Rainy Day <後編>

鳴海璃生 




「よぉ、アリス」
 あれだけの暴挙を働いたとは思えない平然とした口調に、私の頭の中でプチリと神経が二、三本ぶっ千切れた。湧き上がる怒りを何とか静めようと、身体の両側で拳を握りしめた。ついで頭の中で数を数えながら、意識して声を押し殺す。
「何が、よぉや。いい年齢した大人が、一体何ちゅうことやらかすんやッ」
「俺だって、こんな真似やりたくはなかったさ。だがな、アリス。この状態で、一体どうしろって言うんだ?」
 むっつりと呟かれた言葉に、私は目の前の助教授の頭から爪先までを一瞥した。
 両手にはパンパンに膨らんだスーパーの袋が一つずつ。右側の足下には、缶ビールが詰め込まれた袋とカップラーメンなどのインスタント食品が無造作に詰め込まれた袋が二つ。その反対側には、十二個入りのトイレットペーパーが一つ。
 唖然としてそれらを見つめ、私はぽりぽりと頭を掻いた。膨らんだ怒りが行き場を無くし、急速に萎んでいく。
「ご覧の通り、両手が塞がっちまってるもんでな」
 嫌味ったらしい火村の言葉に、私は返す言葉が見つけられなかった。心の中では両手に持っているやつを下に置けばいいだろうが、と思った。だが、私は自分の命が惜しい。まだまだやりたいことも、読みたい本も、書きたい小説も一杯ある。---なので賢明かつ大人の判断として、さすがにそのひと言を口にするのは憚られた。
 罰の悪さを振り払うようにコホンと一つ咳払いをして、私は火村の足下にあるスーパーの袋とトイレットペーパーに手を伸ばした。両手にそれらを持ち、少しだけ身体をずらして火村が中に入れるように場所を空ける。
 憮然とした表情の火村は僅かに目を眇めて私を注視したが、これといって何も言わずに中へと入ってきた。勝手知ったるとばかりに奥へと進む火村の姿がリビングに消えたのを見計らって、私は詰めていた息を吐き出した。
「参ったなぁ…」
 天井に向かってぼそりと呟く。普段と変わらないクールな表情の火村が、実はものすごく機嫌が悪いことに私は気付いていた。そしてその機嫌の悪さの原因が自分にあることが判っているだけに、一体なんと言えばいいのか---。
 ひっきりなしに、私の口からは溜め息が零れ落ちる。だがこれから火村の機嫌をとらなければならない身だと思うと、溜め息の一つや二つ漏れても致し方ないではないか。いやそれどころか、ドーンと肩に掛かった重力に押しつぶされそうな気さえしているのだ。
 そんな私の今の気分は、まるで十三階段の前の死刑囚、ドナドナされる子牛---。情けないったらない。開け放していた玄関のドアを閉めながら、私はもう一つ深い溜め息を落とした。
 とはいえ、いつまでもこんな所で立ち止まっているわけにもいかない。一瞬の遅れが命取りになりそうな気がして、取り敢えず手短にやれることから始めることにする。
 そう…。まずは両手にずしりと重い荷物の始末---証拠隠滅という気もするが---からだ。トイレの中の吊り戸棚にトイレットペーパーを詰め込み、残りの袋を抱え、重い足取りで私はリビングへと向かった。
 既に定位置と化したソファに陣取った火村は、足を組み煙草をふかしていた。その様子の端々にも機嫌の悪さは垣間見えて、居たたまれないことこのうえない。
 火村の機嫌の悪さに気付かない振りをして、私はリビングを横切りダイニングへと向かった。テーブルの上にインスタント食品の入った袋を置き、ビールの入った袋を手に冷蔵庫へと歩く。
 扉を開けると、バターだのジャムだの牛乳だの、週末ぐらいまでは十分に事足りるだろう量の食料が、ぎっしりと詰め込まれていた。その間に何とか隙間を作り、袋の中のビールをしまい込む。
 ついでテーブルの上のインスタント食品を戸棚の中に放り込み、取り敢えずご機嫌取りの第一段として、コーヒーを淹れることにした。いつもならインスタントで済ませるところだが、今日は特別に豆から挽いたものを淹れてやる。
 ちくしょう、と思いながらも、今の火村の機嫌の悪さが自分に起因していることが判っているので、露骨にそれを面に出すこともできない。それでも我慢できずに、ぶちぶちと口中で文句を並べている内に、ふわりと芳ばしい匂いが漂ってきた。それに目を細めながら、私は次に打つ手に思いを巡らせた。
 湯気のたつマグカップを二つ手に持って、リビングへと向かう。定位置のソファにどかりと腰を下ろし、火村は三本目のキャメルをくゆらせていた。
 ガラスのローテーブルの上にカップを置き、私は火村の横の一人掛けのソファに腰を下ろした。目を眇めてそんな私を見つめながらも、火村は何も言わない。テーブルを囲んで私達の間に落ちてきた沈黙に何となく身の置き所がなく---自分の家なのに---て、私は無言でコーヒーを啜った。猫舌の火村はコーヒーには手をつけず、新しいキャメルに火をつけた。
 一本、二本と灰皿の中に煙草の吸い殻が増える間も、火村は何も言わなかった。
 この火村の沈黙が怖い。言いたいことがあるなら、すっぱり言ってしまえばいいのに、と思う。だがはっきりいって、それはそれで怖いものがある。何せこういう場合の火村の悪口雑言は、数よりも質で勝負という感じで、ぐさりと胸を突くものが多いのだ。
 悠然と煙草をくゆらす火村を見つめながら小心者でデリケートな私は、なるだけダメージを少なくするためにも、早く火村が何らかのリアクションを起こしてくれないものだろか、と願った。
 灰皿で短くなった煙草を押しつぶす火村の指先を見つめながら、先に謝ってしまうべきだろうかなどと、この事態に対する対処方法を色々と頭の中で模索する。しかしそのどれもが、余りベストな方法とは思えなかった。
「研究室で資料を纏めていた時にな---」
 漸く飲めるまでにぬるくなったコーヒーを口元に運びながら、火村が噛み締めるようにゆっくりと呟いた。
 ---ゲッ、来たっ!
 突然のことに、ドキリと心臓が踊る。いつ火村の先制パンチがきてもいいように、としっかり心の準備はしていたつもりだったが、私のか弱い心臓は素直に驚きの鼓動を刻み始めた。
 ---神様、お願いします。火村が、できうる限り穏便に済ませてくれますように…。
 普段は無神論者の私だが、こういう時咄嗟に「神様」と呟いてしまうあたり、やっぱり典型的な日本人だなと思う。だがこの場の私の選択は、決して間違っていないだろう。ここで火村の温情に縋るよりは、例え存在しない神様にでも縋った方がずっと効き目があるに違いない。
 手に持ったコーヒーカップから視線を上げることができずに、私は凝り固まったままで火村の次の言葉を待った。ガラスのテーブルに磁器が触れた硬質な音が、空調に冷えたリビングに小さく響く。それを合図のように、火村が言葉を継いだ。
「ファックスが入ってきたんだよ。人がバタバタしている時に一体なんだ、と思ったら、これがまたとんでもねぇファックスでな。ファックスが俺の研究室に設置されてから、---いや、ファックス自体を使うようになってから初めてじゃねぇかってなぐらい、とてつもない内容だったんだ」
 まるで次にくる一番効果的な言葉を探すかのように息をつき、火村はキャメルを口にくわえた。
 ---これやったら、まるで生殺し状態やないか。
 全身で火村の気配を感じながら、私は身の縮まる思いがした。火村が何を言いたいのかが良く判っているだけに、この勿体ぶった言いようがめちゃくちゃ嫌味だ。---いや、それだけ火村の機嫌が斜めだってことか。
 ふぅ…と大きく紫煙を吐き出す息遣いが鼓膜を震わせ、私は次が来ると身を引き締めた。
「なぁ、アリス。一体なんのファックスだったと思う?」
 嫌味だ、嫌味だ、嫌味だ。私が応えることができないと判っているくせにそう訊いてくるあたり、信じられないくらいにこいつは性格が悪い。
 コーヒーカップを手に持ったまま、私はむっつりと黙り込んだ。己の身を守るためにも、そして余計なひと言を口にしないためにも、私の口は貝の口、だ。
「アリス」
 穏やかなバリトンの声で名を呼ばれ、私はゆっくりと視線を上げた。視線の先の男前の顔に、ごくりと息を飲む。穏やかな静かすぎる口調とは裏腹に、火村の目はまるで笑ってはいなかった。
「なぁ、何のファックスだと思う?」
 有無を言わさぬ強さで、私の応えを求めるように再度同じ質問を繰り返す。
 ---こいつ、一体なんて俺に応えさせたいんや。
 火村の意図が上手く読めない私は、開き直りにも似た気持ちで思いっきりにっこりと微笑んでやった。頬の筋肉が強ばりきっているのが今ひとつ情けないが、こうなったらとことん惚け捲ってやる。
「ふ〜ん。君をそんなに驚かせるやなんて、たいしたファックスやな。一体なんやったんや?」
 火村がすっと双眸を細めた。
 ---まずいッ!
 もしかして私は、火村に対する傾向と対策を誤ってしまったんだろうか。ここは余計な策を労さずに、おとなしく謝った方が…。
 ---いや、いかん。火村を相手にする時に、弱気は禁物や。
 強ばりきった頬の筋肉を嫌になるぐらい自覚しながら、それでも私は笑みを崩さなかった。ゆっくりと見定めるように視線を巡らせた火村は、まだ長い煙草を灰皿の上で揉み潰した。カップに残ったコーヒーを一気に煽り、ゆらりと立ち上がる。
「行くぜ」
「---はぁ?」
 突然の全く意味の判らない火村の言葉に、私はきょとんとした表情を作った。惚けた表情で座り込んだまま何のリアクションも返せない私に向かって、火村はニヤリと質の悪い笑みを作った。
「何ぼけっとしてるんだよ」
「いや、だって…」
 何をどう言えばいいのか、てんで判らない。確かついさっきまでは、火村の元に届いたファックスの話をしていたはずだ。なのに、急に何の脈絡もないことを言い出されても---。
 ぼうっとしたままの私を見つめ、火村はゆっとくりした動きで腰を折った。テーブルに両手を付き、覗き込むように視線を合わせる。
「アリス、労働には報酬がつきものだろ?」
「ほ、報酬って…」
 思わず腰を引いた私を引き戻すように、火村は私の手を握りしめた。掌にそっと口唇を寄せられ、私は瞬間的に火村の言葉の意味を理解した。慌てて身を捩り逃げようとしたのだが、掴まれた手首を振り解くことができない。
「おい、アリス。断れる立場にいねぇのは、お前自身が一番良く判っているよな。---ほら、応えてみろよ。俺の処に来たファックスが何だったのかを。有栖川先生なら、簡単に推理することができるだろ?」
 左右に身を捩り、掴まれた手首を何とか外そうと試みる。だが、それも結局は無駄な努力でしかなかった。必死で身を捩る私を強引に引き寄せ、火村はニヤニヤと楽しそうな笑みを口許に刻む。そんな様子を真正面に見つめ、私は観念したように大きく深呼吸をした。
「…俺が送ったファックスやろ」
 諦めたようにぼそりと呟く。
「中身は?」
「---パン、バター、ミルク、ジャム、牛肉、人参、じゃがいも、玉葱、カレールゥ、レタス、トマト、ホールコーン、カップラーメン…」
 指を折りながら、私は次から次へと色々な食品、日用雑貨品の名を並べ立てた。---そう。要するに雨の中わざわざ買い物に出ていきたくない私は、火村が来るのをこれ幸いとばかりに、買い出しの類を書き込み、それをファックスで彼の研究室に送りつけたのだ。つまり火村が玄関先で抱え込んでいたスーパーの袋の中身は、全て我が家の食料品か日用雑貨の類だったというわけだ。
 寿限無寿限無のように淀みなく、次から次へと思いつく限りのものを口にしていた私は、最後に「トイレットペーパー」と結んで、ほっと息をついた。それを見つめ、火村が態とらしく溜め息をつく。
「お前からのファックスだっていうから、また何かあったのかと慌てて見たら、内容があれだもんな。実際最初に見た時は、自分の目を疑ったぜ。いくら何でも、まさか人様の神聖な研究の場にあんなもの送りつけてきやがるなんて、夢にも思わねぇもんな。しかも、一人じゃとても持てねぇ量を、この雨の中、だ。アリスの望みを叶えた俺が、報酬の取り立てを要求したとしても、お前はなーんにも文句は言えねぇよな」
 まさしく仰るその通り。さすがにここまで逐一丁寧に解説されたら、とてもじゃないが否とは言いにくい。だいたい私だとて、それほど脳天気にできてるわけじゃない。あのファックスを送った時点で、きっと火村は何か言ってくるに違いない、とは思っていたのだ。
 が、しかし---。
 しかし、である。まさか文句の一つも言わずに火村がファックスに書いてあった品を買ってきて、その挙げ句にこういう報酬を要求してくる---なんてのは、それこそ夢にも思っていなかった。これはもしかしてもしかしなくても、私にとっては、ものすごーくまずい事態なんじゃないだろうか。
 とにかく私としては、火村言うところの『報酬』を火村の望むような形---要するに躯で払うってことだ---で支払うことだけは避けたい。何か火村に有無を言わさぬ程の、上手い言い訳がないものだろうか。
 抱きしめられた腕の中で、私は必死に混乱した脳細胞を活性化させた。
「---君の言い分は、よぉ判った。俺としても、君の労働に対する報酬を支払うのは吝かやない。でも火村、ちょう考えてみ。君、明日学会なんやろ。朝早いのに、君の言う報酬の取り立ては、ちょーっとまずいんやないか? やっぱそれは、学会が終わってからとかの方が…」
「お気遣いありがたいことだがな、アリス。学会は十時から。しかも場所は、森ノ宮の青少年会館だ。こっからなら車で十五分もあれば十分だろ。お前のおかげで車で来る羽目に陥っちまったが、ちょうど良かったな。雨のせいで道は混んでるし、ここに着くまでは最低だったが、いやぁ、やっぱり世の中巧くできてるもんだ。これで俺も苦労した甲斐があるってもんだぜ」
 ああ…、墓穴堀りまくりだ。何が苦労した甲斐がある、だ。世の中巧くできている、だ。お前が全て都合良く解釈しているだけじゃないか。
 むっつりとした私に、火村はゆっくりと口唇を寄せる。
「---で、アリス。どうする? 寝室がいやなら、ここでやるか?」
 吐息が触れ合う程の距離で囁かれたバリトンの声に、私は力の限り頭を振った。いくら自分の部屋とはいえ、こんなところでやるのはまっぴらごめんだ。
 ---ちくしょう。このド変態ッ!
 心の中で罵りの言葉を吐きながら、私はだらしなく緩められたネクタイを引っ張った。そして、最後の強がりを口にする。
「明日、もし君が寝坊しても、俺は一切責任もたんからな」
「心配するなよ。起きれないんなら、眠らないだけさ」
 耳元で囁かれた言葉に、唖然と男前の顔を凝視する。目の前にある楽しそうな表情が妙に口惜しくて、私はネクタイを引っ張ったまま、ぶつかるように火村に口づけた。
 まさか私がそんな真似をするとは、考えてもいなかったのだろう。ポーカーフェイスを常とする助教授が、唖然とした表情を目の前に晒す。
 ---ざまぁみろ。
 その表情を見つめ、私は勝ち誇ったように心の中で呟いた。


End/2002.08.05




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