Please Kiss Me <中編>

鳴海璃生 




「何やってんだよ、お前は」
 コツンと頭に硬い感触が当たり、アリスは両手両足を伸ばし俯せになったままの状態で顔だけを上げた。薄い唇の端に笑いを刻んだ火村が、両手に持ったコーヒーカップの片方をアリスの目の前に差し出した。
 カップからは柔らかな湯気が立ち上り、コーヒーの芳ばしい香りがツンと鼻をつく。別に足音を忍ばせて近づいてきたわけでもないだろうが、今の今まで火村の存在に気づかなかった罰の悪さに、アリスは視線を火村から背けた。

「別に何もしとらへん」
「ふん…」

 アリスの言葉など信じていないように---たぶん全てを見られていたのだから、当たり前だが---鼻で笑い、手に持ったコーヒーカップをアリスの頬に触れさせた。
「あつッ!」

 頬に触れた陶器の熱さに、アリスが思わず声を上げる。例え頬に触れていたのはほんの一瞬とはいえ、淹れたてのコーヒーの熱さに温まったカップは、ほんのり温かいなどというかわいいものではなかった。直接皮膚に触れるには熱すぎる代物に、自然とアリスの表情も険しくなる。
「何するんや。火傷するやないか」

 微かに潤んだ涙目で頬を擦りながら、アリスが目の前の男に抗議する。が、そんなアリスの様子にも頓着することなく、火村はふざけたように片眉を上げてみせた。
「子供みたいな真似してんじゃねぇよ」

 なんや、こいつ。やっぱ全部見てたんやないか。
 ニヤニヤと笑いながら綴られた言葉から、己の醜態を全部見られていたことに気づく。だったら、ひと言ぐらい声を掛ければいいものを、と思う。思うが、それはそれで相当に罰の悪いものがあるのも否めない。

 ---結局どう転んでも、俺は火村にからかわれる運命にあるんや。
 余りの情け無さに、小さく溜め息が漏れる。火村をやり込めるようにな言葉を何か言い返したいとは思うのだが、上手く続く言葉が見つからない。

 口惜しさに歯噛みしながらもう一つ大きな溜め息を吐き出した時、再度アリスの頭にコツンとコーヒーカップが触れた。
「ほら」

 目の前に差し出されたカップを上目遣いにじっと見つめ、アリスはのろのろと身体を起こした。言い返せないのなら、黙り込むしかない。むっつりとした様子でカップを受け取り、口元に運ぶ。
 一体何を考えているのかがひと目で判ってしまうその表情や態度に、火村は浮かぶ苦笑を堪えることができない。それがさらにアリスを不機嫌にさせているのだと判っているだけに、自分でも始末が悪いことこのうえない。

 同時に彼の仕種や表情に、初めて出会った時から変わらないアリスを認め、安堵している自分を自覚する。結局、自分はそれを確かめたいのかもしれない。---アリスが自分のそばにいることを、自分がアリスと同じ場所に繋ぎ止められていることを、彼の仕種や言葉の中に確かめたいのかもしれない。
 自嘲にも似た苦笑いを隠し、堆く積まれた本の山の一つを傍らにどけ、火村はアリスの隣りに座り込んだ。零さないように気をつけて、その横にコーヒーカップを置く。いつものことだが、熱いコーヒーが自分にも飲めるくらいに温くなるまで待つこの時間は、結構つらいものがある。特に目の前でアリスが美味しそうにコーヒーを啜っているからなおさらだ。

 手持ち無沙汰に本の山から1冊の本を抜き出し、また山の中に戻す。チラリと視線を走らせると、目の前のアリスは相変わらずだ。態とらしい程---ひと目でそれと判るのが、らしいと言えばアリスらしいのだが---に火村を無視して、ぶすっとした表情でコーヒーを啜っている。その様を見つめながら、火村は若白髪の混じった前髪を煩わしそうに掻き上げた。
「アリス」

 呟くように名を呼ぶ。当然のことながら、返事はない。が、アリスの機嫌が斜め向きなこと---しかもその原因は自分なのだ---を自覚している火村は、それを気にする様子もなく言葉を続けた。
「今日は一体どうしたんだ。また何か器用に事件にでも巻き込まれたのか?」

 本人その気がなくとも、どこかからかいを含んだような口調に、アリスが声の主を横目に睨む。
「そんなわけあらへんやろ。いくら俺かて、早々事件になんて巻き込まれへんわ」

 機嫌の悪さを前面に押し出しながら、アリスは火村の問い掛けに律儀に応えてくる。判っていてもアリスをからかうことを止められないのは、アリスのこんな一面にも起因しているのかもしれない。
「じゃ、どうしたんだよ」

 再度、問う。
「俺が急に君んとこに来たらあかんのか」

 アリスはしつこいと言わんばかりに、じろりと火村を睨みつけた。一瞬後、アリスがニヤリと口許に笑みを刻む。アリスらしくない質の悪い笑みに、火村はそれと判らぬほどに双眸を眇めた。
「それとも、何か不味いことでもあるん? 例えば昨日連れ込んだ女子大生のことがばれるとか何とか…。まっ、何してようと君の自由やけど、教え子に手ぇ出すんは止めた方がいいんと違うか」

 コーヒーカップを手に持ったまま、ぶつぶつと呟く。たぶんアリス自身は、それでさっきの仕返しをしているつもりなのだろう。が、言葉の内容とアリスのふてたような様子がどうにもちぐはぐで、火村は耐えきれないように喉の奥で小さく笑った。
「---何で、ここで笑うんや」

 当然自分のご機嫌をとってくる---火村がそういう殊勝なことをするとは、余り考えられないが---とか、自分の言葉に言い返すとか、そういう一般的にみても極当たり前のリアクションを期待していたアリスは、予想もしなかった火村の反応に、慌てた様子も露わに火村の方を振り仰いだ。視線の先で楽しげに笑う友人の姿に、何故か間の悪いものを感じる。
「な、何がおかしい言うねん」

 一体何でこういうリアクションをとられるのかが、まるで判らない。そして判らないということが、妙に不安を誘う。
「火村…。なぁ、何がおかしいんや?」

 先刻までの強気が、急激に萎んでいく。こういう風に笑われるようなことをしたという自覚はアリスには欠片も無いから、不安だけが徐々に強くなっていく。
 ---それとも気づかない内に、また何かやってしまったんやろうか。

 そんなことは絶対にない、と言い切れる程の自信はない。だから、余計にアリスの中で不安だけが助長されていく。
 既にそのことだけに気を取られたアリスの頭の中からは、それ以外のこと---例えば、火村に対して拗ねていたことなど---は、きれいさっぱり抜け落ちてしまっていた。
 手にしていたコーヒーカップを畳の上に置き、アリスは火村の方へといざって行った。

「なあ、火村。なぁ…ってば」
 両手を畳につき、下から覗き込むように火村の顔を見つめる。その時、ふわりと何かがアリスの髪に触れた。耐えきれないように喉の奥で笑いながら、火村が長い指をアリスの髪に絡ませる。

「お前、やきもち妬いてるように聞こえたぜ」
「なっ…」

 羞恥にカッと頬に血が上る。
「な、な‥何…」

 言うにことかいて何言うてんのや、こいつ。恥も外聞もないうえに、図々しいにも程がある。
 ぬけぬけと語られた言葉に、何か言い返してやろうと口を開くのだが、焦れば焦るほど上手く言葉にはならない。まるで水の中で酸素不足に陥った金魚のように、アリスは口をパクパクと開くだけだった。
 その様子を楽しげに見つめながら色素の薄い髪を弄んでいた指が、朱を上らせた頬にゆっくりと滑り落ちる。火照るような頬の熱さとは対照的な火村のひやりとした指の感触に、アリスは小さく身を震わせた。

「やきもちなんか妬かなくても、女なんて連れ込みゃしねぇよ」
「だ、だから…」

 一体、どこの誰がそんなことを言ってるっていうんだ。図々しさもここまで来ると、犯罪に近いもんがあるぞ。だいたい最高学府で教鞭を取る人間が、そこまで見境無く変態を振りまいてええんか。
 ---ああ、違う。そうじゃなくて。
 言い返したいことは山ほどあるのに、もどかしいくらいにそれは言葉にはならない。

「だーっ、もうええわッ!」
 焦れたように頭を左右に振り、アリスは頬に触れる火村の指先を払いのけた。そっぽを向いたアリスの耳に、火村の低い笑い声が響いてくる。結局またからかわれたらしいことに気づくが、今さら怒る気にもなれない。
 ---全くもう…。マジでこいつにつきあっとったら、神経ぶち切れてしまうわ。
 大仰に溜め息をつきながら、アリスは冷めてしまったコーヒーに手を伸ばした。漸く笑いを納めた火村は、灰皿を手元へと引き寄せ、潰れかけたパッケージから取り出したキャメルに火をつけた。

「それでマジにどうしたんだ?」
 アリスをからかうことに飽きたのか、それとも気が済んだのか、微かに声のトーンが変わる。それを敏感に感じとりながらも今ひとつ素直になれないアリスは、ぶっきらぼうに顎で窓の外を指し示した。それにつられたように、火村が窓へと視線を走らせる。

 大きく開け放たれた窓ガラスの前には窓枠と同じ高さに本の山が積まれ、その上には茶色のゴルフボールくらいの大きさの丸い饅頭が、皿に盛られて飾られていた。その隣り、本の山と机との間の僅かなスペースには、すすきが飾られている。
 ---すすきと饅頭…?

 訳の判らない取り合わせに、火村が首を傾げた。窓の外にその存在を主張している真ん丸い月を見れば、すすきの意味は理解できる。が、どう頭を捻ってみても、その隣りの饅頭の意味が理解できなかった。
 ---普通、こういう場合は団子じゃねぇのか。

 頭の中の疑問が表情に現れたのか、アリスが罰が悪そうに口を開いた。
「今日は中秋の名月やろ」

 アリスの呟きは、答になっているようでなっていない。ぼそりとアリスが呟やいた程度のことは、部屋に不似合いなすすきの存在で判っている。判らないのは、その隣りに器用にピラミッド型に積まれている饅頭の存在だ。
 そして、もう一つ。判っているのに、アリスに言わせたい言葉。アリスの口から直に聞きたい言葉がある。
それは他の誰からでもない。アリスから与えられなければ何の意味もない言葉なのだ。

 短くなったキャメルを灰皿で押しつぶし、火村はアリスへと視線を注いだ。
「そりゃ判ってる。誰かさんと違って、俺はもぐらみたいな生活はしてないからな。俺が訊きたいのは---」
 ニヤリと火村が口許に笑みを作り、新しく手に持ったキャメルの先で饅頭とアリスを交互に指し示した。

「あの饅頭とお前がここにいる理由だよ」
「だから…」

 鼻先に火のついていないキャメルを突きつけられて、アリスが口ごもる。饅頭はともかくとして、自分がここにいる理由などとっくに気づいているくせに、敢えて訊いてくるところがずるいと思う。
 だいたい何の約束も無しにお互いの部屋を訪ねることなど、日常茶飯事のことだ。なのに時折思い出したように、火村はその理由を問いつめてくるのだ。

 何も語らない火村が時折確認するように、アリスにだけ本当の気持ちを求めてくる。その度、何だかいつもいつも自分だけが火村のことを気にしているような気がして、いたたまれなくなる。
 目の前の犯罪学者の容貌に浮かんだ皮肉気な笑みに、アリスは大きく息を吐いた。

 ---しゃーないわな。
 甘やかされている自覚もあるが、甘やかしている自覚だって十分にある。こういう場合、意地を張るだけ無駄なことも良く判っている。火村が絶対に折れない以上、自分が折れるしかない。

 こういう駆け引きも、いつの間にか他愛ないコミュニケーションの一つになってしまっている。だから、引き際を間違えるわけにはいかない。---ちょっと口惜しい気はするが。
「たいした意味はあらへん。今日が中秋の名月やったことを思い出して、火村と一緒に見たいって思うただけや」

 喉から手が出るほど火村が欲しい言葉は判っている。判りきっていることを敢えて問う程、自分に言わせたい言葉も判っている。だがアリスにとっては、これが精一杯の譲歩だった。これ以上は、絶対に言うつもりはない。結局、素直に会いたかったと言うには、やっぱり負けず嫌いの性格がじゃまをしてしまう。
「ふーん…」

 弄ぶように指に挟んでいたキャメルに火をつけながら、火村は曖昧に頷いた。


to be continued




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