代筆調書 <おまけ>

鳴海璃生 




 机の上に無造作に置いてあったゲラ刷りの原稿を見つめ、僕は小さく声を上げた。そこに書いてある著者の名前に、少なからず覚えがあったからだ。そして、その人がこんな小説もどきの作品を書くはずが無い、ということも、僕には良く判っていた。
 興味を引かれ、バラバラに置かれていた原稿を手に取る。順番通りに並べ変え、僕は綴られた文字に視線を落とした。『名探偵の自筆調書』と銘打たれた僅か1000文字程度の短い文章をゆっくりと読み進めていく内に、僕は思わず笑みを零した。名探偵と一匹の猫との微笑ましいエピソードが書かれたそれは、名探偵その人自身ではなく、彼の友人であり助手でもある推理作家によって書かれたものだということが、僕にはすぐに判った。
 どういう経緯でこの原稿の依頼が火村先生に回っていったのかまでは、僕には推察できない。だが、この依頼を受け取った時の火村先生の迷惑そうな表情や、有栖川さんにこの原稿を代筆させた時の火村先生の様子。ぶつぶつと文句を言いながらも、楽しそうに原稿を書いている有栖川さんの姿までもが、まるで映画のスクリーンを見ているように簡単に僕には想像できる。
 そして、出来上がったこの原稿を渡された時の火村先生の顔。
 きっと苦虫を噛みつぶしたような表情で、でもどこか照れたような、困ったような笑いを口許に貼り付けていたに違いない。だって、この文章は、有栖川さんじゃなければ書けない文章だ。優しくて温かくて、そして誰よりもこの名探偵のことを大切に思っているのが、伝わってくる。
「他の奴からの依頼でこんなの書くなんて、ずるいですよ」
 数多くの編集者の中でも、多分あの二人とは1番近い位置にいると自負していた僕の手によってではなく、僕以外の第三者の手によってこの作品が多くの人の目に触れると思うと、ちょっと口惜しい。
 原稿を机の上に置き、僕はちらりと壁の時計に視線を走らせた。味も素っ気もない、まるで学校にでもあるような銀色の丸い時計は、午前11時を少し回ったところだった。本や書類に埋まった電話機に手を伸ばし、僕はそらで覚えてしまった電話番号を押した。
『はい、有栖川です』
 数度のコール音のあと、まだ眠たそうな低いバリトンの声が返事を返してきた。最初は戸惑ったこの声にも、今ではすっかり慣れっこになってしまった。
「おはようございます、火村先生」
 一瞬の沈黙の後、小さく息をつく音が耳朶に触れた。僕が名前を名乗らなかったから、きっと電話の相手が誰なのかを考えていたのだろう。
『ご無沙汰してます、片桐さん。有栖川ですか? 今起こしてきますので』
「あっ、いえ。名探偵の自筆調書のゲラを読ませて頂いたので」
 慌てて継いだ言葉に、受話器の向こうから大きな溜め息が聞こえてきた。もしかしたら、このことは話題にしたくなかったのだろうか。それとも、なるべく人には知られたくなかったとか。でも、それは無理ってものだ。だって---。
『そうでしたね。片桐さんと同じ出版社からの依頼でしたっけ』
 どこかうんざりしたような声音に、僕は喉の奥で小さく笑った。常にポーカーフェイスで、有栖川さん以外に対しては感情の欠片も見せることのないこの犯罪学者にしては、随分と珍しい態度だと思う。それだけ近しい間柄として認識して貰えたのなら嬉しいが、もしかしたら寝起きで、まだ頭が上手く働いてないせいかもしれない。
「火村先生がこのような依頼をお受けになるとは思いませんでしたから、びっくりしました。でも、お書きになったのは有栖川さんでしょう」
『---お判りになりましたか?』
 苦笑と共に語られた言葉に、僕はゆっくりと頷いた。
「もちろんです。火村先生のことを良く知っている有栖川さんじゃなければ書けないような、いい文章でし
たよね」
『そうですか? 随分な誉め言葉のようにも聞こえますが、有栖川にもそう伝えておきますよ』
 勢い込むようにそう言った僕に、火村先生は少しだけ嬉しそうな声音で返事を返してきた。言葉の端々に、受話器から伝わる雰囲気に、二人の付き合いの長さが伺われる。
「もちろん、お世辞じゃありませんよ。今度はぜひ、僕の方からの依頼にも良いお返事を下さいね」
 言葉を濁す火村先生に簡単な挨拶をして、僕は電話を切った。視線を移した窓の外には、抜けるような青い空。大阪へと続いているその青空の下で、名探偵とその助手は、これからいつも通りののんびりとした一日を始めるのだろう。


End/2000.06.24




NovelsContents