京都へでかけよう<Kotengeino Kansyokai> /前編

鳴海璃生 




 壁のプレートを『不在』から『在室』に変え、ドアノブに手を掛けたところで、火村は動きを一瞬止めた。誰もいないはずの部屋の中から、微かに人の気配がする。
 講義や会議のため部屋を留守にする時はドアの横のプレートは『不在』にしてはいる。しかし特に盗まれるような物も無いため、鍵をかけているわけではない。不用心といえば不用心なことこの上ないが、今のところそれで泥棒に何かを盗まれたなどという経験はなかった。だから例え主の不在中であろうと、簡単に部屋の中に入ることはできる。だが例え彼の助手であっても、そんな真似はやらなかった。そう、ただ一人を覗いては---。
 言い換えれば、不在中にも拘わらずこの部屋の鍵を掛けることができないのは、そのただ一人のせいだともいえる。そのただ一人は、以前連絡も無しに大雪の中やってきて、別の場所に移動するのが面倒だから、と鍵の掛かったドアの前に座り込んでいたことがあるのだ。それ以来、来る前には極力連絡を入れろ、とは言ってある。だが、連絡も無しにふらりとやって来ることの方が圧倒的に多いため、おちおち鍵を掛けて部屋を留守にすることもできない。
「来るなんて言ってなかったよな」

 数日前の電話での会話を思い出してみる。締め切りまで時間があるのでのんびりしている、とは言っていたが、特に呑みに行く約束も出掛ける約束もしなかったはずだ。きっと朝---一般的にはとても朝とは言えない時間だが---起きたら天気が良かったんで、なんて理由でフラフラやって来たのだろう。
「やれやれ…」

 一つ溜め息をつき、ドアを開ける。真っ正面のデスクに、見慣れた茶色い頭が腰掛けているのが見えた。が、中に人が入ってきたというのに、その頭はピクリとも動かない。
「---寝てんのかよ」

 大きく開け放された窓からは、柔らかな風が吹き込んできていた。目の写るのは、どこまでも澄んだ真っ青な青空と御所の緑。初夏というには少し強すぎる太陽の光も、部屋の中ではそれほど苦にもならない。まさに絶好のお昼寝日よりだ。
「昼寝しにきたのかよ、こいつは」

 ドア口に佇み、どこかのんびりとした風景に視線を走らせていた火村は、口許に苦笑を刻みながら大股にデスクの方へと歩いていった。少しだけ腰を折り、不法侵入者の顔を覗き込む。大阪からわざわざ昼寝にやってきた不法侵入者は右手で頬杖をつき、こっくりこっくりと気持ちよさそうに船を漕いでいた。
 その安心しきったような寝顔に、少しだけ起こすのが可哀相になる。だが、いつもでもここで眠られていても埒があかない。脇に抱えていたた本や資料を両手に持ちなおし、火村はそれを一気にデスクの上へと落とした。どさっという大きな音と振動に、眠り込んでいた不法侵入者の肩がびくりっと揺れる。

「あっ、あれ…?」
 どうやら急な覚醒に、頭の働きがついていってないらしい。ぽやんとした表情できょろきょろと辺りの様子を見回す姿はまるで小さな子供のようで、火村は口許の苦笑を深くした。

「お目覚めかよ、先生」
 不意に飛び込んできたバリトンの声に、私、大阪在住の推理作家は反射的に声のした方へと顔を向けた。2度3度、何度か瞬きを繰り返し、視点を合わせようと試みる。そうして漸くあった視点のど真ん中には、この部屋の主が腕組みをして佇んでいた。

「あ〜俺、眠ってたんか…」
 寝ぼけていた脳味噌もやっとスムーズに回転しだし、頭の中にことの推移が入ってくるようになる。妙な体勢で眠っていたせいか、背中の筋がこわばってしまっている。ふわぁと大きな欠伸を零すついでに、私は思いっきり身体を伸ばした。

「…ったく。昼寝するんなら御所にでも行きやがれ」
 こつんと火村が私の頭をこずく。確かにこの季節ともなれば、御所での昼寝も気持ちいいに違いない。だが今日は、この部屋の主である火村に用があってきたのだ。それなのに、なんでわざわざ御所で昼寝なんてしなくてはならないのだ。それじゃ本末転倒もいいとこじゃないか。

「寝てたくせに、何言ってやがる」
 ポットとマグカップ。コーヒーを淹れる道具一式を置いたキャビネットへと歩み寄っていきながら、火村はぼそりと呟いた。そう言われるとぐぅの音も出ないが、これは偶々のことだ。火村を待っている街についうとうとしただけで、決して昼寝ってわけじゃない。どちらかと言えば軽いうたた寝、或いは講義中の居眠りみたいなもんだ。

「火村、俺にもコーヒー」
 目を覚まし脳の回転を良くするには、カフェイン補給だ。私は窓際のキャビネットでコーヒーを淹れている助教授に声を掛けた。マグカップにポットからお湯を注いでいた火村はその手を止めずに、ちらりと視線だけを私の方に走らせた。

「コーヒーを飲みたいなら喫茶店へ行け」
 相変わらずの憎まれ口に、私は天井を仰いで大きく息を吐いた。この憎まれ口もご機嫌云々というよりは、単なる挨拶の一つだと思えば、寛大に笑って許そうという気にもなれる。独り言のように小さく頷き、私は視線を火村から窓の外へと移した。

 今出川通を隔てた御所の緑と空の青のコントラストは、まるで真夏のそれのようだ。そういえばここまでやって来たJRや地下鉄の中の人々の装いも、既に夏の様相を呈していた。
 キャンパスを闊歩する女子学生達の服装も華やかで、気温の上昇と共に露出度の方も高くなっている。健全な成年男子としてはそれも嬉しい限りなのだが、密かなファンクラブまで存在する---らしい---学内1の人気を誇る助教授には、この季節の恩恵も余り関係が無いに違いない。普通よりも恵まれた職場にいるくせに、全く持って勿体ないことだ。

 ことりという小さな音に、私は目の前の風景からデスクの上へと視線を移した。この研究室謹製の温いコーヒーが、私の持ち込んだ青いマグカップに注がれて饗されてきた。
「あんがと」

 軽く礼を言って、カップを手に取った。そっと唇を寄せ、夜の色をした液体を口に含む。ここでコーヒーを飲む度いつも思うのだが、よくこんな温いお湯でコーヒーの粉が溶かせるものだ。これも一種の技術、或いは特技とでもいうものだろうか。私がこの部屋でコーヒーを作ると、幾ら一生懸命かき混ぜてもコーヒーの表面にぽつぽつとコーヒーの粉が浮いてしまう。だが、何故か火村が作るときれいに粉の溶けきった普通のコーヒーになってしまうのだから、あながちそれも間違いではないかもしれない。
「それで、今日は何の用だ。まさかマジで昼寝に来たわけじゃないだろ?」

「アホかい。昼寝するんやったら、こんな所まで来んでも自分ちのリビングで十分や」
 少しだけ勢い込んだ私の言葉に、火村は器用に片眉を上げた。手にした藍色のカップをデスクの空いた場所に置く。何かを探すような仕種に、私は本の山の間に埋もれていたキャメルとライターを掘り出して、火村の方へ放り投げてやった。

 右手でそれをキャッチした火村は、早速つぶれかけたパッケージから煙草を1本抜き取り、口にくわえた。慣れた仕種で火をつけ、開け放たれた窓に向かってゆったりと紫煙を吐く。ちょうど一服したところを見計らって、私は言葉を継いだ。
「君、今日これで終わりやろ?」

 確信を含んだ問い掛けに、火村がにやりと口許に笑みを刻んだ。
「また何かトラブル抱え込んで来たのか?」

 からかうような口調に、私は渋面を作った。どうもこの先生には、私に対する妙な誤解があるようだ。この件については、一度きっちりと話し合う必要がある。まっ、今日は別の用件で来たのだから、良しということで目を瞑ってやろう。コーヒーで喉を潤し、私はずれかけた話題の軌道修正を計った。
「トラブルやなくて、運んで来たんはこれや」
 椅子の背に掛けていたジャケットのポケットを探り、私はチケットを2枚取り出した。それを目の高さに掲げ、ひらひらと振ってみせる。一瞬だけ訝しむように双眸を眇めた火村は、手を伸ばして2枚の内の1枚を取り上げた。
「薪能?」
「そうや。平安神宮でやるやつ」
 短くなった煙草を私に手渡し、火村はチケットの表を見たり裏返したりと、検分に忙しい。その様子を横目に見つめ、今にも灰の落ちそうな煙草を片手に、私はこれまた本の山の中に埋まっている灰皿の発掘にとりかかった。漸く掘り出したそれは、ピラミッド並みのいびつな吸い殻の山でぎっちりと満たされていた。
 その山を崩さないように、そしてデスクの上に灰を落とさないように、と細心の注意を払い、ゆっくりと煙草の火を揉み消し、灰皿の隅のあたりの僅かな空間に吸い殻を捨てる。
 灰皿の中に僅かの隙間を見つける見つけ方といい、吸い殻の潜り込ませ片といい、まるで満員電車に乗り込む時のようだ。簡単なようでいて、これはなかなかの技術を要する。吸い殻でできたピラミッドを崩さなかったことにホッと安堵の息をつき---もし崩したら、後始末をするのは間違いなく私の仕事だ---、火村の方へと向き直った。
「確かこれ、毎年婆ちゃんが言っているやつだよな」
 火村が口にした「婆ちゃん」というのは、大学に入った時から彼がお世話になっている下宿の大家さんのことだ。今年75歳になるが、とてもそんな年齢とは思えないぐらい凛とした、古き良き京女である。また若い頃はさぞや、と思わせる美貌は今なお健在で、この人慣れしない火村が、まるで本当の肉親のように彼女のことを慕っているという、希有な存在でもあった。
 彼女も、たった一人になってしまった店子の火村を本当の息子か孫のように可愛がり、大学時代からの友人でもある私も、少なからずその恩恵に服している。もちろん婆ちゃんには篠宮時枝さんという雅な名前があるのだが、火村と私は親愛の情を込めて学生時代から彼女のことを「婆ちゃん」と呼んでいるのだ。
「もしかして、婆ちゃんの話を聞いて行く気にでもなったのかよ」
 私の旺盛な好奇心と唐突さをからかうように、火村が言う。そう言われても仕方のない過去は色々あるのだが、今回は火村先生の推理と洞察力も大はずれだ。関西圏の警察関係者にも一目置かれている臨床犯罪学者にも、苦手な分野というものは存在するらしい。
「ちゃうよ。それ、婆ちゃんのチケットやもん」
 歌うような口調で応えた私に、火村がぎょっとしたように目を剥く。
「お前、婆ちゃんのチケットを貰ってきたのかよ」
 確かに言葉としては間違ってはいない。だがそこに含まれる口調や態度には、私が婆ちゃんに強請ってチケットを手に入れた、というニュアンスが見え隠れしている。
 ---この野郎。徹底して俺のことを誤解してやがる。
 全く失礼にもほどがある。頑是無い子供じゃあるまいし、いい年齢した大人が人の物をほしがって強請るもんかい。
「アホかい。俺がそんな真似するわけあらへんやろ」
 抗議の言葉にも、火村は疑わしげな眼差しを送る。腕を組み、手にしたチケットで頬のあたりを撫でている仕種も、妙に嫌味で癪に障る。
「それは婆ちゃんが、君と一緒に行ってや、って言うてくれたんや」
「婆ちゃんが? へんだな。俺が朝出てくる時は、娘さんと行くって楽しそうにしてたぜ。---もしかして、何かあったのか?」
 火村の口調が僅かに厳しさを増す。それを安心させるように、私はひらひらと手を振った。
「あった、って言うたら、あったけどな。君が出掛けていったあと、子供さんが急に熱出した、って娘さんから電話があったんやて。ほんでせっかく買うたチケットを無駄にするのも勿体ないから、もし良かったら君と行き、って婆ちゃんから俺んとこに電話があってん」
 私の話を聞いている内に、険しかった火村の表情が緩む。判ってはいたが、本当に婆ちゃんのことを大切に思っているのだ、と改めて感じて、何だか私の顔までにやけてきてしまう。
「だったらご近所さんか、さもなくばお前と二人で行けば良かったのにな」
 僅かに苦笑を零した火村に、私は笑って頭を振った。
「婆ちゃんは俺にチケットを渡したあと、いそいそと娘さんとこに行ったで。そんで、今日は娘さんとこにお泊まりなんやて。何でもお孫さんにケーキ持ってお見舞いに来て、って言われたらしい。やっぱ俺とのデートより、お孫さんの方がええねんなぁ…」
 最後の台詞をしみじみとした口調で呟いた私に、火村は苦笑を零した。
「まぁ、当然の選択だな」
「チェッ」
 行儀悪く舌打ちして、私は冷め切ったコーヒーを一気に煽った。口一杯に広がる安っぽいほろ苦さに、思わず顔を顰める。
「で、行くのかよ?」
 火村は、口にくわえた新しいキャメルに火をつけた。私はピラミッドの山を崩さないように気をつけて、灰皿を火村の手元へと移動させる。
「もちろんや。せっかく婆ちゃんがくれてんで。それとも君、何か他に予定でも入っとんのか?」
「いや。予定はないが、能なんてつまんないぜ」
 火村の口調におやっ、と視線を上げる。古典芸能にとんと造詣のない私は、薪能なんてものに今まで一度として行ったことがない。だが今の口振りから察するに、火村は以前に能を見に行ったことがあるみたいではないか。私の知る限り、雑多で広範囲な趣味を持つ火村先生の守備範囲にも、能の鑑賞なんて雅な趣味は含まれていなかったはずだ。となると、婆ちゃんに誘われてお供でもしたのだろうか。眼差しで問い掛ける私に気づき、火村が渋面を作った。
「高校の時に、授業の一環として鑑賞会に連れて行かれたんだよ」
 さも嫌そうに表情を歪める火村が妙に子供っぽくて、私は思わず吹きだしてしまった。
「東京の高校ってのは、随分と風流なことやってんのやなぁ」
 感心したような口調に、火村は傍迷惑だと言わんばかりの態度で、紫煙を天井に向かって吐き出した。
「冗談じゃねぇ。殆どの奴が途中で寝てたぜ」
 さもありなん。もしその場にいたら、私だとてきっと眠ってしまうだろう。そんな過去を、あの当時は勿体ないことをした、と思えるのはいまでこその感慨なのだ。10代の若者に古典芸能や故殺を訪ねて、その良さと風流を学ぶ、なんてことを期待しても、どだい無理なことだ。よほどそれらに興味や意趣を持っている人間じゃない限り、大抵の若者にとっては、それらは退屈きわまる時間でしかない。若い時には判らない、年齢を積み重ねたからこそ判る良さってものは、確かに存在するのだ。
「やったら、その時のしきり直しってことで行こうや」
 にこにこと笑いながら、これ見よがしにチケットを振る。そんな私の様子を見つめ、火村は天井を仰いだ。ふぅと大きく紫煙を吐きだし、短くなった煙草を灰皿の僅かな隙間で揉み潰す。
「仕様がねぇな」
 溜め息のように呟くと、火村は冷め切ったコーヒーを一気に飲み干した。


to be continued




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