックスを送り終えたことを示すピーっという電子音を聞いて、私は吐き出された原稿用紙を手に取った。バラバラになったそれを再度揃え、封筒に入れる。
「これを読んだ君の生徒達が、キャー火村先生かわいい…とか何とか言うて、君の人気は上がる一方やろな。ほんま、羨ましいことや。---ほい、火村。原稿」
 振り向き、原稿の入った封筒を火村に渡そうと、私は火村の肩越しに手を伸ばした。その私の腕を捕らえ、火村が強い力で自分の方に引いた。
「ゲッ」
 火村からの攻撃に無防備だった私の身体は、難なくソファの背を乗り越え、気づいた時には火村の顔が私の視線の真上にあった。---要するに、これはもしかして、一般的にいう押し倒されてる…ってな状態なんだろうか。
「火村。何するんや、お前」
 睨みつける私の眼差しの先に、悪戯を仕掛ける子供のような楽しげな火村の容貌があった。
「もしまたこういう依頼があった時のために、協力してやろうっていうんだよ」
「協力…? 何の協力や、何のッ。離せ、変態!」
「だから、その変態性欲ってやつのさ。今ここで俺が実践しといてやれば、お前がいざ書こうって時にスラスラ書けるだろうが」
「なっ---」
 私は絶句してしまった。その間にも、火村の手は私のシャツのボタンを、楽しげに一つひとつ外していく。膚に触れるひやり、と冷たい掌の感触に、私は身を捩った。
「アホ! そんなもん、実践して貰わんでもええッ。真っ昼間から、やめいッ!」
「何だ、夜ならいいのか」
 クックッと、火村が喉の奥で笑う。
「誰がそんなこと言うとる、誰がッ。昼だろうが、夜だろうが、変態性欲の実践なんぞして貰わんでもええわッ!」
 私は火村を押しのけ、起きあがろうとした。が、体力および腕力の差は如何ともしがたく、押さえつけられたまま、私の躯はぴくりとも動かない。もちろん火村とそういう経験がないわけじゃない。が、冗談じゃないッ! こんなとこでやられてたまるもんか。
「離せッ、火む…っつ‥」
 火村の唇が私の項に触れる。まずいッ。はっきり言って、非常にまずいッ。
「変態性欲の実践が嫌なら、借りを返して貰った礼をしてやるよ」
「んなもんもして貰わんでも、ええッ!」
 精一杯の大声で怒鳴りつけた私の声は、下りてきた火村の口付けに消された。

◇◇◇

 翌日、当然の結果として、私はベッドから起きあがれなかった。ベッドサイドの椅子に座り、コーヒー片手に分厚い専門書を読んでいる火村を見つめ、私は堅く心に誓った。例えチョモランマよりも高く火村への借りが積もり積もっても、もう二度と、絶対に、何があっても返すものか。


End/2000.06.24




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