鳴海璃生
−1− ソファに俯せに寝そべり、私は窓越しに見える外の風景をぼんやりと見つめた。淡いグレーのベールに包まれたような景色の中で、レース糸のような細い雨が音もなく降りしきっている。
雨のベールに遮られて、谷町筋を行く車の音も今日はどこか遠い。
まるで現実から切り離されてしまったような空間---。時折聞こえてくるクラクションだけが、私に窓の外の世界がいつも通りに動いていることを教えてくれていた。
つい一昨日まで締め切りに追われていた私にとって、世界はこの部屋の中が全てだった。刻一刻と過ぎる時間との戦いに身を浸した中では、当然外の様子に気を配る余裕などまるでなかったのだ。
そして昨日の明け方、漸く原稿を完成させ、フラフラの状態で、それでも何とか無事宅配便に出来上がったばかりの原稿をのせた。それから部屋に取って返し、爆睡することまる一日。
目が覚めたら日付が変わっていて、ついでに季節も変わっていた。
ニュースを観ようとつけたテレビの中では、気象予報士が日本のほぼ半分が一斉に梅雨入りしたことを告げていた。締め切りの間中溜め込んでいた新聞を、日付順に目を通してみると、昨日の夕刊と今日の朝刊に入梅の記事が載っている。神の子エルニーニョの影響で、どうやら例年より一週間から十日早い梅雨入りらしい。
「参ったな…」
グレーに煙った外の様子を見つめながら、私はぽつりと呟いた。まさか眠っている間に梅雨入りするなどとは思いもよらず、宅配便を出しにコンビニに行った時、私は食料を何一つ仕入れてはこなかったのだ。
何せ食欲よりも睡眠欲の方が勝り、その時点での私の第一欲求は睡眠。とにかく何をおいても眠ることだった。取り敢えず眠って起きた後の空腹を満たすことのできるぐらいの食料は冷蔵庫の中にあるわけだし、買い物なんてゆっくり落ち着いてからでいい、とその時の私は軽い気持ちで考えていた。
そういう目先の欲望に負けた私の浅はかさを嘲笑うように、世界はグレーに包まれている。冷蔵庫の中に申し訳程度に入っていた食料は、朝食と昼食として私の胃袋に収まってしまった。
その結果、当然といえば当然だが、遂に私の部屋から食料の類は完全になくなってしまったのだ。よくもまぁここまで見事に---と賛嘆したくなるぐらい、インスタントラーメンの一個、パンのひと欠片さえ部屋の中には存在しない。
「ほんま参ったよなぁ…」
ごろんと仰向けに身体を反転させ、再度溜め息。
食べ物が部屋からなくなったのなら、それを補うために買い出しに行けばいいだけだ。そんな簡単なこと判りきっているのだが、降りしきる雨が私の気力を萎えさせていた。かといってこのままダラダラとやっていたら、飢え死に一直線間違いなしだ。
「行く、行かない、行く、行かない…」
頭の上で指を折りながら、呪文のように同じ言葉を繰り返す。花占いじゃあるまいし、こんなことをやっていても埒が明かないのは判っている。が、今ひとつ気持ちに踏ん切りがつかない。それなりにお腹は空いていても、我慢できないこともない。それが、余計に私の怠惰と横着に拍車をかける結果となっていた。
「こんな時、まじでどこでもドアが欲しいわ」
そうすれば、雨に濡れても外に出掛ける必要はなくなる。何せドアを開ければ、目の前には食料の山---。幸せを満喫する瞬間だ。
「税金払ってるんやから、国で作ってくれへんかいな」
税金を使って使えもしない武器の類を買ったり、飛びもしない人工衛星を作るぐらいなら、ぜひぜひどこでもドアを作ってほしいものだ。その方が、よっぽど有効に税金を使うことになるんじゃないか?
くだらないことを考えながらドラえもんの青い色を恋しく思った時、不意に電話のコールが鳴り響きだした。
まず最初にキャビネットの上の親機のコールが鳴り始め、一瞬遅れでテーブルの上の子機が鳴り響く。だがそれに手を伸ばす気にもなれず、私はぼんやりと機械的なコール音に耳を傾けていた。
---一、二、三…。
無意識の内に、頭の中でコールの回数を数える。七回鳴ったところで、電話は自動的に留守電へと切り替わった。テーブルの向こうのキャビネットの上から、留守を告げるありふれたメッセージが聞こえてくる。そしてそれに重なるように、苦々しげな舌打ちの音。
ぼんやりとリビングに流れる音に耳を傾けていた私は、ソファから転げ落ちるようにしてテーブルの上の子機を取り上げた。電話の向こうの相手が短気をおこして回線を切ってしまわないことを願いながら、逸る気持ちももどかしく、焦ってキャッチボタンを押す。
「火村っ?」
起き上がった勢いのまま、受話器に向かって声を上げた。一瞬の沈黙のあと、これみよがしの溜め息が受話器の向こうから聞こえてきた。
『また昼寝してたのかよ』
からかいを含んだ口調を耳にしながら、私はソファに座り直し肩を竦めた。
「寝てへん。ちゃんと起きてたで」
『だったら、早く出ろよ』
苦々しげな口調で、間髪入れずに怒られた。
---やぶ蛇だ。
こんなことなら、寝てたと言った方がまだましだったかもしれない。心の中でぽつりと呟いて、私は強引に話題を変えた。
「それより久し振りやな。元気してたか?」
ここ一カ月ほどの間お互いに忙しかったため、私達にしては珍しく余り連絡を取り合っていなかった。だからこうして火村のバリトンの声を聞くのも本当に久し振りで、何となく懐かしささえこみ上げてくる。
『ああ、相変わらずだ。それでな、アリス。今日から二、三日止めて貰えないか?』
「フィールドワークか?」
自分でもそれと気付くくらい声のトーンが跳ね上がった。すぐに受話器の向こうから、低い笑い声が伝わってきた。
『いや。学会なんだ、明日と明後日』
「ふ〜ん…」
途端に興味をなくした私は、応える声にも力が入らない。そんな私の様子を気にした風もなく、火村はいつも通りのクールな口調で言葉を継いだ。
『こっちから通ってもいいんだが、面倒臭いからな』
「要するに朝早う起きるのが嫌なんやろ、先生は…」
仕返しとばかりに笑った私に、火村はフンと鼻を鳴らした。
『煩せぇな。有栖川先生が締め切りで忙しいって言うなら、遠慮するぜ』
「なぁ〜に、らしくないこと言うとんのや。せやったら言わせて貰うけどな、今まで君が俺の締め切りを気にしてくれたことが一度でもあったか?」
受話器の向こうで仏頂面を晒しているだろう助教授に向かって、私はケラケラと笑い声を上げた。今までの火村の諸行を逐一脳裏に描いてみても、彼が私の締め切りに気を遣って電話をかけてこなかったとか、部屋を訪ねてこなかったなどという気遣いなど、どこにも見いだせないのだ。
だいたい私自身からして火村が私の締め切りに気を遣ってくれるなど、そんなもの端から当てにしていない。それどころか逆に、もし火村にそんなことをやられたら、不気味で仕方がないではないか。
確かに私は締め切りの修羅場中に他人の存在が近くにあるというのは苦手だし、いて欲しいとも思わない。神経が張りつめている状態で、傍らに他人の気配を感じることほど煩わしいものはないからだ。それは、そばにいる他人に気を遣う余裕がないことに対して、遣わなくてもいい気を遣ってしまうせいだ。
が、こと火村に関してだけは、締め切り中だろうが何だろうが、彼が同じ空間を共有していても、私は一度として煩わしいと思ったことはなかった。彼の存在自体が私にとっては既に空気と同じで、そばにあっても何らの違和感も感じなくなっているのかも知れない。いや逆に、彼の存在を傍らに感じることに安堵感さえ感じてしまっているのだから、始末が悪いことこのうえない。
---だいいち、今さら気を遣うとか遣わないなんて次元の付き合いでもないしな。
コードレスフォンを耳に当てたままぼんやりとそんなことを思っていた私を、焦れたような火村のバリトンの声が現実へと引き戻した。
『ああ、そうかい。有栖川先生自らそう仰って下さるんなら、余計な気を回す必要もねぇな』
よく言う。相も変わらず図々しい助教授殿の面の皮の厚さに、私は小さく嘆息した。
「そんで、すぐ出るんか?」
『いや、まだ整理しなくちゃいけない資料があるから、もう少ししてからだな』
「何や君、大学の方におるんかい?」
『当然だ。俺は、お前みたいな自由業じゃねぇからな。今日も、朝から真面目に働いていたんだよ』
言葉の端々に、「お前ほど閑じゃない」というニュアンスが見え隠れする。これから人様の部屋にお世話になろうってのに、たいした度胸じゃないか。
「そりゃ、お仕事お疲れ様です」
嫌味のつもりでそう言って、私はあることに気が付いた。
---これはもしかしたら、めちゃラッキーやないんか?
ドラえもんならぬ火村助教授様々ってとこだ。どこでもドアよりも火村先生の方が、この場合ずーっと役に立つことに私は思い当たった。
「なぁ、火村。ここ来るの、遅うなるなんてことないよな?」
『ねぇな。資料の整理ったって、一時間もありゃできる程度のもんだ』
「それがどうかしたのか?」と問い掛ける火村に、私は何でもないと頭を振った。
「せやったら待っとるから、気ぃつけて来いや」
通話ボタンをオフにした後、私は慌ててダイニングに駆け込んだ。冷蔵庫や戸棚をバタンバタンと乱暴に開け放し、中を確認する。そしてひと通りそれを終えると、今度はトイレとバスルームに駆け込んだ。ぶつぶつと口中で呟きながら書斎へと戻り、私は適当な紙を机の上に広げた。
「えっと、牛乳にバターに---」
先刻見た冷蔵庫や戸棚の中を思い出しながら、私は白い紙を文字で埋めていった。−2− どこからか響いてくる太鼓のような音に覚醒を促され、私はゆっくりと双眸を開けた。視界を覆う薄暗い闇に両目を擦り、キョロキョロと辺りの様子を見回してみる。
グレーのレースに包まれたような窓の外の景色は、いつの間にか濃い灰褐色の景色へと変わっていた。雨もより一層激しくなったようで、降りしきる雨の音がガラス越しに響き、部屋の温度を下げる。
「何や、眠ってたんか俺…」
う〜ん、と伸びを一つ。大きく息を吸い込んで、漸く寝惚けた頭が正常に動き始めた。
もう一つ欠伸をしながら寝癖のついたぼさぼさの髪を掻き上げた時、不意に部屋に響く音に気が付いた。夢現の中で太鼓か雷の音と錯覚していたのは、どうやらこの音だったらしい。どこか遠くから響いてくるその音に、私は眉根を寄せた。
最初はそれが何の音なのか、ぜんぜん判らなかった。が、すぐにどこかのアホが、私の部屋のドアを叩いて---いや、蹴っているらしいことに気付く。
「一体どこのアホやねん。悪戯にしても度が過ぎてるで」
いくら隣近所の付き合いが薄いマンション暮らしとはいえ、これではあちこちから文句の一つや二つ出てきてもおかしくはない。
「冗談やないで、全く」
急いでソファから飛び降り、私は足早にドアへと向かった。リビングと廊下を隔てるドアに遮られていたせいで小さかったその音は、廊下へと出たとたん突然大きくなった。
思わず耳を両手で塞ぎ、顔を顰める。頭の中でガンガン反響しながら、同時に辺りの空気と鼓膜を震わせる音の洪水にいらいらする。
---このドアホッ!
心の中で悪態をつきながら、外の音に負けじと大声で怒鳴った。
「どちら様ですかっ?」
「俺だよ」
私の声に応えるように音が止まり、代わりに聞き慣れたバリトンの声が返事を返してきた。
一瞬、自分の耳を疑った。こんな暴挙を働いた人間が、自分の友人だったなんて…。信じられない---というよりは、信じたくない。
だいたいこれが、最高学府で教鞭を取る人間のやることだろうか。いくら私が眠っていて呼んでも出てこないからといって、ドアなんか蹴るか? 普通はドアフォンを鳴らし続けるとか、ドアを叩く程度じゃないか。
---いや、待て。
確か火村は、私の部屋の合い鍵を持っていたはずだ。いつもだったら、自分の家のように平気で中に入ってくるくせに---。この野郎、何で今日に限ってこんな真似をしているんだ。非常識極まりないにもほどがある。
「何考えてるんや、君はッ!」
大声で怒鳴りながら、私は乱暴にドアを押し開いた。開いた空間の向こうに、これ以上はないってぐらいに仏頂面を晒した助教授殿が突っ立っていた。to be continued
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