鳴海璃生
−1− 藍色の空には、レモンイエローの丸い月が輝き、ふだんは宵闇に沈む街並みを明るく照らしていた。いつもより強い光の輝きに、今日は目に見える星の数も疎らだ。
明るい月の下、京都でも古い日本家屋が建ち並ぶここ北白川の一角、周りに比べてもひと際広い家の前に、古い年代物のベンツが静かに止まった。銀色の光の中によくよく目を凝らして見ると、その車には所々へこんだ部分が見受けられる。新車の横行する日本において、このドイツの誇る高級車は、また別の意味で目立っているに違いなかった。
事実、大阪在住の友人は、常々このベンツのことを『アートなベンツ』と評していたのだが、この車のオーナー、新進気鋭の犯罪学者は、それを一向に気にした風もなかった。見掛けの善し悪しに関係なく、取り敢えず走ればいい、と彼は考えているのかもしれない。もっともそう評する彼の友人の車とて、日本の車社会の常識からは1歩も2歩もかけ離れた所に位置している代物なのだから、どちらもどちら、50歩100歩というところである。
古い街並みに相応しい古いベンツの黒いボディが、明るい月の光を鈍く弾く。やがてゆっくりと運転席のドアが開き、中から長身の男が姿を現した。この車のオーナーの英都大学社会学部助教授、火村英生である。
火村は後ろ手にドアを閉め、木組みの塀を回り込んで玄関先の木戸へと向かった。飴色をした古い格子戸に手を掛け、条件反射のように視線を上げた。視界に、2階の自分の部屋の窓が飛び込んでくる。途端、ぼさぼさの前髪に隠れた眉を微かに上げた。
ふだんは暗いその窓に、今日は何故か煌々と明かりが灯っていたのだ。朝出掛ける時に電気を消し忘れた覚えはない。と同時に、誰かが自分を訪ねてくる予定も、これといって思い当たらなかった。にも拘わらず、人の存在のあるはずのない部屋に、煌々と明かりが灯っている。
訝しむように目を眇め、僅かの間その窓を見つめていた火村の口許に、やがて微かな苦笑が浮かんだ。その表情には、自室に見知らぬ存在があることへの懐疑の念は微かたりとも見受けられない。口許に刻まれた笑みは、ふだんのクールで皮肉気な様子からは想像できない程に楽しげだった。
なぜなら自分の留守中に平気で自室に上がり込むような人間を、火村はたった一人しか思い当たらなかった。同時に、彼の大家である老婦人が、下宿人である自分の不在中に何の戸惑いもなく部屋の中へと通す人間も、多分この世にたった一人だけだろう。
大阪に住むその友人の呑気な姿を脳裏に浮かべ、火村は唇の端を上げた。
「…ったく。今度は何をやりやがったんだ」
溜め息と共に呟く。だがその口調を裏切るように、表情には柔らかな笑みが滲んでいた。
若白髪の混じった髪を煩わしそうに掻き上げ、皮肉屋の助教授は大股に玄関へと向かった。昔風のガラスの引き戸をゆっくりと開け、中へと滑り込む。遅い時間であるにも拘わらず煌々と明かりの灯った玄関は、暖かな人の温もりを感じさせた。
「ただいま…」
小さく声を掛けると、光の漏れていた奥の居間から品の良い老婦人が顔を覗かせた。細く開いた襖の隙間から、微かにウリとコォの鳴き声が聞こえてくる。
「おかえりなさい。遅かったんやね。有栖川さん、待ちくたびれてはるえ」
火村にとって10数年来の大家である老婦人は、まるで遠来の息子か孫が訪ねてきたかのようにニコニコと微笑み、大阪在住の友人の来訪を告げた。
火村にしてみれば約束をしたわけでもなく、さりとてこれといった用事があるわけでもなく、ただ単に閑潰しにフラフラとやって来ただろう人間に、待ちくたびれてるも何もないだろうと思えるのだが、大家である老婦人は、そんな友人の存在に対しても一向に違和感を感じてはいないらしい。どこか嬉しげで柔らかな口調の端々にもそれがひしひしと感じられて、火村は苦笑いを堪えることができなかった。
「婆ちゃん、あいつ上?」
玄関先で靴を脱ぎながら、火村は顎で2階を指し示した。
「さっきまではここで話しながらウリちゃん達の相手をしてはったんやけど、今は上にいてはるから、はよ行き」
やれやれとでも言うように一つ溜め息をつき、火村は階段に足を掛けた。
「---火村さん」
婆ちゃんの呼びかけに、火村は階段の手摺りから何事かと廊下の奥を覗き見た。
「二人共いつまでも喋っとらんと、はよ寝なさいよ。明日も休みやないんやから」
居間の襖を閉める前に、婆ちゃんが火村に向かってひと声掛けた。まるで子供に注意するような言葉にポリポリと頭を掻きながらも、火村は婆ちゃんの言葉に素直に頷いた。
10数年来の大家である篠宮時絵は、既に火村にとっては母親か祖母同然で、唯一頭の上がらない存在だった。当然その言葉に口答えなどできようはずもなく、火村は階段を上がりながら微かに苦笑いを浮かべるしかなかった。−2− 階段を上がってすぐ右手、細く明かりの漏れているドアをノックも無しに開けると、傍らにコーヒーカップを置いたアリスが、部屋の真ん中に寝転がり本を読んでいる姿が視界に飛び込んできた。
「おかえり。遅かったんやな」
気配を察したアリスが本から視線を外さずに、部屋の主に声を掛ける。客が部屋の主を迎えるにしては、随分な態度だ。だが、その様子を気にした風も無く、火村は至る所に積み上げられた本の山を避け、部屋のど真ん中で長々と寝そべったアリスの身体をまたいで隣りの部屋へと入っていった。
「アリス。俺にもコーヒー」
隣りの部屋から火村が声を掛ける。が、本に夢中のアリスは、火村の声に冷たく応えを返してきた。
「自分で淹れぇや」
「仕事で疲れて帰ってきた人間にコーヒーを淹れさせる気か、お前は」
「客に淹れさせる気なんか、君は」
本を読んでいるにしては間髪入れずに返ってきた応えに、火村は隣りの部屋にいるアリスに聞こえる程の態とらしい溜め息をついてみせた。もっとも、だからといってあのアリスがそんなものに動じるとは、火村自身露ほどにも思っていない。だが後々のためにも、一応のリアクションは返しておきたかった。
火村は手早く着替えを済ませ、アリスのいる部屋へと踵を返した。相変わらずアリスは寝ころんだままの恰好で、夢中になって本を貪り読んでいる。
「一体その様子のどこに客だと威張れるもんがあるんだ?」
皮肉を口にしながら、寝そべったアリスを再び跨いで奥の台所へと向かう。
「何してようと、客は客や」
気怠そうに欠伸を一つ噛み殺して、漸く本から視線を上げたアリスは、台所へと向かう火村の背中に眼差しを注ぐ。凝り固まった身体を伸ばすように大きく伸びをして、ゆっくりと起きあがった。
「火村。コーヒー淹れるんなら、俺にも淹れて」
傍らにあるカップを手に取り、火村の方へと差し出した。その邪気のない口調に、火村はうんざりした様子も露わに声の主を振り返った。
「人んちで怠惰の限りを貪っている奴が、仕事をして疲れて帰ってきた人間にそこまで言うか?」
「だって俺、客やもん」
「客なら、客らしい態度ってもんがあるんじゃねぇのか。だいいち自分からコーヒー要求するような客が、どこにいるってんだよ」
柱に寄りかかり胸の前で腕を組んだ火村が、呆れたようにアリスに視線を注いだ。が、その視線にも、アリスは一向に動じる気配を見せなかった。それどころか逆に、睨め付けてくる視線に向かってふにゃりと相好を崩す。
「だって俺、火村の淹れるコーヒー好きやもん」
「チェッ。…ったく、もう」
天井に向かって息を吐き、火村は半身を屈めてアリスの差し出したコーヒーカップへと手を伸ばした。
「言っておくがな、俺の淹れるコーヒーは高いぜ。判っているんだろうな」
カップを受け取りながら、火村はニヤリと意味ありげに口許を歪めた。余り質の良くない笑みに小さく息を飲み、アリスは言葉の裏に隠れた意味に僅かに身を竦めた。ふだんは嫌になるぐらい鈍いくせに、こういう時だけ何故か火村の考えることが判ってしまう自分が情けない。
が、ここで怯んではいられない。少しでも逃げ腰を見せたら、火村の思うつぼだ。
「言うとくけどな。俺んちに来た時に、火村はいつも俺にコーヒー淹れさせるんやで。俺の淹れるコーヒーかて高いんやから、プラマイゼロや」
平静を装って言えたかどうか、余り自信はなかった。情けない話だが、いつまで経ってもこういう駆け引きには慣れることができない。それでも、飽くまで強気の姿勢は崩せなかった。ここで少しでも気を緩めたら、火村に好き勝手、やりたい放題にやられてしまうのが目に見えているからだ。
空になったコーヒーカップを挟んで、二人の視線と思惑が絡み合う。が、一瞬の沈黙のあと、先に視線を外したのは意外にも火村の方だった。
「まっ、いいさ。そういうことにしておいてやるよ」
アリスの手からカップを受け取った火村は、喉の奥で楽しげに笑いながら台所の奥へと姿を消した。一人部屋に取り残されたアリスは、緊張を解くように大きく息を吐き出して深呼吸した。途端、身体中からどっと力が抜け落ちたような気がして、畳にごろりと俯せに寝転がった。
しんとした部屋に、台所からコーヒーの沸く音が聞こえてくる。積み上げられた本の山の陰から、カチコチと時を刻む秒針の音が響く。それに合わせたように、耳元で規則正しい心臓の音が鼓動を刻んだ。
暫くの間ぴくりとも動かずにそれらの音に耳を傾けていたアリスが、突然バタバタとバタ足をするように足を動かし出した。
「うーっ、口惜しいッ。またからかわれたんやないか」
寝ころんだままアリスは、地団駄を踏むように足を動かし続ける。今日こそは…、と十分気をつけているつもりなのに、毎度毎度飽きもせず、火村のからかいに引っ掛かってしまう自分が情けない。おまけに今回は自分から先に仕掛けたにも拘わらず、だから情けなさもひとしおだ。
何事にも動じず、慌てず---。もちろん当然ながら、火村の嫌味もからかいも、さり気なくニッコリと笑って大人の余裕でかわしてやろうと思っているのに、何で毎回こうなるんだ。
そのうえこれが自分の部屋なら、こういう場合に八つ当たりできる場所も物も色々とあるのに、火村の部屋だとそういうわけにもいかない。そのせいで、口惜しさも倍増する。何せ下手に動くと、堆く積み上げられた本の山を崩してしまいそうで、自分に与えられた僅かなスペースから満足に身動きもできない。
もしこの本の山を破壊したら、火村先生の皮肉を有り難く拝聴したうえで、当然その後片づけをするのは自分、と相場が決まっている。火村に思う存分からかわれたうえに皮肉と本の後始末だなんて、全く持って冗談じゃない。
そういう真っ当でむかつき、且つ犯しがたい理由があるにせよ何にせよ、とにかく八つ当たりの場所がないというのは、本当に本当に口惜しいものだ。
「あーっ、もうッ! ほんまに腹立つッ」
バタバタと両手両足を動かした途端、バサリと本の山が崩れるような音がして、アリスはぎくりと凍り付いたように動きを止めた。to be continued
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