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鳴海璃生
【12月19日(Tue)】
それこそ隣り近所から苦情がくるんじゃないかと思われるぐらいに何度ドアフォンを鳴らしても、一向に中の住人がドアを開けてくれる気配はない。地下の駐車場に車を滑り込ませる時に、また見慣れたマンションが近づくにつれて、視線は自然とこれから向かう部屋の窓の明かりを確認したのだから、主が中にいることは間違いない。
いや、もしかしたら部屋の電気をつけたままで、日課と化しているコンビニ詣でにでも出掛けているのかもしれない。だが自分が訪問する時間は事前に大学から連絡を入れてあるのだから、余程の切羽詰まった状況---例えば空腹に耐えかねて、とか---に陥らない限り、わざわざ寒い中をあのアリスが出ていくとも考えられない。
しかもあの遅筆の推理作家は、現在ただ今鋭意締め切り破り続行中の身分なのだ。「腹が空いては戦ができん」とか「このまま俺が餓死してもええの」とか、あの手この手の泣き落としで、師---坊さん---よりも忙しい大学助教授を呼びだして家政婦代わりにこき使う気でいるのだ。
---それでへらへらコンビニになんて行ってやがったら、ただじゃおかねぇ。
せめて出迎えぐらいさせなければ気が済まないとばかりに、しつこくしつこくドアフォンを押し続けていたせいで、いい加減身体も冷えてきた。幾ら昼間は天気が良くて「11月上旬並の暖かさだ」と、テレビやラジオのお天気お姉さんやお天気お兄さんが熱弁を奮ったとしても、間違いなく季節は先生も走る12月。太陽があっさりと西のビルの彼方に姿を隠して宵闇が街を支配すれば、ドアの外でじっと立っているのはとっても辛い。
「チッ、しょーがねえな」
冷えた空気に白く溶けていく溜め息を一つ零して、火村はポケットから合い鍵を取り出した。わざわざ食材を買い込んで京都から遣ってきてやった人間に---しかも呼び出したのは、まるで出てくる気配のないアリス本人だ---対して随分な仕打ちじゃないか。これはもう、でかい貸しだと心の中で取り立て方のあれやこれやを考えながら、火村は重い鉄の扉を引き開けた。
煌々と灯る明かりとほわんと軽くなった空気に、火村はほっと詰めていた息を吐き出した。自分では早々気にもとめていなかったが、どうやら自分で思っていた以上に身体が冷え切っていたらしい。暖かい空気に、身体中の筋肉がゆっくりと弛緩していく気がする。
後ろ手にドアを閉め、片手にでかいスーパーの袋を抱えて、火村は短い廊下を一直線にリビングへと向かった。途中、ちらりと左手奥の寝室を覗き込む。細く開いたドアの隙間から垣間見えた暗い室内には、当たり前だがアリスが惰眠を貪っている気配はない。どうやら、真面目に---かどうかは判らないが---書斎で仕事をしているらしい。腐ってもプロ。一応自分が締め切り破りをして、馴染みのお人好し編集者の胃を痛めさせているとの自覚はあるらしい。
---まっ、栄養のつくもんでも喰わせてやるか。
アリスの好きなメニューで精の付きそうなものをいくつかピックアップしながら、火村はリビングのドアを開けた。---ところで、そのまま石のように固まってしまった。
睡眠不足と戦いながら必死の形相でワープロを叩いている(はず)の推理作家が、何故かリビングのテーブルの前にぺたりと座り込んでいる。何やらせこせこと書き物をしているのは遠目にも判るが、のんびりのほほんとした様子からは、それが自分を呼びつけた原因の原稿であるとは、どう好意的にみても信じがたい。
一心不乱にペンを走らせるアリスは、火村の来訪にも気づいていないようだ。いや、もしかしたら気づいているくせに敢えて無視を決め込んでいるのかもしれない。だいたいあれだけドアフォンを鳴らしたのに、気づかないなんてことあるはずがない。「目は閉じられても、耳は閉じられへん」と言ったのは、他ならぬアリス自身だ。
大股にリビングを横切りアリスの方へと向かった火村の足下に、テーブルの上からひらりと1枚の紙片が舞い落ちてきた。足を止め視線を落としたそれは、この季節の風物詩。12月になると、多分どこの家庭にでも1枚や2枚は見掛けることのできるものだった。
「おい、アリス」
座り込んだアリスの傍らに仁王立ちした火村は、手にしていた紙片でペシリとアリスの頭を叩いた。薄っぺらい紙なので余りダメージは与えられないが、アリスの気を惹くには十分な衝撃を与えることができる。案の定、僅かにむっとした表情のアリスが、火村へと視線を上げた。
「何すんねん。じゃませんでくれ」
「何がじゃまだ。てめぇ、締め切りが間に合わないとか何とか言って人をおさんどんに呼びつけやがったくせして、何でこんなもん書いているんだよ」
手にしていた紙片を、火村はテーブルの上に放り投げた。
「何でって---。この時期に年賀ハガキ書くのは当たり前やろ」
テーブルの上へと舞い降りてきた年賀ハガキを表裏と順にひっくり返して内容を確かめ、アリスは傍らの紙の山へとそれを積み重ねた。
「何が当たり前だ。てめぇ、締め切りはどうした? こんなことやってる閑なんかねぇだろうがッ」
「締め切りはぎりぎりクリスマスまで延ばせるけど、年賀はがきの投函は20日までやもん」
そう言いながらアリスは、火村によって中断された年賀ハガキ書きを再開する。
「それは一応の目安だろうが---。いつもは大晦日までダラダラと書いてやがるくせしやがって、今年に限って偉そうなこと言ってんじゃねぇよ」
手にしていたスーパーの袋を足下に置き、火村はテーブルの横に片膝をついた。まだ宛名書きのされていないハガキへと伸ばされたアリスの手をぴしりと叩き、ハガキの束をアリスの手の届かない所に奪い取る。
「あっ、何すんねん」
「煩せぇ! そんなことやってる閑があったら、とっとと原稿やれ」
ついでにアリスの右手にあるペンも取り上げ、後ろに放り投げる。宙を飛んだペンはフローリングの床に落ち、コロコロとリビングのドアの方へと転がっていった。ペンを拾うため慌てて立ち上がったアリスを抱きかかえるように押さえ込み、火村はずるずるとアリスを引っ張って書斎へ向かった。
「離せ、アホ!」
「アホはてめぇだ。年賀ハガキ書きなんて、原稿終えてからやれ」
「あかんねんもん。それじゃ間にあわへんもん」
「そんなわけあるか」
じたばたと暴れるアリスを片手で押さえ、火村は書斎のドアを開けた。必死に足を突っ張って、アリスが抵抗を繰り返す。
「あるんや。21世紀スペシャルの消印は、20日までに投函したやつにしか押して貰えへんのや」
書斎の中に連れ込まれないようにと必死でドアノブに縋り付きながら、アリスが大声で怒鳴る。その言葉に、火村は僅かに力を緩め、足を止めた。
「---何だって?」
「やから、ニュースで言うとったんや。20日までに出した年賀ハガキには、21世紀元旦用の消印が押されるって。どうせやったら、それ押してほしいやんか」
書斎の入り口に立ち止まり、神妙な表情でアリスの言い分を聞いていた火村が、ハァ〜と大きな溜め息を零した。ミーハーというかイベント好きというか、余計な情報だけは確実に仕入れるアリスに、思わず頭痛を覚えそうになる。
「つきあってられるか、バカ」
ぼそりと低く呟いた火村はぐいとアリスを力任せに引っ張り、書斎の中へと押し込んで乱暴にドアを閉めた。油断をしていたためあっさりと書斎に監禁されたアリスは、どんどんとドアを力任せに叩き、ぐいぐいとドアを押し開けようとした。だが火村が反対側からドアを押さえているのか、ブラウンの木のドアはぴくりとも動かない。
「開けろ、アホ」
「年賀ハガキを書きたかったら、とっとと原稿を終わらせろ」
暫くの間、ドアの向こう側とこちら側での攻防が続いた。だが幾ら力任せに押しても、頑健なドアはぴくりとも動かない。いい加減疲れてきたアリスは、へたりとドアにもたれて座り込んだ。
こういう場面において火村が絶対に引かないことは、経験から嫌というほどに良く判っていた。おまけに「忙しい」と電話の向こうで文句をたれていた火村をむりやり呼びつけた手前、これ以上我を通すのも気が引ける。---というか、ここで臍を曲げられて火村に帰られたら、餓死への道を一直線だ。それだけは何としても避けたい。
---でも、ハガキも書きたいし…。
「う〜ん」と唸っていたアリスは、ポンと胸の前で手を打った。
「火村、やったらこういうんはどうや?」
ドアに頬をすり寄せて、ドアの向こうにいるだろう火村に声を掛けた。
「俺は原稿をやるから、君が年賀ハガキの宛名書きをするんや。これなら20日までに投函できるし、なかなかの---」
ドンという大きな音と共に、頬をくっつけていたドアがピリピリとした振動を伝えてくる。慌てて身を引いたアリスは、じっとドアの外の気配を探った。シンとした静寂に満ちた部屋の中に、コチコチと時計の音だけが響く。身動ぎもせず、ドアから少し離れた場所で向こう側の気配を探っていたアリスは、意を決したようにゆっくりとドアに近づいていった。
「---火村?」
小声での問い掛けに返事は無い。こくりと小さく息を飲み、アリスは恐る恐るという風にドアを押し開けた。抵抗無く開いたドアに「しめたッ」と心の中で快哉を唱えた時、ドアと壁との細い隙間から見慣れたスラックスが目に飛び込んできた。そのスラックスに沿うように、ゆっくりと視線を上げる。行き当たったその先から、胸の前で腕を組んだ火村が無言でじろりと見下ろしてきた。
その眼差しに、思わず心臓が縮み上がりそうになる。引きつったようなお愛想笑いを返し、アリスはドアを開けた時と同様の注意深さでもってそっとドアを閉めた。パタンと軽い音がしてドアが閉まった途端、アリスは詰めていた息を吐き出した。
まずい。これは非常に不味い事態だ。マジで火村を怒らせたら、あとの報復が怖い。こういう場合の1番の他所方法は---。
「---原稿やろ」
ぽつりと呟いたアリスは、とぼとぼとした足取りでデスクへと向かっていった。
【12月20日(Wed)】
コンコンと低く響くノックの音に私は振り返った。風呂に入ってパジャマに着替えた火村が、肩に掛けたタオルでごしごしと乱暴に髪の毛を拭きながらドア口に佇んでいた。
「俺はもう寝るからな」
「うん、ありがと。明日大学やろ? ベッドは使ってええで。俺は眠うなったらソファを使うから」
私の申し出に、火村は軽く片手を上げる。
「ああ、判った。お前もいい加減なところで眠れよ」
パタンと軽い音を響かせてドアが閉まる。私はくるりと回転椅子を回し、デスクの上のパソコンへと向き合った。ワープロソフトを起動させたディスプレイ上で、チカチカとカーソルが瞬いている。昨日から真面目にデスクに向かっていたというのに、ディスプレイの中は真っ白のままだった。
昨日の夕方から火村に見張られる恰好でずっとワープロに向き合っているのだが、笑えるぐらいにこれといった文章が出てこない。だが自己弁護させて貰えるなら、これも仕方がないことなのだ。なぜなら、元々この依頼は急遽私に回されてきた予定外の仕事なのだから。
今回頼まれたエッセイは、来月の『月刊珀友ミステリー』に掲載される特集用の仕事だった。電話を掛けてきた馴染みの編集者、片桐の説明によれば、『二十歳の思い出』をテーマに数人の推理作家が筆を奮うものらしい。もちろん筆者が推理作家なのだから、思い出の中に推理小説を絡めることは必須だ。電話越しにそう説明された時には何となく使い古された感のあるテーマと内容だ、と思ったが、発売時期が成人の日に前後していれば、まぁ仕方ないのかもしれない。
だが先にも述べたように、本来ならこの仕事は私に回ってくるものではなかった。元々の依頼を受けたのは、京都在住の先輩作家朝井小夜子だった。だがもうすぐ締め切りという時期に、何と彼女はインフルエンザにかかってしまい、医者から絶対安静を言い渡されてしまった。編集部では穴埋めの推理作家を捜そうとしたのだが、年末進行の時期でもあり、なかなか代わりの人物を見つけることができない。そこに、病床の小夜子から「私の代わりは有栖川有栖に---」との連絡が入ったらしい。彼女の言葉は、編集部にとっては正しく天の声。私にとっては、有り難迷惑も甚だしい。
申し訳なさそうに片桐が拙宅に電話を掛けてきたのが、5日前の12月15日。『クリスマスまで締め切りを延ばしますから』という片桐の言葉に苦い返事を返しながらも、朝井小夜子直々のご指名では私に断れるはずもない。
それから二十歳の頃は…と思い出を頭の中で引っかき回し、あれやこれやと学生の頃に読んだミステリーを本棚の奥から引っ張りだしている内に、先生も走る師走の日々はあっと言う間に過ぎ去ってしまった。
懐かしい小説や雑誌についつい見入ってしまったのが敗因だが、そんなことは良くあることじゃないか。例えば大掃除の時に引っ張り出した思い出の品に見入って、何も終わらない内に1日が過ぎてしまった。---なんていう経験は、どなたも1度や2度はお持ちだろう。私の場合、それが偶々締め切りに関係するものだったというだけだ。
ふとカレンダーを見上げて、こりゃ不味いと思い出したのが、依頼を受けて3日後の12月18日。飲まず喰わず---部屋自体に食料が尽きてしまったせいもあるが---でワープロの前に座って1日と半分で音を上げた私は、京都に向かってSOSを発信した。ぶつぶつと文句を言いながら火村が食料を携えて遣ってきてくれたのが、19日の夕方。その時私が年賀ハガキを書いていたのは、まぁ何というか…。軽い現実逃避みたいなものだ。
これだって、きっとどなたも1度は経験があると思う。こう絶対やらなければならないようなことを抱えいる時に限って、却って他のことがやりたくなったり気になるという---。偶々それが私には、締め切り中の年賀状だった。
進まぬ原稿を見つめながらぼんやりとBGMのラジオを聞いていたら、アナウンサーが「20日までに投函された賀状には21世紀元旦だけの特別な消印が押される」と言っていたのだ。そう言われたからには、もうやるっきゃないというか---。もっとも肝心のその賀状は、遣ってきた火村に没収されてしまったのだが。
「あ〜あ…」
点滅するカーソルを見ながら、私は溜め息を吐いた。既に2日と半分近くを費やしているというのに、ディスプレイの中は相変わらず真っ白いままだ。
「テーマが漠然とし過ぎているんや」
ぶつぶつと文句を唱えながら、ちらりと傍らの時計に目を走らせる。時間は午前2時。草木も眠る丑三つ時ってやつだ。
シンとした部屋の中には、BGM代わりに流しているFM放送の音。流れてくる音楽の合間を縫うように、カチコチと秒針が時を刻んでいく。耳を澄ましてみても、ドアの向こうから人の気配は感じられない。まるで宵闇の静寂の中、全てが息を潜めて明るい日の出を待っているかのようだ。ハァ…と低く溜め息をつき、頭の中に思い描くのは原稿とは全く別のこと。なかなか進まない原稿は、ささやかな現実逃避も加速させていく。
「今日中に出せば21世紀スペシャルの消印付きやったのに…」
火村に奪い取られた年賀ハガキが、ぐるぐると頭の中を回る。ワープロとにらめっこしていても原稿が進まないのなら、年賀ハガキでも書いていた方が時間の無駄がないってもんだ。しかも21世紀スペシャルの---。
そこまで考えて、私はハタッと気づいた。今なら、火村がのほほんと睡眠を貪っている今なら、年賀ハガキ書きもできるんじゃないか!?
「確か朝1の集配までにだせば、前日の消印が押されるはずや」
そう思い立った途端、私はガタンと椅子を鳴らして立ち上がっていた。足早にドアの前まで向かい、向こう側の気配を探るようにそっとドアを開ける。細い隙間から覗いたリビングにはセピア色の闇が広がっていた。耳を澄まして辺りの気配を伺った後、私は書斎からリビングへと滑り出た。
「さて、と---。あいつ一体どこに隠しやがったんや?」
リビングの中央に立ち、きょろきょろと部屋の中を一望する。そうして昨日没収された後、火村がどこかに隠したらしい年賀ハガキセットの行方を推理する。物を隠せそうな場所は色々ある。だが宝探しゲームじゃあるまいし、そんなに凝った場所に隠しているはずはない。私は適当にあたりをつけ、キャビネットの引き出しやガラス戸の中を一つ一つ探索し始めた。
開けては閉め開けては閉めを繰り返し、私はリビングの中とキッチンと、ついでに玄関のつり戸棚の中やトイレの戸棚の中。果ては脱衣場の棚や洗面台の戸棚の中まで探したが、そのどこにも年賀ハガキは見あたらなかった。幾ら何でも私の書斎に隠すわけはないし---。
「となると、あとはここやな」
寝室のドアの前に立ち、私はう〜んと腕組みをして唸った。火村が眠る寝室の中の探索作業は、危険との隣り合わせだ。余りにごそごそと探していると、火村を起こしてしまうかもしれない。
さてさて---と、唸ること3分間。意を決した私は、そっと音をたてないように細心最大の注意を払って寝室のドアを押し開けた。もし火村が起きたら、「原稿に必要な資料を探しにきたんや」とか何とか言い訳すればいい。今の私にとって、原稿という言葉は水戸のご隠居様が持つ印籠みたいなもんだ。
ゆっくりとドアを開け、私は足音をたてないように気をつけて寝室へと身体を滑り込ませた。遮光カーテンが閉められた部屋の中には、リビングよりも濃い色の闇が広がっている。目を眇めるようにしてじっと視線を凝らすと、正面のベッドの上にこんもりとした山が見えた。
---まずはクローゼットの中からやな。
入ってすぐ右側にあるクローゼットをそっと開ける。ぎっちりと吊り下げられた洋服をかき分けて、頭を突っ込むようにして中を覗いてみるが、年賀ハガキらしきものは見あたらない。取り付けの小さな引き出しも、一つ一つ開けて中を確認する。だがハンカチや靴下が詰まっているだけで、年賀ハガキの影も形も見あたらなかった。
クローゼットの扉を閉め、私は1歩2歩と奥に進んだ。左手の壁際においてある本棚を一瞥してみる。ぎっしりと詰め込まれた本の間には、ハガキをおいておくようなスペースは無い。こくりと息を飲み、私は奥の窓際のあるベッドの方を振り返った。残るは、ベッドヘッドの脇にあるナイトテーブルと右手奥のウォークインクローゼットの中だけだ。私の目から年賀ハガキを隠しておくには最適の場所だが、その分危険も大きい。
抜き足差し足忍び足。まるで忍者か泥棒の気分で、私は少しずつベッドの方のへと近づいていった。もしかしたら猫の首に鈴をつける鼠とか、ライオンのそばを通るウサギとかは今の私と同じ気分なのかもしれない。最もこんなところで鼠やウサギの気分が判っても、嬉しくも何ともないが---。
いつもの倍以上の時間を掛けてベッドの傍らに辿り着き、私はそっと深呼吸をした。伺うようにベッドの上を見下ろすと、火村がしかつめらしい表情で眠っている。どこか苦悩する哲学者を思わせるその表情に、私はクスリと小さく笑みを零した。余りに小難しい顔をして眠っているので、ついついこの顔を見ると悪戯心をおこしてしまう。そうして眠っている火村の顔に悪戯しては、一体何度目覚めた火村に怒られたことか。
--ええ加減いい年齢やのに、寝顔は変わってないんやなぁ…。
不思議な程に学生時代と変わらない寝顔をまじまじと見つめ、私は小さく微笑んだ。湧き上がってくる悪戯心を必死で押さえ、私は目的を果たすべくナイトテーブルの引き出しに手を掛けた。チラリチラリと隣りを伺いながらそっと引き出しを開けた時、突然横合いから伸びてきた腕が私の手首を掴んだ。
「ひっ---!」
息が詰まったような声が、喉の奥に張り付いた。そのまま硬直すること数秒間。私は油ぎれの人形のようなぎこちない動きで、恐る恐る私の手首を掴む腕の先を辿った。辿り着いたその先で、端正な顔がニヤリと不吉な笑みを刻む。
「何やってんだよ?」
寝起きにしては自棄にはっきりとした声が、低く問い掛けてきた。だが呆然と火村の顔を見下ろした私には、その問い掛けに応える余裕などなかった。はっきりと視覚に捕らえているのに、脳味噌は今の状況を上手く把握できない。
「おい、アリス」
焦れたような声と共に、火村がぎゅっと私の手首を掴む腕に力を入れた。神経を辿ったキリッとした痛みに、私は漸く現状を認識することができた。目まぐるしく動き出す脳細胞の中で、この場を上手く納めるための言葉を探す。
「え、えっとぉ…」
どこかひっくり返ったような声は、ドキドキと鼓動を刻む心臓のせいだ。
「あの、資料---。そうっ、原稿に使う資料を探してたんや」
焦ったように言い募った言葉に、火村が小馬鹿にしたような薄笑いを作った。細く眇められた双瞳に、ごくりと大きく唾を飲む。
「ふぅ〜ん、資料ね。それは玄関とかトイレの中とか洗面所にあるのか?」
「な、何で!?」
淡々と語られた火村の言葉に、私は思わず大声を上げた。一体何で火村が一連の私の行動を知っているんだ。
「ドアの外でごそごそやってる気配がしたから、目ぇ覚めたんだよ。---ったく、一体何をやっているかと思えば、お前年賀ハガキ探してたんだろッ」
がばりと起き上がり声を大きくした火村に、私は唖然とした表情を返した。眠っているとばかり思っていた人間に私の一連の行動を知られていたうえに、その理由まで見抜かれているなんて---。困ったどころの騒ぎじゃない。一体どうリアクションを返せばいいんだ。
ぐるぐると回転運動を始めた脳細胞を落ち着かせる間も無く、握った私の手首を火村がぐいっと力任せに引いた。「あれっ?」と思った時には、私の視界の中に見下ろしてくる火村の顔と闇に滲んだ灰色の天井が飛び込んできた。
「そんなに原稿に余裕があるなら、俺につきあえよ」
低く呟かれた言葉と同時に、少し冷たい唇が触れる。ちょっと待てッ!、と思った時にはもう後の祭りで---。その後のことは、できれば記憶の中から消去してしまいたい。
【12月21日(Thur)】
地獄を見た---。
俺の職業は作家やぞッ!! 1日机に向かって座って仕事をせなあかん職業なんやぞッ。それなのに、この腰の具合をどないしてくれんねん!!!!!
---と、大声で喚く気力も根性も無かった。明け方まで人様のことを好き放題やりたい放題にしてくれた変態助教授は意気揚々と足取りも軽く、この部屋から当たり前のように馴染んだ様子で出勤していく。その背中を見つめながら、私はベッドの中でギリギリと歯噛みするのみだ。
眠いは辛いは、あちこち痛いは---の三重苦。つい昨日まではあれほど遅々として進まなかった原稿が、まるで今までが嘘だったかのようにさらっと出来上がったのは、きっと神様がこんな私に同情してくれたせいだ。
---できるならあの極悪助教授に罰をお与え下さい。アーメン。
クリスマス前なので、無神論者の私にも出血大サービスで御利益があるかもしれないと、取り敢えずキリスト教の神様に祈っておいた。
【12月22日(Fri)】
のほほんとテレビを見ながら年賀ハガキを書いている---ちなみに火村に没収されたハガキは、何と書斎のデスクのファンレターを入れてある引き出しに隠してあった---ところへ、火村から原稿終了伺いの電話が入ってきた。もちろん電話の向こうの相手への怒りにまかせて原稿はスパパッと出来上がっていたので、私は鼻高々に終了宣言を伝えてやった。もちろん「お前のせいで---」なんてことは言わない。そんな台詞を一言でも口にしたら、これからの私の身の安全が図れなくなってしまう。
『これで漸く冬休みに入れるってわけだ。良かったじゃねぇか』
からかうような口調に、私はフンと鼻を鳴らした。こんな余計な仕事さえ入ってこなければ、私はとっくの昔に冬休み態勢に突入していたのだ。今さら人を小馬鹿にしたような口調で火村にそう言われても、嬉しくも何ともない。
「そうやな。これで心おきなく東京でクリスマスが迎えられるわ。あ〜、良かった」
『東京---?』
電話の向こうのからかうような口調が、微かに険を帯びたものに変わる。しめしめのってきたぞ、と心の中でほくそ笑んだが、私は細心の注意を払ってそれを口調に感じさせないように気をつけた。ここで火村に私の意図を感づかれたのでは、楽しい楽しいクリスマスの予定が脆くも海の藻屑と消え去ってしまう。
「そうや」
『何だよ、それは。向こうで何かあるのか?』
不機嫌そうな声音に、クスリと小さく笑う。例え火村が口では渋りながらも、奴と私がクリスマスを一緒に過ごすのは、ある意味暗黙の了解になっているのだ。先に連絡しておいたのならいざ知らず、クリスマスがもう目の前という段階になって私に東京でその日を過ごす旨を伝えられて、火村があっさりと聞き逃すはずはない。だからこそ、そこに私の付け入る隙があるのだ。
「別に何もあらへん。原稿が終わったって片桐さんに連絡いれた時に、片桐さんが自分はクリスマスも無しで仕事やって言うてたから、んじゃ原稿渡すついでに陣中見舞いにでもいきましょうか、っていうことになったんや」
『へぇ〜』
受話器の向こうからカチリカチリとライターをつける音が響いてくる。何度やっても上手くライターがつかないあたりに、火村の動揺が現れている。つい昨日地獄を駆け抜けた私は、いい気味だと心の中で快哉をあげた。締め切り前の貴重な作家の身体を、あれだけ好き放題に扱ってくれたのだ。その何10分の1かの仕返しをここでやったとしても、決して私が責められる筋合いじゃない。
「それやったらって、片桐さんがホテル予約してくれてん。しかもその辺のビジネスと違うんやで。お台場や、お台場。いやぁ、久々に豪勢なクリスマスを過ごせるわ。---火村?」
受話器に耳を押しつけるようにして向こう側の様子を探ってみても、帰ってくるのは沈黙ばかり。う〜ん、これはそろそろ不味いかも…。
火村に嫌がらせをする時は、引き際を間違えないことが大切なのだ。もう少し仕返しをしてやりたかったが、仕方がない。ではでは、このあたりで目的を遂げるための奥の手を出すか。
「---で、ものは相談なんやけど、君も特に予定がないんやったら一緒に行かへん?」
もちろん火村が嫌だなんて言うはずはない、とふんでいる。もしそんな台詞を吐きやがったら、年末は我が家への出入りは自粛して貰うことにする。
『東京にか?』
「そうや。取ってくれたお台場のホテル、ツインルームしかないんやて。せっかく二人泊まれるんやったら、一人で泊まるんは勿体ないやろ? それに向こうで過ごすんやったら、君ものんびりしたクリスマスを過ごせるやんか」
毎年二人で過ごすクリスマスは、外出するよりもどちらかの部屋で過ごすことの方が多い。その場合家事全般、所謂クリスマスディナーなるものを作るのは当然ながら火村の仕事になる。つまりクリスマスといえども、火村にのんびりと過ごす余裕はない。
受話器の向こうから、微かな息遣いが聞こえてくる。どうやら火村先生は、私の真意がどこにあるのかを計っているようだ。もちろんこの場合の私の真意は、話題のスポットで過ごす楽しいクリスマス。火村にとってはなるべく近寄りたくない場所と時期ではあるが、そんなものより私の優先順位の方が先だ。この際火村先生には、しっかりくっきり我慢して貰おうではないか。
「---火村?」
応えを促す問い掛けに、火村はハァ〜と大きな溜め息をついた。あれやこれやを計りにかけて、漸く結果に辿り着いたらしい。もっとも彼の選択枝は一つしかないのだけれど---。
『チッ、しょーがねぇな』
やった! 私の計画は見事にドーンと的のど真ん中を突いた。これで楽しいクリスマスが過ごせる。
「んじゃ、決まりなや。明日、講義は何時に終わる?」
『何言ってやがる。明日は祝日だろうが。天皇誕生日。今日で今年の講義は終わりだ』
呆れたような火村の台詞に、私は慌てて視線を彷徨わせた。が、残念ながら日にちを確認するようなカレンダーはこの部屋にはない。
「すっかり忘れとったわ。それじゃ明日は昼前の新幹線でええか?」
『ああ、構わねぇぜ』
低い火村の声と共に、こうして私達のクリスマスは決定した。
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