鳴海璃生
−1− 人の波を掻き分けながら一歩、また一歩。前へと進むごとに、私の機嫌はきれいなカーブを描いて右斜めに傾いていった。
ほんの二十分までは、こんな苛つく気分じゃなかった。視界に映る春の青空のように、久方ぶりにこれ以上はないってなぐらいの清々しい気分を味わっていたのだ。なのに、なのに---。
「こんなに駅が広いんが、問題あるんや。これで同じ東京駅やなんて、絶対詐欺やッ!」
平日の午前中---あと数分で正午という、限りなくお昼に近い時間帯なのだが---だというのに、東京駅の中央通路は人で溢れかえっていた。その人混みの中を縫うように八重洲口方面へと歩きながら、私はぶつぶつと悪態をたれ続けている。
そう…。私は今、大阪ではなく東京にいる。ここ三日間、ホテルに泊まり込んで執筆していた小説の原稿を上げ、意気揚々と大阪に帰ろうとしているところなのだ。
ここで間違いのないように敢えて付け加えさせて貰うが、ホテルに泊まって原稿を書いていたからといって、私は決して缶詰めめめになっていたわけではない。だったら何故ホテルなんかに、とお思いの方も多々いることだろう。それには、まぁそれなりの深い---否、私と担当編集者である片桐さんとの厚い友情のなせる業が介在していたりするのだ。−2− ことの始まりは、四日前の夕方にかかってきた片桐からの電話だった。内容は在り来たりの、まぁ他愛ない原稿の進捗状況確認の電話だ。にも拘わらず、その時ことのほか調子良くワープロを打っていた私は、仕事の話もそこそこに、その殆どを片桐との世間話に費やしてしまった。
人の良さでは右に出る者のない片桐のことだから、ニコニコ笑いながら私の長電話に付き合ってくれたのだろう。これが彼以外の人間---特に京都在住の某犯罪学者---だったら、きっと途中で無情にも受話器を置かれていたかもしれない。そうと自分で納得できるぐらいには、話の内容に脈絡が無く、第三者にとっては無駄に長いだけのものでしかなかったのだ。
だいたい、電話が掛かってきた時間も間が悪かった。ちょうど火村と行くはずだった花見の予定がパアになった直後だったので、その腹いせに誰かに思いっきり愚痴を零したかったところなのだ。片桐からの電話をこれ幸いとばかりに、私はみごとに約束を反故にしてくれた助教授の悪口を事細かにあげつらった。
それを笑いながら聴いていた片桐が、「だったら、東京に来ませんか」と唐突な誘いを口にした。冗談なのか本気なのか釈然としないまま、私は返答に詰まる。その私の沈黙を聡く理解した人の良い担当編集者は、私の疑問に応えるように突然の申し出の理由を説明しだした。
彼の話に拠れば、赤坂見附にあるニューオータニの一室を、某大御所作家の缶詰めめめ用にと確保しておいたのだそうだ。しかしその当の作家が、急に「ホテルで書くのは嫌だ」と駄々をこね---もちろん片桐はそんな言い方はしなかったが、私が想像するにこれが本当のとこだと思う---だし、現在部屋の予約が宙に浮いてしまっている状況だという。
『別にキャンセルしても構わないんですけどね…』
通り過ぎる人のざわめきに混じり、その時の片桐の声が耳に蘇る。
『もし有栖川さんがおいでになるのなら、そのまま予約を残しておきますよ』
「う〜ん…」
ちょっと心惹かれる話ではある。だがしかし---。これといった用事もないのに、東京までわざわざ行くのはかったるいし、面倒臭い。
躊躇している私の耳に、悪魔の囁きのごとき片桐の声が聞こえてくる。
『もしかしたら大阪の方は桜ももう終わりかもしれませんけど、こっちは今がちょうど満開ですよ。それにニューオータニからだと青山墓地ゃ千鳥ヶ淵とかも近いですし、潰れた花見の代わりにもなるんじゃないですか。もっともそれで原稿を落とされたら、僕としては洒落にならないんですけどね』
受話器の向こうで笑う片桐の声に、私は曖昧に片頬を歪めた。実際は桜という言葉に随分と心惹かれてもいたのだが、素直に頷いてしまうにはちょっと…。小心者の私は、己の分というものをよーく心得ている。
「でも俺みたいな駆け出しが、そんな贅沢なことするっちゅうのも何だかなぁ…。何や分不相応って気ぃするわ」
『そんな事ないですよ。うちとしては、ぜんぜん構いませんし…。どうせ元々使う予定の部屋だったわけだし、それに珀友社の方で年間予約している部屋ですから、使っても使わなくても、お金払うのは一緒なんですよ』
「ほんま? せやったら、行ってもええかなぁ…」
『もちろん大歓迎ですよ。別に缶詰めめめって訳じゃありませんから、あくせくする必要もないし、場所が変わると気分も変わって、ますます筆がのるかもしれませんよ』
誘惑に弱い私は、久し振りの筆の軽さも手伝って、片桐の言葉に二つ返事で承諾を返した。そうして「明日の朝、ワープロ抱えてそっちに行く」との返事を返して、受話器を置いた。
それからの三日間というものは、実に優雅な日々だった。ホテルで執筆というと、睡眠時間も食事時間も惜しんで唯ひたすらワープロに向かい、進み行く時計の針と戦う。今までそんな経験しかない私にとっては、まさに天国と地獄。小心者が顔を擡げて、こんなに優雅でのんびりしとって、ほんまにいいんか…、と思わず不安になった程だ。
昼近くに起きて、朝食兼ブランチ兼昼食をルームサービスか下のカフェで摂り、そのあと息抜き---原稿を始める前に息抜きも無いもんだが---と称して、青山霊園、千鳥ヶ淵、新宿御苑等を歩き回り、潰れた花見を補って余りあるほど十二分に満開の桜を堪能した。
だが、平日の昼間だから早々花見見物の人もいないだろう、と高を括って出掛けた私の予想は、見事に外れた。夜に備えて場所取りをしているらしいシートの脇を、主婦の一軍や高齢のご夫婦が、ある時は賑やかに、またある時はのんびりと桜を愛でながらそぞろ歩いている。中にはお弁当らしきものを広げている家族連れの一団もいたし、広々と広げたシートの上で、まだスーツ姿が様になっていない青年が、数冊のマンガを広げてごろんと横になっている場面も到る所で見受けられた。
---そういえば、花見の場所取りは新入社員の仕事やったわ。
それは場所や時代は違っても、変わることのない風習なのかもしれない。斯く云う私自身も会社に入社したての春、同期の奴ら数人と一緒に、花見の場所取りに駆り出されたことを思い出した。ちょうど退屈な新入社員研修に嫌気がさしていた時期でもあり、爽やかな春の一日をシートの上でゴロゴロしていられる状況は、まさに命の洗濯のような気がしたものだ。
---君らも頑張れよ。
昔の自分を見るような懐かしさに、私は微かに頬を緩め、心の中で後輩諸君を激励した。
そうしてひと通り桜を楽しんだ後、神田界隈の古書店街を回り、夕方近くにホテルに戻る。夕食までの数時間は、外で養った英気をフル活用させ、ワープロに向かった。やっぱり適度な運動とリラックス。人間あくせく働いてはいけないのだ、と何となく悟りを開いたような気分さえする。
夕食は、一度だけ片桐と一緒に外で食べた。だがそれ以外は、もっぱらホテル内のレストランで済ませた。
何せこのホテル内には三十七カ所ものレストランやバーの類があるのだから、三日間毎食行っても飽きることはないし、また行き尽くすということもない。味だって、掛けのような気分でその辺の店に入るよりは、ずっと美味い。そんな中でも特に気に入ったのは、最上階にある展望レストランだった。
ニューオータニといえばすぐに思い出す、最上階のあの丸い部分がそうなのだが、ここでは月代わりで色々なバイキング形式の食事が饗されていた。私が行った時は、ちょうど中華とイタリアン---ご大層なネーミングが施してあったが、忘れた---のバイキングだった。妙な取り合わせに一瞬首を捻ったが、すぐにそんな事は忘れてしまった。何せ味は文句無く美味しかったのだから、それ以外の事なんてどうでも良くなってしまう。
が、それらの料理もさることながら、それ以上に私が気に入ったことがある。それは、設えられた席が全て窓際に配置されているため、食事をしながら東京の夜景を楽しむことができるという点だった。しかもこのレストラン自体が一時間で一周という速さでゆっくりと回っているため、ひと所の風景だけではなく、三百六十度、全ての方面の夜景を見ることができるようになっているのだ。どの方向の夜景もそれぞれにきれいだったが、殊に視界を遮る高層ビルの無い新宿方面の夜景は、一人で見ているのが申し訳ない程の美しさだった。
---火村もいたら良かったのに…。
ついこういう時には思い出してしまう、京都在住の友人の鼻梁の高い、端正な容貌を脳裏に描き、私は慌てて頭を振った。
---約束を反故にした奴なんかに見せるのは、勿体ないわいッ!
とにかく斯くのごとく、東京にいたこの三日間、私はこれ以上ないってなぐらい優雅な締め切りを過ごす贅沢をやってしまった。こんな優雅で満ち足りた締め切りが、この先数十年小説家をやったとしても、果たして再び訪れてくるものかどうか…。それは、とてつもなく怪しい。きっとこれが最初で最後、「こんな贅沢一生に一度だけですよ」とはっきり言われた方が、まだ素直に納得できる気がする。だから私は、一生に一度の幸せを思いっきり満喫した。
そして今朝も、片桐が気を利かせてレイトチェックアウトにしていてくれたため、チェックアウトの日だというのに、いつになくのんびりとすることができた。十時頃に目を覚まして、ルームサービスで朝ご飯を食べて---。
そう、確かにここまでは良かったのだ。失敗したのは、このあとだった。
チェックアウトしてホテルを出たあと、紀尾井町通りを右に進み、私は赤坂見附の方へと向かった。いつもだったら反対方向に進み、上智大学の横を通って中央線の四ッ谷駅へと向かう。しかしここ数日地下鉄を使って移動していたせいで、四ッ谷駅よりも地下鉄の赤坂見附駅の方が、ここからならずっと近い場所に位置しているということを私は学んでいた。そのうえ赤坂見附からなら、東京駅までは丸の内線で八分という短い距離なのだ。これなら中央線を使って東京まで行くよりも、ぐんと早い。
そして、もう一つ。今回私が中央線ではなく、丸の内線を使おうと思った理由があった。実は移動時間よりも、こちらの方が私にとっては大問題だったのだ。
東京駅から新幹線に乗ったことのある方ならご存知かもしれないが、四ッ谷駅から中央線を使うと、東京駅で新幹線に乗り換えるために、丸の内口から八重洲口へと駅の中を横断することになる。知らない方は「何だ、それくらい…」とお思いかもしれない。が、これが結構たいへんなのだ。幸か不幸か、中央線は各種在来線の中でも最も丸の内口に近い一、二番ホームを使用していた。つまり八重洲口に位置する新幹線乗り場からは、最も遠い位置にある、ということになる。
毎回毎回東京に来るたびに、私は人波で歩きにくい中央通路を、テクテクと端から端まで歩いていかなければならない羽目に陥っていた。それが何よりも嫌だった私は、丸の内線の存在を知った時、きっと地下鉄の東京駅なら、あの混んだ中央通路を歩く必要もないに違いない、と単純に考えてしまったのだ。---そして今、私は二十分前の選択をめちゃめちゃ後悔している。−3− 「絶対詐欺やわ、これ…」
たぶん中央線を使った時より歩かなくて済むだろう、との私の目論見は、敢えなくついえてしまっていた。いや、それだけじゃない。私は己の単純さを今、ふかぁ〜く後悔している真っ最中なのだ。
まさか、まさか…。こんな単純で意地の悪い罠が、東京駅に待っていようとは---。
---ちくしょう。きっとこれは、JRが地下鉄を使わせないための策略や。
意気揚々と降り立った丸の内線の東京駅は、中央線乗り場なんて問題にならないくらい、訳の判らない場所だった。何せ改札を出て目の前に広がった光景に、私は暫し唖然としてしまったぐらいだ。
まぁ初めて使ったのだから、見たことのない風景なのは仕方がない。だが私のぶち当たった現実は、その程度の問題じゃなかった。一体自分が今どこにいるのかが、全く判らなかったのだ。駅名が東京というからには、間違いなくあの東京駅なんだろうが、一体ここはどこなんだ。全く見当がつかない。
数分の間、キョロキョロと辺りの様子を見回していた私は、とにかく案内板を頼りに進むことにした。人の疎らな通路を歩いて、地下のJR中央改札口から中に入る。そこから、また歩いて歩いて歩いて---。突き当たった場所は、何と何とあの中央通路だったのだ。
「そんなアホな…」
呆然と私が呟いてしまったのも、仕方のないことだろう。ここを通りたくないがために丸の内線に乗ったというのに、結局ここを通らなければならないなんて…。おまけに丸の内線からここに到るまでに、既に嫌になるぐらいの距離を歩かされているのだ。
「絶対詐欺や、ずるや。こんなんが一つの駅やなんて、許されへん」
ぶつぶつ呟きながら中央通路を進む私は、さぞや異様に人の目には映ったことだろう。しかしそんな事を気にしていられないぐらい、私の機嫌は斜め向きだった。唯一の救いといえば、ワープロや古書店街で買った本など、重い物や嵩張る物はホテルから宅配便で先に送り返していた点だけだ。
ぶつぶつと口中で文句をたれながら歩いていた私は、ふと上げた視界の中に飛び込んできたものに足を止めた。
旅行客で賑わう中央通路には、通常屋台のようにお土産を売るワゴンが出ている。もちろん新幹線乗り場の手前辺りにもそれはあるのだが、そのワゴンのそばにとっても見慣れた似顔絵を見つけてしまったのだ。
「何や、あれ?」
駆け寄っていた私の目に、見慣れたキャラクター達の絵が映る。ドラえもんに、両さんに、ピカチュウ---。東京駅でキティちゃんの人形焼きが売られていることは噂に聞いて知っていたのだが、まさかこんな物まであるとは…。
興味を引かれた私は、それぞれのコーナーを順序よく見て回った。どやらメインは、どれも人形焼きのようだ。だがそれ以外にも、クッキーやらどら焼きなどという商品も陳列してあった。亀有の両さんに到っては、もんじゃ焼きだのお煎餅だのチーズケーキだの---。とにかく種々雑多に色々な物が置いてある。
「へぇ…、おもろそうやな。何か買って行こうかな…」
心ゆくまでそれらを物色した後、私は今一番のお気に入りであるピカチュウの人形焼きを買った。カスタードと餡の二種類があって、どちらにしようか…ともの凄く悩んだ。その結果どちらも諦めきれず、結局二つとも買ってしまった。今度いつ東京に来るか判らないし、だいたい二種類あるのに一種類だけ買うというのでは、余りに片手落ちだ。
いいかげん火村には呆れられているが、実は私はポケットモンスターのファンだったりする。最初これに興味を持ったのは、例のアニメを見ていた子供達が倒れるというショッキングな事件の時---それまでは、もちろん名前ぐらいしか知らなかった---だったのだが、そのあと興味本位にワイドショーだのニュースだのを見ている内に、すっかりポケモン自体にはまってしまったのだ。
もちろんゲームボーイも買って、しっかりゲームもやった。アニメも今では時間のある時に限り、五回に一回ぐらいの割合で見ている。「ぼぉーっと見とるには最高やで」と火村に勧めてやっているのだが、そのたびごとに鼻であしらわれている。
昨年の夏に公開された映画も見に行きたくて、それとなく火村を誘ってみたりした。しかし、まぁ当たり前といえば当たり前だが、これはけんもほろろに一蹴されてしまった。余りに口惜しかったので、ビデオを購入してからというもの、火村が来るたびごとに、嫌がらせで必ずそれを流してやっている。
先刻までの不機嫌が一掃された私は、ピカチュウの人形焼きが入った黄色いビニール袋を手に、スキップするような軽い足取りでもって新幹線のチケット売り場へと向かった。行き先は、もちろん大阪から京都に変更。せっかくの東京土産。火村には、一秒でも早くご馳走してやらねばなるまい。to be continued
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