12月な日常

鳴海璃生 




【12月23日(Sat)】

 新大阪発10時40分のひかり228号に乗って、私と火村は東京へと向かった。東京着の時間は13時42分。ホテルのチェックインの時間と私の珀友社訪問の時間を考え合わせれば、ちょうどいいくらいの到着時間だろう。
 新幹線の中から火村に携帯で指定席の場所を連絡したのだが、奴がきちんと京都駅のホームに突っ立っているのかどうか、私は少しだけドキドキしながら窓越しに駅のホームを見つめた。まぁ乗り遅れたら乗り遅れたで後から勝手に追いかけてきて貰えばいいのだが、せっかく取った指定席が無駄になるのはめっちゃ口惜しいではないか。
 「よぉ」と眠そうな目を擦りながら現れた火村は、棚の上に荷物とコートを置き、席に腰を下ろすと同時に上着のポケットから愛飲のキャメルを取り出した。上手そうに1本2本と煙草を灰にした後、長々と身体を伸ばし睡眠態勢に入る。俺に何かひと言ぐらい挨拶はないんかい---と怒る前に、穏やかな寝息を立て始めた。
 う〜ん、本能のままに生きているというか、幸せな人生を歩んでるなぁ…センセ。---こういう失礼な態度にも怒る素振りも見せない私は、本当に何て出来た友人なんだろう。心の中で自画自賛を唱えながら、私は椅子の背の網ポケットに入れていた文庫本を取り出した。
 関ヶ原の辺りの白い風景をものともせず、ひかり228号が東京駅のホームに滑り込んだのは、定刻通りの午後1時42分。約3時間の道程の間を睡眠時間に当てた助教授は、ホームに降り立つなり身体を伸ばすように多き伸びをした。
「---で、これからどうするんだ?」
 改札へと向かう階段を並んで下りながら、火村がついでのような口調で訊いてくる。のろのろとした一団の動きに合わせながら、私はふむ…とばかりに辺りの様子を一瞥した。
 新大阪駅を出た時には半分近くが空いていた指定席も、一つ二つと駅を通り過ぎて行く間にほぼ満席状態にまで埋まってしまった。喫煙車だったためか車内では子供の姿は余り見掛けなかったが、改札へと向かう一団の中には両親に手を引かれた子供の姿がちらほらと垣間見える。
 そして、冬休みに入った大学生らしき賑やかな一団。きっちりとスーツを着込んだサラリーマンらしき人達は、しかつめらしい表情で階段を下りていく。ちょっとうんざりするような人の数に、私は小さく溜め息を吐いた。
 在来線へと向かう連絡通路を抜け、人の行き交う中央通路の途中で私は足を止めた。隣りを歩いていた火村も倣ったように歩みを止め、僅かに首を傾げるようにして私の方を覗き込んだ。
「はい、これ…」
 火村の胸の辺りに2泊分の着替えの入った旅行鞄を押しつける。怪訝そうに見つめてくる眼差しに、私はにっこり笑みを返した。
「君は先にホテルに行って、一服しといて。俺は珀友社に寄ってから、ホテルの方に行くから」
 私の真意を測るように見つめていた火村は、やれやれと言うような仕種で私の旅行鞄を手に取った。
「お前の名前で取ってあるんだな?」
「うん。片桐さんはそう言ってたわ。夕飯とかは俺がホテルに戻ってから、どこ行くか決めよ」
「判った。じゃ先に行くが、迷子になるんじゃないぞ。あとお菓子を上げるって言われても、知らない人には付いていくなよ」
「アホかいッ!!」
 ひらひらと肩のあたりで手を振りながら山手線外回りのホームへと向かう階段を上る背中に向かってひと声怒鳴り、私はくるりと踵を返した。目指すは、新幹線ホームとは反対側にあるオレンジ色の中央線だ。珀友社への道は既に熟知しているが、取り敢えずは迷子にならないようにと気を引き締める。火村と別れた途端に道に迷ったのでは、あとで奴に何と言われるか知れたものじゃない。

◇◇◇

 神田にある珀友社は祭日にも拘わらず、社内には冬の寒さを物ともしない活気が溢れていた。世間が「不況だ」と合唱しているこのご時世に有り難いことだと幸せを噛み締めるべきか、それとも休日なのにと己の不幸を呪うべきかは如何ともしがたいとこだ。
 受付で名前を言って、受付嬢に軽く挨拶を返しながら5階の片桐が属する編集部のある部屋へと向かう。エレベーターを下りて廊下に幾つか並ぶドアの一つを開けると、もわっと煙草の香りが漂ってきた。街中至る所に禁煙マークが氾濫するご時世だが、この部屋の中に限ってはそれも遠い異国の出来事に過ぎないらしい。ぐるりと見渡した部屋の中の様子は、どこか雑然とした雰囲気を醸し出している。
「あっ、有栖川さん。わざわざ申し訳ありません」
 電話を終えた片桐が、足早に私の方へと駆け寄ってきた。それに軽く手を上げ、私はぺこりと小さく頭を下げた。
「こっちこそ、忙しい時にホテルの手配とかして貰うてすみませんでした」
「いいえ、どう致しまして。ここじゃ落ち着きませんから、向こうに行きましょう」
 軽く背を押す片桐の手に促され、私は編集部の隣りにある小さな応接室へと案内された。革張りのソファに腰を下ろし、忘れない内にと抱えてきた原稿を渡し、近況程度の世間話を始めたところでアルバイトらしき女性がコーヒーを持ってきてくれた。
「本当に急なお願いで申し訳ありませんでした」
 湯気のたつコーヒーを勧めながら、片桐が律儀に頭を下げる。ふくよかなコーヒーの香りを楽しみながらカップを口元に運んでいた私は、慌てたように頭を振った。日頃は締め切り破りで迷惑を掛け捲っているのに、この程度のことで恐縮されたのでは居心地が悪いことこのうえないではないか。
「とんでもない。いつも片桐さんには迷惑かけてるんやから、このくらいの恩返しはせんと罰あたるわ。それに---」
 私は片桐に向かってニヤリ共犯者の笑みを作った。
「朝井さん直々のご推薦やったしね」
 私の笑みの意味する所を敏感に察した片桐も、口許に小さく苦笑を刻んだ。
「そんで、その朝井さんはもう良くなったん? 一度お見舞いの電話を入れて以来、連絡もしとらんのやけど…」
「ええ、もうすっかり全快されてますよ。今日の忘年会のために、意地で直したって仰ってましたからね」
「忘年会---!?」
 緩く首を傾げた私の目の前で、片桐が思い出したというようにポンと胸の前で手を叩いた。
「そうそう。有栖川さんと火村先生のこれからの予定はどうなってます? もしこれといった予定が無いようでしたら、これ如何ですか? 場所もお泊まりになってるホテルと同じですから、移動の時間も取りませんよ」
 そう言って片桐がテーブルの上に置いたのは、宛名書きの無い白い封筒が2通。首を傾げながら中のカードを取り出した私は、「ああ」と一つ大きく頷きを返した。
 それは、本日執り行われる珀友社主催の忘年会---というよりも、慰労の意味を込めたパーティーだ---の招待状だった。もちろん売れっ子とは言い難いが、珀友社から数冊の小説を上梓している私宛にも11月の終わり頃に送られてきていた。だがその時は、火村と鍋でもつついて過ごそうと思っていたので、ちょっと残念に思いつつも不参加の返事を返していたのだ。
「そう言えば、今日やったね。でも、ええんかな。俺、不参加の返事を返してしもうとるけど…」
「ぜんぜん構いませんよ。どうせパーティーは立食ですし、今日になってちょっと、と仰る先生方も何人かいらっしゃいますしね。それに---」
 僅かに腰を折り、片桐はテーブルの方へと身を乗り出した。それにつられるように、私もテーブルの方へと半身を屈める。まるで内緒話をしているような態勢に、思わず苦笑が漏れた。
「有栖川さん達にご用意したお部屋、実は岡本先生用に確保していた部屋だったんですよ。何でも急にお嬢さんと北海道にスキーに行かれることにされたそうで、有栖川さんから電話が入るちょい前にキャンセルの連絡を貰ったんですよ」
 岡本祐司は、関西在住の大御所とも言える作家だ。推理小説以外にも時代小説やエッセイなど幅広い分野で活躍し、最近は文化人としてテレビ出演などにも引っ張りだこである。同じ関西在住の作家として懇意にして貰っているが、本の売上げや発行部数は、私ごときでは足下にも及ばない。
「ははーん…。それで、俺ごときにあんなええホテルのツインルームが回ってきたんや」
「いや、もちろん岡本先生のキャンセルが無かったら、別にちゃんと有栖川さん用にお取りしましたよ」
 慌てて否定の言葉を口にする片桐に、私は笑いでもって応えを返した。例え大御所作家の尻拭いであろうと、あんな一流ともいえるシティホテルにただ---ここが大事だ---で泊まれるなら、ラッキー以外の何物でもない。
「そやなぁ、それやったら出ようかな…。あっ、でも火村も一緒で問題ないの?」
「ぜんぜん構いませんよ。料理もお酒もたっぷり用意してありますし、ビンゴの景品も結構豪華に取り揃えてありますよ」
 勢い込んだように言葉を継ぐ片桐を横目に見ながら、私は金の縁取りのされた招待状をクルクルと手の中で回した。とくにこれといった予定もたてていないし、珀友社の忘年会に出るのもいいかもしれない。場所が同じホテルならば、詰まらなければ部屋に戻ればいいだけだし---。
「戻って火村にも話してみるわ。あっ、もし出るんやったら、片桐さんに連絡入れた方がええかな?」
「いえ、直接会場の方に来て頂いて構いませんよ。僕の方で受け付けには話を通しておきますから、その招待状だけ持ってきて下さい」
「うん、判った。それやったら、早速帰って火村に訊いてみるわ」
 カップに半分ほど残ったコーヒーを一気に胃の中に流し込み、私は「それじゃ」とばかりに腰を浮かした。一緒に立ち上がった片桐とエレベーターホールへと向かう。
「明日の予定とかも、もう決まってるんですか?」
「うーん、神田の古書店街にでも行こうかと思うてるんやけど…」
 明るい口調で応えた私の言葉に、片桐は口許に苦笑を浮かべた。
「有栖川さん、神田の古書店街は日曜は殆ど閉まってますよ」
 幾ばくかの同情を込めた言葉に、私はぴたりと足を止めた。すっかりくっきり忘れていたが、そう言えばそうだった。以前にも一度日曜日に古書店街を訪れて、「日曜日に本屋が閉まるなんて」と臍を噛む思いをしたことがあったっけ。
「あ〜、あかん。久し振りやから、すっかり忘れとったわ。それやったら、どうしようかな」
 東京に来た時の私の第一目的が、神田の古書店巡りなのだ。それがダメとなると、次なる予定が思い浮かばない。せっかく東京まで来たのだから、思いっきり遊んで羽を伸ばしきって帰りたいのに、初っ端から予定が狂うなんてついてない。
「もし予定がないんでしたら、これ如何ですか」
 まるでドラエモンの四次元ポケットのように、片桐はスーツのポケットから1枚のハガキを取り出した。派手な印刷の施されたそれには、私も良く見知っている番組名が印刷されている。
「あっ、これテレビで言うてたやつやん。どないしたん?」
「芸能の方の編集部にいる友人から貰ったんですよ。そいつは取材で入るからって…。僕も行きたかったんですけど仕事で行けそうもないから、もし良かったらどうぞ。試写会とはいっても録画入るらしいんで、本人達も来るらしいですよ」
「へぇ〜、そりゃ凄いわ。実はテレビで見て、ちょお行きたかってん。火村は嫌がりそうやけど、引っ張っていこうかな」
 笑いながらそう言った時、上の階から下りてきたエレベーターのドアが開いた。ドアの中に身体を滑り込ませながら、私は片桐に向かって軽く手を振った。
「ほな、夜にパーティーで会いましょう」
「ええ。火村先生にも宜しくお伝え下さい」
 ゆっくりと閉まっていく扉の向こうに、片桐の穏やかな笑顔が消えていった。

◇◇◇

 ドアの前に佇み、立て続けに2度3度とドアフォンを押した。中の様子に耳を傾けるようにその場で暫く待ってみたが、ドアが開く様子は伺えない。仕方ないなぁ…と諦めにも似た境地で再度ドアフォンに手を伸ばした時、ガチャリと静かな廊下に大きな音を響かせて唐突にドアが開いた。
「早かったじゃねぇか」
 所々寝癖のついたぼさぼさの髪の毛からは、目の前の男がたった今まで惰眠を貪っていたことが伺い知れる。
「何や忙しそうやったから、用件だけ済ませて帰ってきたんや。それより君、眠ってたんか?」
 後ろ手にドアを閉め火村の後に続くように奥へと歩を進めながら訊ねた私に、火村は欠伸でもって応えを返してきた。明け方まで論文を読んでいたという言い訳のような話は聞いていたが、それにしてもそのダレまくった様子はちと問題有りじゃないか。
「コーヒー淹れてくれよ」
 どさりとかったるいような仕種でソファに腰を下ろした火村は、帰ってきたばかりの私に向かって顎をしゃくる。ぶつぶつと小声で文句を唱えながら、私はバッグの中に詰め込んできたインスタントコーヒーを取り出した。
 コーヒーカップなんて気の利いた物は置いてないので、備え付けの湯飲み茶碗にコーヒーを入れ、火村が長々と身体を伸ばしている前のテーブルにそれを置いた。座る場所の無い私はきょろきょろと辺りの様子を見回して、コーヒーの入った湯飲み茶碗を手に火村の右手のベッドのぽてんと腰を下ろした。
「何やめっちゃ眠そうやなぁ、君」
「眠い」
 若白髪の混じった前髪を煩そうに掻き上げながら、火村が低い声でぼそりと呟いた。ついで、ふわぁとでかい欠伸を零す。「きゃあ、きゃあ」と熱い眼差しを注ぐ火村助教授ファンの女子大生が見たら、一発で夢破れそうな姿だ。いやそれとも、「こういう火村先生もいいわぁ」と新たなる魅力を再認識してしまうのだろうか。まぁどっちにしろ、むかつくことこのうえない事実ではある。
「やったら、夕飯まで寝てたらええわ」
「あー、そうさせて貰うかな。そういや、夕飯どこで喰うんだ?」
 短くなった煙草を灰皿で揉み消し、口元に運んだ湯飲み茶碗に緩く眉を寄せる。程よくニコチンが脳味噌に充満したせいか、口調や受け答えも随分と滑らかになってきた。
「それやけど、今日ここのホテルで珀友社の忘年会があるんや。片桐さんから招待状貰ってきたから、それに出ぇへん?」
 傍らに置いたリュックの中を探り、私は白い封筒を火村の方へと差し出した。眠そうな目を擦りながら、火村は封筒の中から金の縁取りのついたカードを取り出した。ぼんやりとした様子でカードに目を通し、ニヤリと口許に意地の悪い笑みを刻む。
「当日になってこんな物貰うなんて、浪速のエラリー・クイーンには招待状は届かなかったのか?」
 ニコチンとカフェインと共に活性化した脳味噌の働きは、傍迷惑な程に順調のようだ。寝惚け眼を擦りながらも嫌味を吐けるなんて、さすがは火村。私は思わず心の中で中指を立てた。
「煩いわ。ちゃんと俺の所にも招待状来たけど、君と過ごそうと思うて不参加の返事を返しとったんや」
「へぇ…」
 やけくそのように怒鳴った応えは、火村の琴線を微妙に擽ったらしい。満更でもない表情で、眉を上げる。ひらひらと掌の中で弄んでいたカードを、火村はポイと私の方に放り投げた。
「いいぜ。どうせこれといった予定はねぇしな」
「やったら決まりやな。君、スーツ---は着てきとるか」
 相変わらずのだらしないと表されるような恰好ではあったが、火村は一応スーツにネクタイのサラリーマンのような姿で新幹線に乗り込んできた。反する私の恰好はといえば、まるで学生のようなラフなフリースのトレーナーだった。だがもしかしたら食事に行くのに必要かもと思い、一応スーツもバッグの中に忍び込ませてきたのだ。正しく先見の明があるというか、いやこれもやっぱり私の日頃の行いの良さの賜だろう。
「んじゃ忘年会は7時からやから、それまでゴロゴロしとこ」
 そう言った途端ごろんとベッドに寝ころんだ私に、火村は呆れたような溜め息を零した。

◇◇◇

 7時から始まった珀友社の忘年会は、なかなか盛況の様相を呈していた。寝起きのぼんやりとした頭で---結局あのあと眠ったのは私で、「時間だ」と火村に叩き起こされるまですっかり気分よく夢の国を漂ってしまった---火村に引っ張られて会場に赴いたのは、開始時間の7時を15分ほど回った時間だった。両開きの入り口の真ん前に設えられた壇上では珀友社社長の挨拶が行われており、私はこそこそと身を縮めるようにして人混みの中に紛れ込んだ。
 来賓の挨拶を右から左に聞き流しながら、ぐるりと会場の様子を見回してみる。友人知人を始め、写真でしか見たことのない大御所の作家など約200人近い人数で広い会場は埋め尽くされていた。来賓の挨拶に続き、珀友社の顔とも言うべき文芸誌の編集長の乾杯の音頭で座は一層華やぎを増した。
 久し振りに会った友人達と軽く挨拶を交わした後、私は壁際に陣取ったままの火村の元へと戻ってきた。壁に軽く寄りかかりながらグラスを傾ける姿はイヤになるぐらい様になっており、「壁の花やなぁ…」とからかえる雰囲気は口惜しいことに欠片も見出せない。
「呑んでばっかやなくて、ちゃんと飯も喰えや」
 両手に持った皿の一つを火村の胸ぐらに押しつけていると、弾むような明るいハスキーヴォイスに名を呼ばれた。反射的に声のした方へと振り返る。まるでお付きの従者のように片桐を従えた朝井小夜子が、片手を振りながら私達の方へと歩み寄ってきた。黒とも見まごう濃紫のタイトなドレスと、都会的なプラチナのシンプルなアクセサリーは殊の外小夜子に良く似合っている。
「なぁーに二人でくっついとんの。向こうで女性陣が悔しがってたで」
 からかうような言葉に火村は渋面を作り、私は慌ててブンブンと頭を左右に振った。
「アホ言わんといて下さい。それより風邪の方はもうええんですか?」
「もうバッチリや。アリスにはえらい迷惑掛けて、悪いことしたわね」
「どう致しまして。朝井さんのピンチヒッターが俺やなんて、役不足もええとこですけど…。それより風邪の方全快されて良かったですね」
「そりゃもう今日にあわせて養生したもん」
 アハハハハと豪快に笑い、小夜子は手にしていた黄金色の酒をくいと勢い良く煽った。その様子からは、つい数日前にインフルエンザで入院騒ぎまで起こした雰囲気はちらりとも垣間見れない。隣りに控えるように佇む片桐も、小夜子に判らない程度に口許に苦笑を刻んだ。
「でも、こんな所で火村先生にもお会いできるやなんて、何や得した気分やわ」
 スイと流れるような動きで身体を寄せた小夜子に、火村は僅かに肩を竦めてみせた。そうして二人並んで立つとお似合いの美男美女といえないこともないんだが、中身はハブとマングースの戦いに近いものがあるかもしれない。
 「やれやれ」と言うように片桐と視線を交わし会った時、背中からガランガランと福引き会場の鐘の音のような音が聞こえてきた。一体なんだ、と音の出所に視線を移すと、どことなくスーツに着られているような感のある青年と、ブラウンのスーツの女性が前面に設えられた壇上に並んで立っていた。二人の間には、こういうパーティー会場でお馴染みのビンゴ用の数字の書かれたボールの入った六角形の箱が置いてある。どうやら片桐の言っていた『結構豪華な景品』のビンゴが始まるらしい。
 ちらりと横を見ると、火村にちょっかいを掛けていた小夜子も壇上へと視線を移している。そそくさとスーツのポケットからビンゴのシートを取り出した片桐は、やる気満々という様相だ。私も空になった皿を傍らのテーブルの上に置き、受付で手渡されたシートを上着のポケットから取り出した。火村はと見ると、まるで気のない様子でちびりちびりと琥珀色の液体を喉に流し込んでいる。
「君もやれや。そんでええ景品が当たったら、俺に回して」
 そう言いながら、私は火村の上着のポケットからビンゴ用のシートを取り出して空いている片手に押しつけた。渋々というようにそれを見つめていた火村は、睨みつける私の眼差しに「やれやれ」言わんばかりの態度でシートへと視線を落とした。
 ブラウンのスーツに細い肢体を包んだ女性が箱の中から様々な色のボールを取り出し、書かれている数字を次々に読み上げていく。最初はみんな遊び半分の軽い気持ちで参加しているが、「リーチ」と大声で叫ぶ人間の数が増えて行くに従って徐々に真剣味も増していく。しかも片桐の言った『結構豪華な景品』が決して眉唾ではなく、確かに『豪華』という形容詞に相応しい品々だったため、遊び半分の参加者の目の色も少しずつその色合いを変化させていた。
 1等賞のペアで韓国2泊3日の旅は年輩のエッセイストが勝ち得、暖かい拍手でもって祝福された。もちろん微かなからかいの言葉もその中には含まれていたが、相手が重鎮とも言える人間では早々声を上げるような真似もできない。片桐がぽつりと耳打ちした「まっ、妥当な線ですよね」という言葉は、編集者としての素直な感想だろう。
 2等賞の北海道旅行を勝ち得たのは、中堅の女性作家。中堅とは言っても、新刊の売上げ数では必ずベスト10に顔を出す売れっ子作家だ。3等賞のマウンテンバイクをゲットしたのは、呑み友達でもある関西在住の柴田圭亮。きっと今度の呑み会でしっかり自慢されるだろうことが明白で、私と小夜子はちらりと視線を交わして肩を竦めあった。
「次の番号は15番です」
「やったッ! リーチや」
 耳に心地良いアルトの声で読み上げられた番号に、私は大声を上げた。身体を寄せるようにして、片桐と小夜子が両側から私のシートを覗き込んでくる。
「何やねん。私なんてぜんぜんスカやのに、むっちゃついてるんと違うのん?」
 ふてたようにヒラヒラと顔の前で振っている小夜子のシートは確かに虫食い状態で、あちこちと一貫性も何もなく穴が空いている。あれでは余程続けざまに上手い数字が出てこない限りは、ビンゴの望みは皆無だろう。妙に気合いを入れていた片桐のシートはといえば、小夜子同様の虫食い状態だ。
 それらを横目に眺め、私は気合いを入れ直した。次の数字でビンゴすれば、何と4等賞の景品が当たったしまうのだ。今まで幾度となくビンゴはやってきたが、こんな上位で上がりに近づくのはビンゴ歴初めてといっても過言ではない。
 読み上げられる数字を一つでも聞き漏らさないようにと、私は耳をダンボにして今か今かと勝利の瞬間を待ちかまえた。だが期待が大きい程、こういう類のものは当たらないものらしい。あれよあれよと言う間に4等賞も5等賞も出てしまい、私は虚しく頭を垂れた。
「まだいい景品は残ってますから、大丈夫ですよ」
 片桐の慰めを聞きながらハァ〜と小さな溜め息をついた時、柔らかなアルトの声が高らかに次の番号を読み上げた。
「21番です」
 どうせ外れに違いないと、諦め半分の気持ちでシートに視線を落とす。---と、その数字は何とドンピシャリの大当たり。リーチを三つも抱え込んでいた私のシートの斜め一直線の最後の数字を、見事に射抜いていた。
「あーっ、ビンゴやッ!」
 力任せに最後の数字をくり抜き、私は頭の上でブンブンとシートを振り回した。
「やりましたね、有栖川さん。早く商品貰ってきて下さいよ」
 まるで我が事のように喜ぶ片桐に背中を押され、私は駆けるようにして前方に設えられた壇上へと向かった。私の他にも作家らしき人物が二人、壇上へと上がってくる。
「おめでとうございます」
 祝福の言葉と一緒に貰った物は、ぱっと見何の変哲もない四角い封筒。さすがにここまでくると景品も格段と落ちてしまうのかと僅かにがっかりとした気持ちを抑え、私はにこやかな笑みでその封筒を手に火村達のいる壁際へと戻った。
「アリス、何やったの景品?」
 早速小夜子が身を乗り出すようにして、訊ねてくる。興味津々というようなその様子に苦笑を零しながら、私は手渡された封筒を小夜子の前に披露した。
「中身はまだ見てませんけど、大したもんやないみたいですよ」
 そう言いながら、気のない素振りで封を開ける。中から出てきた物は何と全国デパート共通の商品券で、しかも金額にして3万円分もあった。唖然とした私の背中を、小夜子が力任せに叩く。
「何が大したもんやないよ。めっちゃええもんやないの」
 からかうような口調には、微かな羨望が滲む。この何の変哲も無い白封筒に、まさかこんな物が入っていようとは…。何だか凄く得をした気分の私は、「これも日頃の行いですね」と調子にのった自画自賛の言葉を吐いて、小夜子に思い切り背中をどつかれた。

◇◇◇

 珀友社主催の忘年会は、最後の副社長の一本締めで盛会の内に幕を閉じた。このまま友人の家に泊まり、年末年始はその友人と二人で温泉に行くという小夜子と、「これからまた仕事です」と肩を落とした片桐とに別れ告げ、私と火村は部屋へと取って返した。
 ほろ酔い加減に酒が回り、気分もフワフワと浮き上がりそうな私の懐には、ビンゴで獲得した3万円の商品券。そして右手には、プヨプヨと抱き心地のいいゴマちゃんの抱き枕。
 これは火村がビンゴで当てた景品なのだが、奴が持つのを嫌がったために、私が火村の代わりに壇上で受け取り、そのまま私の腕の中に居着いてしまっている。景品を受け取る時に「あれっ、有栖川さんまたですか?」と馴染みの編集者に驚かれたが、懇切丁寧に事の成り行きを説明し、ゴマちゃんは私の腕の中に無事収まったのだ。
 火村の家に行ったのではゴマちゃんが3匹の猫達の遊び相手としてすぐにボロボロの状態になるのは火を見るよりも明らかだし、ここは一つゴマちゃんのためにも私が救いの手をさしのべてやろうではないか。すっかりゴマちゃんの抱き心地が気に入った私は、他の荷物と一緒に私の家に宅配便で送り返してやろうと、心密かに画策している。
「あー、疲れた」
 部屋に入るなり、私はどさりとベッドの上に寝ころんだ。腕の中には、すっかり私の物と化したゴマちゃんの抱き枕。皺になるからスーツを脱がなければとか、風呂にも入らねばとは思うが、トロトロと目蓋は1日の仕事を終えることを要求してくる。
「おい、アリス」
 低い火村の声に、私は「ん〜」と曖昧な返事を返した。耳に心地いい火村のバリトンは、時として子守歌以上の威力を発揮する。それはたかだか名前を呼ばれるだけでも威力十分で、微睡み始めた意識を確実に夢の国へと誘い込む。
「おい」
 ぐらりと身体が揺れる感覚に、私はぼんやりと重い瞼を上げた。すぐ目の前に見慣れた男前の顔がある。ニヤリと口許に刻んだ笑みに、僅かに鼓動が跳ねる。
「いつまでもそんなもん抱いてるんじゃねぇよ」
 私の腕の中のゴマちゃんを奪い取り、火村はそれを隣りのベッドにぽいと投げ捨てた。
「何する---」
 抗議の言葉は口付けに消えた。まるで生き物のように絡み合う舌と漏れる吐息の音が、少しずつ意識と感覚を絡め取っていく。そっと伸ばした指先に触れた肌が、ゆっくりと熱を持ち始める。
「ゴマちゃんのが抱き心地ええねんけどな」
 負け惜しみのような言葉は、火村の低い笑い声に掻き消された。






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