12月な日常

鳴海璃生 




【12月24日(Sun)】

 巣穴から抜け出た狸のように私達がベッドから這い出したのは、ランチの時間もそろそろ終わりに近づきつつある午後1時30分。
 よくルームクリーニングに起こされなかったものだと首を傾げたら、何だかすっきりした表情の助教授が『Do not disturb!』の札を掛けていたと、自慢げに教えてくれた。ちゃっかりしているというか、遣ることに抜かりがないというか、思う存分搾取された私としては何だかどうにもすっきりしない。
 やたらと元気な火村にバスルームへと追い立てられ、ランチタイムぎりぎりの時間で朝食兼昼食を摂ることができた。もくもくとクラブサンドを頬張りながら、今日の予定を決める。といっても、私に引きずられる形で付いてきた火村に、これといった予定などあるわけがない。こくりと温くなったコーヒーを喉に流し込んで、私はう〜んと頭を捻った。
 私が楽しみにしていた神田の古書店巡りは、日曜日なので中止。行くだけ行ってみるのは、もちろん吝かではない。だがシャッターの閉まった店の並びを眺めるのは、何だか忍びないではないか。となると---。
「お茶の水の本屋をフラフラして、夜はこれに行こうや」
 がさごさとポケットから取り出したのは、昨日片桐さんに貰った試写会の招待状だ。人気のバラエティー番組で制作されたこの映画は、私も少しだけ気になっていた作品だ。だが金を出して見る程の気持ちも無かったので、片桐さんから試写会の招待状を貰ったのは渡りに船というか、思わずラッキーと快哉を叫びたいくらいの気分だ。
 テーブルの空いた場所に置いたハガキを手に取り、火村は興味もなさそうにそれを一瞥した。フンと小さく鼻を鳴らし、元の場所に戻す。
「なっ、どや?」
 テーブルへと身を乗り出した私にちらりと視線を走らせ、火村は小さく肩を竦めた。余り気乗りしない様子は一目瞭然だが、まぁ反対されることはあるまい。何せ今回の火村は私の単なる付き人みたいなものだから、当然スケジュール決定のイニシアチブを握っているのは私だ。
「---いいぜ」
 どこか勿体ぶったような返事に、私は満面の笑みを作った。これで今日も1日有意義に、無駄なく過ごせそうだ。

◇◇◇


「そろそろ時間なんじゃないか」
 デザートのアイスクリームの天麩羅を頬張っている私に、火村が声を掛ける。口の中で溶け掛かったアイスをこくりと飲み込み、私は腕時計へと視線を落とした。時間は午後7時45分。お茶の水と新宿での書店巡りを堪能したあと、試写会の前に食事でも、と入った店で、結構な時間を費やしてしまったらしい。
「開場が8時やから、ちょうどええ時間かもな」
 食後の一服を楽しんでいた火村は短くなった煙草を灰皿で押しつぶし、コートと伝票を片手に立ち上がった。ひと口分だけ残ったアイスの天麩羅を慌てて口の中に放り込み、私もそのあとに続く。
 1歩外に出ると、寒風が頬を撫でた。暑すぎるくらいに暖房が効いていたビル内や地下街とは大違いだ。慌ててコートの襟を寄せ、私はアルタ前の信号を渡り銀行と靴屋に挟まれた柳通りを靖国通りへと向かった。
 日曜日に重なったクリスマスイブのせいか、通りは隙間無く人で溢れている。ただ全般的に見て家族連れよりは学生や独身者のグループが多く見受けられるのは、今日がやっぱり日曜日のせいだろうか。
 人の波を掻き分けるように、真っ直ぐに進む。靖国通りに面した信号では、二重三重の人の列が歩行者用の信号が赤から青に変わるのを待ち構えていた。その中に潜り込み、火村と並んで私も信号が変わるのを待つ。
「場所どこだよ?」
 低いバリトンの声に、私はコートのポケットから片桐に貰ったハガキを出した。
「えっと、新宿ミラノ座や。新宿コマの横」
 場所的にはとっても判りやすい所なので、道に迷うことはないと思う。それにもしもの場合を考えて、片桐から情報誌の地図を切り抜いて貰ったのだ。簡単でささやかな地図ではあるが、備えあれば憂いなし。万全の準備といっても過言ではない。
「道、大丈夫かよ」
 余計な火村の心配に、私はドンと胸を叩いた。
「前に1度行ったことあるし、ちゃんと地図も持ってきたわ」
 言い終わったと同時に歩行者用の信号が赤から青に変わり、歩道に溢れていた人々が一斉に動き出す。その動きに押されるように、火村と私も横断歩道へと足を踏み出した。広い靖国通りを渡り終え、歌舞伎町へと入る。
 中へと続く道は大小含めて幾つかあったが、私は1番近くて賑やかな通りを選んだ。ここを真っ直ぐに進んでいけば、新宿コマ劇場と映画館のある広場に出るはずだ。前に来た時は昼間だったため様相が今とは幾分異なるが、こちゃこちゃと店が建ち並ぶ歌舞伎町内にそこだけぽっかりと四角い広場があるのだから見間違うこともないだろう。
 意気揚々と、靖国通りから歌舞伎町へと足を踏みいれる。---と、そこはまるで別世界にようだった。前に昼間に来た時には全ての店が閉まっていて、まるで住人が死にたえたゴーストタウンのようだった。だが、今目の前に広がる風景は、それとはまるで違っていたのだ。
 ネオンや電飾で彩られたそれぞれの店が、まるで競い合うかのように華やかな光に満ちあふれている。道には人が溢れ、呼び込みの男性や女性が数10センチごとに佇んでいる。さすがは、日本一と言っても過言ではない歓楽街だ。ゴーストタウンのようだった昼との違いに目を丸くしつつも、私は興味津々で辺りの様子を眺め回した。
 ---うっわぁ〜、凄いわ。イメクラにAVに、大人の玩具!? セーラー服の覗き部屋って、一体なんやねん?
 普段あまりこういう場所に縁のない私は、好奇心の赴くままにきょろきょろと視線を彷徨わせた。それに、何と言っても夜の歌舞伎町は初めてなのだから、あれやこれやが新鮮且つ物珍しくて仕方がない。
「おい、アリス」
 苦々しげな声と共に、ぺしりと腕を叩かれた。私に怪しげなチラシを渡そうとしていたお兄ちゃんが、火村にじろりと睨まれてすごすごとした様子で踵を返す。
「ったく…。きょろきょろせずに、真っ直ぐ前みて歩けよ」
「えーっ、ええやんか。夜の歌舞伎町なんて初めてなんやから、これも後学のため---あでっ!」
 ぺしりと額を弾かれ、私は恨めしげに火村を見つめた。
「何が後学のためだ。お前には必要ないもんばっかじゃねぇか。もし必要だってんなら、ただじゃおかねぇぞ」
 そばに寄ってきた客引きの女性が、火村の視線にびくりと身を縮ませた。別に中に入る気はこれっぽっちもないんだから、そんなに凄まなくても…。
 頭の片隅でぶつぶつとそう思いながら、私はあちこちに彷徨っていた視線を前方に固定した。突き当たったT字路の向こうに、『鮮魚市場』と書かれたでかい看板の店が見える。りっぱな木造のその店は、どうやら魚介類専門の店らしい。
「突き当たりの道を左に曲って少し行けば、新宿コマがあるはずや」
 火村に説明しながらT字路を左に曲がり、狭い道を右に折れる。これで目の前には新宿コマのある広場が---。
「あれっ!?」
 私は、その場所で足を止めた。狭い道は奥へと真っ直ぐに続き、道の先は人通りの無いシンとした雰囲気だ。おまけにここにあるはずの賑やかな四角い広場は、どこにも見あたらない。
「何だよ。そんなもん、どこにもねぇじゃないか」
 低い声に、私は首を傾げた。
「へんやなぁ…。もしかしたら、歌舞伎町に入ってきた道が手前過ぎたのかもしれん。さっきの道を戻ればあるはずや」
 私はくるりと踵を返し、今来た道を引き返し始めた。『鮮魚市場』を左手に、車の通る賑やかな通りを真っ直ぐに歩く。歌舞伎町の中を車が通るのは意外だったが、この通りを外れなければたぶん道を間違えることはないだろう。それに、さっきの暗くて狭い道に比べれば、こっちの通りの方があの賑やかな広場に行き当たる確率はぐんと高そうだ。
 ---この道を真っ直ぐ行って、左側に新宿コマがあるはずで…。
 そう思いながらてくてくと道を進んでも、左に広場が開けていそうな雰囲気はない。どこまで行っても、びっしりと隙間も無いくらいにビルが立ち並んでいる。内心焦り始めた私の耳に、火村のバリトンが響いてきた。
「あの道の向こうなんじゃねぇか」
 その声に、視線を上げる。数メートル先を右から左に走っている道は車の通る大通りで、行き交う車の列が絶え間なく続く。その中を右から左にバスが通るのを見て、私は不意に足を止めた。
「違うわ。あれは区役所通りや。あそこまで行ったら、歌舞伎町を出てしまう」
 情けない私の声に、やれやれと火村が溜め息をつく。
「ということは、もう一度回れ右ってことだな」
 火村の声に小さく頷き、私達は元来た道を戻り始めた。
 3回目になる『鮮魚市場』を横目に、私達は振り出しへと戻った。最初に足を止めた狭い道が、目の前に続く。
「やっぱりこの先なんかなぁ…」
 前に1度来た時の感覚を辿るなら、間違いなくこの道の先に新宿コマがあるはずなのだ。だが暗くてシンとした道の雰囲気は、どうにもあの賑やかな広場の様子とは相容れないものがある。
「もしかしたら、この先にあるんじゃねぇのか?」
「う…ん‥、そやな」
 火村の声に励まされるように、私は1歩を踏み出した。カチリという小さな音に視線を向けると、ライターのオレンジ色の炎が目に飛び込んできた。人通りが少なくなったのをいいことに、火村は早速ニコチンの補給に入ったらしい。仄かに漂ってくるキャメルの香りに小さく息をつきながら、私達は狭い道を奥へと向かった。
 無言のまま、てくてくと歩く。つい先刻までの賑々しさが嘘のように、シンとした道には音がない。1歩歩くごとに、人の流れも明かりもどんどん間遠になっていく。
「やっぱ、こっちやないんかなぁ…」
 四つ角に佇み、私は小さく口中で呟いた。歩いてきた道の先にはシンとした暗がりが広がり、その道と左右に交わっている右手の道沿いのビルには煌々と明かりが灯っている。
「これ右なんかなぁ…」
 はっきり言って、完璧に迷子状態だ。新宿コマのある広場が、こんな奥にあるとはとても思えない。だが自分の感覚だけを頼りに歩き新宿コマに行き当たらなかったことを考えると、私は自分自身にまるで自信が持てなかった。気分は、まるでラビリンスに迷い込んだ旅人ってなとこだ。ここから一体どちらに進めばいいのか、てんで検討がつかない。
「おい、アリス」
 妙に明るい調子のバリトンの声に、私は声の主を振り返った。眼差しにからかいの色を湛えた火村が、ニヤリと口許に笑みを刻む。
「道わかんねぇのなら、あそこにでも行くか?」
 親指で指し示した方向に視線を移し、私は思わず目を瞠った。そこにあったのは、黒い大きなシルエット。今の今まで視界の片隅にも入らなかったそのシルエットには、派手な電飾で飾られた文字が闇の中に浮かび上がっていた。
 それは所謂ラブホテルと言われるもので---。ゲーッ、一体いつの間にホテル街になんて迷いこんでいたんだ。
「な…なに‥」
 パクパクと酸素不足の金魚のように口を動かす私を面白そうに見つめ、火村は口許にニヤニヤと質の良くない笑みを張り付ける。
「何だ、違うのか。アリスがどんどんホテル街に向かって歩いていくから、俺はてっきり行きたいんだとばかり思ってたぜ」
 飄々とした表情で語られる言葉に、少しだけ落ち込んでいた私は一気に浮上した。一流のシティホテルに泊まっているのに、何でわざわざラブホなんぞに行かねばならないのだ。
「アホんだら。誰が行くかい、そんなとこ」
 大声で怒鳴り、私は火村の手を引いた。取り敢えず道を訊いて、こうなったら何が何でも新宿ミラノ座に辿り着いてやる。
 人のいそうな明るい道へと曲がり、ビルの前に立っていた事務員風の女性に声を掛けた。僅かにびっくりした様子の女性に向かい、私はミラノ座への道を訊いた。
「ミラノ座でしたら、その角を左に曲がって道なりに行った所にあります」
 私達が今し方来たばかりの方向を指し示し、女性はミラノ座への道順を説明してくれた。その女性に軽く礼を言い、私達は元来た道を逆方向に辿りだした。
「角を左に曲がって道なり---」
 口中で小さく呟きながら、暗い道を引き返す。3度目になる振り出しに戻り、私は足を止めた。目の前の車が行き交う賑やかな細い道は、今日だけで一体何度足を運んだか判らない。
「なぁ、道なりってどう行けばいいんや?」
 今私が立っている場所は、どう見てもT字路だ。道を訊ねた女性に教えて貰った、「道なり」という言葉が似合う場所ではない。
「右に曲がるんかなぁ…」
 目の前を真横に走っている道の左右を見回し、私は小さく呟いた。どう見てもT字路にしか見えない場所だが、無理して見れば、今来た道は少しだけ右に曲がっているような気がしないでもない。それにこれを左に曲がったら、また区役所通りに行き着くだけだし---。
「まっ、行ってみるしかないんじゃねぇか」
 火村の言葉に促されるように、私は右側の道へと歩を踏み出した。人通りの多い賑やかな場所を、恐る恐るというように1歩ずつ進んでいく。右手にある交番を通り越し、にょっきりと天に向かって生えているようなビルの前で、私は足を止めた。少しだけ後ろを付いてきていた火村が、突然止まった私を訝しむように覗き込んでくる。
「---ちゃうわ」
「何が?」
 呟きのような小さな声を聞き咎め、火村は僅かに首を傾げた。
「あの前に見える茶色いビルは、西武線の新宿駅や。このまんま進んだら、歌舞伎町から出てしまう」
 闇の中に黒く浮き上がるチョコレート色のビルを見つめ、私は小さく息を吐いた。せっかく道を訊いたのに、この迷路のような場所ではそれさえも何の役にも立たない。八方塞がり状態の私は、為す術もなくその場に佇んだ。
 デッドエンド。やることはやりつくし、完全に行き止まりだ。ついでに、頭の中は飽和状態。あとはもう交番のおまわりさんに頼るしか---。
「おい、アリス」
 低い呼びかけに、ゆっくりと振り向く。口許に苦笑を刻んだ火村が、くしゃりと私の髪を撫でた。
「ちょっと地図見せてみろよ」
 火村の言葉に、私はポケットから切り抜きの小さな地図を取り出した。少しだけ皺のよったそれを伸ばしながら火村の手に渡す。火村は辺りの様子と地図を交互に見比べ、人差し指でゆっくりと唇を撫でた。
「---アリス、こっちだ」
 暫く地図を眺めていた火村が、迷いのない足取りで元来た道を引き替えし始めた。大股に歩く火村の後を、私は小走りに付いていく。
 交番を通り過ぎ、何度も足を止めたT字路の少し手前で、火村は歩みを止めた。突然動きを止めた背中にぶつかりそうになり、私も慌てて急ブレーキを掛ける。再度地図と辺りの様子を眺めている火村の手元を、私は肩越しに覗き込んだ。
「あの道だな」
 放り投げるように地図を私に手渡し、火村は通りの反対側にある細い路地へと歩み始めた。咄嗟のことで出遅れた私は焦って道を渡り、火村の後を追った。薄暗い路地に入っていく火村に追いつき、コートの腕を引く。
「なぁ、こんな路地違うんやないか?」
 辺りに視線を這わせながらそっと訊ねる私に、火村がニヤリと笑いかけた。
「違ってたら、交番まで戻って訊きゃいいじゃねぇか」
 そう言いながらも、火村の足取りも口調も自信に満ち溢れている。その根拠の無い自信に呆れながらも、私はおとなしく火村の後を付いていった。取り敢えず交番があることは判ったのだから、いざとなったら火村の言うように交番に駆け込めばいい。
 諦めにも似た心境で、ビルとビルの間の細い道を歩くこと数メートル。自信ありげな足取りで前を歩いていた火村が、唐突に足を止めた。やっぱり道が間違っていたのかと、うんざりした表情で火村の隣りに並び視線を上げる。だが---。
 視界の先、ぽっかりと開いた空間は、見間違えようもなく新宿コマのある広場で---。
「うそ…」
 口から漏れた小さな呟きに、火村が私の頭を軽く小突いた。
「何が嘘だよ。お前の方向音痴と俺を一緒にするな」
「何やねん。やったら、最初から君が地図を見れば良かったんやないか」
 からかうような口調にむっとして、勢い良く反論を口にする。そうだ。だいたい火村が最初から地図を見て道案内をしてくれれば、まるで迷路に迷うように歌舞伎町の中を行ったり来たりせずにすんだはずだ。
「俺もそう思うぜ。お前に任せたのが間違いだったな」
 さらりと返された言葉に、私は何も言い返すことができなかった。口惜しいが、火村の言い分は正にその通りでぐうの音も出ない。
「うっさいわ。ほら、はよ行くで」
 言い返す変わりに、ぐいぐいと力任せに火村の腕を引く。狭い路地を出て広場に入ると、目指す新宿ミラノ座はすぐ右手にあった。壁にでかでかと掲げられた看板の笑い顔は、まさに良く見知ったお笑いコンビの片割れだ。
 目的の場所に行き着いたことにほっと息をつき、ちらりと腕時計に視線を落とす。時間は午後8時20分。開演は8時30分だから、ギリギリ間に合った。だが30分以上も歌舞伎町の中を彷徨い歩いたなんて、恥ずかしくて誰にも話せない。もちろん片桐さんがあとで試写会の感想を訊いてきたとしても、この迷子事件だけは絶対に内緒だ。
 ポケットから出した招待状のハガキを渡し、意気揚々と映画館の中に入る私の耳には、「今からのご入場は立ち見になります」という無情な言葉が飛び込んできた。立ち見だなんてめっちゃ口惜しいが、今回は無事に辿り着けただけで良しとしておこう。

◇◇◇

 立ち見で試写会を見終え、新宿駅へと帰る道で判ったことは、私が思っていたよりも新宿コマのある広場はずっと西よりにあったということだ。前を行く人達に付いていく恰好で歌舞伎町を出て、すぐ右側にJRの線路が見えたのにはびっくりした。
 これでもう次に来る時は絶対に間違えることはない、と思ったが、果たしてその次なる機会があるかどうかは定かではない。


【12月25日(Mon)】

「おい、着いたぞ。起きろよ」
 低い声に覚醒を促され、私は眠い目を擦りながら席を立った。棚から荷物とコートを下ろした火村が、押しつけるようにそれを私に渡す。殆ど火村に手を引かれるような感じで、欠伸を零しながら私はホームに降り立った。途端、全身を包み込んだ冷気に、ブルリと大きく身を震わせる。
 足下に荷物を置き、深呼吸をするように大きく伸びをする。勢い良く肺に流れ込んで来た冷たい空気に、一気に目が覚めた。
「あれ?」
 所在なげに隣りに佇む長身を見つめ、私はゆっくりと首を傾げた。少しずつ脳味噌が動き出すと共に、妙な違和感が神経を辿り始める。
「何で君がいてるん?」
 きょとんとした問い掛けに、火村はやれやれとばかりに大きく息をついた。
「当然だろ。ここは京都だ」
「あっ、何や。京都---って、ちょっと待てッ! 何で俺が京都なんかで降りてんのや」
 慌てて荷物を持ち上げた鼻先を、無情にも私達の乗ってきたひかり225号が通り過ぎていった。私の手から滑り落ちたバッグが、どさりと乾いた音を響かせる。
「ドアホ! 何で俺が京都なんかで降りらなあかんねん。どないしんくれんねん、この指定券。パァやないか」
 大声で怒鳴った私に、火村が白々とした視線を向けた。ついで呆れたように、態とらしい溜め息を吐く。
「良く見てみろよ。お前のチケットも京都までだろうが…」
 その言葉に、慌ててコートのポットから乗車券と指定券を取りだしてみる。確かに両方とも『京都』の文字がデカデカと印刷してあった。
「---何でやねん」
 私の予定ではこのまま大阪に戻り、久々に我が家で羽を伸ばすつもりだったのだ。京都に寄り道するだなんてひとっ言も言ってないのに、何で火村は京都までのチケットを買ってくるんだ。
 いやもちろん東京駅で火村がみどりの窓口に切符を買いに行った時に、「俺は新大阪まで」なんてちらりとも口にしていない。だが、そんなこと普通に考えれば判ることじゃないか。
 じろりと睨みつける私に、火村は態とらしく頭を左右に振った。気障にも見えるその仕種が妙に火村には似合っていて、脳味噌の沸騰具合も温度を増す。
「ホテルをチェックアウトする時に言っただろう。婆ちゃんに電話したら、大阪に帰っても夕食の仕度はないだろうから、お前の分も食事の用意して待ってるって婆ちゃんが言ってたって。覚えてないのかよ」
 呆れたような口調で、火村がくどいくらいに長々と説明を口にする。言われてみれば、何だかそんな話も聞いたような気がする。だがしかし、その時の私は人間以前のナマケモノ状態だったのだから、その言葉が脳味噌にまで辿り着いているわけがない。
 いや、だいたい私がホテルのチェックアウトからずっとナマケモノ状態で、新幹線に乗り込んだ途端眠りこけてしまったのも、元はといえば目の前でうんざりとした表情を晒している助教授のせいなのだ。
 せっかくのアリスの誘いに応えないのは悪いとか何とか、歌舞伎町で迷子になっている時にホテル街に紛れ込んだことを部屋に帰った途端蒸し返し、こいつは2日も続けて人のことを好き勝手しやがったのだ。しかも「朝起きれなくなるからイヤだ」と拒否した私に、「だったら起きてればいい」とさらりと応え、見事にそれを有言実行しやがった。
 そういう経緯を鑑みれば、多少私の頭が寝不足でボケボケしていて火村の言葉を逐一覚えていなくても、絶対に私のせいじゃない。間違いなく責められるべきは火村にあるぞ、畜生。
 むーっと頬を膨らませて睨みつける私の頭を、火村がポンポンと軽く叩く。
「なに面白い顔してるんだよ」
「面白くて悪かったな。俺は元々こういう顔なんや。言うとくけどな、今夜は絶対夜更かしなんかせぇへんからな。俺はとっとと先に眠らせて貰うんやから、絶対にじゃまするんやないで」
 京都に寄り道をしたら、さすがに大阪にまで帰る元気はない。今日もまた火村と枕を並べるのなら、絶対に先に釘を刺しておかないと、またまた火村の思惑通りにことが運んでしまう。
「あー、判った判った」
 右から左に聞き流しているのが丸判りの安易な返事を返しながら、火村はエスカレーターへと向かった。慌てて傍らの荷物を取り上げ、私もそのあとを追う。火村の言動にはむかつくものがあるが、婆ちゃんの手料理は捨てがたい。それに、マンションに帰っても食料がないのは間違いのない事実だ。
「この三日間で俺、何か火村にめっちゃいい目みせたような気がするわ」
 バッグの端で、エスカレーターの前にいる火村の背をこつんと叩く。上半身を捻るようにして肩越しに私を見上げた火村は、ニヤリと口許に笑みを刻んだ。
「そりゃそうだ。今回の旅行は、アリスから日頃お世話になっている俺様へのささやかなクリスマスプレゼントだろう。アリス自身がプレゼントってのが、なかなか粋だよな」
「アホ! んなわけあるかいッ!!」
 大声で怒鳴った私の声は、構内に響くアナウンスの音に掻き消された。


End/2001.01.27





未だに20世紀を引きずっている私達は、大バカ野郎です。日記みたいな感じでチマチマ書こうと思っていたのに、何でこうなるかなぁ…。
最初は12月31日までやるつもりでネタも用意していたんですが、取り敢えず打ち止め。


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